280. 『乗明聖人御返事』〜『上野殿御返事』 高橋俊隆 |
四月一二日付けにて、乗明夫妻より送られた金銭の布施にたいしての礼状です。銭二結とは一結が一千文、一連が百文ですので、二貫文の布施が送られました。真蹟は四紙が中山法華経寺に所蔵されています。 本書には夫妻の功徳について、過去世において金珠女が、金銭一文を木造の金箔として供養したことにより、九十一劫の金色の身となり、夫の鍛冶師もその功徳により、迦葉と生まれて光明如来となったことを教えています。乗明妙日と妙蓮の夫妻が、銅銭二千枚を法華経に供養されたことは、仏は経を師とされ仏は弟子であることから、計り知れない功徳があることを、『涅槃経』の「諸仏所師所謂法也。乃至是故諸仏恭敬供養」の文と、法華経の薬王品の「若復有人。以七宝満。三千大千世界。供養於仏。及大菩薩。辟支仏。阿羅漢。是人所得功徳。不如受持。此法華経。乃至一四句偈。其福最多」(若し復人あって、七宝を以て三千大千世界に満てて、仏及び大菩薩・辟支仏・阿羅漢に供養せん。是の人の所得の功徳も、此の法華経の乃至一四句偈を受持する、其の福の最も多きには如かじ『開結』五二二頁)、の文を引いて示します。 乗明夫妻の功徳は一生のうちに仏位に入る程とのべ、これにたいし、真言・禅・念仏などの謗法者は、法華経に供養しても功徳はないとのべます。これは、他宗に迷いながらの信心ではなく、純真に法華経のみを信ずることを訓戒されたのです。
□『是日尼御書』(二八四)
四月一二日付けにて佐渡の是日尼(国府尼)に宛てた書簡です。著作年次を『対照録』(中巻一八六頁)は建治三年としています。「尼是日」の三字は別紙を貼り合わせています。この下の自署と花押は剪除しています。是日尼は国府尼と世尊寺伝にあります。千日尼には「尼ごぜん」「阿仏御房の尼ごぜん」(一〇六二頁)と呼ぶのにたいし、国府尼には「尼ぎみの御功徳」(一四九四頁)「尼ごぜん並びに入道殿は」(一〇六三頁)、「さどの国のこうの尼御前」(一〇六四頁)と丁寧な言葉使いをしています。また、「国府入道殿」(一五四六頁)、「入道殿を」(九一三頁)と丁寧に呼びます。ほかに、「中興入道殿女房」(一七一九頁)、「故次郎入道殿」(一七一八頁)、また、「阿仏房」(一五四六頁)、「阿仏御房」(一〇六二頁)、「さわの入道」(一五四七頁)と使い分けていることが分かります。ここでは、国府尼とします。本書に御本尊を授与されたことをのべています。御本尊(四四)に相当すると思われます。妙宣寺に所蔵されています。国府入道は子どもがいなかったので妙宣寺に納めたと思います。 是日尼の夫の国府入道が前年につづいて身延に登詣し、一ヶ月ほど滞在して給仕したことの礼状です。三度目の登詣になります。(北川前肇著『日蓮聖人からの手紙』一六頁)。このとき、夫の入道の給仕の功徳は妻の信心に帰すとして、曼荼羅本尊を一幅授与されています。そして、今生には会えないけれど霊山浄土にては必ずお会いしましょうと伝えています。是日尼夫妻については、本書と断簡(二三四)にみえます。本書から是日尼は国府尼とされます。 「さどの国より此甲州まで入道の来たりしかば、あらふしぎやとをもひしに、又今年来てな(菜)つみ、水くみ、たきぎこり。だん(檀)王の阿志仙人につかへしがごとくして一月に及ぬる不思議さよ。ふで(筆)をもちてつくしがたし。これひとへに又尼ぎみの御功徳なるべし。又御本尊一ふくかきてまいらせ候。霊山浄土にてはかならずゆきあひたてまつるべし」(一四九四頁)
○御本尊(四四)四月
卯月付けの御本尊で、紙幅は縦八九、四a、横四四、五センチ、三枚継ぎにて、佐渡妙宣寺に所蔵されています。御本尊を染筆されるとき、ある程度の枚数をまとめて書かれたともいいます。御本尊内に書かれている年月日は、染筆されたときと、後に授与されたときに書き入れた両者が考えられます。御本尊第四一から、この第四四は類似点が多く、特に第二期とされる「経」の字の書風はこの時期に限っていることも、これを証していると思われます。『是日尼御書』との連関から是日尼に授与された御本尊と思われます。 また、御本尊を授与されるばあい、直接、授けるときと、弟子などに持たせて授与される場合が見受けられます。日蓮聖人が染筆された御本尊を遠近の信徒に直接授与されたのは、日蓮聖人の命を受けた弟子たちでした。信徒から招請された御本尊は、各地にて弘教している弟子たちが、身延を往来して各地に授与されていったと思われます。現在に伝わらない御本尊授与に関した懇切な書状があったと思います。 □『中興政所女房御返事』は建治二年四月一二日とします。『南条殿御返事』(二一五)の次。
□『四条金吾殿御返事』(二四五)
○主君の恩義
『定遺』は建治三年とします。年月日は末尾がないため不明です。祖伝をみますと建治二年から弘安元年、三月から五月ころとの諸説があります。『対照録』は建治二年とします。岡元錬城氏は建治二年一一月から一二月とします。(岡元錬城著『日蓮聖人遺文研究』第二巻一四四頁)。断片三行が京都妙覚寺に所蔵され身延に曾存していました。『本満寺本』の写本が伝えられています。『八風等真言破事』ともいわれます。使いの者に供養の品をいただいた礼状です。しばらく音信がなく心配されていたことと、このときに依頼されていたお守りを授けられています。 頼基は昨年建治二年九月に主君より越後への領地替えの一件があり、日蓮聖人の指示のとおりにこれを辞退していました。これについて近臣の者たちは、主命軽視、縦横(我が儘)であるとして異論を唱え、領地没収の声を強めていました。頼基は訴訟を起こして対処すべきかを、日蓮聖人に相談されます。日蓮聖人は主君の恩を説いて、この時期に訴訟をしてはいけないと教訓されます。主君の恩義とは竜口・佐渡流罪のときに、主君より咎めがなかったことです。 「すぎにし日蓮が御かんきの時、日本一同ににくむ事なれば、弟子等も或は所領ををゝかたよりめされしかば、又方々の人々も或は御内々をいだし、或は所領ををい(追)なんどせしに、其御内になに事もなかりしは御身にはゆゆしき大恩と見へ候。このうへはたとひ一分の御恩なくとも、うらみまいらせ給べき主にはあらず」 佐渡流罪のとき弟子や信徒のなかには、主君から所領を召し上げられ追放された者がいました。そのとき頼基は主君から咎めがなく、親族たちも何事もなかったことを大恩とされたのです。ですから、これから何も恩恵がなくても恨むべきではなく、越後の所領を与えられたことを不服と思うのは、心得違いであると諭します。そして、法華経の信者の心得として、賢人は八風「利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽」に惑わされない者で、諸天善神はこのような人を護るから、訴訟を起こさないことにより護られることがあると説きます。
○師檀が一致して
頼基のほかにも訴訟を起こすかどうかという相談がありました。訴訟というものは訴えても叶わないこともあるし、訴えなくても叶うことがあり、訴えたために却って叶わないことがあるとして、「夜廻りの殿原」の件についてのべます。夜廻りとは夜警のことで、この殿原とは鎌倉荏柄の警護にあたっていた者ともいいます。(『日蓮大聖人御書講義』第二三巻三四七頁)。この夜警の者たち(頼基の兄弟たちも含むともいいます)は、屋敷などを没収されたので不憫であるが、日蓮聖人の約束を破って訴訟の準備をしているとのことなので、それが叶わないと思っていることをのべています。 大学三郎や池上宗仲は、指示に従ったので祈りが叶ったとのべます。波木井氏は法門については従うが、この訴訟については意見を用いないので注意したところ、多少効果はあったけれど、結果的には日蓮聖人の言葉に従わなかったので、思うような効果はなかったとのべています。そして、大事なことは祈りにおいても、師と檀那が一つの心にならなければ叶わないと諭しています。また、師檀が一致しても邪法を用いては祈りは叶わず、共に滅びるであろうとのべます。 「夜めぐりの殿原の訴訟は申すは叶ぬべきよしをかんがへて候しに、あながちになげかれし上、日蓮がゆへにめされて候へば、いかでか不便に候はざるべき。ただし訴訟だにも申給はずば、いのりてみ候はんと申せしかば、さうけ給候ぬと約束ありて、又をりかみ(折紙)をしきりにかき、人人訴訟ろんなんどありと申せし時に、此訴訟よも叶じとをもひ候しが、いま(今)までのびて候。だいがくどの(大学殿)ゑもんのたいうどの(右衛門大夫殿)の事どもは申まゝにて候あいだ、いのり叶たるやうにみえて候。はきりどの(波木井殿)の事は法門は御信用あるやうに候へども、此の訴訟は申まゝには御用なかりしかば、いかんがと存て候しほどに、さりとてはと申て候しゆへにや候けん、すこししるし候か。これにをもうほどなかりしゆへに又をもうほどなし。だんな(檀那)と師とをもひあわぬいのりは、水の上に火をたくがごとし。又だんなと師とをもひあひて候へども、大法を小法をもつてをか(犯)してとしひさし(年久)き人人の御いのりは叶候はぬ上、我身もだんなもほろび候也」(一三〇三頁) 日蓮聖人と信徒との心が合致しない祈りは、水の上に火を焚いても燃えないように祈りが叶わないのです。また、心が合致していても長年にわたって小法(邪法)に固執して、大法(法華経)を謗ってきた者の祈りは叶わないばかりか、祈る人も信徒も共に滅びるとのべています。 次に、この師檀の悪例として過去の真言師の祈祷を挙げます。比叡山第五十代の妙雲座主が平清盛のために、源氏調伏のため真言の大法を修したが、義仲に首を切られたことが一つ。慈円等が後鳥羽上皇のため、義時を調伏しようとして失敗した承久の乱が二つ目。このように真言師の祈祷が叶わないことが顕著であることに、なぜ気づかないのかとのべます。そして、現に蒙古が襲来しているのは三度目であるとのべます。 「をよそ真言の大法をつくす事、明雲第一度、慈円第二度に日本国の王法ほろび候畢。今度第三度になり候。当時の蒙古調伏此なり。かゝる事も候ぞ、此は秘事なり。人にいはずして心に存知せさせ給へ」(一三〇四頁) と、当今の蒙古の調伏においても真言師を採用しては、過去の事例のように祈りは叶わないと断言するのです。このことは秘事であるから、他人に語ってはならないとのべます。そして、今般の領地替えについては、訴訟を起こさないことを指示します。主君を恨まず鎌倉にいて出仕を控えめにして仕えていれば祈りが叶うとのべ、けっして悪びれた態度を示さないように諭し、最後は欠文ですが、欲をむき出しにしたり名聞を求めたり瞋恚の心をもたない信心を教えています。
□『妙心尼御前御返事』(三六五)
『定遺』は弘安三年五月四日付けとします。『録外御書』には「はわき殿」(一七四八頁)の記載はありませんが、日興を通して妙心尼に種々の供養に感謝されて宛てた書状といえます。『興師本』が富士大石寺に所蔵されています。妙心尼は窪尼のことですので、前書『窪尼御前御返事』(二八八)との関連が問われます。「夫の故入道殿」の死去を建治二年五月四日(『衣食御書』一六一九頁。他)としますと、建治三年の一周忌の書状とする説があります。また、妙心尼と呼ぶのは夫の一周忌までで、これよりは窪尼と呼ぶようになります。(岡元錬城著『日蓮聖人遺文研究』第一巻二四八頁)。 本書は五月の農繁期に関わらず、さまざまな供養の品を身延まで送ってくれたことに感謝され、故入道の後世を思う心をどれほど喜んでいるであろうかと情愛を察し、故入道も娑婆に残した妻子を思う心は蘇武・安部仲麻呂の死別の情愛とかわらないと慰めています。 「すゞ(種々)のもの給て候。たうじはのう(農)時にて人のいとまなき時、かやうにくさぐさのものどもをくり給て候事、いかにとも申ばかりなく候。これもひとへに故入道殿の御わかれのしのびがたきに、後世の御ためにてこそ候らんめ。ねんごろにごせ(後世)をとぶらはせ給候へば、いくそばくうれしくおはしますらん。とふ人もなき草むらに、露しげきやうにて、さばせかい(娑婆世界)にとゞめをきしをさなきものなんどの、ゆくへきかまほし。あの蘇武が胡国に十九年、ふるさとの妻と子とのこひしさに、雁の足につけしふみ。安部中磨呂が漢土にて日本へかへされざりし時、東よりいでし月をみて、あのかすがの(春日野)の月よとながめしも、身にあたりてこそおはすらめ」(一七四七頁) 蘇武と仲麻呂の故事については、佐渡にて鎌倉へ帰る心中と、迫害や飢えを耐え忍ぶ苦境をのべたところにうかがえます。(『光日房御書』一一五二頁)。蘇武は匈奴に捕われ穴牢へ一九年間幽閉され、食を断たれて雪を食べて生き抜いたといいます。昭帝の時代になり雁の足に付けられた帛書により帰ることができます。阿倍仲麻呂は霊亀二(七一六)年に遣唐留学生になり玄宗皇帝に仕えます。七五三年になってやっと帰国の途につきますが、船は安南に流され唐に帰り一生を終えます。東に出でている月をみて故郷を慕って詠じた和歌が「天の原ふりさけみれば春日なる 三笠の山にいでし月かも」です。 そして、唱題することにより、妙法蓮華経の妙の一字が釈尊の御使者に身をかえ、あるいは文殊・普賢、上行菩薩、不軽菩薩となって、娑婆世界の妙心尼のことを冥途にいる故入道に知らせると安心をのべます。その御使者は中国の陳子が、妻と分け合った鏡が鳥となって相手に知らせたように、また、蘇武の妻が捕らわれた夫を恋いて打つ砧の音が聞こえたように、娑婆世界のことを冥途の夫に伝えているとのべます。 また、妙の文字は花が咲いて後に果実となるように、唱題の功徳によって仏となると説いています。さらに、妙の文字は凡夫は愚眼であるからただの文字にしか見えないが、種好を備えた釈迦牟尼仏の仏体そのものであり、一切の功徳を出すことができる如意宝珠であると譬えています。
「又妙の文字は花のこのみとなるがごとく、半月の満月となるがごとく、変じて仏とならせ給文字也。されば経に云能持此経則持仏身。天台大師云一々文々是真仏等云云。妙の文字は三十二相八十種好円備せさせ給釈迦如来にておはしますを、我等が眼つたなくして文字とはみまいらせ候也。譬へば、はちす(蓮)の子の池の中に生て候がやうに候はちすの候を、としよりて候人は眼くらくしてみず。よるはかげの候を、やみにみざるがごとし。されども此妙字は仏にておはし候也。又、此妙の文字は月也、日也、星也、かゞみ也、衣也、食也、花也、大地也、大海也。一切の功徳を合て妙の文字とならせ給。又は如意宝珠のたま也。かくのごとくしらせ給べし。くはしくは又々申べし」(一七四八頁) 妙心尼に唱題の功徳を教え、供養の志が夫に届いていると慰め、妙の一字の功徳を信じ唱題の励みにするようにと日興上人に依頼されています。
□『上野殿御返事』(二四六)
五月一五日に時光宛てに書状を送っています。前日の一四日に芋一駄が供養されたことの礼状です。芋頭は親芋ですので貴重なものでした。その珠のような薬のような貴重な芋を、農繁期の忙しい時期に送られたことを感謝しています。真蹟は五紙断片が富士大石寺などに所蔵されています。 ○伊豆の新田氏、駿河の沖津の某氏にも迫害時光から信条についての質問がありました。文面からして時光の友人と思われる者から、日蓮聖人に帰依すれば主君の抑圧をうけるという忠告があったようです。駿河国は得宗領であり、守護職も北条氏の家督によって引き継がれていたことは周知のことで、しかも、北条執権の専制を掌握していたのは頼綱でしたから、頼綱からの圧力が時光にかかるのは必定のことでした。頼綱から日蓮聖人に対しての迫害が、画策されていたのかもしれません。 尹吉甫(いんきつぼ)と伯奇(はくき)の父子の故事(『文選』)と、頻婆沙羅王と釈尊との故事を引き、この二人の固い信頼関係を破ろうとして、さまざまな謀略を巡らしたことを教えています。尹吉甫と伯奇には継母が謀りをし、頻婆沙羅王には提婆・阿闍世王が謀略した例を引きます。 中国周代の賢人の名の高かった尹吉甫の後妻は、前妻の子供の伯奇を憎みます。父子の仲を違えさせようとして、自らの懐に蜂を入れて伯奇に取らせ、伯奇が自分に思いを抱いていると見せかけます。それを見た尹吉甫は伯奇を責め、弁明を聞かなかったため、伯奇は河に身を投げて死にます。それを知った尹吉甫は、涙ながらに悔い悲しんだという話です。後妻の計略にはまり、息子の伯奇を自殺に追いこんだのです。つまり、賢人といわれる人でも、謀略に惑わされやすいことをのべたのです。まして、法華経の行者に向かってく加害は、はるかに厳しいのであるから、今、時光にたいしても、回りの者が同様の画策をして、退転させようとしているとして、その謀略に嵌らないようにと指示をされたのです。 また、釈尊在世においても迫害があったので釈尊は、「如来現在〜況滅度後」と説きます。その末法に大難を受けることは、 「今、日蓮は賢人にもあらず、まして聖人はおもひもよらず。天下第一の僻人にて候が、但、経文計にはあひて候やうなれば、大難来候へば、父母のいきかへらせ給て候よりも、にくきもののことにあふよりもうれしく候也。愚者にて而も仏に聖人とおもはれまいらせて候はん事こそ、うれしき事にて候へ」(一三〇八頁) たとえば、父母が生き返ることよりも、憎い者が苦境に落ちることよりもうれしいとのべます。第六天魔王が時光を退転せしめようとするが、それに負けない心構えを持つことを教えています。大魔につかれれば、もと弟子であった少輔房・能登房・名越の尼などの事例をあげ、多くの人たちを退転させることになり、大罪を作ることになることを教えます。ですから、本書に、 「殿もせめをとされさせ給ならば、するがにせうせう(少々)信ずるやうなる者も、又、信ぜんとおもふらん人々も、皆法華経をすつるべし」(一三〇九頁) と、信仰に退転なきよう指示されたのでした。甲斐にも法華経を信じようとする者がいても、強い信心がなければ入門させないとのべています。 また、自分の親を弔うのは子供であるからで、他人が自分の親の供養はしないのであるから、十分に供養すべきことをのべます。一郷を治めるならば半分は父親のため、半分は妻子や従者を養うと思って、励むようにのべます。時光の信仰を言葉やわらかにして、破ろうとする者が来たならば、自分の信心を試していると思って、逆に教訓するようにのべます。閻魔王に自分の妻子が責められているのを見たら、時光に手を擦り合わせて助けてくれと懇願するだろうと、申しのべるようにいいます。 「何事につけても言をやわらげて、法華経の信をうすくなさんずるやうをたばかる人出来せば、我が信心をこゝろむるかとおぼして、各々これを御けうくんあるはうれしき事也。ただし、御身のけうくんせさせ給へ。上の御信用なき事はこれにもしりて候を、上をもておどさせ給こそをかしく候へ。参てけうくん申とおもひ候つるに、うわて(上手)うたれまいらせて候。閻魔王に、我身といとをしとおぼす御め(妻)と子とをひつぱられん時は、時光に手をやすらせ給候はんずらんと、にくげにうちいひておはすべし」(一三一〇頁)
さらに、伊豆(田方郡函南町畑毛)の新田氏や駿河の沖津(清水市興津)の某氏にも迫害があったことが書かれています。新田氏は時光の姉の夫四郎信綱といわれ弟が日目上人です。母の蓮阿尼は南条家の人です。四郎信綱の本領は陸奥国登米郡(宮城県登米市)の上新田ですが、北条氏に仕え伊豆に領地を賜っていました。沖津の事とは興津の武士で三郎左衛門藤原時業(当時二〇歳)と同族の者、浄蓮坊を指すともいいますが内容は不明です。 本書から時光にたいして、上層部の者からの信仰に対する威嚇があったことが窺えます。このことについて、いかなる者にも毅然として法華経の信心を貫き、大衆の眼前にて人を教訓するよりも、わが身を教訓すべきと発言して、喝破として座を立つようにと、細かな指示をしています。信仰を捨てたら人から笑われ者になると注意します。この当時、教団への迫害があり、信徒を苦しめていたことが窺えます。なを、この経緯については一両日中に知らせるようにとのべています。 六月に南宋の都、臨安が蒙古に陥落したことが、日本の商船によって大宰府に伝えられました。この情報により幕府は蒙古の再来があると警戒を強めていきました。 |
|