281. 『下山御消息』             高橋俊隆

『下山御消息』(二四七)

因幡房日永が下山兵庫五郎(字は光基)より、日蓮聖人に帰依することを咎められ、日蓮聖人が日永にかわって弁明されたのが六月に著述した本書です。客観的に自身をのべているところが特色です。真蹟は断片四二紙が誕生寺・本圀寺・妙満寺・藻原寺など、三五の断片が二九ヶ所に散在して所蔵されています。本書には異本があり、真蹟の漢字の多くに振り仮名があります。日永が付けたとされます。

 下山五郎は身延から約四㌔ほどの甲斐下山郷の領主で、字を光基といい平泉寺という氏寺をもっていました。この平泉寺の住僧が日永でした。日永は天台宗の念仏僧として『阿弥陀経』を勤修していましたが、日蓮聖人に帰依して、法華経を唱えたため光基と対立します。本書はこの関係を修復し法華経に帰信させるために、日永の名のもとに日蓮聖人が述作し、下山氏に送られたのです。光基は後に帰依し法重房日芳と名のります。帰依したのはこの年の末といいます。このころ最蓮房が身延にきて、比叡山の同学であった因幡房と再会し、光基は寺を本国寺とあらため最蓮房を開山としたといいます。最蓮房は身延の寺平の本因寺を建て、ここを拠点として日蓮聖人の墓参をしたといいます。(宮崎英修著『日蓮聖人研究』二一五頁)

 本書は『立正安国論』を奏進して以後の、松葉ヶ谷の草庵襲撃、小松原法難、良観との祈雨対決、竜口佐渡流罪にふれており、祖伝の貴重とな文献となっています。教学としては五義、寿量品の肝要南無妙法蓮華経、本化上行菩薩出現の時期などがのべられています。光基に対しては浄土教批判をされます。

 

○身延の講義のようす

本書の冒頭には日永が光基の持仏堂で、毎日の例時や忌日などには四~五年の間、阿弥陀経などを読誦していたが、昨年の夏頃から法華経を読誦することになったことを挙げ、その理由を身延に住まわれている、日蓮聖人の教えに従ったとのべています。このなかに身延での講義についてふれています。

「さるべき人々御法門可承之由候へども御制止ありて入れられず。おぼろげの強縁ならではかなひがたく候しに、(中略)閑所より忍びて参り御庵室の後に隠れ、人々の御不審に付きてあらあら御法門とかせ給いき」(一三一二頁)

と、誰でもが気安く室内に入って、聞くことができなかった様子をのべ、法華経の教えの深さを暗示しています。

とくに、建治二年五月ころに、真言師との宗論が行われるという風説がありましたので、それにそなえて経典などの書籍を蒐集していました。法論は筋道を立て論理的に進めます。そのなかで論証の根拠が重要となります。これらのことが相手側に知られていれば、反証される材料ともなります。文永六年に三位房に宛てたとされる『法門可被申様之事』に、「此等大事を内々は存べし。此法門はいまだをしえざりき。よくよく存知すべし」(四五三頁)と密かに教えていた教義がありました。また、時光に宛てたとされる文永一二年二月の『神国王御書』に、「他門にきかせ給なよ。大事の事どもかきて候なり」(八九三頁)と口止めをされています。つまり、弟子や信徒の能力に応じた施教をされ、法論の方策についての重要なところは、内密にし秘策とされていたと思われます。

 

○五網

つづいて、諸経と法華経の関係を五綱の視点から示します。鑑真・道宣、伝教が法華経を最高の経典として崇拝した旨を示して、法華経の超勝性をのべます。そして、正・像・末の三時と四依の人師を示し、法華経においても迹門・本門の人師の違いと付属の教法についてのべます。

世尊、眼前に薬王菩薩等の迹化他方の大菩薩に、法華経の半分迹門十四品を譲給。これは又地涌の大菩薩、末法の初に出現せさせ給て、本門寿量品の肝心たる南無妙法蓮華経の五字を、一閻浮提の一切衆生に唱させ給べき先序のため也。所謂迹門弘通の衆は南岳・天台・妙楽・伝教等是也。今の時は世すでに上行菩薩等の御出現の時剋に相当れり。而に余愚眼を以てこれを見に、先相すでにあらはれたる歟。而諸宗所依の華厳・大日・阿みだ経等は其流布の時を論ずれば、正法一千年の内後五百年乃至像法の始の諍論の経々也」(一三一六頁)

と、本化地涌の上行菩薩が末法今時に法華経を説く、まさにその時であることを強調しています。これは、釈尊の教法は時期を定めていることで、いわゆる、教法流布の前後の仔細を平易に示しています。華厳経・大日経・阿弥陀経などは「五五百歳」でいえば、正法時代の後半か、像法時代の前半に流布する教えとします。

 律宗においてもインドでは正法時代の前半、日本では像法時代の中頃に、法華経・天台宗の流布する前段階に調機のための教えであることを、

例せば日出んとて明星前に立ち、雨下らむとて雲先おこるが如し。日出雨下後の星・雲はなにかせん。而に今は時過ぬ。又末法に入て之を修行せば、重病に軽薬を授け、大石を小船に載たり。偶々修行せば身は苦暇は入て験なく、花のみ開て菓なく、雷のみ鳴雨下じ」(一三一七頁)

と、律宗の戒律・戒壇は、伝教が比叡山に円頓戒壇を建立したことにより無意味になったことをのべ、外見だけを持戒に見せかけている法師は、公家や武家を騙している、「天下第一の不実の者」(一三一八頁)とのべています。これは、このあとに実名を出す良観や泉涌寺の俊芿等を指していることは明らかです。

 

○良観の非道

 しかし、律僧は自宗を捏造して優位にし、逆に円頓の行者を破戒の者と見下し、それが、国主に採用されていることを、

国主は当時の形貌の貴げなる気色にたぼらかされ給て、天台宗の寺に寄せたる田畠等を奪取て彼等にあたへ。万民は又一向大乗寺の帰依を抛てて彼寺にうつる。手づから火をつけざれども日本一国の大乗の寺を焼失、抜目鳥にあらざれども一切衆生の眼抜ぬ。仏の記給ふ阿羅漢に似る闡提是也」(一三一八頁)

と、国主が比叡山に寄進されていた所領を取り上げ、律宗の寺に譲り与え、さらに民衆の帰依をも律宗の寺々に移すような状態であることをあげ、この罪は律宗の僧にあるとし、仏記にある闡提であるとして『涅槃経』の証文を引きます。そして、良観(両火房)こそが釈尊に予言された似像の悪比丘であるとし、善神捨去・他国侵逼の元凶であると公言したことをのべます。そのため、良観は、

「両火房、内々諸方に讒言を企てて、余が口を塞がんとはげみし也」(一三二〇頁) 

鎌倉に在住していた時の、松葉ヶ谷法難・伊豆流罪・竜口佐渡流罪を画策し、迫害をもたらした張本人であることをのべています。日蓮聖人の殺害を企てた人物だったのです。日蓮聖人からみますと、

「閻浮第一の大悪人也。帰依せん国土安穏なるべしや。(中略)両火房常に高座にして歎て云、日本国の僧尼に二百五十戒五百戒、男女には五戒八斉戒等を一同に持せんと思に、日蓮が此の願の障となると(一三二一頁)

良観は閻浮の中で大悪人という存在であり、勧持品に説かれた法華経の大怨敵の第三の強敵は良観であると断言しています。良観に帰依したならば国土の安穏は保たれないとのべます。その良観は人々のために授戒しようと誓願を立てたが、日蓮聖人がそれを邪魔していると吹聴していたのです。ここに、良観は邪教の者であるから、日本国は蒙古から襲撃を受け、国土も安穏ではないとのべたのです。

 また、良観は祈雨の効験で知られていたので、祈雨の要請が幕府より良観に発せられました。そのときの文永八年六月一八日より二四日までの祈請についての、良観との経緯についてふれます。日蓮聖人は相手が我執が強ければ論理的に解決することよりも、一つの方法として「現証に付て事を切ん」(一三二一頁)という、現実の事象による正邪の判断方法を用います。そこで、弟子を極楽寺に使わして、良観の祈雨は叶わないことを告げさせるのです。

「此に両火房祈雨あり。去文永八年六月十八日より二十四日也。此に使を極楽寺へ遣す。年来の御歎きこれなり。七日が間に若一雨も下ば、御弟子となりて二百五十戒具に持上に、念仏無間地獄と申事ひがよみなりけりと申べし。余だにも帰伏し奉ば、我弟子等をはじめて日本国大体かたぶき候なんと[云云]。七日が間に三度の使をつかはす。然どもいかんがしたりけむ、一雨も不下之上、頽風・飆風・旋風・暴風等の八風十二時にやむ事なし。剰二七日まで一雨も不下。風もやむ事なし。されば此事は何事ぞ」(一三二二頁)

 良観の祈雨は効験がありませんでした。八風については『弘決』に引用している爾雅』(じが)の説です。『爾雅』は中国最古の類語辞典です。頽風(たいふう)は南から吹く風で上から下へ吹く風です。飆風(ひょうふう)は下から上に吹く風です。旋風は廻転する風です。暴風は非常に強い風のことで、八風の中の四っつを列記しています。祈雨の現象について、雨が降ったとしても、雨の形猊(すがた)により、祈る者の賢者か不賢かを知ることができるとのべます。

「今の祈雨は都て一雨も下らさる上、二七日が間、前より遥に超過せる大旱魃・大悪風、十二時に止ることなし。両火房真の人ならば、忽に邪見をも翻し、跡をも山林に隠べきに、其義は無くて面を弟子檀那等にさらす上、剰讒言を企日蓮が頚をきらせまいらせんと申上、あづかる人の国まで状を申下て種をたゝんとする大悪人也」一三二二頁)

祈雨に負けた良観は法華経に帰伏すべきですが、これを憎んだ良観は、日蓮聖人を流罪・処刑へと幕府に画策します。これにより、無知の者の謗法により、破国・堕獄の苦を受けることになります。長阿含経に含まれる『起世経』の文を引いて、邪見の者が祈雨を行えば、どのような結末になるかを示します。

「起世経云有諸衆生為放逸汚清浄行故天不下雨。又云有不如法慳貧嫉妬邪見顛倒故天則不下雨。又経律異相云有五事無雨。一二三[略之]四雨師婬乱五国王不理治雨師瞋故不雨[云云]。此等の経文の亀鏡をもつて両火房が身に指当てて見よ。少もくもりなからむ。一には名は持戒ときこゆれども、実には放逸なる歟。二には慳貧なる歟。三には嫉妬なる歟。四には邪見なる歟。五には婬乱なる歟。此五にはすぐべからず。又此経は両火房一人には不可限。昔をかがみ、今をもしれ」(一三二三頁)

 ここには、清浄の行を汚す者、邪見の者には天が雨を降らせないとあります。この経文を引用して良観と比較します。

一には良観は持戒の者ではなく実には放逸なる者であること。

二には慳貧なる者。

三には嫉妬なる者。

四には邪見なる者。

五には婬乱なる者であるとします。

つまり、良観が祈雨をしても雨が降らない理由は、邪見の者だからなのです。これらの行為を法華経・『涅槃経』の「仏鏡」(一三二四頁)に照らし合わせれば、良観こそが第三の僭聖増上慢でなければ、釈尊は妄語の仏となり多寶仏は不実の証明をしたことになるとのべます。(一三二五頁)。そして、これらの迫害を受けている日蓮聖人こそが、法華経の行者であることを示唆します。

 このゆえに、経文が真実ならば、良観を信じることにより国主は善神に見捨てられ、国は他国から攻略され後生は堕獄するとのべます。その国主の考えは日蓮聖人は阿弥陀仏の敵であるから、政道を曲げても阿弥陀仏の御心に叶い、天神も諒解すると思っていると、為政者たちの心境をのべます。しかし、諸天善神は隣国の聖人に日本国を治罰するように命じ、それにより、仏前において法華経の行者を守護すると誓状した、約束を果たそうとしていると分析します。つまり、他国侵逼の国難が起きている理由をのべたのです。

 

○比叡山は「真言山」となる

末世濁悪の時代になると、伝教が法華経の円頓の戒壇を、比叡山に建立して治世をしたが、弘法が真言宗を建てたことにより、その影響を受けた慈覚・智証は密教化して、伝教の正当から外れたことをのべます。伝教の事績をのべ法華経と大日経の勝劣について、

 

「此大師は六宗をせめ落させ給のみならず、禅宗をも習極、剰日本国にいまだひろまらざりし法華宗真言宗をも勘出して勝劣鏡をかけ、顕密の差別黒白也。然ども世間の疑散じがたかりしかば、去延暦年中に御入唐、漢土の人々も他事には賢かりしかども、法華経大日経・天台真言二宗の勝劣浅深は分明に知せ給はざりしかば、御帰朝の後、本の御存知の如く、妙楽大師の記の十の、不空三蔵の改悔の言を含光がかたりしを引載て、天台勝れ真言劣なる明証を依憑集に定給」(一三二六頁)

と、はっきりと法華経が大日経よりも勝れていることを、『依憑集』に示しているとのべます。慈覚・智証が弘法の真言宗に影響を受け、比叡山の僧と名のっていても心は東寺の僧であり、伝教の教えに反し、釈尊の讎敵となったことを次のように批判します。

 

此両人は身は叡山の雲の上に臥といへども、心は東寺里中の塵にまじはる。本師の遺跡を紹継する様にて、還て聖人の正義を忽諸し給へり。法華経の於諸経中最在其上の上の字を、うちかへして大日経の下に置、先大師の怨敵となるのみならず、存外に釈迦・多宝・十方分身・大日如来等の諸仏の讎敵となり給。されば慈覚大師の夢に日輪を射と見しは是也。仏法の大科此よりはじまる。日本国亡国となるべき先兆也」(一三二八頁)

 そして、人王七七代後白河法皇の御宇に、明雲座主は比叡山を「真言山」にしたことをあげ、これにより「一国乱れて他国に破らるべき序」(一三二九頁)としたとのべています。続いて、人王八二代隠岐法皇の御宇に禅宗・念仏宗が、法華経を粗末にしたため承久の乱が起きた顛末をのべ、この折の真言師の祈祷などが、下克上の原因であったのにも関わらず、年を経て真言師などが鎌倉に進出してきたことをのべます。これにより鎌倉は謗法の僧俗が充満する所となったことをのべます。先にものべたように、日蓮聖人が鎌倉で布教されたときには、これら真言宗などの宗派が発展し、信徒もふえ新たに寺が建立されていました。時頼は建長寺、重時は極楽寺、長時は浄光明寺、師時は浄智寺を建立したことをあげています。

○日蓮聖人の三徳

 このため天神地神が憤慨して天変地異を起こしたとし、天変地異の原因は仏法の邪正に起因するとします。これを諫暁するために一切経を閲読し、その結果、『立正安国論』を時頼に奏進したことをのべます。これにより草庵において、日蓮聖人を殺害しようとしたこと、伊豆へ流罪されたことをのべ、加害者たちは同意の上での迫害であったから何の咎めもなく、まさに式目に違反しての政道を破る事件であると喝破しているのです。これらにより、法華経の色読者としての自覚を持たれた日蓮聖人は、

 

自讃には似れども本文に任て申。余は日本国の人々には上は天子より下は万民にいたるまで三の故あり。一には父母也、二には師匠也、三には主君の御使也。経云即如来使。又云眼目也。又云日月也。章安大師云為彼除悪則是彼親等云云。而謗法一闡提国敵の法師原が讒言を用て、其義を不弁、左右なく大事たる政道を曲らるるは、わざとわざはひをまねかるゝ歟。無墓々々。然るに事しづまりぬれば、科なき事は恥かしき歟の故に、ほどなく召返されしかども、故最明寺の入道殿も又早かくれさせ給ぬ」(一三三一頁)

と、日蓮聖人に自身における主師親の三徳を標榜されるに至っています。

 また、その後、身延に入山されるまでの、小松原・竜口佐渡流罪においての色読をのべ、とくに文永八年九月一二日の捕縛されたときに、平頼綱に過去未来に謗法による国土の報いを、不軽菩薩に倣って換言したことをのべています。佐渡遠流は表面上のことで、真意は斬首にあると推測していたので、弟子に向かっては所願が叶い、法悦であるとのべていたことを明かします。なぜなら、獅子尊者いらい絶えた、不惜身命の仏弟子となることができ、二六番目の付法蔵の行者となることができるからです。

そして、重ねて式目にふれ、公場での対決による公平な裁決がなかったことをあげ、讒人の一方的な発言により斬首になったことをのべます。幕府が日蓮聖人を憎んでいるという理由による、迫害であったことをのべています。たとえ、国主がこの事件に関与せず知らないことであっても、法華経の怨敵となった重科から逃れることはできないとします。

 佐渡赦免後の、四月八日に行われた平頼綱との対談には、この流罪は理不尽のことをのべたとあります。また、蒙古襲来の時期を問われ年内であることをのべ、真言師に祈祷を頼めば国が滅ぶとのべたとあります。しかし、幕府が日蓮聖人の換言を用いないことは、想定したことであるので、この三度の諫暁を終え、身延に入山したことにふれるのです。

「日蓮をばわどのばら(和殿原)が用ぬ者なれば力及ばず。穴賢々々。真言師等に調伏行せ給べからす。若行するほどならば、いよいよ悪かるべき由申付て、さて帰てありしに、上下共に先の如く用さりげに有上、本より存知せり、国恩を報ぜんがために三度までは諫暁すべし。用ずば山林に身を隠さんとおもひし也。又上古の本文にも、三度のいさめ用ずば去といふ。本文にまかせて且く山中に罷入ぬ。其上は国主の用給はざらんに其巳下に法門申て何かせん。申たりとも国もたすかるまじ。人も又仏になるべしともおぼへず」(一三三五頁)

 下山兵庫光基が念仏の信者であったため、さらに念仏についてのべます。釈尊の説法は法華経へ導くためのもので、念仏の法門においても、「大塔を立てて後に足代を切り捨つるがごとし」(一三三六頁)と判断をのべ、譬喩品の「其人命終入阿鼻獄」の文を引き、謗法堕獄について所見をのべます。すなわち、日蓮聖人の堕獄観は、法華不信そのものが堕獄の原因であり、しかも法華行者を「恥辱」する迫害も、堕獄の因と見なしています。多寶仏・十方諸仏が、法華経の会座に来集して証明・広長舌を出だした理由は、

心は四十余年の中の観経・阿弥陀経・悲華経等に、法蔵比丘等の諸菩薩四十八願等を発て、凡夫を九品の浄土へ来迎せんと説事は、且く法華経已前のやすめ言也。実には彼々の経々の文の如く十方西方への来迎はあるべからず。実とおもふことなかれ。釈迦仏の今説給が如し。実には釈迦・多宝・十方諸仏、寿量品の肝要たる南無妙法蓮華経の五字を信ぜしめんが為也と出給広長舌也。我等と釈迦仏とは同程の仏也。釈迦仏は天月の如し、我等は水中の影月也。釈迦仏の本土は実には娑婆世界也。天月動給はずば我等もうつるべからず。此土に居住して法華経の行者を守護せん事、臣下が主上を仰奉らんが如く、父母の一子を愛するが如くならんと出給舌也」

(一三三七頁)

 弥陀の脇士は観音・勢至菩薩です。弥陀とともに釈尊の娑婆に来たのは大集経のときです。観音・勢至は法華経の会座にいて『無量義経』の「未顕真実」を聴聞しています。日蓮聖人は弥陀と脇士の観音・勢至の関係から、釈尊・法華経が勝れていることを証明されようとしたのです。観音は観音品を説いて、法華経の超勝と行者を守護することを誓っています。釈尊から補陀落山を賜ったことをふれ、弥陀は弥勒の兜率天四十九院の一つを賜って、阿弥陀院としていることをのべています。第三十五院が安養浄土院です。

 そして、『阿弥陀経』には二十数ヶ度も舎利弗の名前がでてくるが、舎利弗が成仏したのは法華経であり、その名は華光如来となったことをあげます。道綽・善導・恵心・永観・法然の念仏の義にしたがって、釈尊の真意である法華経を捨・閉・閣・抛することは、主師親の三徳を具備する釈尊に背くことになるとして、堕獄を重ねてのべていきます。また、善導・善無為三蔵や、禅宗の三階禅師などの堕獄の様相を現証としてあげ、日本国の民衆も同じく、無間地獄に堕すと論を詰めています。

 この当時は、日蓮聖人が予言した他国侵逼が現実となってきたので、民衆の気持ちが日蓮聖人に向いてきたことをのべています。日蓮聖人を誹謗してきたため、直ぐには信じることができない面目があり、また、蒙古の襲来の恐怖があり、心の葛藤が民衆にあったことをのべ、然しながら日蓮聖人を賤しんだことを後悔しても、謗法の寺僧を敬う罪科のために、

日蓮を賎み諸僧を貴給故に、自然に法華経の強敵と成給事を弁ず。存外政道に背て行るゝ間、梵・釈・日・月・四天・龍王等の大怨敵と成給。法華経守護の釈迦・多宝・十方分身の諸仏・地涌千界・迹化他方・二聖・二天・十羅刹女・鬼子母神は他国の賢王の身に入易て、国主を罰し国を亡せんとするをしらず」(一三四二頁)

 法華経の行者を守護すると誓った仏・菩薩・諸天善神が、蒙古の国王の身に入れ代わって日本の国主を罰し、日本国を滅亡させようとしていることを知らないとのべます。『観心本尊抄』に、

 

「如是高貴大菩薩約足三仏受持之。末法初可不出歟。当知此四菩薩現折伏時成賢王誡責愚王 行摂受時成僧弘持正法」(七一九頁)

 地涌の四大菩薩が折伏を行うときは、賢王となって愚王を誡責するという文章にたいし、本書では仏・菩薩・諸天善神が、蒙古の国王の身に入れ代わって、日本の国主を懲罰するとのべています。どちらも賢王が愚王を誡責することと思われます。しかも、末法においては結要付属をうけて、末代の衆生を救済する使命をもった、本化上行菩薩である日蓮聖人を、阻害することは大きな過失であるとのべます。

文永八年、平頼綱に捕縛され、竜口にて斬首とされそうになった事件をあげ、釈尊より使命を受けた者を殺害しようとした罪の大きさをのべ、ゆえに、諸天善神の責めが、蒙古襲来として蜂起したことをのべます。

「真の天のせめにてだにもあるならば、たとひ鉄圍山を日本国に引回し、須弥山を蓋として、十方世界の四天王を集て、波際に立並てふせがするとも、法華経の敵となり、教主釈尊より大事なる行者を、法華経の第五巻を以て日蓮が頭を打、十巻共に引散て散々にたりし大禍は、現当二世にのがれがたくこそ候はんずらめ。日本守護の天照太神・正八幡等もいかでかかゝる国をばたすけ給べき。いそぎいそぎ治罰を加て、自科を脱がれんとこそはげみ給らめ。をそ(遅)く科に行間、日本国の諸神ども四天大王にいましめられてやあるらん。難知事也。教大師云窃以菩薩国宝載法華経大乗利他摩訶衍説。弥天七難非大乗経以何為除。未然大災非菩薩僧豈得冥滅等云云」            (一三四三頁)

この釈尊より大事とした理由は、伝教の『学生式』最末の文に、やがて起きる大災難は大乗の菩薩でなければ、未然に防ぐことはできないという文によったものです。つまり、地涌の菩薩が末法の人々を救済するということです。本化の上行菩薩こそが末法を救済できる人であるのを、幕府はこれを用いず、かえって公家や幕府は日吉の社や、東寺や天台の真言師などを用いているので、「此等の小法は大災を消べしや。還著於本人と成て国忽に亡なんとす」(一三四三頁)と、祈った方に呪詛の法が還って、日本国が破れることになると説いています。この文は譬喩品の「其国中以菩薩為大宝故」により、菩薩を国宝と認めたものです。比叡山の円頓戒についても、

「叡山の円頓戒者又慈覚の謗法に曲られぬ。彼円頓戒も迹門の大戒なれば今の時の機にあらず。旁叶べき事にはあらず」(一三四三頁)

迹門の大戒であるから、今の時の機根には適していないとのべています。つまり、いずれの蒙古調伏の修法も効験がないことを示します。以上までの日本国が滅びようとしていることを、日蓮聖人は不憫と思っているとして、その日蓮聖人の説法の一端をここに書き連ねたとして区切ります。

つぎに、日永が父を諫める理由にふれます。日永は身分も賤しく愚かな者と前置きして、日蓮聖人の教えには、真実の道理があることをのべます。すなわち、幕府が法華経を用いないこと、十分な詮議をしないで、日蓮聖人を伊豆・佐渡と流罪することの不審をのべます。そして、日蓮聖人は日本国にただ一人しかいない高僧であり、世間の者が信じないから信用しないというのは愚かなことで、また、国主が信じたから自分も信じるということは、法を信じたことにはならないと主張します。

日永は下山兵庫にたいし、『阿弥陀経』を読まない理由は、父母のためであることを弁明します。子は親に従うのが道理と世間ではいうが、これは外典や内典を知らない者の邪推であることを、釈尊の出家を例に出してのべ、日永の孝心も同様であることをのべて本書を送っています。

 日永自身も始めは熱心な念仏僧でしたが、日蓮聖人に帰依し念仏無間を主張したため、下山氏から追放されていました。しかし、この書状が機縁となって日蓮聖人に帰依することとなります。日蓮聖人の滅後には日向上人に師事することとなります。