282. 『頼基陳状』                       高橋俊隆

第六部  桑ヶ谷法難から池上入寂まで

◆◆第一章   桑ヶ谷問答以降
◆第一節   「桑ヶ谷問答」と頼基

○「桑ヶ谷問答」

 建治三(一二七七)年六月九日に鎌倉の桑ヶ谷(くわがやつ)の愛染堂において、龍象房にたいし三位房と四条頼基との間に起きた法論を「桑ヶ谷問答」といいます。この法論により頼基と主君との間に問題が生じることになります。

 良観はかねてより日蓮聖人(以下、聖人と略称)と教団を排斥することを謀っていました。その一つが比叡山の学僧であった竜象房を鎌倉に招き、聖人の教団を法論で敗退させようとした行動です。竜象房は都なめりの弁舌が流暢で、その説法は民衆に人気を得ていました。仏法に疑問があればこの場で即座に解決すると自信を豪語したので、さらに信頼を得たといいます。民衆からは釈尊の再来とまでいわれたといいます。しかし、聖人の教えを批判されては教団としても黙ってはおられず、代表として三位房が法論に臨みます。

 六月九日、三位房は愛染堂に向かう途中に、頼基に同行を求めて家に寄りますが、留守であったため一人で向かいます。竜象房の説法が終わり、三位房と竜象房の法論が始まるころに、頼基は公用を終えて愛染堂に着きます。その片隅で聞いていた問答は、三位房の数回の質疑で竜象房が閉口屈服します。竜象房はその日のうちに鎌倉から逃げ去ります。これを「桑ヶ谷問答」といいます。問答の内容は不明ですが、容易く閉口したことから、「四十余年未顕真実」や「已今当三説」などの基本的な教学を問うたものと思われます。問答の内容自体は問題がなかったのです。しかし、この問答が事件として扱われ波紋を起こしたのです。頼基のもとへ、主君江馬光時よりの六月二三日付けの下文が二五日に届けられます。内容は、

一、問答を起こしたことは、主君が尊敬している良観を批判することであるから礼儀を逸する。

二、問答のおりに頼基が兵仗を帯び徒党を組んで悪口雑言したこと。

三、頼基は主君に従わない。

という理由で、謹慎逼塞を命じたものでした。かつ、聖人との信仰関係を断絶する祈請文を提出することを要請したのです。しかも、これを拒めば所領を没収し、御内から追放するという厳しいものでした。江馬光時は朝時(ともとき)の長子、泰時・重時・政村の甥になります。時氏・長時と従兄弟、時頼は甥になります。

時政―義時―――泰時―――時氏――時頼――時宗――貞時

      ―朝時―――光時――親時(四郎)・・名越(江馬)流   朝時―――光時

―重時―――長時                        ―時章

         ―有時―――――――長女                    ―教時

         ―政村

 頼基が徒党を組み悪口した様子を人々が見ていたという一文は、頼基を嫉む同輩の虚言であり頼基を陥れる計略であったのです。頼基は早速、問答の顛末と対策を身延の聖人に相談します。これに応えられたのが『頼基陳状』です。

□『兵衛志殿御返事』(二四八)

六月一八日付けで池上宗長に送られた書状です。このときは頼基からの書状は届いていません。三位房はこのころ身延に帰っていますので、問答があったことは報告されていたはずです。真蹟一紙が京都本国寺に所蔵されています。建治四年の説がありますが花押の形態から建治三年とします。聖人の書状のなかでも最も短いもので宗長からの金銭の布施を受領したことと、その信心にたいし題目を一唱されて、恭しく御宝前に奉納する気持ちが伝えられています。宗長から使わされた者が気候や何らかの事情で急いでいたためか、早々に受け取りの礼状を書かれた様子がうかがえます。

「青鳧五貫文 送給了。奉唱南無妙法蓮華経一返事。恐々」(一三四五頁)

□『頼基陳状』(二四九

本書の真蹟はなく興師の写本が北山本門寺に所蔵されています。草案本と再治本がありますが、両書ともに長短があり、比較対照する必要があります。(『日蓮聖人御遺文講義』第一〇巻三〇九頁)。『三位房竜象房問答記』ともいいます。草案本は未再治本とよび、未再治本は重須談所の初代学頭である寂仙房日澄上人(一二六二〜一三一〇年)の書写とされます。再治本は興師の書写になります。この未再治本と再治本の注目されることは、聖人の上行自覚が闡明に書かれている再治本にあります。つまり、聖人は『頼基陳状』の草案を再治されたとき、「上行自覚」の文をあえて書かれたと判断されるからです。ここに貴重な遺文と指摘されます。(菅原関道稿「重須本門寺所蔵の『頼基陳状』両写本について」『興風』第一五号一六三頁)

執筆の日時は六月二五日になっていますが、これは頼基が主君の命令文書である下文を受け取り、早速、陳情を書いたとする意図で記されたもので、実際には身延に知らせが届けられてからの執筆となります。先にのべましたように、六月九日に弟子の三位房と頼基が龍象房と問答しました。このことにより、頼基は主君の江馬氏から改心をせまられることになります。法華経の信仰と聖人への帰依を止めなければ、二箇所の所領を没収するという内容で、祈請文を書いて誓わせようとしました。同輩からすれば頼基の信仰心は不退であることは、すでに竜口法難などの経歴からみても承知のことでしたので、この事件を捏造することにより、頼基を左遷することが狙いであったことは自明のことでした。頼基はただちに経緯と不退の信仰心を記して、聖人のもとに対処を求めました。この事件にあたり、頼基にかわって弁明の書状を認めたのが『頼基陳情』です。『昭定』は六月二五日としますが、頼基のもとに届いたのが二五日、頼基の書状が身延に届いたのが二七日の酉の刻ですから、事の経緯からして『類纂』の七月の書状と推定されます。(小松邦彰稿「日蓮遺文の系年と真偽の考証」『日蓮の思想とその展開』所収一〇六頁)。これ以後、主君に対する指針を指導された言葉に、信仰者の心がけを知ることができます。

○竜象房と良観

竜象房との「桑ヶ谷問答」は「良観は又一重の大科の者なれば」(『崇峻天皇御書』一三九一頁)とのべているように良観の仕業でした。江間光時は寛元四(一二四六)年に時頼に対抗して宮騒動を起こし、結果は敗北して伊豆の江間に流され幕府内の職を失っていました。その弱みにつけこんだこの事件は教団の檀越への弾圧となりました。竜象房については、建治元年四月二七日に、比叡山の山門衆徒が東光寺に集会し、犬神人などを遣わして住房を焼き払っていました。(三枝暁子著『比叡山と室町幕府』二五五頁)。つまり、比叡山を追放された者だったのです。その理由は人肉を食べることが発覚したからでした『秋元御書』によると、

「龍象房が人を食ひしは万が一(ひとつ)顕れたる也。彼に習ひて人の肉を或は猪鹿に交え、或は魚長に切り雑へ、或はたたき加え、或はすし(鮨)として売る。食する者不知数」(一七三五頁)

という人物であり当時の貧困がうかがえますが、その後、鎌倉に入り巧みな弁舌で釈尊のように崇め奉られるようになっていたのでした(『頼基陳状』一三四六頁)。良観は竜象房のために住房をつくり、聖人の弟子信徒との間に事件が持ち上がる準備を設え、その機会をまっていたところに「桑ヶ谷問答」がおきたのでした。良観は頼基を陥れようとしたのです。『頼基陳状』に、

「今又竜象・良観が心に用意せさせ給いて、頼基に祈請を書かしめ(中略)、頼基に事を寄せて大事を出さむとたばかり候」(一三六〇頁)

と、良観を「桑ヶ谷問答」の謀略者であり「たばかり」の主犯とみています。そのため頼基と敵対する同僚(「只頼基をそねみ候人」同上一三五二頁)を利用して、「つくり事」である謀略をもって頼基が主君から勘当されるようにしむけたのでした。この同僚の憎悪については『四条金吾釈迦仏供養事』(一一八六頁)にのべており、頼基への心配が『四条金吾殿御返事』(一三〇一頁。一三六一頁にみられます

本書の冒頭に六月二五日に江間氏の家臣である島田入道と山城入道の二人が、江間氏からの御下文を頼基のもとに届けられ、謹んで拝見したことが記されています。その下文には龍象房の説法の場に徒党を組み兵仗を帯して臨んだという文章があります。これについて頼基が讒言であると弁明します。そして、これは虚言であるので進言した者と、公場にて真偽を糾す機会を与えていただきたいという願いをのべます。

「去六月二十三日御下文。島田左衛門入道殿・山城民部入道殿両人の御承として同二十五日謹拝見仕候畢。右仰下之状云、龍象御房の御説法の所に被参候ける次第、をほかた穏便ならざる由、見聞の人遍一方ならず同口に申合候事驚入候。徒党仁其数帯兵杖出入云云。此條無跡形虚言也。所詮、誰人の申入候けるやらん、御哀憐を蒙て被召合実否を糾明せられ候はば可然事にて候」(一三四六頁)

 そして、龍象房が満座の聴衆に不審があるなら質問を受けようと言ったので、三位房が法門について質疑した経緯をのべます。頼基は公務のため同行できなかったが、法門のことと聞いたので公務を終えてからその場に行った。しかし、自分は在俗の者であり一言も発言しなかったので、悪口を放ったということはありえないとのべます。

 つぎに問答の内容にふれます。竜象房が不審があれば、憚らずに質問するように言うので、三位房は質問したのです。まず、仏教は釈尊一仏の教えであるから大事な教えは一経であり、宗派も一宗に限られるのではないかと疑問をのべます。それなのに、弘法は大日経、慈恩は深密経、澄観は華厳経、嘉は般若経、善導と法然は念仏、禅宗は教外別伝として、各宗の見解が違うことをあげます。釈尊の教えでは「世尊法久後 要当説真実」と法華経が真実であると説き、多寶仏は法華経が真実であると証明し、十方分身の諸仏も広長舌を出して法華経が真実であることを証明されていることを示します。とくに法華経を戯論の法とした弘法と、捨閉閣抛とした善導と法然と、釈迦・多寶仏・十方諸仏の三仏の見解とは、水火雲泥の違いがあるとして、どちらが真実であるのかを問います。とくに、法蔵比丘の四十八願のうち、第十八番の、「設我得仏唯除五逆誹謗正法」の文を挙げ、法華経を誹謗する者は堕獄すると譬喩品の説かれていることからして、善導・法然ならびに今日に至る末弟たちも、悪道に堕ちるのではないかと質問します。そして、仏弟子であるならば「依法不依人」の教えに従って、人師の誤りを正すべきであり、不惜身命の信心をもつべきことをのべたのです。

この質問によせて、三位房は聖人と共に竜口において、斬首を覚悟した者であるから、正しい仏教のためなら身命を惜しまないとの毅然とした心構えを披露します。龍象房はこの言葉に怖じけ、さらに智慧の程度を露見させたのです。そして、龍象房は返答に困窮している姿を見て、これ以上、法論すべき智者ではないと座を立ちます。聴衆は三位房に法門を説いてくれるよう留めますが、やがてその場から帰ったという事実をのべます。このように、龍象房が三位房との法論に負けた経緯と法論の内容をのべて、聖人の弟子として悪口などの悪行をすることはないことをのべます。その場には頼基を知っている者が多数いたので、それらの者にも証言を得て謀略した者を究明したい旨を重ねてのべます。

 次に、下文に指摘されたことを挙げます。まず、

「極楽寺の長老は世尊の出世と奉仰」(一三五二頁)

とあることについて、承服できないと反論します。本化上行菩薩である聖人を、竜口斬首・佐渡流罪に処したのは良観の所行であり、戒律を日夜に説く良観が殺罪を企てたことは、自語相違の天魔が入った者であるとします。

「其故は、日蓮聖人は御経にとかれてましますが如くば、久成如来の御使、上行菩薩の垂迹、法華本門の行者、後五百歳の大導師にて御座候聖人を、頚をはねらるべき由の申状を書て、殺罪に申行はれ候しが、いかが候けむ死罪を止て佐渡の島まで遠流せられ候しは、良観上人の所行に候はずや。其訴状は別紙に有之。抑生草をだに伐べからずと六斉日夜説法に被給ながら、法華正法を弘むる僧を断罪に可被行旨被申立者、自語相違に候はずや如何。此僧豈天魔の入れる僧に候はずや。但此事の起は良観房常の説法云、日本国の一切衆生を皆持斉になして八斉戒を持せて、国中の殺生、天下の酒を止めむとする処に、日蓮房が謗法に障られて此願難叶由歎給候間、日蓮聖人此由を聞給て、いかがして彼が誑惑の大慢心をたをして無間地獄の大苦をたすけむと仰ありしかば、頼基等は此仰法華経の御方人大慈悲の仰にては候へども、当時日本国別して武家鎌倉の世きらざる人にてをはしますを、たやすく仰ある事、いかがと弟子共同口に恐れ申候し程に」(一三五二頁)

ここに、良観を誑惑の僧、大慢心の僧と批判する見解がはっきりとみえます。そして、文永八年六月の祈雨の対決にふれます。これは良観が訴状(「申し立て」)をもって、聖人を死罪にしようと謀った張本人といえるからです。良観がこの祈雨の祈請が叶わなかったのは、聖人の法験に負けたことになります。ですから、本書に詳しく経緯を書いているように、約束の通り弟子となり邪見を反省すべきであるのに、かえって讒言を増して聖人を「殺罪」(一三五四頁)としたのです。この事実をみれば、下文にあるような尊い僧とは言えないと反論して、主君に真実を伝えようとします。

○頼基父子の忠義

 つぎに、下文には、

「龍象房・極楽寺の長老、見参後は釈迦・弥陀とあをぎ奉る」(一三五五頁)

とあることについての見解をのべます。龍象房については先にのべたように、京都洛中において人肉を朝夕に食したことが露見し、比叡山の衆徒が山王権現の法力によってこの「悪鬼」を退治すべく、龍象房の住居を焼却して誅罰しようとしましたが逃亡していたのです。鎌倉に人肉を食する悪鬼がいるとして、恐れられていた人物こそ龍象房でした。その竜象房を仏菩薩のように崇める主君ををみて、家臣として主君に忠誠を示すために申すことであるとのべます。家中の長老が忠言しないのはどのような理由なのかを逆に詰問します。主君の誤りを諌めたのです。次に、

「是非につけて主親の所存には相随はんこそ、仏神の冥にも世間の礼にも手本と云々」(一三五五頁)

とあることについてのべます。このことは最も大事なことであるとして、『孝経』や伝教の『守護国界章』『法華経』『涅槃経』、章安の『涅槃経疏』の文を挙げて、主君・父母に不義があれば諫言することが大事であるとのべます。仏教においても悪を諌めないのは慈悲がなく怨であることを示します。このようなことをのべれば、同僚は無礼と思うであろうけれど、耆婆が阿闍世王に反して釈尊を護ったように、頼基も主君を最後には救済する心がけであるとして、「釈尊の三徳」(一三五七頁)にふれ弥陀を敬うことは不孝の所作であることをのべ、堕獄の原因であることを説きます。主君に仕える家臣の上下はあっても主君を重んじることは同等であり、頼基も父子二代にわたって忠義の家臣であることをのべます。すなわち、寛元四年の時頼への反逆のとき、江馬光時は勘気を受け伊豆に流罪されます。そのときに、多くの家臣が心変わりしたなかで、頼基の父頼員は最後の一人として供奉して伊豆に随行した忠臣でした。

頼基においても文永九年二月の「時輔の乱」のときには、伊豆から鎌倉の主君の身元に馳せ参じて、自害する八人の一人として忠義を護った家臣であることをのべます。このように頼基父子二代にわたって主君に忠誠を果たした家臣であることを明かして、このたびの件においても、主君の現世ならびに後世にも随従する誠忠を披瀝します。そこで、後世の成仏について話題を転じていきます。多くの僧侶が成仏について説いており多くの教えを頂門したなかで、とくに聖人について、

日蓮聖人御房は三界主・一切衆生の父母・釈迦如来の御使上行菩薩にて御坐候ける事の法華経に説れてましましけるを信じまいらせたるに候」(一三五八頁)

と、聖人は三界の教主であり一切衆生の父母である釈尊から使わされた、本化上行菩薩であることを説かれた法華経を信じたことをのべます。

そして、真言宗にふれます。慈覚・智証の浅見のため東寺の弘法に同意し、比叡山に真言宗を立てたことは日本亡国の起因であると批判します。そして、第七七代後白河法皇のときに座主の明雲が完全に真言宗の者になったため、「頭破作七分」の現罰として義仲に殺されたと真言亡国をのべます。すなわち、

「今こそ真言宗と申悪法日本国に渡て四百余年、去延暦二十四年に伝教大師日本国にわたし給たりしかども、此国にあしかりなむと思食候間、宗の字をゆるさず。天台法華宗の方便となし給畢。其後伝教大師御入滅の次をうかがひて、弘法大師、伝教に偏執して宗の字を加しかども、叡山用事なかりしほどに、慈覚・智証短才にして、二人身は当山に居ながら、心は東寺の弘法に同意するかの故に、我大師には背て、始て叡山に真言宗を立ぬ。日本亡国の起是也。爾来三百余年、或は真言勝法華勝一同なむど諍論事きれざりしかば、王法も無左右不尽。人王七十七代御白河法皇御宇に、天台座主明雲、一向真言座主になりしかば明雲は義仲にころされぬ。頭破作七分是也

また、第八二代隠岐法皇のときに、真言宗にくわえ禅宗と念仏宗が流布したことにより、天照太神・八幡大菩薩の百王百代守護の誓いが破れ王法が尽きようとします。そのため義時に国務を任せたとのべます。しかし、その結果、鎌倉にも三宗が入り込み、幕府要人も帰依することになります。これにより、諸天善神が怒りをなし前代未聞の天変地異を現じて諌めたが法華経を用いませんでした。つぎに隣国の王に命じて法華経誹謗の者を治罰します。これには日本守護の天照太神も八幡大菩薩も力が及びません。これを知り諫暁しているのは聖人一人であることをのべます。つまり、頼基は主君のために法華経が勝れていること、謗法の罪過の恐ろしさを弁明したのです。その頼基を讒言する者たちは主君にたいして不忠の者であるとのべ、頼基を罷免することになれば、主君は即刻に無間地獄に堕ちるとして、それでは頼基一人が成仏してもうれしいことではないと、主君に忠誠心を示されたのです。

○起請文を書かない理由

そして、祈請文を提出せよという命令について、主君が帰依している良観の戒律について批判します。まず、富楼那が浄名居士に小乗の戒律は無意味であることを論じられこと、文殊も小乗の空理を説こうとしたときに、鴦掘摩羅から蚊や虻のように真空の義を知らないものだと批判され、釈尊は小乗の戒を驢乳と蝦蟇に譬えたことをあげます。伝教が小乗戒を批判したときに、鑑真の末弟である護命たちが悪口をなすと奏申したが、経文に説かれたことであったので南都の奏状は棄却され、ついに比叡山に大乗戒壇が建立された事実をのべます。つまり、このことは、良観が説いている戒律はすでに過去に小乗戒として、無用とされたことを示すことにあります。ですから、

「頼基が良観房を蚊・蚋・蝦蟆の法師也と申とも、経文分明に候はば御とがめあるべからず。剰へ起請に及べき由蒙仰之條、存外に歎入候。頼基不法時病にて起請を書候程ならば、君忽に法華経の御罰を蒙せ給べし。良観房が讒訴に依て釈迦如来の御使日蓮聖人を流罪奉しかば、聖人の申給しが如く百日が内に合戦出来て、若干の武者滅亡せし中に、名越の公達横死にあはせ給ぬ。是偏に良観房が失ひ奉たるに候はずや」(一三六〇頁)

と、捨て去られた小乗戒を持つ良観であるから、主君の命令であっても祈請文を書かない理由をのべます。ここにのべているように、祈請文を書くことは主君を法華経誹謗の者として罰を受け堕獄することになるので、断じてその罪を受けさせることはできないとのべるのです。また、文永八年に良観が讒訴したことにより、聖人は流罪に処せられました。これにより聖人の予言のごとく自界反逆の難が百日のうちに的中して「二月騒動」が起きます。そして、鎌倉では光時の弟である時章や教時が横死にあったとのべます。これらの騒動の元凶は良観が聖人を迫害したためであると断言して、主君を諌めた文章となっています。

 末尾に良観・龍象房の謀略に落とされれば、主君も同罪となるのであり、これを背後で姦計している者がいるので、それらの人物を捜し出し頼基と対面させて糾明することを願って文を終えています。本書から忠臣としての頼基の人間性がうかがえます。良観を批判することは主君を重んじてのことであり、今生だけではなく死後においても続くことを強調しています。理路整然と語る論調は説得力があります。聖人の巧みな論法を知ることができます。この『頼基陳状』を頼基の使いに持たせ帰らせ、主君に提出する機会をまっていましたが、逼塞中に主君が病気にかかり治療を頼まれることになります。病気が治癒した功績により忠誠心が認められ勘気がとけることになり、この陳状は主君に提出されることはありませんでした。