283. 『四条金吾殿御返事』〜『弥三郎殿御返事』       高橋俊隆
□『四条金吾殿御返事』(二五〇)

○頼基の決意を賞賛

 頼基から下文の緊急の相談があり、その対処として『頼基陳状』を執筆した経緯を述べます。主君に提出する機会についての指示、日常の留意すべきことを書いています。系年は同年七月とあります。『不可惜所領事』とも称し、真蹟は断片二紙が大分常明寺、野呂妙興寺に散在しています。

頼基は祈請文を書かずに聖人に随う意思を示します。頼基の態度を三千年に一度咲く優曇華の花が咲いたのを見たように、赤栴檀の双葉のように芳しいと伝えます。菩薩の証悟を得た舎利弗であっても、末法の大難は忍び難いと辞退したのであるから、頼基は末代には有り難き法華経の行者であると賞賛されます。聖人自身は行者としての道を歩む覚悟はできているが、頼基のように家族をもつ在家の身としては忍び難いと案じます。

「設日蓮一人は杖木瓦礫悪口王難をもしのぶとも、妻子を帯せる無智の俗なんどは争か可叶。中中信ぜざらんはよかりなん。すへとをら(通)ず、しばし(暫時)ならば人にわらはれなんと不便にをもひ候しに、度々の難・二箇度の御勘気に心ざしをあらはし給だにも不思議なるに、かくをどさるるに二所の所領をすてて、法華経を信じとをすべしと御起請候事、いかにとも申計なし」(一三六一頁)

 法華経の信仰をしなければ良かったと思うのではないか。最後まで信仰を貫き通さず退転したならば、人々から嘲笑されると心配されました。しかし、頼基は竜口首座の法難においても聖人に付き従った篤信の者でした。それを不思議なことと思っていたと述べます。また、頼基の二箇所の所領を没収し越後へ領地替えする下文であり、所領を捨てて聖人に随うと言う信心に対し、上行菩薩が頼基の身に入れ替わったようであり、釈尊の計らいであろうかと思われたのです。もし、頼基が祈請文を書くようなことがあれば、これに乗じて良観一味は聖人の弟子や信徒に触れ回って攻め、教団が壊滅に追い込まれただろうと頼基の決意を高く評価します。 

彼の御内の人人うちはびこつて、良観・龍象が計ひにてやぢやう(定)あるらん。起請をかかせ給なば、いよいよかつばら(彼奴原)をごり(驕)て、かたがたにふれ申さば、鎌倉内に日蓮が弟子等一人もなくせめうしなひなん」(一三六二頁) 

頼基は子供がいないし頼みとする兄弟もいない。あるのは、わずか二か所の領地であるが、所領を没収されて乞食になっても法華経に傷をつけてはならないとして、陳状に書いた通りの行動を促します。十羅刹女の計らいと思って甘受するように諭します。

○禍が転じて福となる

聖人自身においても、文永八年の佐渡流罪の禍福について、聖人が佐渡に流罪されずに鎌倉にいたならば、二月騒動の内乱に紛れて名越兄弟と同じく、殺害される危険性があったと捉えます。

「日蓮はながされずして、かまくら(鎌倉)にだにもありしかば、有しいくさに一定打殺されなん。此も又御内にてはあしかりぬべければ釈迦仏の御計にてやあるらむ」(一三六三頁)

 頼基の今回の事件においても、主君の側に近習していたなら何等かの危害が考えられたので、釈尊がこのような下文を出させるように計らったと受けとめるように教えます。

 陳情の原案を身延にいた三位房に持たせようとしたが、病気なので代わりの弟子(不明)を派遣したと伝えます。草案を大学三郎か滝の太郎、常忍の誰かに、時間に余裕がある時に浄書してもらうように指示されます。この陳状を差し出せば全てが解決するが、急がずに主君の様子を見ること。首謀者に騒がれて事が大きくなれば、事件が世間に知られ幕府にも通知されると指示されます。陳情の内容が世間に知られれば、頼基への讒言が謀略であると証明され、讒言した者や良観・龍象房の恥が露見すると述べます。「わざはひ(災い)の幸はこれなり」、つまり、禍が転じて福となると励まされたのです。

 更に奉行人等から尋問があった時の留意を述べます。自分から主君と決別するとか所領を返上すると言ってはならないと注意します。主君より没収され追放されても、それは法華経に布施すると思えば幸いであると堂々と言い、奉行人に媚び諂う態度はしないようにと留意します。所領は主君の病気を治癒した貢献により賜ったものであるから、もし所領を没収するならば主君の病気は再発するであろうと、その時は頼基に謝罪しても知らないことであると言い切って帰るように助言します。

 また、寄り合いがあっても出席しないこと、夜中は用心し夜回りの者と親しくするようにと、細心の注意をされます。主君の許しが出た場合は、必ず同輩の者が嫉妬心から殺害を企てるので、決して法華経の信者として見苦しい死に方をしないようにと身辺を心配されます。法華経に汚名を残してはならないと言う信仰者のあり方を教えています。本書から二ヶ月後の『崇峻天皇御書』には、頼基の信頼が回復したと述べています。後に新たに領地が与えられます。この頃、鎌倉では公場対決への働きを進め教域を拡張しています。

□『鼠入鹿事』(二五一)

 建治三年頃の書簡とされます。二紙断簡で二紙目の後半が欠失して宛て先不明ですが、『常師目録』に載せていることから常忍宛てとされます。日乾の由来書きがあり京都の立本寺に所蔵されています。常忍から金銭(銭一結)と三年以上貯蔵した熟成の古酒一筒(箇)を身延に送り届けた礼状です。新たに『定遺』に収録されました。

長く寝かせた酒は貴重とされ高く取引されていました。一筒にどの位の量が入るか分かりませんが、甕や壷に貯蔵され熟成されました。御家人の酒の消費量が増え幕府の財政が逼迫することを防ぐため、害悪を引き起こすとして、建長四年には鎌倉市中における酒の販売禁止。民家所有の酒壺約三万七千の内、一軒一個を残して総て破棄します。諸国の市酒(いちざけ)の停止(ちょうじ)という沽酒の禁を出します。破棄された酒壺の容量は武家屋敷から出土した酒壷から二升から四升とされます。

 常忍から安房で鼠入鹿と言う大魚が捕獲され、その油を採って鎌倉の家々で使ったところ、異常な臭気がして耐えられなかった事を伝えます。鼠入鹿の体長は一七〜二〇尋(ひろ)とあります。一尋は約一八三aなので三〇b以上になります。海豚と言うよりは白長須鯨のことと思われます。これに関して『扶桑略記』を引き、出羽国において死んだ魚の遺骸により河、沼の水が堰き止められたこと。

また、体長三〇b程の二匹の大蛇が海に流れ出て、それに連れて多くの小蛇も流失し、そのため川辺の稲は流され草木を腐らせた事例を挙げます。弘仁年中(八一〇〜八二四年)には戦乱のため、墳墓の遺骸の汚水が山河を汚染した事例を挙げます。内典にはこのような悪臭が悪鬼を招く要因であると述べいます。後半が欠失していますが、日本国に悪鬼が更に蔓延することの危惧と、それに対処すべき警告を発して信心を勧めます。現実の出来事に注意をされ法華信仰を説かれます。追って書きに、以前の書状に返事をされたと書いています。七月一四日、後深草上皇の御所六条殿が焼けます。

□『上野殿御返事』(二五二)

 七月一六日付けとされます。「七月十六日」の肩に「建治三年」と日興の書入れがあります。『対照録』(中巻二四五頁)は日付けと花押の部分は別の遺文を張り合わせたと見て、筆跡、料紙の違いを指摘します。真蹟は二紙完存ですが二紙目の末尾「諸仏を供養し」から磨滅しています。大石寺と要法寺に所蔵されています。系年の判定は大宮の造営が建治か弘安の時によります。『対照録』は弘安二年五月頃とします。時光から麦一櫃、河海苔五條、はじかみ(生姜)六〇束(食用・薬用)を送られます。いつもの供養ながらも、世間は飢渇し特に大宮造営の費用の負担があり、また、物作りの耕作など幾十許(いくそばく)の自由がないにも関わらず、聖人の生活を案じる志に感謝します。そして、

「法華経の御いのちをつがせ給事、三世の諸仏を供養し給へるにてあるなり。十方の衆生の眼を開く功徳にて候べし。尊しとも申計なし。あなかしこあなかしこ」(一三六六頁)

と、聖人の命を支える供養は三世の諸仏を供養することになり、後々には十方の一切衆生を救済する尊い行為であると述べます。正法を伝える行者を供養し支えることの意義を窺えます。七月二六日に興福寺の金堂・講堂などが落雷により消失しました。(『一代要記』)

□『弥三郎殿御返事』(二五三)

八月四日に駿河沼津の斉藤弥三郎に与えた書簡とされます。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇一一四三頁)。真蹟はなく『本満寺本』に収録されています。本文中に「所領を惜み」「地頭のもとに」とあることから、弥三郎は多少の所領を持っていた武士と分かります。

○浄土宗との法論に備え

斉藤弥三郎より浄土宗との法論に備え、どのように問答すべきかを尋ねられた返書です。故に冒頭に自分は無知の在家の者であるが聖人の教えを聞き尊く思ったことは、と言う問答を始める前置きから教えます。

「是は無智の俗にて候へども、承り候しに、貴く思ひ進せ候しは、法華の第二巻に今此三界とかや申文にて候也、(中略)此仏は我等衆生に三の故御坐す大恩の仏也。一国主也、二師匠也、三親父也。此三徳を備へ給事は十方の仏の中に唯釈迦仏計也(一三六六頁)

法論の主題を譬喩品の「今此三界皆是我有」の文を引き、釈尊のみが「主師親の三徳」を具えた仏と論じる事から進めます。一徳も持たない弥陀を信仰するのは謗法の罪を作ると述べます。同じ譬喩品の「其人命終入阿鼻獄」の文を引き、堕獄することは必定であると主張します。そして、この罪によって日本国が飢饉・疫病に苦しみ、他国より侵逼されようとしていると説き、これこそが眼前に見る無間地獄であるとします。

聖人は現実に具現している災難は善神の計らいと知り、仏勅を重んじて国主に諫言したと述べます。

「かゝる事をば日本国には但日蓮一人計知て、始は云べき歟云まじき歟とうらおもひけれども、さりとては何にすべき、一切衆生の父母たる上、仏の仰を背くべき歟。我身こそ何様にもならめと思て云出しかば、二十余年所をおはれ、弟子等を殺され、我身も疵を蒙り、二度まで流され、結句は頚切れんとす。是偏に日本国の一切衆生の大苦にあはんを兼て知て歎き候也」(一三六八頁)

しかし、用いられず返って追放され弟子を殺されるような迫害を受けるのは、国主が法華経を信仰しないためとします。人々の罪が深いために今生には他国に侵略され、後生には無間地獄に堕ちることが決まっていると述べます。以上のことは経文に説かれているから信じるように諭すことを指導します。そして、聖人は住む所を追放され流罪にも耐えた行者であるから、天照太神や八幡大菩薩でさえも聖人を随わせることはできない。故に度重なる大難に攻められても、臆することなく威厳をもって弘通していると聞いている。このような道筋に沿って法論をしたらよいと教えます。

 次に相手の僧侶が反論してきた時の対処を教えます。まず「釈尊三徳」の文が法華経にあるか無いかを問います。続いて「四十余年未顕真実」の文を挙げて、法華経が他経に勝れていることを説きます。相手が薬王品の「即往安楽」の文を出したら、釈尊三徳の義を承認させてから説明するように述べます。「即往安楽世界阿弥陀仏」の文は、『文句記』に説くように法華経を如説に修行する者が往生するのであり、『阿弥陀経』による往生ではないこと。また、浄土は弥陀の西方浄土ではなく、この娑婆こそが浄土であると明かしたのが法華経です。(『開結』五二六頁)

 弥三郎に対し強い信念を持って法論に臨むように指導します。地頭に召喚されて法論になる事態を想定して、

「構へて構へて所領を惜み、妻子を顧りみ、又人を憑てあやぶむ事無れ。但偏に思切べし。今年の世間を鏡とせよ。若干の人の死るに、今まで生て有つるは此事にあはん為也けり。此こそ宇治川を渡せし所よ。是こそ勢多を渡せし所よ。名を揚か名をくだすか也。人身難受法華経難信とは是也。釈迦多宝十方の仏来集して我身に入かはり、我を助け給へと観念せさせ給べし。地頭のもとに召るる事あらば、先は此趣を能能申さるべく候」

(一三六九頁)

と、法華経に身命を捨てる覚悟と、諸仏は我が身に入れ代わり、必ず守護することを強く信じるように述べます。過去の勇猛な武士が宇治川や勢田を渡り、都の戦に臨んだ心境に例えます。決して法華経に汚名を残さないようにと激励します。武士の心構えに叶った例えでした。八月に安達泰盛は『請来目録』『大日経疏』を開版し、高野山金剛三昧院に寄進しています。(『高野春秋』)。源実朝の供養のために高野山に入りました。