284.  『神国王御書』                           高橋俊隆

□『神国王御書』(一六八)

○神国日本

 末紙が失われているため系年に異説があります。文永一二年二月頃、時光(『縮遺』『日蓮宗年表』)に宛てたとする説、建治元年説(日諦『高祖年譜』)があります。宗仲が身延に登詣した時の返答とも言います。また、弟に宛てた『兵衛志殿御返事』(一三七〇頁)と本書は同日に書かれ、兵衛志の使いの武蔵房円日に託したとします。ここでは『対照録』(上巻四六六頁)の建治三年八月の説、岡元錬城氏の八月二一日に宗仲に宛てた説とします。(『日蓮聖人遺文研究』第二巻一二六頁)。第二二紙の最後の六三文字(二三紙上)と末尾(四四紙)が欠失し、別紙の一一行を追申した断簡です。四四紙現存する長編の著述です。妙顕寺に所蔵され重要文化財に指定されています。

本書の構成を三段とし内容を六段に分け、添え書き(別紙)を入れて七段に細分することができます。(『日蓮聖人遺文全集講義』第一七巻七八頁)。独自の国家・神祇観が注目される著述です。

 一、神国日本。冒頭に日本国の国名・領土とその国主について述べます。日本には五畿七道があるとして、国主に天神七代・地神五代の神々があり、天皇を中心とした神国であることを強調します。三〇代欽明天皇の時に仏教が渡ったことを挙げ、歴史的な見地から仏教各宗の伝来と、最澄・空海・円仁・円珍の四大師の宗旨を述べます。この主眼は円仁・円珍による真言化を指摘することにあります。

二、仏国土・神国の疑念。安徳天皇、承久の乱の三上皇の敗退にふれ、八幡大菩薩の百王守護の誓いの疑問を呈します。(八八三頁)。聖人が仏教に疑問を持ち顕密二道を研鑽された動機、出家の動機となった「承久の乱」の仏教的な見解を究明されます。そして、法華経の明鏡・神鏡から見ると、この元凶は真言宗の邪法・謗法であるとします。四天皇が真言師に帰依したため善神の怒りによる朝廷側の敗北とみます。

三、善神を諫暁。諸宗の謬りと正しい信仰を国主に説いても、逆に聖人を怨み朝敵のように配流したことを述べます。謗法は亡国の原因であり蒙古襲来はその現証であると述べます。聖人は法華経の行者であることを述べ、法華経の文が真実ならば善神は怠慢なく行者を守護すべきと厳格に規定します。

「夫以日本国亦云 水穂国亦野馬壹 又秋津嶋又扶桑等云云。六十六国・二嶋・已上六十八ケ国。東西三千余里、南北は不定也。此国に五畿七道あり。五畿申は山城・大和・河内・和泉・摂津等也。七道と申東海道十五箇国・東山道八箇国・北陸道七ヶ国・山陰道八ヶ国・山陽道八ヶ国・南海道六ヶ国・西海道十一ヶ国。亦云 鎮西 又太宰府[云云]。已上此は国也。国主をたづぬれば神世十二代。天神七代・地神五代。天神七代第一者国常立尊、乃至第七伊奘諾尊男也。伊奘册尊妻也。地神五代の第一は天照太神伊勢太神宮日神是也。いざなぎいざなみの御女也。乃至第五は彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊。此の神は第四のひこほの御子也。母は龍女也。已上地神五代。已上十二代は神世也。人王は大体百代なるべきか。其第一の王は神武天皇、此はひこなぎさの御子也。乃至第十四は仲哀天皇[八幡御父也]。第十五は神功皇后[八幡御母也]。第十六は応神天皇仲哀神功御子、今の八幡大菩薩也。乃至第二十九代は宣化天皇也。此時までは月氏漢土には仏法ありしかども、日本国にはいまだわたらず」

(八七七頁)

 日本の古来の呼び方として水穂国・野馬壹・秋津嶋・扶桑を挙げます。水穂国は『古事記』に「豊葦原千秋長五百秋之水穂国」とある略称です。『日本書紀』には「豊葦原の千五百秋の瑞穂の国」とあり、稲が千年も五百年も長く美しく栄える国と言う意味から、真美穂国・豊葦原瑞穂国と言い神代の国名です。野馬壹は日本の古称で、最古の記事は陳寿(二二三~二九七年)の『魏志倭人伝』にある「邪馬台国」の記述です。『日本書紀』に「大日本(おほやまと)日本、此をば耶麻謄(やまと)と云う。下(しも)皆此に効(ならえ)」とあり、『続日本後紀』巻一九、嘉祥二(八四九)年三月庚辰の条に、「日本乃野馬壹」と野馬壹が古代では日本の別名であったことが分かります。文字は大和・日本・倭とも書きます。

秋津島は『日本書紀』に神武天皇が大和国の山頂から国見をされた時、国の形状を「蜻蛉(あきず。トンボ)「あきつの臀呫(となめ)の如し」と表現されます。「あきつ」トンボ(蜻蛉)の別称で雌雄が互いに尾を含みあい、輪になって飛んでいる姿に似ていると見たのです。そこから「秋津洲」の名を得たと言います。また、『古事記』に雄略天皇の腕に乗ったアブ(虻)を食い殺したトンボの記述があり、「倭の国を蜻蛉島(あきつしま)と」呼んだとあります。また、「アキ」とは稲のことで、秋津州(あきつしま)は陸奥国から長門国迄の本島を指したと言います。「アキズ」は大和国葛上郡部室村(御所市室)の地名で、「シマ」は国や地方と同義であることから、大和国周辺から国全体を総称するようになったと言います。水穂国・野馬壹・秋津嶋に共通するのは稲の豊作を象徴していることです。「稲」(米)は大和朝廷の政治基盤であり、稲作を基盤とする社会体制を知ることができます。日本の神道は稲と深い関わりがあります。

扶桑は古代中国の伝説にある東方海上にある島国です。東方朔(前一五四~前九三年頃)の『十洲三島記』等に記述されています。東方朔は中国の前漢の文人で、唐代の詩人李白は「世人不識東方朔、大金門是謫仙」と称讃します。『山海経』には遠い東海上に立つ巨木であり、そこから太陽が昇るとあります。『梁書』以降は東海上の島国とされました。巨木伝承は桑の木が多いとされ、九州(九夷)が扶桑の生所で紫庭として憧れの地とされたと言う説があります。中国から見て東の日が出る方向を指すことが加味され、扶桑は日本の異名の一つとなります。神武天皇より堀河天皇の寛治八(一〇九四)年三月二日迄の国史について書かれた、『扶桑略記』の標題に初期の用例が見られます。

そして、日本は六六ヶ国に壱岐・対馬を併せた六八ヶ国からなり、神代一二代以来、百代に及ぶ人王によって統治されてきたと述べます。神世十二代は天神七代と地神五代を言います。天神とは日本神話で天地開闢の初めに現れた七代の天神。日本書紀では、一、国常立尊(くにのとこたちのみこと)。二、国狭槌尊(くにのさつちのみこと)。三、豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)。(以下は対偶神で二神で一代と数えます)。四、泥土煮尊(ういじにのみこと)・沙土煮尊(すいじにのみこと)。五、大戸之道尊(おおとのじのみこと)・大苫辺尊(おおとまべのみこと)。六、面足(垂)(おもだるのみこと)・惶根尊(かしこねのみこと)。七、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)の七代。地神五代は神武天皇以前に日本を治めた五柱の神を言います。一、天照大神。二、天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)。三、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)。四、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)。五、鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)のことです。

人王とは天皇のことで第一神武天皇から始まります。仏教は第三〇代欽明天皇の時に百済から伝わったことを挙げ、仏教と天皇との関連を述べます。三四代推古天皇の時に三論宗が渡り、仏教が盛んに広まったとし、三六代皇極天皇の時に禅宗、四〇代天武天皇の時に法相宗が渡り、四四代元正天皇の時に大日経が渡り、四五代聖武天皇の時に華厳宗、四六代孝謙女帝の時に律宗と法華宗が渡り、そして、五〇代桓武天皇の時に最澄が南都六宗を法華宗に帰属させたことを挙げます。

空海は最澄が入滅して一年後に、五二代嵯峨天皇より東寺を賜り護国教王院と名付けます。そして、円仁(慈覚)・円珍(智証)を加えた四大師を挙げ、日本に真言宗は八派あるとして、東寺の五派(弘法・常暁・円行・慧運・慧海)は弘法を元祖とし、天台の三派(最澄・円仁・円珍)は伝教を元祖とすることを述べます。この二つは東密と台密と呼ばれる日本真言密教の二派となります。ここ迄は仏教伝来と叡山が真言密教を取り入れたことを指摘します。

○仏国土・神国の疑念

四、神国日本の天皇が敗退した理由を究明します。ここには、国家は仏法に護られ天皇は高徳の賢人とする思想があります。この視点から出家の動機となった寿永・承久の乱にふれ、その原因とした「真言亡国」を述べます。まず、安徳天皇が頼朝に追撃され、三上皇が義時に攻められ配流されたことの疑念を述べます。 

「此に日蓮大に疑云、仏と申は三界の国主、大梵王・第六天の魔王・帝釈・日・月・四天・転輪聖王・諸王の師也、主也、親也。三界の諸王は皆は此の釈迦仏より分ち給て、諸国の総領・別領等の主となし給へり。故に梵釈等は此の仏を或は木像、或は画像等にあがめ給。須臾も相背かば、梵王の高台もくづれ、帝釈の喜見もやぶれ、輪王もかほり(冠)落給べし。神と申は又国々の国主等の崩去し給るを生身のごとくあがめ給う。此又国王国人のための父母也、主君也、師匠也。片時もそむかば国安穏なるべからず。此を崇むれば国は三災を消し七難を払、人は病なく長寿を持ち、後生には人天と三乗と仏となり給べし」(八八一頁)

 世界は三界の国主である釈尊に統治され、釈尊の命令を承けて梵天・帝釈・四天王・三光天子等の善神が国土を守護すると述べます。日本国も釈尊の配下にあり、神は国主が崩御された後に生前と同じように祭祀したものとします。国民にとって国主は主師親の三徳を備えた神として尊崇します。国主に背けば国土は戦乱となり、神を尊崇すれば国土に三災七難は起こらず、国民は無病長命の人生を享受し、後生には仏果を得ると言うのが常道であると述べます。しかも日本国は一閻浮提の中でも、インドや中国にも勝れた大乗の流布する国であるとし、更に天照大神や八幡大菩薩に守護された国ではないかと疑問を呈します。

○諸天善神を諫暁

「神は又第一天照太神・第二八幡大菩薩・第三は山王等三千余社。昼夜に我国をまほり、朝夕に国家を見そなわし給。其上天照太神は内侍所と申明鏡にかげをうかべ、大裏にあがめられ給、八幡大菩薩は宝殿をすてて、主上の頂を栖とし給と申。仏の加護と申、神の守護と申、いかなれば彼の安徳と隠岐と阿波・佐渡等の王は相伝の所従等にせめられて、或は殺れ、或は嶋に放、或は鬼となり、或は大地獄には墮給しぞ。日本国の叡山・七寺・東寺・園城等の十七万一千三十七所の山々寺々に、いさゝかの御仏事を行には皆天長地久玉体安穏とこそいのり給候へ。其上八幡大菩薩は殊に天王守護の大願あり。人王第四十八代に高野天皇の玉体に入給て云、我国家開闢以来以臣為君未有事也。天之日嗣必立皇緒等[云云]。又太神付行教云、我有百王守護誓等[云云]。されば神武天皇より已来百王にいたるまではいかなる事有とも玉体はつゝがあるべからず。王位を傾る者も有べからず。一生補処の菩薩は中夭なし。聖人は横死せずと申。いかにとして彼々の四王は王位ををいをとされ、国をうばわるるのみならず、命を海にすて、身を嶋々に入給けるやらむ。天照太神は玉体に入かわり給はざりけるか。八幡大菩薩の百王の誓はいかにとなりぬるぞ」(八八二頁)

天照太神は内侍所(賢所)にある明鏡(八咫鏡)に御魂を宿し内裏(宮中)に祭祀され、八幡大菩薩は自身の宝殿を出て常に天王を守護すると大願を立てたことを挙げます。山王(日吉神社)を始めとした全ての神社も昼夜に日本国を守護し、朝夕に国家を見守ると述べます。ならば神武天皇より已来百王に至る迄は、如何なる事があっても天皇の玉体は安全で、王位が奪われることはないと神祇観を表白します。なぜなら叡山・七寺・東寺・園城等は天長地久・玉体安穏を祈り、四天王・天照太神、百王守護を誓った八幡大菩薩は天皇を護るからです。

現に叡山の座主は頼朝調伏の祈祷、北条氏調伏の祈祷をした大法を挙げます。しかし、結果として安徳と隠岐と阿波・佐渡等の天皇は、なぜ家来に殺され流罪にされたのか。これは聖人が幼少時から懐いてきた疑問でした。この疑問を解く鍵として仏法を選ばれたのです。

「而に日蓮此事を疑しゆへに、幼少の比より随分に顕密二道並に諸宗一切経を、或は人にならい、或は我と開見し、勘へ見て候へば、故の候けるぞ。我が面を見る事は明鏡によるべし。国土の盛衰を計ことは仏鏡にはすぐべからず。仁王経・金光明経・最勝王経・守護経・涅槃経・法華経等の諸大乗経を開見奉候に、仏法に付きて国も盛へ人の寿も長く、又仏法に付て国もほろび、人の寿も短かるべしとみへて候。譬へば水は能く舟をたすけ、水は能く舟をやぶる。五穀は人をやしない、人を損ず。小波小風は大船を損ずる事かたし。大波大風には小舟やぶれやすし。王法の曲は小波小風のごとし。大国と大人をば失がたし。仏法の失あるは大風大波の小舟をやぶるがごとし。国のやぶるゝ事疑なし」(八八五頁)

顕教・密教の教えの違いを始めとして諸宗の教義、一切経を研鑽した結果は、仏法に方便と真実があり、真実の法華経を信仰しないため国土や人々に盛衰が起きるという道理でした。それを「仏法の失」により破国があると述べます。その証文は仏記であるとして、『守護国界経』の阿闍世王受記品を引きます。ここには末代には悪法・悪僧が国を滅ぼすと説いています。具体的には漏尽通等の六神通を得た羅漢のように、三衣を皮のように身に纏い、鉄鉢を眉間まで持ち上げて生き仏のように敬われている僧が、実には正法を失うと説かれています。悪法・悪僧が蔓延り「仏法の失」が生じた時は、梵釈日月四天が怒りを起こし、その国に大天変・大地夭等を発して諫める。それでも法華経を信用しなければ国内に七難を起こし、父母兄弟王臣万民互に大怨敵と化して破国し、他国よりその国を討伐すると説かれていることを挙げます。

この未来記である証文を明鏡に喩えるのは聖人の特徴です。明鏡の中でも法華経は過去・未来の人々の成仏や、国土の栄枯盛衰を明らかにする「神鏡」と表現します。この神鏡に日本国の盛衰が映し出されるのです。

「今日蓮一代聖教の明鏡をもつて日本国を浮見候に、此の鏡に浮で候人々は国敵仏敵たる事疑なし。一代聖教の中に法華経は明鏡の中の神鏡なり。銅鏡等は人の形をばうかぶれども、いまだ心をばうかべず。法華経は人の形を浮るのみならず、心をも浮べ給へり。心を浮るのみならず、先業をも未来をも鑑給事くもりなし」(八八六頁)

神力品の「於如来滅後 知仏所説経 因縁及次第 随義如実説。如日月光明 能除諸幽冥 斯人行世間 能滅衆生闇」文を挙げ、末代に仏教の浅深・勝劣・次第を弁えた一人の智者が現われ、正しい教えを説くと解釈します。しかし、邪悪な僧侶は保身のため、その智者を国主に讒訴し人々を扇動して誹謗させると述べます。これは、聖人を迫害した頼綱や良観のことを指します。謗法の者が充満し行者を迫害した時に、善神が治罰の為に国を諌めるとの定論を述べます。この元凶は善無畏・金剛智・不空の三人の三蔵法師(三三蔵)であり、日本では弘法・慈覚・智証が謗法である真言を用いたことに原因を指摘します。

そして、叡山五五代の明雲座主、八一代安徳天皇の時に、叡山は完全に真言宗と同じになったとします。六一代の顕真権僧正(一一三〇~九二年)は法然の専修念仏を信じて念仏三昧に耽ります。北条氏の調伏祈祷をした慈円僧正は、六二・六五・六九・七一代の座主となりますが、真言を用いて法華経を捨てたと述べます。このような謗法の者は諸仏の怨敵であり善神は必ず懲罰するとします。ここに、天照太神・八幡大菩薩の守護も破綻したと見ます。

「教主釈尊・多宝仏・十方の諸仏の御怨敵たるのみならず、一切衆生の眼目を奪取、三善道の門を閉、三悪道の道を開く。梵釈・日月・四天等の諸天善神いかでか此人を罰せさせ給はざらむ。いかでか此人を仰ぐ檀那をば守護し給べき。天照太神の内侍所も八幡大菩薩の百王守護の御ちかいもいかでか叶はせ給べき。余此由を且つ知しより已来、一分の慈悲に催されて粗随分の弟子にあらあら申せし程に、次第に増長して国主まで聞ぬ。国主は理を親とし非を敵とすべき人にてをはすべきが、いかんがしたりけん諸人の讒言ををさめて、一人の余をすて給」                     (八九〇頁)

日本国を守護すべき天照太神も、百王守護を誓った八幡大菩薩も、真言の邪法の蔓延により守護を放棄したと見ます。これを「善神捨去」と言います。聖人はこれを防ぐため諫暁しました。しかし、これに反して時賴や時宗は頼綱や良観の意見を聞き、正法を説く聖人を罪人として排斥したことを述べます。国主は一人の意見であっても賢明に真実を判断すべきなのです。その先例として天台・伝教が国主から庇護されたことを挙げ、自身は二度の流罪等の迫害を受けたことを比較したのです。行者を迫害すれば必ず他国侵逼と言う「現罰」(八九一頁)があると述べます。それがなければ聖人は法華経の行者ではないとして、自身こそが無間地獄に堕ちるだろうと述べます。「後五百歳広宣流布」の金言を忠実に実行して、法華経の行者であることが証明されるのは悦ばしいが、他国に侵逼されて国民が修羅道に苦しむことは悲しいと述べます。そして、過去に受けた鎌倉市中を引き回しにあい流罪されたこと、松葉ヶ谷草庵を襲撃された悲しい事実を述べます。

「此は教主釈尊・多宝・十方の仏の御使として世間には一分の失なき者を、一国の諸人にあだまするのみならず、両度の流罪に当てゝ、日中に鎌倉の小路をわたす事朝敵のごとし。其外小菴には釈尊を本尊とし一切経を安置したりし其室を刎こぼちて、仏像経巻を諸人にふまするのみならず、糞泥にふみ入れ、日蓮が懐中に法華経を入まいらせて候しをとりいだして頭をさんざんに打さいなむ。此事如何宿意もなし。当座の科もなし。ただ法華経を弘通する計の大科なり」(八九二頁)

 草庵に押し入って釈尊像や法華経の経本を乱雑に扱い、聖人の頭をも何度も打ちつけたのです。これを指示したのは頼綱です。罪科があっての捕縛ではなく法華思想への抵抗であり、法華経を弘通することへの弾圧でした。

迫害があることは法華経に予言され、覚悟を決めたことなので受難に耐えられたのです。忍難慈勝の精神がここにあります。しかし、行者を守護すると誓った善神は聖人を護らないで何をしているのかと問います。法華経の会座に連なる梵天・帝釈・日月・四天王・龍王・阿修羅と、欲界・色界の八番(八部衆)や無量の国土の善神が霊山に集まり、釈尊や多寶仏の御前にて宣誓したことは偽りであったのかを厳しく問います。八部衆とは序品に説かれている雑衆の中の、欲界天衆・色界天衆・龍王衆・緊那羅衆・乾闥婆衆・阿修羅王衆・迦楼羅衆・人王民衆を言います。このような筆致は『開目抄』の大きなテーマの一つでした。聖人の「一期の大事」(五六一頁)であったのです。本書にもニ処三会の会座において菩薩は法華弘通を誓い、善神は行者を守護すると誓った経文を挙げます。

聖人において善神の守護は釈尊との誓いであり、法を遵守すべき仏弟子としての責任感から述べています。善神が「如世尊勅当具奉行」(『開結』五〇九頁)と誓言した約束を、釈尊の御前において問い糺されるのです。この属累品の文は菩薩に法華弘通を付属したものです。しかも菩薩は釈尊より頂を撫でられての摩頂付属です。それに答えて菩薩が三度、誓った約束の言葉です。属累品には「十方無量分身諸仏。坐宝樹下。師子座上者。及多宝仏。竝上行等。無辺阿僧祇菩薩大衆。舎利弗等。声聞四衆。及一切世間。天人阿修羅等。聞仏所説。皆大歓喜」(『開結』五一〇頁)とあります。

つまり、善神は菩薩の発誓を目の当たりに見聞し、弘教は出来ないが法華弘通の菩薩を守護すると誓ったと見るのです。『開目抄』(五八二頁)は「五箇の鳳詔」を引きます。そして、「六難九易」を色読する認識に滅罪と、不惜身命の行者を証明されます。本書にも諸天守護の追求は続いて行われているのです。善神の守護がなくても、それは今生の一時の嘆きに過ぎない、「日蓮がためには一旦のなげきなり」(八九三頁)と述べます。本当に嘆かわしいのは善神が誓いを破り天上界の果報を失うことと述べます。善神へ諌暁されたのです。

「なによりもなげかしき事は、梵と帝と日月と四天等の、南無妙法蓮華経の法華経の行者の大難に値をすてさせ給て、現身に天の果報も尽て花の大風に散がごとく、雨の空より下ごとく、其人命終入阿鼻獄と無間大城に堕給はん事こそ、あわれにはをぼへ候へ。設彼人々三世十方の諸仏をかたうどとして知ぬよしのべ申し給とも、日蓮は其人々には強かたきなり。若仏のへんぱをはせずば梵釈日月四天をば無間大城には必ずつけたてまつるべし。日蓮が眼と口とをそろしくばいそぎいそぎ仏前の誓をはたし給へ」(八九三頁)

と、行者を守護すると誓った善神に釈尊に造反した大罪を告げます。譬喩品に「其人命終入阿鼻獄」と説かれた堕獄は、「不信謗法」だけではなく、善神が誓言を不履行したことに向けます。その上で誓言を果たすようにと、善神への勧奨を強い言葉で述べます。

末尾が欠失しているため後は不明です。善神に要請されたことも不明ですが、時勢からして蒙古に関してのことと思われます。別紙の追い書きに供養の品(麦一櫃。銅銭二貫文。若布・搗布・みる一俵。干飯一袋・焼き米一袋、そのほか)への謝礼を述べます。「みる」は水松・海松と書き、奈良・飛鳥時代には租税として朝廷へ献納していました。善神諌暁等の大事な教えを書いているので他門に知られないようにと念記されます。