285. 『兵衛志殿御返事』(254)~『松野殿御返事』         高橋俊隆

◆第二節  池上兄弟と妻の信心

□『兵衛志殿御返事』(二五四)

○蘇我氏滅亡と中臣・池上氏

 八月二一日付けで宗長からの金銭を武蔵房円日が届けたことへの礼状です。円日については『宗祖御遷化記録』にもなく、本書以外には名前が見えないので不明です。真蹟は四紙が京都立本寺に所蔵されています。無年号なため建治元年の説がありますが、『定遺』は花押の筆跡から建治三年とします。

 皇極天皇の時代に蘇我入鹿が皇位を脅かす程の権威を掴んだので、大兄王子と軽王子が中臣鎌子に相談したところ、昔、馬子が物部守屋を成敗した時に、釈尊の像を造って祈願して成就したので、その例に倣って釈尊を造像したところ入鹿を成敗できたと言う故事を示します。中臣鎌子は後の藤原鎌足で、この時に造像した釈迦仏は興福寺の本尊であると述べます。池上氏は本姓を大中臣氏と言い鎌足は遠祖になります。この故事を引いて天皇と臣下は共に釈尊の恩恵によって権威を継続していること、神国であった日本国が仏国になったことも釈尊の恩恵であることを強調します。蘇我一族が滅んだ例を挙げて、他国侵逼の危険に責められているのは釈尊を粗末にしているからであり、日本国守護の善神に護法の神威が顕われないのはこの理由であるとします。兄宗仲に送った書簡(『神国王御書』)と、本状の意図を照らし合わせて理解するよう述べます。

○宗仲再勘当の予感

各々二人はすでにとこそ人はみしかども、かくいみじくみへさせ給は、ひとへに釈迦仏・法華経の御力なりとをぼすらむ。又此にもをもひ候。後生のたのもしさ申ばかりなし。此より後もいかなる事ありとも、すこしもたゆむ事なかれ。いよいよはりあげてせむべし。たとい命に及とも、すこしもひるむ事なかれ」(一三七一頁)

 兄弟の不仲と親からの勘当問題で、兄弟の仲も破却すると人々は見ていただろうが、二人共に法華経の信仰に励まれることは、ひとえに法華経と釈尊の御力であると述べます。このことから後生も成仏することは疑いのない嬉しさであり、向後も弛まず父親の改心に励み、いかなる事態が起きても不惜身命の心がけで怯んではいけないと諭します。康光の背後に良観がいるので、再び父子の信仰の対立が起きることを心配されます。それは一一月二〇日の『兵衛志殿御返事』(一四〇二頁)に現れます。

□『富木殿御書』(二五五

 八月二三日付けで常忍から金銭を布施された礼状です。真蹟八紙が法華経寺に所蔵されています。無年号のため建治元年・弘安元年の説があります。本書は全体が漢文で書かれています。聖人が佐渡から常忍に宛てた書状は漢文が多く、身延からのものは半漢・半和文であることから、著作年時を文永一〇年とする説もあります。(『日蓮大聖人御書講義』第一六巻三五二頁)。ただし、本書に慈覚・智証を謗法と批判しており、台密批判が身延期になって本格化することから(『日蓮聖人遺文事典』歴史篇一二七頁)、本書著述は身延期とします。

 冒頭に法華経を誹謗する罪により、永く阿鼻地獄に展転することを示します。故に謗法の者と交際してはいけないことから『不可親近謗法者事』と称されます。日本の八宗は謗法となっており、特に弘法・慈覚・智証の三大師にその罪があるとします。慈覚については『撰時抄』に安然と慧心との天台宗の三人を、法華経・伝教の師子の身の中の三虫として、この三人を「大謗法の根源」(一〇五二頁)と批判していました。

 

○謗法の重罪と「止暇断眠」

謗法の重罪について経論を挙げて証文を示します。謗法とは正しい教法に背くことです。『法華経』『涅槃経』、賢慧菩薩の『法性論』、竜樹菩薩の『菩提資糧論』を引きます。法華経の文は譬喩品の、「若人不信 毀謗此経 見有読誦 書持経者 軽賎憎嫉 而懐結恨 其人命終 入阿鼻獄 乃至如是展転 至無数劫」。不軽品の「千劫於阿鼻地獄」。化城諭品「三千塵点」。寿量品「五百塵点劫」の文を挙げて、法華誹謗の罪が永く堕獄の原因となったことを示します。しかも無間地獄を免れた後も延々と苦報を受け、不軽軽毀の人々は信伏したにも拘わらず、僅かに残った罪のため千劫の間、阿鼻獄に堕ちたことを強調します。五百塵点の久遠下種の時に退大取小した者が、大通結縁の時にも退転し今番の釈尊に至ったことを示します。涅槃経は「為悪象殺者 不至三悪 為悪友殺 必至三悪」の文を挙げます。悪友とは正法を誹る者(悪知識)のことを言います。この悪知識の悪業により地獄・畜生・餓鬼の三悪道に赴くことを警戒した文です。

賢慧(堅慧)『究竟一乗法性論』には、正法を信じないのは過去の謗法の障りによること。智者が謗法と悪知識を恐れる理由は堕獄の因であること。五逆罪は正法に信を繋ぐことにより無間地獄を脱することができても、誹謗正法により堕獄した者は、無量劫にも解脱できないためである。逆に人々を正法に導く善知識の功徳の大きいと説いてます。竜樹の『菩提資糧論』には、五逆罪による無間地獄の業を百集めても、一つの謗法に及ばないと説きます。これらの経論を挙げて謗法の罪の大きいこと、悪知識を避ける理由を述べます。そして、

「夫賢人居案欲危 、寧人居危欲案。大火畏怖小水 大樹値小鳥折枝。智人可恐怖謗大乗故。天親菩薩云切舌馬鳴菩薩願刎頭 吉蔵大師身為肉橋 玄奘三蔵此占霊地 不空三蔵疑決天竺 伝教大師此求異域。皆上所拳守護経論故歟」(一三七三頁)

と、賢人は危険なことを察知するように、誹謗正法の罪の重さを知ることができるが、侫人(ねいじん)はできないとします。侫人とは邪見の者、愚人のことです。そして、賢人の天親・馬鳴・吉蔵・玄奘・不空・伝教は、経論章疏に説かれた教えを護って謗法罪を恐れたことを述べます。天親(世親)は兄の無着に教化されて、大乗を謗法した罪を悔い舌を割って謝罪しようとしました。馬鳴は脇比丘に化度された時に頭を刎ねて欲しいと懇願しました。吉蔵は般若第一を立てていたが天台に帰伏し、背中に天台を負うて高座に昇らせました。玄奘は入竺して法を護り不空も天竺に法を求め、伝教も『止観』を求めて天台山に渡航したことを示します。そして、最も恐れることは、謗法に気づかず法華経を大日経と比べて戯論とした弘法・慈覚・智証の末孫であり、持戒の高僧と称されている者と述べます。

次に問答体にて三大師を謗法としたことを詰問します。伝教の歴代の弟子を始め弘法の弟子を経由して四〇〇年の間に、一人として法華経を戯論とすることに異論がなかったのに、なぜ聖人のみが謗法とするのかを問います。この質問を挙げて答えたのが次の文です。

「以此等意案之 我門家夜断眠 昼止暇案之。一生空過万歳勿悔」(一三七三頁)

 この問難に直接答えないのは、常忍は既に慈覚・智証の謗法(台密)を知っているからです。聖人の謗法堕獄の問題意識は、幼少の時に見聞した念仏者の臨終時の悪相に始まっていました。『守護国家論』(九〇頁)には選択集の謗法の理由を論証し対冶の方法を明確にすると述べました。ここでは法滅の危機を自覚して「止暇断眠」の信仰を勧めたのです。追伸に常忍の近辺にいる教信・乗明等、信者が一箇所に集まって、この書簡を読み聞くように指示されます。謗法堕獄の教えは肝要な事であると示唆して、謗法の罪を作らないよう日夜、精進すべきことを訓戒されます。「止暇断眠」は日蓮聖人の門下としての心がけです。教信等に一致した教学の理解と、異体同心の団結を促されました。

□『日女御前御返事』(二五六)

○「未曾有の大曼荼羅」

 八月二三日付け日女御前から本尊供養の布施と、白米一駄(二俵)、菓子(くだもの)等、たくさんの品物を送り届けた礼状です。『朝師本』に収録されています。日女御前は下総の平賀忠治の女で池上宗仲の室、松野氏の後家尼の女で窪の持妙尼とする二つの説があります。供養の金額が五貫文と並外れて多額なこと、「御前」と呼称されることから、富木尼・上野母、領家新尼と同等な立場であることが窺えます。また、夫婦共に篤信で教養があったことが、同名の遺文二書(別称『品々供養事』二九三弘安元年)から分かります。

 授与された本尊について、釈尊在世の中でも法華経の涌出品から属累品迄の、八品の内に説き顕された本尊と述べます。この場合の本尊は文字の曼荼羅を指します。また、「本門の本尊」(一三七四頁)と表現します。末法に始めて図顕されるべき本尊であることは、経文に明白に説示され天台・妙楽も内鑑していたと述べます。そして、本尊である曼荼羅の描写について、

「是全く日蓮が自作にあらず。多宝塔中大牟尼世尊・分身の諸仏すりかたぎ(摺形木)たる本尊也。されば首題の五字中央にかかり、四大天王は宝塔の四方に坐し、釈迦・多宝・本化の四菩薩肩を並べ、普賢・文殊等、舎利弗・目連等坐を屈し、日天・月天・第六天の魔王・龍王・阿修羅、其外不動・愛染は南北の二方に陣を取り、悪逆の達多・愚癡の龍女一座をはり、三千世界の人の寿命を奪ふ悪鬼たる鬼子母神・十羅刹女等、加之、日本国の守護神たる天照太神・八幡大菩薩・天神七代・地神五代の神神、総じて大小神祇等体の神つらなる、其余の用の神豈もるべきや、宝塔品云接諸大衆皆在虚空云云。此等の仏・菩薩・大聖等、総じて序品列坐の二界八番の雑衆等、一人ももれず。此御本尊の中に住し給、妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる。是を本尊とは申也」(一三七五頁)

 曼荼羅は多宝塔の中に二仏並座された説相を文字に書き写したと述べます。大事なのは大衆が釈尊の神通力により虚空に在ることです。諸尊の配置は多宝塔を囲むようにして東西南北に四天王、不動愛染、仏界から地獄界の十界が虚空に集められます。十界の全ての者が中央の妙法蓮華経の五字の功徳によって、「本有の尊形」である仏界を具現することを顕します。大曼荼羅について経釈を引いて述べます。

「経云諸法実相是也。妙楽云実相必諸法諸法必十如乃至十界必身土云云。又云実相深理本有妙法蓮華経等云云。伝教大師云一念三千即自受用身自受用身者出尊形仏文。此故未曽有の大曼荼羅とは名付奉るなり」(一三七五頁)

本有の尊形とは方便品の十如実相であるとし、十界が互具した尊形であると述べます。妙楽の『金剛錍論』に十界は必ず身土の上に現れるとした、身土一念三千の尊形であると明かします。故に未曽有の大曼荼羅であるとします。末法に始めて聖人によって開顕された曼荼羅本尊であると教えます。

○「日蓮が弟子檀那の肝要」

 この大事な本尊を供養する功徳により、曼荼羅の諸尊が日女の周りを囲むように守護すると述べます。そして、遊女を家の側に寄せないように、謗法の者(悪知識)に干渉されず防禦するよう信仰の心構えを述べます。この本尊は南無妙法蓮華経と唱える胸中に存在しており、これを「九識心王真如の都」(一三七六頁)と説明し、信心による「以信得入」の境地を説きます。久遠より人々を教化されている、その久遠仏の所証の境界を「九識心王真如の都」と表現します。第九識の阿摩羅識は如来蔵識と言い、心の本体であるので心王と言います。法華経を一心に信じることにより、曼荼羅に示された宝塔の中に入ることができると述べます。仏教の根本は信心であり、題目を唱えて仏になることです。

「此御本尊も只信心の二字にをさまれり。以信得入とは是也。日蓮が弟子檀那等、正直捨方便不受余経一偈と無二に信ずる故によて、此御本尊の宝塔の中へ入べきなり。たのもし、たのもし。如何にも後生をたしな(嗜)み給ふべし、たしなみ給ふべし。穴賢。南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤大切也。信心の厚薄によるべきなり」(一三七六頁)

信心にも厚薄・浅深があることに留意しなければなりません。孔子の教えでさえも信じることを一番としている、まして仏法の深理においては尚更のことと言う『止観弘決』を文を引きます。この信心の一念の強さについて外典の故事を引きます。

「彼漢王も疑はずして大臣のことばを信ぜしかば立波こほり行ぞかし。石に矢のたつ、是又父のかたきと思し至信の故也。何に況や仏法においてをや。法華経を受持て南無妙法蓮華経と唱る、即五種の修行を具足するなり。此事伝教大師入唐して、道邃和尚に値奉て、五種頓修の妙行と云事を相伝し給ふなり。日蓮が弟子檀那の肝要、是より外に求る事なかれ」(一三七七頁)

 後漢の光武帝が若い武将であったとき敗走して大河に阻まれます。臣下の王覇は船もないので渡れないと言えず河は凍っていると報告します。光武帝はその言葉を信じたとき河は氷結し無事に渡ることができたのです。また、武将の李広は虎により父を殺されていました。草陰の岩を虎と思い弓を射たところ、その硬い石に矢が突き刺さった石虎将軍の例を引いて、必死に信じる一念の心の大切さを説きます。ここに唱題に五種の修行を具足することを説きました。

曼荼羅本尊は『法華経』の宝塔品の説座であることを説明されました。南無妙法蓮華経と唱えるところに、釈尊と我等と国土とが一体となる成仏観です。本尊は形骸ではなく「以信得入」の信心により宝塔の中に参入し、釈迦・多寶仏の尊顔を拝謁できるのです。信心が肝要であると伝えたのです。

 

□『四条金吾殿御返事』(二五七)

仏法は勝負を第一とする

八月に頼基に宛てた書状とされます(『日蓮聖人遺文全集講義』第二〇巻一六〇頁)。『朝師本』に収録されています。内容から『告誡書』『大法東漸書』と称します。主君より下文が届いたのは六月二五日でした。聖人は『頼基陳状』の草案を書きました。頼基は祈請文の提出を拒絶して時期を見計らっていました。冒頭に、

「御文あらあらうけ給て、長き夜のあけ、とを(遠)き道をかへりたるがごとし。夫仏法と申は勝負をさきとし、王法と申は賞罰を本とせり。故に仏をば世雄と号し、王をば自在となづけたり」(一三七八頁)

と、主君との関係を心配されていたので、手紙を急ぎ読みして頼基の信心が変わらないことに安堵した心境を述べます。聖人の訓示に随う頼基の信仰の強さが書かれていたのでしょう。仏法は勝負と言う表現は、頼基の決意が強ければ正法である法華経が勝つのは当然のことで、邪教に負けてはいけないことを意味します。釈尊のことを「世雄」と言うのは最も勇気のある人ということで、化城諭品には「世雄無等倫 百福自荘厳 得無上智慧」(『開結』二三六頁)と説かれています。

 そして、仏法は王法よりも勝れているから、必ず勝つことの事例を述べます。三〇代欽明天皇の時に仏教が伝来した経緯と、蘇我氏と物部氏の崇仏と廃仏の確執にふれます。この時には疫病が流行して蘇我氏が預かった仏像が、物部氏により壊されます。仏殿も焼かれ僧侶や尼も苔刑に処せられます。しかし、天変地異が起き内裏は焼け、王と蘇我氏物部氏が疫病に罹り、物部氏は苦しんで死去したことを述べます。この事件より一九年の間、仏教は用いられることはなく、三一代の敏達天皇、三二代の用明天皇の時、蘇我馬子・聖徳太子と物部守屋の戦いが起き、太子は四天王寺を建立することを誓って守屋を討った経緯を書き連ねます。戦勝により馬子は元興寺を建てて釈尊を崇重し、太子は釈尊の像を造って元興寺に祀り橘寺の本尊となります。この本尊が日本で始めて造像された釈尊像と述べます。太子が「十七条憲法」を制定したのが推古一二年四月、翌年の四月に鞍作鳥を仏造工として銅・繡の丈六像を造らせ、翌、推古一四年四月に完成し元興寺金堂に安置します。この年より四月八日に灌仏会が行なわれることになります。

 次に中国に仏教が伝わった永平七年と同一四年の、道士と仏家の法験記事を引き、呂慧通等の六百人の道士が仏教に帰依し出家したことを述べます。そして、

「されば釈迦仏は賞罰ただしき仏也。上に拳る三代の帝並に二人の臣下、釈迦如来の敵とならせ給て、今生は空く、後生は悪道に堕ぬ。今代又これにかはるべからず。漢土の道士信・費等、日本の守屋等は、漢土日本の大小の神祇を信用して、教主釈尊の御敵となりしかば、神は仏に随奉り、行者は皆ほろびぬ。今代如此、上に拳る所の百済国の仏は教主釈尊也。名を阿弥陀仏と云て、日本国をたぼらかして釈尊を他仏にかへたり。神と仏と仏と仏との差別こそあれども、釈尊をすつる心はただ一なり。されば今の代の滅せん事又疑なかるべし。是は未申法門也。可秘々々」(一三八二頁)

と、欽明・用明・敏達の三人の天皇と、守屋・中臣勝海の二人の臣下は仏敵となったので悪道に堕ち、中国においても道教と仏教の争いがあり、仏教が勝利した伝承を挙げます。冒頭に仏法は勝負を先とし王法は賞罰を本とすると述べたことに呼応して、頼基の問題も法華経に守護されて勝利に導かれることを示唆したのです。

ところで善光寺の本尊は阿弥陀と言うのは誑惑で、欽明帝の時に百済から渡来した釈尊の銅像であると述べます。物部氏が堀江(飛鳥川の西の入り江)に捨てた釈尊像を、信濃の善光が拾い自宅を寺として安置したことに始まります。本体が釈尊であるのに弥陀と偽ることは許されないことです。釈尊を捨てるという行為であり、国土が滅亡する原因であると述べます。そして、聖人の信徒においても教えに反するなら蘇我氏のようになると述べます。これは、蘇我稲目・馬子の父子は仏教に貢献があったが、入鹿の代になると一門が繁栄して奢り高ぶったため、皇極天皇・中臣鎌子により一族が滅ぼされたことに例えたのです。頼基に対して少輔房・能登房のように、聖人に反して罪を被る事の無いように諭し、祈請文を書かないことを確認されたのです。

頼基の性格は短気なので誘導されないようにと注意します。また、情け深い性格であるから主君から優しい言葉をかけられて、同情し説き伏せられないようにと注意します。鍛えられていない刀は強い火に入れれば溶けてしまうものであるから、強い信念を鍛えるために前もって注意したと述べます。

「仏法と申は道理也。道理と申は主に勝物也。いかにいとを(愛)し、はな(離)れじと思め(妻)なれども、死しぬればかひなし。いかに所領ををしゝとをぼすとも死ては他人の物、すでにさかへ(栄)て年久し、すこしも惜む事なかれ。又さきざき申がごとく、さきざきよりも百千万億倍御用心あるべし」(一三八四頁)

 仏教は人間の生き方、信仰のあり方を説くから、仏教の教えに従えば主君に勝ると述べます。最愛の妻のことや所領を惜しんだとしても、死ねばどうすることもできないとして、頼基はその幸せを充分に受けてきたのであるから、行者としての道を歩むように諭します。鎌倉の信徒からの情報により、近辺に不穏な動きがあることを察します。身辺の警護を万全に備えるように指導します。聖人の道心は仏になる一念であるが、頼基の安穏を願うのは法華経の法脈を継ぐ人である為と述べます。

「日蓮は少より今生のいのりなし。只仏にならんとをもふ計也。されども殿の御事をばひまなく法華経・釈迦仏・日天に申也。其故は法華経の命を継ぐ人なればと思也」(一三八四頁)

人とは争そわないこと。自宅以外では人とは寄り合わないようにと用心をさせます。夜回りの者は力強い者はいないが、法華経の信仰のために屋敷を失った者達であるから、親しくしていれば日夜に守りとなると述べます。(『崇峻天皇御書』一三九三頁)。この夜警の武士は頼基の兄弟と言います。多少の咎があっても見ないふり聞かないふりをして見逃すように述べます。主君から法門を乞われても喜んで出向かないように、その時は聖人の弟子に頼んでみましょうかと、温和に答えるように述べます。主君との直接な対話や嬉しそうな表情を見せてはいけないと厳しく指導します。

「いかにもうれしさにいろに顕れなんと覚え、聞んと思心だにも付せ給ならば、火をつけてもすがごとく、天より雨の下がごとく、万事をすてられんずるなり。又今度いかなる便も出来せばしたゝめ候し陳状を上らるべし。大事の文なれば、ひとさはぎ(一騒)はかならずあるべし」(一三八五頁)

頼基の態度が高慢と取られることを心配します。周到に注意され不穏な事態になれば先に書いた陳情を呈するように述べ、最後にこの陳情が幕府に知られると騒動になることを覚悟するように述べます。

 

□『四条金吾殿御返事』(二五八)

真蹟は伝わっておらず系年も不明ですが、建治三年八月頃に頼基から本迹論についての質問があり、それに答えた書簡です。迹門は始成仏の説法であるから方便が含まれます。本門は久成仏が開顕された真実教であるから、本迹を相対すると本門が勝れるが、本門と題目を相対すれば末法の機根には題目が勝れていると述べます。これは『観心本尊抄』の寿量品の文底である題目五字を肝要としたもので、大事なのは南無妙法蓮華経の題目であるとして唱題行を勧めます。

 

□『仏眼御書』(二五九)

「仏眼をかり、仏耳をたまわりて、しめし候しかども、用ゐる事なければ、ついに此国やぶれなんとす。白癩病の者のあまたありて、一人のしる(知)人日蓮をにくみしかば、此山にかくれて候」(一三八六頁)

系年と宛て先は不明ですが建治三年八月頃とされます。一紙七行の断片で個人(松平氏)の所蔵です。養珠院夫人感得の旨の日遠の裏書きがあります。釈尊の使いとして仏眼と仏耳を賜って、日本国と人々を救うために法華経を示したが、幕府が用いないため他国より破国に追い込められている。不信謗法の「白癩病」(『開結』五九八頁)の者が多くいて真実を知る聖人を憎み迫害を続けるので身延に隠棲したことを知らせています。

□『兵衛志殿御書』(二六〇)は、本書の内容からみて弘安元年九月九日とします。

 

□『松野殿御返事』(二六一)

○「在家の御身は余念もなく」

 九月九日付けで松野氏から金銭一貫文・油一升・衣一枚・筆十管を供養されたことの礼状です。松野六郎左衛門の次男が日持で娘が南条兵衛七郎の妻です。時光は孫になります。真蹟は現存しておらず、写本に中正院日護の『三宝寺本』があります。供養を受け取った礼状を急ぐため法門を書くことができないと謝します。

「在家の御身は余念もなく日夜朝夕南無妙法蓮華経と唱候て、最後臨終の時を見させ給へ。妙覚の山に走り登り四方を御覧ぜよ。法界寂光土にして瑠璃を以て地とし、金縄を以て八の道をさかひ、天より四種の花ふり、虚空に音楽聞え、諸仏菩薩は皆常楽我浄の風にそよめき給へば、我等も必ず其数に列ならん。法華経はかゝるいみじき御経にてをはしまいらせ候」(一三八九頁)

在家の者は南無妙法蓮華経と日夜朝夕に唱えることが大事で、唱題の功徳により臨終して寂光の浄土に釈尊と同座できると安心を述べます。追伸に目連樹を十両ほど頂きたいとあります。「むくろじ」とも言い、葉は薄く黄色の花が咲き、実は円く黒色で固いため数珠に使うことがありました。