286.『崇峻天皇御書』〜『石本日仲聖人御返事』    高橋俊隆

□『崇峻天皇御書』(二六二)

○江馬氏の病気

九月一一日付けで頼基から鎌倉の信徒から白小袖一枚・金銭と常忍に預かった手紙、特に柿・梨・生ひじき・干ひじきなど様々な供物が送り届けた礼状です。真蹟の一〇紙断巻は身延曽存で『朝師本』に収録されます。

 頼基の主君が病気となり治療を行うことになった報告をします。主君は直接には法華経の信仰はしていないが、主君の恩恵で生活をしているから、頼基の供養の功徳は主君の病気平癒の力にもなると説きます。頼基の信仰は主君に伝わると述べます。大木の下の小さな木や大河の辺の草は、雨や水を得ることはないが、大木の露が滴って生きながらえ、大河の水気を得て育つのと同じと例えます。また、阿闍世王は釈尊に敵対したが、臣下の耆婆は釈尊を慕い常に供養していたので、その功徳を阿闍世王が受けたとして主君との関係を説明します。

主君が病気になったのは好機とは言え、心を引きしめ短気から軽率な行動をとらないよう注意します。短気により身を滅ぼした崇峻天皇の故事を引くことから『崇峻天皇御書』と称されます。主君の病は頼基を助けるための善神の行いと見ます。「内薫外護」の現証として主君が病気になり長患いしていると述べます。

○「内薫外護」

仏法の中に内薫外護と言う大事な法門があると述べます。これは衆生に内在している仏性が薫発して、諸々の妄念を払い除けて顕現することを内薫と言います。同時に内薫に対応して外側から衆生に働きかけ、示教利喜することを外護と言います。つまり、衆生の仏性が薫発する内因と外縁の両面のことです。この相互薫習を認める天台・華厳宗と、認めない唯識法相宗との論争を「宗論」と述べます。(『日蓮聖人遺文事典』教学篇九〇八頁)。

「仏法の中に、内薫外護と申大なる大事ありて宗論にて候。法華経には我深敬汝等。涅槃経には、一切衆生悉有仏性。馬鳴菩薩の起信論には、以真如法常薫習故妄心即滅法身顕現。弥勒菩薩の瑜伽論には見たり。かくれ(隠)たる事のあらはれ(顕)たる徳となり候なり」(一三九一頁)

不軽品には「我れ深く汝等を敬う」とあり、涅槃経には「一切の衆生は悉く仏性がある」とあり、馬鳴は「真如の法が常に薫習する故に妄心が即滅して法身が顕現する」と説き、弥勒も同じことを説いていると述べます。『守護国家論』の妙楽の『止観弘決』の「内薫に非ざるよりは何ぞ能く悟りを生ぜん、故に知んぬ悟を生ずる力は真如に在り、故に冥薫を以て外護と為すなり」の「内薫外護」の文を引き、

「我等常没一闡提凡夫欲信法華経為顕仏性先表也。故妙楽大師云自非内薫何能生悟。故知生悟力在真如故以冥薫為外護也。自法華経外四十余年諸経無十界互具。不説十界互具不知内心仏界。不知内心仏界不顕外諸仏。故四十余年権行者不見仏。設雖見仏見他仏也。二乗不見自仏故無成仏」(一二四頁)

と、「内薫外護」「陰徳陽報」は十界互具にあると述べていました。本書においては隠れた内の信仰が外に徳となって顕現することを述べ頼基の常日頃の信心を褒めたのです。

「されば御内の人人には天魔ついて、前より此事を知て殿の此法門を供養するをさゝ(障)えんがために、今度の大妄語をば造り出したりしを、御信心深ければ十羅刹たすけ奉んがために、此病はをこれるか。上は我かたきとはをぼさねども、一たんかれらが申事を用給ぬるによりて、御しよらう(所労)の大事になりてながしら(長引)せ給か。彼等が柱とたのむ龍象すでにたうれぬ。和讒せし人も又其病にをかされぬ。良観は又一重の大科の者なれば、大事に値て大事をひきをこして、いかにもなり候はんずらん。よもただは候はじ」(一三九一頁)

 同僚に天魔がついて頼基の信仰を妨げようと讒言したが、頼基の信仰心が強いので十羅刹女の計らいとして、主君の病が起きたとします。謹慎中の身ながらで主君の治療に出仕し再び重用されます。確執は終息に向かったのです。頼基の信仰心を内薫とし十羅刹女羅の守護を外護に擬えたのです。龍象房も逃げ去り讒言した者も病気に犯され、良観も大罪を作って無事ではすまないと述べます。

○「殿の御身も危く

「此につけても、殿の御身もあぶな(危)く思まいらせ候ぞ。一定かたきにねらはれさせ給なん。すぐろく(双六)の石は二並ぬればかけられず。車の輪は二あれば道にかたぶかず。敵も二人ある者をばいぶせ(悒)がり候ぞ。いかにとが(科)ありとも、弟ども且も身をはなち給な。殿は一定腹あしき相かを(面)に顕たり。いかに大事と思へども、腹あしき者をば天は守らせ給はぬと知せ給へ」(一三九一頁)

頼基の身の危険を感じて重ねて注意を促します。命に拘わる動きがあったと思われます。敵とは法華経の敵ですので、良観の支配にある者が命を狙っていたと思われます。目的は頼基を退転させることにあります。聖人は対処策として弟達を大事にして近辺の警護を厳重にするように指示します。

盤双六の石は枡目に二つ並んでいると相手はそこへ進めない、車の輪も二つ揃っていれば道で傾かないように、敵も二人いる者は嫌がるものである。どのような過失があっても弟達を少しの間でも側から離さないようにと述べます。頼基は短気で激怒の様子が顔に現れるので注意をすること、同僚の胸中は燃えるように嫉妬していると思って、身分の高い者やどのような者に接しても、膝を屈め手を合わせて謙虚な態度をとり、質素な衣類を着るようにと教えます。勝利を確信しても些細なことで陥れられたなら、船を漕いで来て着岸する寸前に転覆するようなもの、食事の後に湯茶が用意されていないのと同じと述べます。主君から病気の治療を任されたとは言え、身辺の警護と高慢になることを戒めたのです。

 また、屋敷への早晩の出仕、日暮れの帰宅の用心、自宅内の庭先や板敷きの下、天井裏にも留意し、心に合わないことがあっても、荏柄の夜廻りの弟たちと仲良くして、近辺の警護をしてもらう心懸けを述べます。荏柄は鎌倉の二階堂にあります。頼朝が開府のとき鬼門を防ぐ守護社として長治元(一一〇四)年に荏柄天神社を創建しました。荏柄は幕府を警護する場所で夜警に当たっていたのが頼基の兄弟でした。信仰の違いが生じ疎遠にしたことを咎めたのです。頼基の兄は龍象房に加担していました。

その例として、義経と阿波民部重能(田口成良)を挙げます。重能は清盛に仕えた平家の有力家人でしたが、志度合戦で嫡子の田内教能が義経に生捕りに取られたため、壇ノ浦の戦いの最中に平氏を裏切り源氏方に内通しました。また、頼朝は平治の乱で父義朝を裏切り、その首を京の六波羅にいる清盛へ届けた長田忠致・景致父子に対し、平家討伐に功績を上げたら美濃と尾張の国を与えると利用します。父の敵ですから長田父子を捕らえ松に磔け棒でついて殺したと言います。

頼基の弟達は夜回りの警護をしているので武力に長けていたと思われます。特に四人の兄弟は聖人の為に命をかけ屋敷を没収された者であるから、自宅にも通わせて姿を見せていれば、敵も親の敵ほど憎いわけではないから殺害には及ばないとまで諭します。この四人の兄弟は竜口法難の時に馬の口に取りついて泣き悲しんだ者と思われます。この咎により屋敷や財産を没収されたのです。ですから、この注意を無視して短気を起こせば、聖人の祈りも叶わないと厳しく諌めます。

主君から親のように慕われるのは、善神や法華経に守護されていることを認識するように述べます。兄弟四人が仲よく親しむなら、頼基の守護を善神に強情に祈り、父母追善のことも釈尊に願うと述べます。そして、頼基に対する聖人の心情を竜口法難を回顧して述べます。

「返返今に忘れぬ事は頚切れんとせし時、殿はとも(供)して馬の口に付て、なきかなし(泣悲)み給しをば、いかなる世にか忘なん。設殿の罪ふかくして地獄に入給はば、日蓮をいかに仏になれと釈迦仏こしら(誘)へさせ給にも、用ひまいらせ候べからず。同地獄なるべし。日蓮と殿と共に地獄に入ならば、釈迦仏・法華経も地獄にこそをはしまさずらめ。暗に月の入がごとく、湯に水を入がごとく、氷に火をたくがごとく、日輪にやみ(暗)をなぐ(投)るが如くこそ候はんずれ。若すこしも此事をたがへさせ給ならば日蓮うらみさせ給な」(一三九四頁)

不惜身命の殉難の信心を誉め、頼基が地獄に堕ちるなら同じように地獄に行くと言う、強固な信心に結ばれた情念を窺えます。それ故に聖人の言葉に背かないように念を押します。疫病は頼基が言うように年を越して、京方まで流行することは、十羅刹女の計らいと思われるので世間の様子を見るように述べます。

また、世間が辛い等と現在の事態を口に出して慨嘆しないようにと叱咤されます。入道をするのは賢人のすることではなく、妻子が後に残って万一、夫の恥を話すようになるのは自分に責任があると述べます。爪の上の土よりも受けがたい人身、草の上の露よりも持ちがたい人身であるから、

百二十まで持て名をくたし(腐)て死せんよりは、生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ。中務三郎左衛門尉は主の御ためにも、仏法の御ために世間の心ね(根)もよ(吉)かりけりよかりけりと、鎌倉の人々の口にうたはれ給へ。穴賢穴賢。蔵の財よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり。此御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給べし」(一三九五頁)

主君の為にも仏法の為にも世間から心根の良い人と誉められ、財産や地位名誉よりも法華経の行者としての功徳、「心の財」を積むことを勧めます。世間の欲に左右されることなく法華経の信心を貫き通すことを教えます。

○崇峻天皇の短気な性格

 三三代の崇峻天皇長谷部若雀天皇)が短気の性格のため、不用意に語った一言で蘇我馬子に殺害されたことを示し、短気な発言をしないことを諭します。崇峻天皇は聖徳太子の伯父になります。太子から殺害される人相と言われ、それを脱れるために忍波羅蜜と言う忍耐の行をしていたが、ある日、猪の子を献上されます。『日本書記』(五九二年一〇月四日)に、猪を献上する者があり天皇は笄刀(短刀)を抜いてその猪の眼を突差し、「何の時にか此の猪の頸を断るが如く、朕が嫌しとおもふ所の人を断らむ」「いつかこの猪の首を斬るように、自分が憎いと思っている者を斬りたいものだ」)と言います。この発言が馬子の耳に入り刺客の東漢駒に殺害された事件です。王位の身分であっても「思ふ事をばたやす(容易)く申さぬぞ」と訓戒されたのです。

また、孔子の九思一言の自重の心、周公旦の三握三吐(吐哺握髪)の例を挙げて、言葉や行いを慎み他人を疎かに扱わないようにと指導されます。中国の周公旦は来客があれば、入浴中でも濡れた髪を握ったまま、食事中には口の中の食べ物を吐き出してでも面会し、勝れた人材を逃さないようにした故事を引きます。この行いこそが仏法であり法華経が教えることであるとして、不軽菩薩の仏性礼拝・但行礼拝の人を敬う姿勢を説き、釈尊はこのような信仰者の有るべき行動を教えたと訓戒されます。事細かな法華信者の行いを教えていたことが窺えます。

「たしかにきこしめせ。我ばし恨みさせ給な。仏法と申は是にて候ぞ。一代の肝心は法華経、法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり。不軽菩薩の人を敬しはいかなる事ぞ。教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」                               (一三九七頁)

□『石本日仲聖人御返事』(二六三)

○真言宗との宗論

九月二〇日付けで駿馬一匹を布施された厚志を謝した礼状です。宛名の石本(いわもと)日仲については、日興の文献にも名前が見えず不明です。石本は岩本の通音であることから、実相寺に関係する駿河の門弟と考えられます。一説に豊前公とも言います。(『御書辞典』五三頁)。本書の真蹟は前文がなく最末一紙の断簡が大石寺に所蔵されます。昭和四五年に刊行された『大石寺蔵日蓮大聖人御親筆聚』には載せられていません。

 内容は前文が欠失しているので詳細は分かりませんが、念仏者が仏に対して妄語の説を立てて世間を誑惑していることを述べ、これについては既に学問してきたことだが、早々に対策するように述べます。見参の時に駿馬の礼を述べるとし、追記に真言師との法論をする動きがあることを知らせます。本書から建治元年に強仁から申し込まれた宗論が立ち消えになっていたことが窺えます。逆に門下の方から、「又真言師等給奏問之由令風聞」(一三九八頁)と、真言の宗徒に宗論を申し込んでいたことが窺えます。 

○御本尊(四五)一〇月

 一〇月付け御本尊で四天王が梵名で書かれています。紙幅は縦九一.二a、横五〇.三a、三枚継ぎの御本尊です。京都本能寺に所蔵されています。一〇月一四日に佐原頼連と杉本宗明郎等深沢左衛門尉が建長寺の前で争います。頼連の下人が深沢を殺害します。□『真間釈迦仏供養逐状』(七二)『定遺』は文永七年としますが、中尾堯氏は建治三年九月二六日とします。(『日蓮聖人のご真蹟』六六頁)。