287.『兵衛志殿女房御返事』~       髙橋俊隆
□『兵衛志殿女房御返事』(二六四

○宗長の妻の身延登詣

一一月七日付けで宗長の妻から銅器の仏具二個を布施された礼状です。真蹟は伝わっていません。『三寶寺本』に収録されています。この頃、宗長の妻が身延に登詣されます。聖人は兄の宗仲と父との対立が再び起きることを心配されていた時期でした。一一月二〇日の『兵衛志殿御返事』(一四〇一頁)にて現実となります。本書には触れていませんが、この間における宗長のとるべき行動を相談されたと思います。

 

○牧牛女の粥供養

牛飼いであることから牧牛(もくご)と言われる女人が、粥を釈尊に供養しようとしましたが、容れる器がありませんでした。そのとき毘沙門天王等の四天王が、それぞれ鉢を一個ずつ用意します。女人はそれを重ねて一つにして粥を入れて供養します。釈尊はそれ迄の苦行による解脱への修行を止め、尼連禅河に入って身を浄めていました。苦行により肉体は疲弊していた時の供養だったのです。正気を回復した釈尊は菩提樹下の金剛宝坐上にあって無上菩提を得ることができました。この一二月八日を成道の日とします。この鉢には常に飯食が盛られていたと言います。後に馬鳴がその鉢を戦さに敗れた華氏王より迦弐志加王に献上して、報償金の三貫に当てたと言う故事を述べています。身延においても御器二個を釈尊の御宝前に使用するならば、牧牛女と同じ福を得るであろうと感謝されます。

 

□『大田殿女房御返事』(二六五)

○八寒地獄

一一月一八日付けで下総国葛飾郡八幡庄中山郷の大田乗明の妻(恒)から、柿色で青い裏地の絹の小袖と綿十両を供養されたことの礼状です。真蹟は伝わらず『平賀本』に収録されます。乗明の妻は玉沢妙法華寺の日宗・日通の相伝によりますと、下総の道野辺(道辺)右京の孫、聖人の外叔母に当たると言います。帥(そつ)公日高の母となり乗明三六歳の時の子供です。建治三年は日高二一歳になります。

一一月になると寒さが増すので体を暖める小袖と綿を送り届けました。綿入れの小袖もあり肌に密着するので防寒の為に着用されました。本書に熱地獄と寒地獄を説きます。特に寒地獄にふれ衣を供養する功徳を称えます。まず熱地獄へ堕ちる者について、

「この地獄へは、やきとり(焼盗)と、火をかけてかたきをせめ、物をねたみて胸をこがす女人の堕る地獄也」

(一三九九頁)

熱地獄の火は鉄の溶けた熱湯のようで、罪人はこの中に紙を投げ入れ木の削り屑を入れるように焼かれると表現します。この地獄には「焼盗」と言って家屋を焼いて物を盗む者、放火して敵を攻める者、また、物を嫉んで胸を焦がす(心を苦しめ悩み悶える)女性が堕ちる地獄と述べます。

 寒地獄は『涅槃経』に八種類の寒冰地獄(阿波波・阿咤咤・阿羅羅・阿婆婆・優鉢羅・波頭摩・拘物頭・芬陀利地獄)があり、この名称は寒さに責められてあげる悲鳴や、身体の色から付けたと述べます。諏訪湖が全面凍結し氷が轟音と共に裂け上がるような寒さや、越中の立山に吹きつける北風の寒冷。また、加賀の白山の雪中の山頂で鳥の羽が凍りつき、雉が豪雪に苦しめられる酷寒に例えます。夫を亡くした老女の着物の裾が冷え、雉が雪に責められてほろほろと鳴いている和歌をもって察するように述べます。この地獄へ堕ちる者について、

 

「いかなる人の此地獄にをつるぞと申せば、此世にて人の衣服をぬすみとり、父母師匠等のさむ(寒)げなるをみまいらせて、我はあつくあたゝかにして昼夜をすごす人々の堕る地獄也」(一四〇〇頁)

他人の衣服を盗み寒さで苦しめた者や、父母・師匠が寒苦に悩まされているのを見ても、自分だけは暖かにしている恩知らずの者が八寒地獄に堕ちると述べます。

商那和修や鮮白比丘尼は、過去に父母・主君・三宝の貴い人々に衣服を与えた功徳をもって、生まれながらに衣服に不自由しなかったこと、また、憍曇弥とい言う女性は金色の衣を釈尊に供養した善根により、法華経の教えを聞いて一切衆生喜見仏となったことを挙げます。これは、於恒が小袖を供養された善根がいかに大きな功徳となるのかを教え、今生には大難を除け後生には寒地獄から逃れることができると述べます。この功徳は自身のみならず、男女の子供にも衣に衣を重ね色に色を重ねるように徳が及ぶと述べます。

 

□『兵衛志殿御返事』(二六六)

 一一月二〇日付けで宗長より方方の品物が、人夫二人により運ばれてきた礼状です。真蹟一六紙は京都妙覚寺に所蔵されています。無年号のため建治元年・二年の説があります。本書に義政(武蔵入道)が三六歳の若さで出家し遁世した近況の事件にふれています。これは建治三年四月のことです。また、極楽寺殿(重時)一門が亡び越後守殿の一人だけになったとあります。重時は弘長元(一二六一)年一一月二三日に六四歳にて死去しています。長男為時は早世、次男長時は文永元年に死去、三男時茂も死去、五男の義政は出家遁世、残ったのが四男の業時で建治三年五月に越後守になりました。宗仲勘当の時期を勘案すると建治三年が妥当とされます。

父と兄弟との信仰問題は一度は解決し、兄宗仲の勘当が許されていました。ところが、良観の懐柔により父は重ねて宗仲を勘当したのです。宗長に退転のないようにと諭されます。

○宗仲の再度の勘当

宗長のために「第一の大事」(一四〇一頁)を教えます。末法になると賢人は姿を消し、人々の貪欲により主臣・親子・兄弟における争いごとが絶えまなく起きる。そのとき善神は日本国を捨去するようになる。三災七難が興起して世の中は衰退して結句は無間地獄となる道理を述べます。そして、親の悪事を戒めると孝養となることは、『兄弟抄』等、先の書簡に記したので常に自身を諌めるように述べます。宗仲が再び勘当されることは予測しており、それよりも宗長の心変わりが不安であるから、宗長の妻が身延に来た時に堅固な信心を持つように励ました事を述べます。宗長が父親に反抗できないこと、家督を継ぐ欲心を心配されていたのです。

 

ただしこのたびゑもん(右衛門)の志どのかさねて親のかんだう(勘当)あり。とのの御前にこれにて申せしがごとく、一定かんだうあるべし。ひやうへ(兵衛)の志殿をぼつかなし。ごぜん(御前)かまへて御心へあるべしと申て候しなり。今度はとのは一定をち給ぬとをぼうるなり。をち給はんをいかにと申事はゆめゆめ候はず。但地獄にて日蓮うらみ給事なかれ。しり候まじきなり。千年のかるかや(苅茅)も一時にはひ(灰)となる。百年の功も一言にやぶれ候は法のことわりなり」(一四〇二頁)

 

 宗長が退転するのは本人の責任として、法華経の教えによれば地獄に堕ちるであろう、そのとき聖人を怨んではならない、救けることはないと慈悲心から突き放します。千年をかけて蓄えた苅茅も灰となる時は一瞬であり、百年をかけて積みあげた功績も一言で破棄されるのが道理であると諭します。父の左衛門大夫(康光)は法華経の敵となるが、兄の宗仲は信仰を貫いて法華経の行者となると述べます。

目先に捕らわれて父に味方したら良観は喜ぶとして、孝養についてを平重盛の故事を挙げます。宗盛は父の清盛の悪事に随って篠原で頸を斬られ、長兄の重盛は随わないで先に死ぬが、どちらが孝養の人かを問います。宗長が法華経の敵である親に従い、行者である兄を捨てることは親の孝養となるのかを戒めます。そして、

 

「せんずるところ、ひとすぢにをもひ切て、兄と同く仏道をなり(成)給へ。親父は妙荘厳王のごとし、兄弟は浄蔵・浄眼なるべし。昔と今はかわるとも、法華経のことわりたがうべからず。当時も武蔵入道そこばくの所領所従等をすてて遁世あり。ましてわどのばらがわづかの事をへつらひて、心うすくて悪道に堕て日蓮うらみさせ給な。かへすがへす今度とのは堕べしとをぼうるなり。此程心ざしありつるが、ひきかへて悪道に堕給はん事がふびんなれば申なり。百に一、千に一も日蓮が義につかんとをぼさば、親に向ていゐ切給。親なればいかにも順まいらせ候べきが、法華経の御かたきになり給へば、つきまいらせては不孝の身となりぬべく候へば、すてまいらせて兄につき候なり。兄にすてられ候わば兄と一同とをぼすべしと申切給へ。すこしもをそるゝ心なかれ」

(一四〇三頁)

 

一筋に覚悟を決めて兄と同じように仏道を第一に考えるように勧めます。妙荘厳王品に説かれた父妙荘厳王に子供の浄蔵・浄眼が父王を信仰に導いたように、昔と今と時は違っても法華経の道理は同じであると述べます。また、義政が四月に遁世したように僅かな所領に執着しないで、父親を恐れずに兄と同心して法華経の信心を貫くように重ね諫めます。「三障四魔」により退転し成仏できない事を不安に思っていたところ、使いの者を特別に遣したことは、信仰心が残っている証拠なので書簡を認めていると伝えます。「もしやと申すなり」(一四〇四頁)と述べているように、供養品を送ってきた厚意に聖人に帰依する道心があると見たのです。

不軽品の「億億万劫至不可議 時乃得聞是法華経。億億万劫至不可議 諸仏世尊時説是経。是故行者於仏滅後 聞如是経勿生疑惑」の文を引き、法華経を聞法する不可思議な縁を疑わないように、この経文は宝塔湧現の多寶仏と釈尊の御前にて説かれた「殊に重きが中の重き」(一四〇四頁)の教えであると述べます。また、『涅槃経』「尽地草木為四寸籌以数父母亦不能尽」の文を引き、々世々に父母に値うのは容易だが、法華経の教えを受けることは最も至難であると述べ、釈尊が悉達太子の時に親に背いて出家したが、悟りを開いて両親を成仏の道に導いたことを挙げ、親への孝養とは何かを考えさせたのです。

再度の勘当問題は良観や念仏者が、池上家の家庭内の問題を姦策し、兄弟を仲違いさせるために父親を利用して仕組んだ事件の背後にふれます。

 

「これはとによせかくによせてわどのばらを持斉念仏者等がつくりをとさんために、をやをすゝめをとすなり。両火房は百万反の念仏をすゝめて人々の内をせきて、法華経のたねをたゝんとはかるときくなり。極楽寺殿はいみじかりし人ぞかし。念仏者等にたぼらかされて日蓮をあだませ給しかば、我身といゐ其一門皆ほろびさせ給。ただいまはへちご(越後)の守殿一人計なり。両火房を御信用ある人はいみじきと御らむあるか。なごへの一門の善光寺・長楽寺・大仏殿立させ給て其一門のならせ給事をみよ。又守殿は日本国の主にてをはするが、一閻浮提のごとくなるかたきをへさせ給へり」(一四〇五頁)

 

 両火房とは良観のことです。建治元年の『王舎城事』(九一五頁)に、三月二三日に鎌倉に火災があり極楽寺の堂舎が小規模ながらも消失したことに因みます。良観は百万遍の念仏称名を勧めていました。その良観を信じた者が没落した事実を示して法華不信による堕獄を述べます。即ち極楽寺義時の三男である重時の一門が滅びたこと。また、名越の一門とは義時の次男朝時の一門のことで、名越氏は念仏を信じて善寺・長楽寺・大仏殿を建てたが、朝時の三人の子供は早死にし光時は隠居、時章は文永九年に誤って誅殺され、教時も同じく誅殺されたこと。これらを念仏信仰の現罰とします。更に時宗は執権であるが良観や念仏者を信じたため、世界中を敵とし蒙古から侵逼されていると述べます。

重ねて宗長が兄を捨てて家督を得ても子孫は繁栄せず、蒙古が攻めてきたら予測できないと述べます。宗長の動向に不安があり書簡が無駄になると思えば筆が進まないと心情を述べながらも、宗長やその妻を心配されます。この勘当は一二月中には解けていたようです。建治四年一月二五日付け『四条金吾殿御書』(二七三)に、えもんのたいう(右衛門大夫)のをや(親)に立あひて、上の御一言にてかへりてゆり(許)たると、殿のすねん(数年)が間のにくまれ、去年のふゆ(冬)はかうとききしに」と、主君の一言により康光は改心したようです。

 

○御本尊(四六)一一月

 一一月に染筆された御本尊で通称「切鉑御本尊」と言い、京都の本国寺に所蔵されています。紙幅は縦九二.四㌢、横四五.八㌢、三枚継ぎの御本尊です。善徳仏の勧請は文永一一年六月の京都妙満寺の曼荼羅(『御本尊集』一一)に始まり、この御本尊までに限られています。弘安年間の曼荼羅には善徳仏・十方分身仏は見られなくなり、曼荼羅においても佐前・佐後の教学のように、弘安年間の曼荼羅を随自意として、聖人の本意として尊重する見方があります。