288.『曽谷入道殿御返事』~『大白牛車御消息』 髙橋俊隆 |
□『曽谷入道殿御返事』(二六七)
一一月二八日付けで曽谷教信が書写した、細字の法華一部経の開眼供養を頼まれます。布施として小袖二重ね、金銭一〇貫、扇百本を送られたことへの礼状です。『本満寺本』に収録されています。 教信の出自については千葉氏・大野氏説があります。日順の『御書略註』に清原皇后宮大進三位清原真人行清の裔の大野政清の子とあります。政清は聖人の母堂梅菊の兄となり、聖人と教信は従兄弟となります。同じく代々、故実の博士であること。問注所の役人で大進家と称したこと。下総八幡庄大野郷を所領として大野氏を名乗ったとあります。曽谷氏一族から信徒や弟子が輩出し教団を支えたことからしますと、大野氏との縁が強く思われます。建治元年の『法蓮抄』には教信の父は念仏の信者であり、父が死去してからは第十三年(弘長三年没)の忌辰に至るまで、釈尊の御宝前にて自我偈一巻を読誦し供養していたとあります。 ○経題の「如是」
教信が法華経一部を一巻に仕立てたことに因み、法華経の入文の最初である「如是我聞」の「如是」について解説されます。続いて経典の肝心は題目に収まり、経典の中でも法華経は特出して勝れているので、妙法蓮華経の題目を末法に弘めたことを述べます。まず、天台の『文句』と妙楽の『文句記』の「文句一云如是者拳所聞之法体。記一云若非超八之如是安為此経之所聞云云」(一四〇七頁)を引き、「如是」とは「所聞の法体」であることを示されます。 そして、華厳経・般若経・大日経等の経題に続いて「如是」とあるのは、経題の法体である理を指していると述べます。つまり、その経の肝心・法門は題目に表されます。阿含・般若・華厳・方等部の各々の理について、妙楽の『文句記』の文は経題の相違と勝劣を説いていると述べます。 「阿含経の題目は一経の所詮無常の理をおさめたり。外道の経の題目のあう(阿漚)の二字にすぐれたる事百千万倍也。九十五種の外道、阿含経の題目を聞てみな邪執を倒し、無常の正路におもむきぬ。般若経の題目を聞ては体空・但中・不但中の法門をさとり、華厳経の題目を聞人は但中・不但中のさとりあり。大日経・方等般若経の題目を聞人は或析空 或体空 或但空 或不但空 或但中不但中の理をばさとれども、いまだ十界互具・百界千如・三千世間の妙覚の功徳をばきかず。その詮を説ざれば法華経より外は理即の凡夫也。彼経経の仏菩薩はいまだ法華経の名字即に及ばず。何況題目をも唱へざれば観行即にいたるべしや」(一四〇七頁) 阿含経は無常の理を説きますが仏教の中では低い教えです。しかし、外道の阿漚の教えよりは勝れているとします。阿漚とは無と有のことです。外道の経は阿漚の二字を置いて始まります。意味は万法は「有無の二道」を出ないことです。これに対し仏典は始めに「如是」と置くのは、「如ならず是ならず」として外道の「有無の二道」の見解を否定するためです。(『法華文句』巻一)。仏教の理は無常・折空(蔵教)・但空・体空(通教)・不但空・但中(別教)・不但中(円教)の順で深まることを述べます。しかし、これら諸経は法華経の一念三千(界互具・百界千如・三千世間)を説いていないので、法華経に比べれば六即の位階でいえば低いとします。 「妙楽大師記云若非超八之如是安為此経之所聞云云。彼彼の諸経の題目は八教の内也、網目の如。此経の題目は八教の網目に超て大綱と申物也。今妙法蓮華経と申す人人はその心をしらざれども、法華経の心をうるのみならず、一代の大綱を覚り給へり」(一四〇八頁) そして、妙楽の『文句記』を引き、法華経は八教を超越した最高位の「如是」の法体であることを述べ、諸経は網目であり法華経は大綱であると解釈します。釈尊の四二年の教えを、天台は化法の四教と化儀の四教の八教を立てて教相判釈をしました。法華経はこれらの八教を超えて勝れていること「超八」と言います。つまり、教信が書写した細字法華経の功徳は、爾前経よりも勝れていると述べたのです。また、法華経の経題である妙法蓮華経を唱えることは、この釈尊一代の大綱を悟ることと述べます。幼少の太子で国政のことを知らなくても、臣下が従うようなものであり、赤子が母の乳の栄養を知らなくても成長するようなことであると例えます。諸宗の学者はこの理を知らないで、法華経の王子を迫害して無間地獄に堕ちるのが現状と述べます。法華持経者の中にも題目の理を詳しく知らない者は、諸宗の智者から威嚇されても退転してはならないと諫めます。その例えに始皇帝に仕えた趙高の故事を引きます。 「法華経の行者の、心もしらず題目計を唱るが、諸宗の智者におどされて退心をおこすは、こがい(胡亥)と申せし太子が趙高におどされ、ころされしが如し。(中略)日蓮をいやしみて南無妙法蓮華経と唱させ給はぬは、小児が乳をうたがふてなめず、病人が医師を疑て薬を服せざるが如し」(一四〇八頁) 趙高は始皇帝の死後、長子の扶蘇を殺して末子の胡亥を二世皇帝とし権力を把握します。その胡亥をも殺して自ら王になろうとします。胡亥のように脅し殺されてしまったように、諸宗の者の言いなりになって退転しないように戒めたのです。 設問に釈尊の滅後の付法蔵の賢人や天台・妙楽・聖徳太子・伝教等の高位の学匠でさえも、南無妙法蓮華経と唱題を説かなかったのに、法華経の肝心は南無妙法蓮華経であると公言しても誰が信じるかと反論します。これに答えて、烏は卑しい鳥であるが鷲や熊鷹の知らない吉凶を知り、蛇は七日の内の洪水を知ることから、竜樹・天台が知らない法門であっても経文に説かれているならば、それを信ずるべきであり何も疑うことはないと答えます。聖人を卑下して南無妙法蓮華経と唱えないことは、小児が母の乳を疑って飲まないことであり、病人が医者の薬を疑って服さないのと同じと例えます。 そして、仏教の流通には時と機根があることを説き、竜樹・天親は時機未熟のため弘通しなかったが、末法に到来したら題目を広める好期であると説きます。最後に章安の釈を引いて妙法蓮華経の五字は玄意であり、法華一経の心であるとして唱題の意義を述べます。 「されば題目をはなれて法華経の心を尋る者は、猨をはなれて肝をたづねしはかなき亀也。山林をすてて菓を大海の辺にもとめし・猴也。はかなし、はかなし」(一四一〇頁) □『庵室修復書』(二六八)
冬頃に時光より芋二駄の供養があり、その礼状で題号が示すように身延の庵室(あじち・あんじち)が朽ちている状況を知らせます。真蹟は四紙断簡が身延に曾存(『日乾目録』)されていました。本満寺の写本が伝えられており、追伸として、「これにつけても、こうえのどのの事こそ、をもひでられ候へ」の文は、『九郎太郎殿御返事』(弘安元年一一月一日。一六〇二頁)の文と対応しています。南条兵衛七郎の子息と言われる九郎太郎へ宛てた書とも言います。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇一四頁)。 身延入山の文永一一年六月一七日に建てた庵室が、徐々に柱は朽ち壁も剥がれ落ちて来ていたが、特段の修理をしなかったため、四年を経た今年は一二本の柱が四方に傾き壁も落ちてしまったとあります。 「やうやく四年がほど、はしら(柱)くち、かきかべ(牆壁)をち候へども、なを(直)す事なくて、よる(夜)ひ(火)をとぼさねども、月のひかりにて聖教をよみまいらせ、われと御経をまき(巻)まいらせ候はねども、風をのづからふきかへ(吹返)しまいらせ候しが」(一四一〇頁) と、これ迄は夜は火を灯さなくても月の光で経典を読むことができ、自分で経本を巻かなくとも吹き込む風がもとのように巻き返してくれたと述べます。庵室の内部には月光が入り外風も吹き入っていた状態でした。庵室の環境は川に近い為もあり湿気が強く、太陽の光も入らない所でした。そのため積雪により倒壊したと思われます。居住できない状態になったので弟子たちに修理作業をさせていました。 「今年は十二のはしら(柱)四方にかふべ(頭)をな(投)げ、四方のかべは一そ(所)にたう(倒)れぬ。うだい(有待)たもちがたければ、月はす(住)め、雨はとどまれと、はげみ候つるほどに、人ぶ(夫)なくしてがくしやうども(学生共)をせめ、食なくしてゆき(雪)をもちて命をたすけて候ところに、さき(前)にうへのどの(上野殿)よりいも(芋)二駄これ一だはたま(珠)にもすぎ」(一四一一頁) 肉体を持つ凡身なので衣食住に依存しなければなりません。月の明かりが雲で隠れないように、雨も降らないで欲しいと祈りながら弟子に工事をさせていたのです。しかも、雪を食べるほど食料が乏しくなり困窮していた時に、前に時光より芋二駄を供養してもらい、今回は一駄を供養してもらったことは、珠玉にも過ぎて有り難かったのです。冬の季節ですから極寒に耐えていたのです。本書から庵室が三間四面の壁塗りであったことが分かります。かきかべ(牆壁)とは墻壁(しょうへき)とも言い垣根と壁、囲いのことです。また、居住していた弟子を学生(がくしょう)と呼称しているのは珍しいと言います。朝廷は宣旨を下して秋以来の疫病の除災のため、法勝寺にて『仁王経』の転読をさせています。 □『大白牛車書』(二六九)
一二月一七日付けですが著作年時に建治三年と弘安元年説(『境妙庵目録』)があります。宛先は時光・九郎太郎の説があります。近世における基本遺文の一つである『録外御書』の目録には、『庵室修復書』と合本になっていました。(『昭和新修日蓮聖人遺文全集』別巻二八八頁)。 譬喩品に「乗此宝乗直至道場」(『開結』一六四頁)と説かれている文を引き、建長五年四月二八日に立教開宗し、始めて「宝乗」である「大白牛車の一乗法華の相伝を」(一四一一頁)宣顕した日であると述べます。ここに、「相伝」と述べたのは、釈尊より法華経の弘通を附属された別附属を言います。大白牛車とは一仏乗を説く法華経のことです。そして、牛の両角を本迹二門の二乗作仏・久遠実成に例えます。蜂のように争起した真言・浄土・禅宗の者の曲説を治すため牛の角を矯正したなら、牛を殺すように見えるかも知れないが、牛の本体である謗法を根治することであると述べます。 「抑此車と申は本迹二門の輪を妙法蓮華経の牛にかけ、三界の火宅を生死生死と、ぐるりぐるりとまは(廻)り候ところの車也。ただ信心のくさび(轄)に志のあぶら(膏)をささせ給て、霊山浄土へまいり給べし。又心王は牛の如し、生死は両の輪の如し。伝教大師云生死二法一心妙用 有無二道本覚真徳云云。天台云十如只是乃至今境是体云云。此文釈能能案じ給べし」(一四一二頁) 生死の火宅を輪廻する凡夫は、大白牛車である法華経を信じれば、安心して霊山浄土に参ることができると励まいます。伝教・天台の釈を引いて、牛の本体を我等の心とすれば、生死はその心に具わったものであり、十如は法華経の実相であり一心の観心に得脱があると説きます。 □『法華初心成仏鈔』(二七〇)
古来より真偽が問題となり日持の著作とする説があります。著作の年時は建治三年の他に弘安四年説があります。真偽が問題となるのは無知の者の「即身成仏」についての見解です。 「問云、無智の人も法華経を信じたらば即身成仏すべき歟。又何の浄土に往生すべきぞや。答云、法華経を持においては、深く法華経の心を知り、止観の坐禅をし一念三千・十境・十乗の観法をこらさん人は、実に即身成仏し解を開く事も有べし。其外に法華経の心をもしらず、無智にしてひら(但)信心の人は、浄土に必生べしと見えたり。されば生十方仏前と説、或は即往安楽世界と説きき。是法華経を信ずる者の往生すと云明文也」 (一四二六頁) 成仏について、智者は止観の座禅をし一念三千の観法により即身成仏するとします。智者の理観に対し、無智の凡夫の但信口唱は浄土に往生すると、「生十方仏前」と「即往安楽世界」の文を引いて説明します。つまり、智者は成仏であるが愚者は往生であると区別することに疑義があります。(小松邦彰稿「日蓮遺文の系年と真偽の考証」『日蓮の思想とその展開』所収一〇七頁)。これは、『観心本尊抄』の受持成仏・霊山往詣を説く佐渡在中・佐渡後の教学と相違しており、対機の説示としても迹門付随の教学を述べることはあり得ないと言えましょう。 ○御本尊(『御本尊鑑』第二〇)
「泥筆青蓮華御本尊」と称されるように紺紙に金泥で書かれ、首題の下に青蓮華座があり金筋の模様があったと記載しています。紙幅は縦八四.三㌢、横五六.四㌢、年号は書かれていません。影山尭雄氏は弘安式の書式と判断されますが、花押が判然としないため建治末年に留めています。(『御本尊鑑』四〇頁) |
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