289.貫名重忠とぬきなの御局と日蓮聖人 髙橋俊隆 |
日蓮聖人の親族と教団の形成について
髙橋俊隆 日蓮聖人はどのような父母に養育されたのか。出家の動機や立教開宗を決意した三大誓願にみるように、聖人の成仏思想は国家・国土に向けられている。そして、不惜身命の「法華経の行者」としての使命を全うされた。日蓮聖人の父親は遠江国の貫名重忠という武士、母は故実の博士という大野吉清の娘とされるが、ここに父母の影響はなかったのか。日蓮聖人の初期教団の要となった信者たちは、貫名氏と大野氏の関係者が多いとすれば、親族を教化された意義が窺えるのである。その一人と思われるぬきなの御局の果たした役割とは何かを考察する。 1 貫名重忠の系譜 「井桁に橘」の紋は聖人の家紋とされ日蓮宗寺院の紋標となっている。この家紋は井伊家に淵源していることから、日蓮聖人(以下聖人と略称)との関連を知る必要が生じる。基本とされるのは日親の『長禄寛正記』(一四六〇年)である。 井伊氏は『寛政重修諸家譜』に「藤原氏良門流」とあり、北家良門の三男利世の系図が収録されている。利世五代の孫備中守共資が遠江国敷智郡村櫛に住み、その子共保が井伊谷に移り住んで井伊氏を称したとある。さらに、共保の出生に関する奇瑞譚が記されている。共資に男子がなかったので、寛弘六(一〇〇九)年に引佐町の産神、井伊谷八幡宮に詣でて子供に恵まれることを祈願したところ、翌年元旦の社参のとき御手洗の井戸脇に捨て子を見つけた。七歳までは境内の八幡宮地蔵寺(現龍潭寺)の住職が育て、成長したこの子を養子とし娘婿となったのが共保とある。のち共保は伊井谷に移りこの奇瑞に因んで井伊氏と名乗り家紋を井桁とした。この井戸のそばに橘の木があったことから、井桁の中に橘を入れ井桁に橘の紋章が生まれたという。即ち井桁に橘の紋の由来である。 この井伊家から貫名郷に居住した貫名氏へ続くのである。この奇瑞に必ず付与されるのは橘の存在である。『日本紋章学』(河田頼輔著五二〇頁)に、「共保が井より出生する故、井桁を以て旗幕の紋となす。共保出生のとき井のかたわらに橘一顆あり、此のゆえに神主橘をもって共保が産衣の紋につけたり。これにより、今にいたるまで橘を衣類の紋とすといえり」、とある。あえて産着に橘紋を縫い付けて養育されたことがわかる。現に龍潭寺で勧請した八幡神の紙幅神像には、「井伊八幡大菩薩真像、井伊元祖備中守共保公者、寛弘七庚戌正月元朝八幡宮御手洗井中誕生。因以井伊為氏以橘家紋者也矣」と縁起が書かれている。井伊の由来はあるが橘の由来については触れていない。尊容は甲冑を着用し岩上に座し弓箭を帯している。後方左に井伊家の井の筆文字の家紋の旗と、正八幡大菩薩の旗が飾られている。清和源氏・桓武平氏などが崇敬した弓矢八幡の武神の尊容である。神仏習合されて正八幡大菩薩と揮毫されている。その鎧の中央に丸に橘の家紋が施されている。これは「井桁を以て旗幕の紋」「橘を衣類の紋」の記述に符号する。この図顕を民族学的に見ると、井桁は井伊氏を表すが橘の紋は共保が橘氏の出自であると解釈できるのではないか。そして、当初は井伊紋と橘紋とを別々に表記していたが、江戸時代になって井桁に橘の家紋と合成されたと言えるのである。鈴木智好氏は重忠が安房に流罪されたときの唐櫃に井桁に橘の紋が付いていた。日朗が土牢で橘の果実を抱いて泣いたのは、その紋所を知っていたからであると述べている。(「聖人御系図の研究」『棲神』第二二号二一〇頁)。 井伊氏は鎌倉から南北朝時代井伊介と呼ばれていた。介とは国司の次官であり、国衙の在庁官人の有力者が任命されることが多い。遠江国における有力在地領主だったことが分かる。井伊氏は惣領家として、赤佐、奥山、井平、石岡、田沢、上野、中野など、与えられた土地名を名乗り一三家以上の庶子家を分出し、浜名湖の東方一帯を勢力範囲としていた。共保から五世の盛直が、山名郡貫名郷の所領を政直に分割して始めて貫名氏を名乗る。この政直から三世が重忠となり 『延喜式』によると遠江は上国にあたる。遠江国の荘園数は五〇余り、国衙領は南北朝期『国衙領注文』によると三三郷を数える。御厨・御園は二〇に達しこの地域の特徴となっている。国府は見付付近と推定され、山名郡は国衙の支配下に属する公領であった。つまり、重忠は戸籍・税務・訴訟・警察などの実務を執行した国衙の在庁官人で、文筆官僚の系譜を引く武士であることを確認できるのである。 2 重忠の安房流罪と比企能員の乱 重忠が安房に流罪された原因を検討したい。聖人の遺文には父重忠が流罪されたという記述はない。また、『袋井市史』(通史編三五八頁)にも「重忠が安房国に流される契機となったという伊勢平氏の乱とは、元久元年二月におこったものを指すと思われるが、この時、重忠が加担したことは他の史料によって確認することができない」とある。しかし、『長禄寛正記』によると日親は細川勝元に、貫名重実の子である重忠の時に「伊勢平氏に与力」して安房片海の市河に配流されたと言上していることから(『日蓮教団全史』二四頁)、概ね平氏与力が定説となっている。 ここで注目したいのは『安房志』(斎藤夏之助著三九三頁)に載る北面の武士藤原実信の記事である。元久元(一二〇四)年三月に平盛時が反逆し、京都守護の平賀朝雅がわずか数日で一揆を平定した三日平氏の乱が起きた。この前年に朝雅と確執があった実信は、同じく北条時政の暴政を容認できなかった重忠と共に伊勢平氏に左袒したことである。実信は重忠の弟の小林実信である。そして、この罪により実信は藻原、重忠は小湊へ流罪となる。『本山藻原寺略縁起』(一〇頁)には実信と重忠は土御門帝に仕えた衛兵であり、将軍実朝のとき朝雅と敵対し伊勢平氏に与党したが、挙兵の前に発覚し重忠は小湊へ、実信は藻原の斉藤兼綱の預人となった記事と同じである。実信は藻原の近く長柄郡小林に住み小林実信と名乗る。のちに赦免されて京都に帰るが、子の実長は男金に移り興津の佐久間重貞の妹を娶る。この男金実長の子は六老僧の日向で聖人の甥になるのである。 まず貫名氏の流罪の代について、重実(『元祖化導記』)、重忠(その他の所伝)の二説がある。流罪の時期についても建仁二(一二〇二)年五月七日(「妙日寺縁起」)。建仁三(一二〇三)年五月七日(『星野家譜』『安房志』)。元久元(一二〇四)年二月(『本化別頭仏祖統紀』『本山藻原寺略縁起』『袋井市史』。鈴木智好氏「聖人御系図の研究」『棲神』第二一号)の三説がある。ここでは重忠説に従う。また、元久元年に重忠は三三歳で配流、このとき梅菊は二〇歳。聖人誕生のとき重忠は五一歳、梅菊は三八歳。重忠は承安二(一一七二)年生まれ八七歳没、梅菊は建久四(一一九四)年生まれ八三歳没とする。『延喜式』によると安房は国家の境界部分にあたる。京都から遠いほど穢悪の追放地となる。鎌倉幕府も配流の地としていたのである。(『安房白浜』中世前期編一〇四頁)。また、頼朝が安房をめざしたのは源氏の勢力が強かったからであり、地頭に東条氏が構えていたことからして、重忠は平氏の敵地に追放されたことになる。 頼朝在世中の幕府は将軍による独裁政治が行われた。ところが、正治元(一一九九)年十二月二十七日に稲毛重盛の橋供養に参列し、帰り路に落馬し翌年一月一三日、五三歳にて死去した。将軍職は頼家が継ぐが実権は政子と頼家により分掌されていた。頼家から実朝への将軍職委譲にも政子の関与があった。次第に幕府における時政・義時ら北条氏の地位が確固たるものになる。それは反北条氏である比企氏や和田氏を排斥したからである。伊勢平氏の乱は頼朝の死後に起きた幕府への抵抗なのである。 遠江国は後白河天皇譲位の保元三(一一五八)年八月一一日、平重盛が遠江守に任じられ、これ以後、平氏が遠江守・権守となり勢力を拡充させた。頼朝が富士川の合戦で勝利をおさめた直後の治承四(一一八〇)年一〇月二〇日、合戦に功を立てた安田義定が遠江国の守護に補任された。守護の設置の最初となる。遠江は平氏勢力と相接する地域であったので、平氏の与党をおさえるのが目的であった。正治二(一二〇〇)年正月二〇日、頼朝の腹心であった梶原景時滅亡により、時政が遠江国守に任じられ、守護も北条氏一族の大仏氏が継承していくことになる。 頼家は建仁三(一二〇三)年六月二三日、謀反の疑いで捕らえていた頼朝の弟阿野全成を誅殺した。全成の妻は時政の娘で、千幡(実朝)の乳母になったことから実朝擁立を謀る時政と対立していたのである。八月二七日に頼家は病のため惣守護職と関東二八国の地頭職を一幡に、関西三八国の地頭職を実朝に譲った。そして、間もない九月二日に比企能員の乱が起きる。能員は幕府の有力御家人で安房出身と言われる。藤原秀郷の流れを汲む比企氏の一族で、頼朝の乳母である比企尼の甥で後に養子となっていた。この比企尼の縁から二代将軍頼家の乳母父となり、娘の若狭局が頼家の側室となっていた。嫡子一幡は能員の孫となる。外戚として幕府内における権勢を強めたのである。これを恐れた時政・政子は能員を謀殺し一幡と比企一族を滅ぼしたのである。比企谷の地は一族滅亡の地と言われるのはこのためである。(『鎌倉市史』社寺編四五七頁)。これにより頼家は時政暗殺を企てたが失敗し、九月七日に実朝が征夷大将軍に補任され、九月二九日に頼家を修善寺に幽閉した。実朝は一二歳にて三代将軍となった。実権は時政が握り一〇月三日に時政の娘婿平賀朝雅を京都守護として派遣する。朝雅は西国に領地を持つ武蔵国の御家人を率いて上洛した。 そして、重忠流罪の原因とされる伊勢・伊賀平氏の乱が起きる。すなわち、元久二(一二〇四)年三月九日に伊勢平氏の残党が蜂起して、伊勢国の守護である山内経俊の舘を襲撃した。翌年二~三月になると反乱の規模は伊賀・伊勢地方の平氏一族全体に及んだ。もともと伊勢・伊賀地域は平家の本拠地であり、治承・寿永の乱(一一八〇~八五年)で滅亡したとはいえ勢力が残存していたのである。幕府は鎮圧をすべく朝雅に討伐を命じる。四月一〇日から一二日の短期間に制圧されてしまう。これを「三日平氏の乱」と称した。幕府では五月一〇日に論功行賞が行われ、山内経俊は守護職を解任され、朝雅が兼務し謀反人の所領も朝雅に与えられた。同時に謀反人の処罰がなされ、その加担者への処断は苛烈を極めた。しかし、『北条九代記』に見る重忠・実信の配流は、反乱者としてではなく、幕府による反対勢力への弾圧政策の処断であったと記す。所伝を総合すれば五月七日に流罪が決定されたのである。七月一八日に修善寺に幽閉されていた頼家は暗殺される。重忠が平氏与力に踏み切った契機は、京都守護の朝雅との確執。時政の暴政に対する確執。頼家と阿野全成の確執が挙げられてきた。さらに、比企能員の乱を加えたい。 聖人の信者である能本(比企大学三郎能本。法名は日学妙本)は『吾妻鏡』(九月三日状)に能員の妻妾並びに二歳の男子等は、好有るに依って和田義盛に召し預け安房に配流した(取意)とあるように、義盛の安房の所領和田郷(南房総市和田町)に謫居して存命していた。(『天津小湊の歴史』上巻一七一頁)。後に伯父の伯耆法印に引取られ京都の東寺に身を隠し、儒者として順徳天皇の侍者に加わる。佐渡流罪のときは順徳天皇に随従していたが、能本の姉讃岐局は将軍頼家に嫁し、その子の竹の御所が将軍頼経の夫人となったことにより、嘉禄年中(一二二五~二六年)に赦免されて鎌倉に帰る。そして、儒官として幕府に任用されることになる。佐渡在島中に聖人の信者である阿仏房・千日尼との交流があったと思われる。重忠と能員の親密な関係については、もう一人の人物が鍵となる。「ぬきなの御局」と呼ばれる女性である。 3 ぬきなの御局 「ぬきなの御局」の存在は中山法華経寺に所蔵される要文紙背文書(裏文書)『破禅宗』に見られるだけである。「法橋長専・ぬきなの御局連署陳状案」と呼ばれる。昭和三六年一一月三日に聖教殿開扉の折に中尾堯氏が発見し、昭和四三年一〇月一五日に『中山法華経寺史料』(一四九頁)に発表された。この陳状は法橋長専とぬきなの御局の連署で、前半部を欠いているが宝治二(一二四八)年六月二日付にて、大夫明仏が法橋長専とぬきなの御局の両人に訴訟を起こし、それに対しぬきなの局らが自らの正当性を陳述したものである。このとき聖人は比叡山に遊学中の二七歳である。 陳状の内容は公事銭の負担が重く借財が増加し貸し主が大勢できて返済を迫ることを嘆き、その非は大夫明仏の非道にあると陳述したものである。ぬきなの御局と連署している法橋長専とは千葉氏の被官である。両人について『袋井市史』(通史編三六一頁)によると、「法橋長専は下総守護千葉頼胤に従う事務管領で、鎌倉にいた人物と考えられている。ぬきなの局はおそらく貫名氏一族で、その名、および長専と連署していることなどから判断して、鎌倉にあって将軍およびその室に仕える女房で、下総に所領を持っていたと推測される。後世、日蓮を貫名氏の出身とする伝承がうまれたことと何らかの関係をもっているように思われるが、他に関連史料ももなく、今のところ、両者の間をつなぐ糸は見出せない」とある。また、石井進氏は、「現在の袋井氏内に貫名の地がある。遠江国の公領の一つで、中世には貫名郷とよばれ、当地出身の豪族貫名氏は鎌倉幕府の御家人の一人でもあった。貫名の御局とは、おそらく遠江貫名氏にゆかりの女性で、誰か有力者に仕える女房だったのだろう。「御局」と敬語を用いている点に注目すれば、この陳状の提出先の千葉氏に仕える女房だったのではなかろうか。法橋長専と彼女とが、かりに同族だったとすれば、長専の出自も貫名氏の関係ということになろうか」、と一つの仮説として述べている。(「鎌倉時代中期の千葉氏―法橋長専の周辺―」『千葉県史研究』創刊号所収一一頁)。 ぬきなの御局について確実なことは、①ぬきなの御局は貫名氏の一族であること。②ぬきなの御局と長専は深い繋がりがあること。③長専と共有した土地が下総にあること。そして、推測の域にあるのは、④鎌倉に住み将軍およびその室に仕えた女房であったことである。 ①の確認として、「ぬきな」と名乗ることは確実に遠江国の貫名氏に系譜する人物と言える。武士は居住している土地の名を取ってつけた在名が多いからである。貫名を名乗るのは家督を継ぐ者の妻となる。聖人の母親と祖母、重忠の前妻に限られる。母梅菊は重忠と共に家族を護り小湊に居住していたと思われる。鎌倉時代には三妻まで持つことが許されていたので貫名郷での最初の妻とも言えるが、女性は一五歳以前に結婚していた鎌倉時代であること、後述する文学的素養と御局と敬称されることから、高齢となっていた重実の妻で聖人の祖母と判断する。②については③の両人が共有する土地があり、長専が関与していることから親族ともいえる。長専が「越前法橋御房」と呼ばれる人物であることから、ぬきなの御局が長専の親族とも言えるのではないか。 ④について、ぬきなの御局の教養について触れ聖人との共通点を求めて見たい。まず、「法橋長専・ぬきなの御局連署陳状案」の筆跡について、中尾堯氏は署名から見てぬきなの御局のものとする。即ち、「この陳状の草案が守護所の書記をつとめる富木常忍の、おそらくその執務の場所に近いところで、「ぬきなの御局」が執筆した。できあがった草稿を、法橋長専に示して添削したうえで、別に正式な本書を作成して法橋長専・ぬきなの御局の順に、それぞれ署名し花押を据えた。陳状の内容と、執筆した場所が守護所ということを考えあわせると、千葉介頼胤の家臣である富木常忍と法橋長専、訴訟の当時者である法橋長専・ぬきなの御局両人と大夫明仏という関係が成り立つ。(中略)とくに、ぬきなの御局が執筆した和歌まで添えた陳状の草案は、その文章といい筆跡といい、女性として勝れた能力を身につけていたことがわかる」(『日蓮』二二頁)と、ぬきなの御局が常忍のもとで草案を自ら書いたと述べている。 これに対し佐々木紀一氏は、「本文・ミセケチ・両人の署名、全て一筆である。ミセケチ・無花押ではあるが、文書の伝来からすれば、正文として機能したものではないかと考えられる」、と長専の筆跡と見ているが、注記に「この文書と他の長専文書の筆跡の同定は、後者が書き殴りのため困難である」(「法橋長専のこと(上)」『國語國文』六八一号。七頁)、と、長専の筆跡とは断言していない。また、連署陳状の語句に『本朝文粋』や『和漢朗詠集』『平家物語』『曽我物語』などの軍配記に共通するものがあるとして、これらは中世寺院の唱導や注釈活動に密接に結び付くと高く評価されている。(「法橋長専のこと(下)」『國語國文』六八二号。三四頁)。ただし、聖教紙背文書の中にこの連署陳状以外には、中世和歌の素養の文才を確認することはできないと述べている。つまり、中尾堯氏が述べるように、連署陳状の文章はぬきなの御局が書いたと言えるのではなかろうか。同じように「天台肝要文」の紙背文書に「こてう陳状」がある。(保立道久稿「日蓮聖教紙背文書、二通」野口実編『千葉氏の研究』所収二一八頁参照)。「いぬまさ丸」が「かすが」の遺産相続について訴えたことによる「こてう」という女性の自筆の陳状である。連署陳状の文字の大きさ行間などの筆法が類似していることから、女性の文字として連署陳状もぬきなの御局の自筆と思われるのである。 なを、『本朝文粋』(建治二年の書写奥書)が身延山に所蔵され重要文化財となっている。『立正安国論』は四六駢儷体の漢文体で書かれ、『平家物語』の引用についても遺文の所々に見られる。(山下正治稿「日蓮遺文の平清盛」『立正大学文学部論叢』一〇四号四三頁)。今成元昭氏は『平家物語』などの軍記物語を引用して聖人は真言破折をされたと述べているように(「日蓮の軍記物語享受をめぐって」『日蓮教団の諸問題』所収三六六頁)、聖人のこれらの教養の源をぬきなの御局に求めることができると思われるのである。聖人が鎌倉に遊学した折に、佐々木紀一氏が指摘するこれらの文献を、「読み解き手を入れる能力のある」ぬきなの御局の元に滞在して、習得した確率は大きいのである。即ち、④の鎌倉に住んでいた女性であることを確認したかったのである。問題は将軍およびその室に仕えた女房であったか否かである。 そこで、前述したようにぬきなの御局と比企能員の接点を考察する。そこに東福寺を建立した九条道家との繋がりがあることを指摘したい。比企能員の乱にて能員の子として存命したのは能本と姉の若狭局である。若狭局は二代将軍頼家(在職一二〇二~〇三年)の側室となり一幡と竹御所の母となる。竹御所は三代将軍実朝(在職一二〇三~一九年)の猶子として異母兄の公暁と共になり、四代将軍頼経(在職一二二六~四四年)の側室となる。この頼経の父が九条道家である。頼経と竹御所の子が五代将軍頼嗣(在職一二四四~一二五二年)である。頼経は北条経時に追放され、頼嗣は時頼より追放される。能本は姪竹御所の懇請により赦されて、嘉禄年中(一二二五~二六)に鎌倉に帰り儒官として任用された。頼朝の血を継ぐ竹御所は政子に庇護された。が、難産のため母子ともに死去し、これにより頼朝の直系子孫は断絶した。能本は嘉禎元(一二三五)年、竹御所の遺言に従い比企谷に新釈迦堂を建立し埋葬した。現在も妙本寺の寺域にある。 道家に着目するのは、道家が創建した東福寺に「日蓮柱」が伝えられていることによる。所伝によると、円爾(聖一国師)が東福寺を建立すると聞いた聖人は、その恩に報いるため寛元三(一二四五)年に一本の巨木を寄進している。(『東福寺』淡交社刊八三頁)。この柱は法堂の巽に立てられた。このとき聖人は二四歳にて円頓坊を預かっていた。円爾は入宋学僧で東福寺創建のときは、三学を修め真言・天台止観を専修とした寺であったので(『大日本古文書』東福寺文書之一。三二頁)、開宗前に謁見して学んでいたのである。明治一四年に法堂などを焼失したが、昭和九年に東郷平八郎氏が代表となり台湾阿里山の檜の柱を寄進したことが、法堂の前の石碑(「日蓮柱之碑」)に示されている。東福寺の立場と厚遇からして聖人が寄進したことは事実であると思われるのである。 開基の道家は嘉禎二(一二三六)年に東福寺建立の発願をした。寛元二(一二四三)年に円爾を招請し落慶は道家没後の建長七(一二五五)年となる。承久の乱後に道家たち九条家は権威を誇っていたが、寛元四(一二四六)年三月二三日に北条経時は執権を時頼に譲った。これに反発した前将軍頼経と名越光時らは時頼排除を謀った。しかし、幕府は名越光時・千葉秀胤を配流、七月一一日に頼経を京都へ送り道家は失脚した。かわって近衛兼経が摂政に再任され近衛家の得意時代となる。兼経の妻は道家の娘仁子である。兼経と仁子の娘が宰子でありその子供が惟康親王である。猶子として日昭が法印に任じられ、宰子は義妹となる。 はたして聖人が東福寺に巨木の柱を寄進されたのか。大方の意見は賎民の子である聖人にそれ程の財力はなかったと見てこれに触れない。しかし、日蓮柱の浄財はぬきなの御局が調達したとすればどうだろう。その理由として財産を所有していたこと。材木の調達ができる立場にあったこと。九条道家・比企能本との親密な関係があったことを挙げる。まず、財産については鎌倉以降の武家社会では、家を守るために妻に財産となる領地が譲渡され妻が家政を取り仕切っていた。『磐田市史』(通史編上巻四五九頁)によると、和田義盛の妻は義盛が反乱を起こした罪で所領を没収され囚人となっていたが、恩赦を受け返納されている。鎌倉時代は妻や女子も平等に所領を分配された均分相続で、自由に処理できたのである。また、一族の所領は同族が受け継ぎ知行を確保できたのである。(笠松宏至稿「中世闕所地給与に関する一考察」『中世の法と国家』所収四二〇頁)ぬきなの御局は貫名氏の財産を相続し、貫名郷近くに居住していた石野氏・赤佐氏に土地財産の管理を任せていた。貫名氏を継いだのは赤佐氏であることからすれば、赤佐氏が助成していたと言える。 材木の調達については、遠江の国衙領は熊野新宮造営のための費用を支出する国になっていたこと。もともと山名郡は白河・鳥羽・後白河の上皇の三代起請地として、平安末期には熊野三山の所領となっていたのである。静岡県下にある熊野神社一三五社のうち、遠江には半数をこす七三社が祀られていた。旧袋井町を含む磐田郡が二一社で最も多い。(『静岡県神社志』)。つまり、熊野新宮造営に伴い材木を調達できる組織力と財源を持っていたのである。その中には千葉介の存在も考えられる。(『中山法華経寺誌』二五三頁)。ぬきなの御局が仕えた人物は、能本が聖人の篤い信者であることからして比企氏側と思われる。しかし、道家と能本は姻戚として親密な関係であったから、東福寺造営を祝して巨木を寄進したのである。つまり、④の鎌倉に住み将軍およびその室に仕えた女房であったことの明かしとしたい。 4 重忠の親族と義浄房 重忠が領家の尼の世話になったことは聖人が自ら述べている。(『清澄寺大衆中』一一三五頁)。重忠は安房小湊においては漁業権を持つ領家のもとで、荘官的な立場からその管理を行っていたとするのが定説となっている。東条には頼朝が寄進した東條御厨と元より神庤として祭祀されていた天津御厨(「在安房国東條天津庤社」『安房志』三七一頁)がある。安房は朝廷に海産物を中心として貢納した御食国であった。御厨には天皇に贄を捧げてきた供御人が大勢いた。つまり、安房は古代より都の文化や全国の情報が入ってきた所で、重忠はこのような御厨のある小湊に流罪された。 東条郷には海上交通に長けた伊豆狩野氏と同族の工藤吉隆が天津を領有していた。聖人が伊豆に流罪されたとき、度々訪れていたのはこのためである。工藤氏と重忠、吉隆と聖人という関連性が窺える。つまり、重忠は東条郷内の工藤氏にも仕えていたと思われるのである。遠江も海運の拠点であり、その能力を有していたからである。その御厨の実態が変化したのは、弘安二年に「長狭郡之内東条の郷、今は郡なり(中略)今は日本第一なり」(『聖人御難事』一六七二頁)と述べていることから窺える。建長五年ころ領家の尼と地頭の景信が清澄寺の権限を争い景信が敗訴した。これにより二間川以北の地域は領家方の所有に留まった。領家と景信の領有する地域が相違していたため、文永元年一一月一一日に小松原法難において聖人は襲われ吉隆が殉死したのである。この影響により文永一二年二月一六日の頃は、「彼者すでに半分ほろびて今半分あり」(『新尼御前御返事』八六八頁)と景信の勢力が弱体化したことを述べている。 東條御厨の跡は景信の邸跡に近いことからして(『千葉県の歴史』資料編中世一。六四頁。千葉県教育振興財団『研究紀要』第二八号「西郷氏館跡が中世東條御厨地頭東条氏の屋敷跡と推測」一四〇頁)、重忠は清澄寺周辺の領家方の領域と、工藤氏の天津御厨の管理を行っていたと言えるのではないか。領家の尼は荘園を管理でき信頼できる人物を求めていたはずである。前述したように重忠は遠江国において在庁官人の職にあったことが分かった。小湊に流罪された重忠は領家のもとに預けられ、その職分を認められて領家の荘官的立場になっていったということになる。ただし、荘官は地頭と違い領家の意向により罷免することができた。聖人が述べる恩義はここにあったと思われる。 特に領家の尼と景信との訴訟において、聖人が勝訴に導いたのは父親の教育を受けていたからではなかろうか。地頭とは現地で年貢収取・治安維持にあたった武士で、下地管理権・警察権・徴税権の権限をもっていた。景信は地頭領主制を形成していく過程に清澄寺の私領化をすすめたのである。清澄寺は捕獲禁止・殺生禁断の神鹿が飼われていたのにも関わらず鹿狩りをした。そして、清澄寺・二間寺を念仏に改宗しようとしたのである。(『清澄寺大衆中』一一三五頁)鹿狩りは馬術の修練、弓矢に習熟するために行ったものか。また、鹿の皮革や角は鎧などの武具や獣膠としての必需品であることから、幕府に献上することが目的だったのか、いずれにしても領家の侵奪にほかならない。重忠はこの建長五年には八二歳の高齢となっていたため聖人が代理となったのである。そして、地頭と荘園領主の争いは幕府の法廷で裁判することになる。領家と景信の所領争いに聖人が関与されたのは、相応の知識と経験をもつ父親の役職を継いだためと思われる。(小島信泰著『日本法制史のなかの国家と宗教』五六頁)。 この東条郷に小林実信の子男金実長が住んでいた。実信は重忠の弟であることは先に述べた。藻原城主の斉藤兼綱は『茂原市史』(七三頁)によると、遠江国の蒲生の領主であったが、元久元(一二〇四)年に鎌倉に反したので、領主三浦泰村に預けられた。兼綱は一族と来て上藻原・鷲巣・岩川の三村をもって藻原荘と称し、農事の開発、文化の進展をはかった。同族に墨田時秋(中老日朝。長男日秀藻原三世)がいる。実信は民部実信と称されることから、民部省に所属し、京都にあって荘園の管轄部門に属していたことが分かる。日向が民部阿闍梨と称された理由である。実信は赦免されて京都へ帰るが、子の実長は妻が興津の佐久間重貞の妹であったので男金に残った。その妻は聖人から光日房・光日上人と呼ばれた光日尼妙向である。実長に子供が三人いる。長男は男金新大夫入道、次男は弥四郎で武士であったことが遺文に見える。流罪人とはいっても身分は保障されていたことが分かる。 弥四郎は鎌倉名越の聖人を尋ねている。『光日房御書』(一一五六頁)に、聖人が鎌倉で講説している席に弥四郎が内密の面会を求めたことを回想している。自分は武士となった身であるため一命が危うい死の恐怖と、寡婦になっている母親への不孝の心配を吐露した。自分が死ぬことがあれば母を弟子にして欲しいと、母親の存生と後生の成仏を願ったのである。聖人からすれば甥にあたり親族としての情感が伝わる。弥四郎は幼少の頃より聖人の志を慕っていたことが分かり、母の光日尼も聖人のことを疎かには言っていないことが分かる。光日尼の三番目の子供は日向で、身延の第二世、祖父が流罪された地に藻原寺を開いた。聖人が池上に入り、波木井実長から預かった栗鹿毛の名馬を藻原の斉藤兼綱に預けた理由がここにある。 注目したいのは「御遺物配分事」(『宗全』第二巻一一〇頁)の記述である。聖人の葬送儀が行われた弘安五(一二八二)年一〇月一四日のあと、御遺物が第子檀越に分け与えられた。それを日興が書き留めたものである。ここに、「御きぬ(絹)一安房国新大夫入道。御きぬ一かうし後家尼。御小袖一安房国浄顕房。御小袖一同国義成房。御小袖一同国藤平」とある。この最後の五人は聖人の親族であることを指摘したい。日順による『御書略註』には安房の男金新大夫入道は向師の舎兄。清澄の浄顕房は聖人の御舎兄。藤平は聖人の御舎弟と説明している。この最後の五人に「御」の字を冠したのは、日興が尊敬の念をもって書かれた人物だからである。新大夫入道は聖人の甥。弥四郎の言葉からして安房には住んでいなかったようである。「かうし後家尼」は「向師後家尼」のことで日向の母光日房妙向のことである。伯母にあたる人である。墓所は女金にあるという。(『安房志』三七五頁)。 次の浄顕房・義浄房は清澄寺の兄弟子になる。聖人より年長であることは、「各々二人は日蓮が幼少の師匠にてをはします」(『報恩抄』一二四〇頁)と、敬語を用いていることから分かる。浄顕房は聖人の兄という説があり、最後の藤平重友は聖人の弟であることは間違いない。この重友が病の父の遺言をまもり遺骨を遠江国石野の正覚寺に埋葬している。貫名郷の貫名氏を継いだのは赤佐俊直から四代後の奥山盛朝とされる。日興が記載した順に従えば義浄房は聖人の兄と言えるのではなかろうか。聖人が重忠の三男・四男という異説は仲三が入るか否かにある。また、『宗旨名目』に仲三が聖人の父となっているように仲三という人物が確かではない。次男は夭逝と記されているが、この次男が幼少にして家を離れた浄顕房であり、仲三が義浄房と考えられるのである。三人の兄が出家していたので子孫は残らなかったことになる。 梅菊については『本化別頭仏祖統紀』(六二頁)によると、清原氏(大進家)の出自とし舎人親王の後裔、父は畠山一族の下総八幡郷大野吉清、母は道野辺右京の娘梅千代とある。兄に大野政清がおり政清の子に、聖人と従兄弟になる曽谷教信(大野次郎兵衛教信)がいる。梅菊の誕生地である鎌ヶ谷市道野辺の大野氏の邸跡に、身延山第三世三位公日進が元徳元(一三二九)年に妙蓮寺と称して建立している。父親の大野家は大進家の系譜、また、代々故実の博士とある。大進と言うことから中宮職・皇太后宮職・京職・東宮坊などの判官のうちの上位で、后妃に関わる事務などに携わった家系であることが分かる。故実の博士というのは問注所の役人で、武家社会の儀式・法制・作法・服飾などの規定に関する役職を言う。つまり、母梅菊はこのような格式の高い礼儀作法の教育を受けていたのである。 曽谷教信は下総曽谷郷の領主で千葉氏の家臣である。父吉清と同じく問注所に勤めていたとされ、弘安四年閏七月一日付けの『曽谷二郎入道殿御報』(一八七一頁)に蒙古防備のため西下することが記されており御家人であったことが分かる。この曽谷城の北東に大野城がある。系図から教信の弟である金原法橋・大進阿闍梨・三位房日行や、子息の日進・山城入道道崇・日源・芝崎の名が見える。乗明の子の日高がいて聖人の信徒として教団を護持していたことが確認できる。また、乗明の妻恒は道野辺氏の出自である。曽谷氏と大田氏の親族関係が分かる。乗明も同じく問注所に出仕し訴訟関係に従事していた。中山法華経寺の寺地に乗明の邸があったが、元応二(一三二〇)年に千葉胤貞から日祐に譲与されているので、この地の地頭領主ではなかった。 (中尾堯著『日蓮宗の成立と展開』四〇頁)。『市川市史』(第二巻一九〇頁)に乗明は曽谷郷にあった大田名(応永四年六月八日の日尊譲状)、大田屋敷の同じ地名の存在があったことと、延文五年一一月二九日の「某具書案」(『浄光院文書』)に、「可有早御知行下総国八幡庄蘇谷郷内大田入道居屋敷一宇并田数七反六十歩事右、任先例、無相違可有御領掌」とあることから、大田氏の本拠は曽谷郷にあったとする。つまり、大野・曽谷・大田氏は親族であることが分かる。常忍の先妻が乗明の姉という説もある。このように親族に聖人の信徒が多いことが分かり、母の出自は大野氏であると判断できるのである。 最後に聖人と富木氏の関係について、ぬきなの御局と長専の連署陳状から、ぬきなの御局と常忍が知悉の間柄であったことを確認した。ただし、この関係は常忍の母から繋がっていたと思われる。聖人と常忍の母との繋がりは周知の『富城殿女房尼御前御返事』(一七一〇頁)に、「むかしはことにわびしく候し時より、やしなわれ、まいらせて候へば、ことにをん(恩)をもく、をもひまいらせ候」の文に窺える。 常忍の母は父千葉胤正が京都に在ったときの子供で、鎌倉に下り実朝の側近として仕えたことにより下総局と称している。実朝の在職は一二〇三年九月七日から一二一九年一月二七日の期間である。まだ、聖人も常忍も生まれていない。しかし、下総局とぬきなの御局の接点をここに窺うことができまいか。ぬきなの御局の方が年長である。大野邸の妙蓮寺と常忍の若宮までの距離は、直線で約五㌔という近い距離にある。教信が開山となる法蓮寺までの距離は直線で約三㌔である。富木常忍・曽谷教信・大田乗明は『観心本尊抄』を理解できる学識を有し教団を支えたのである。また、大野氏と富木氏は主従関係もあり地縁も深いことが分かる。下総局とぬきなの御局の接点は常忍を通して確認でき、小湊の重忠と大野の梅菊を繋げた人物であると言えよう。聖人が幼少の頃から支援を受けていたのは下総局である。遺骨は聖人の膝下に埋葬された。その影の支援者がぬきなの御局と思われるのである。 聖人は父母の成仏を願って仏門に入り最初の信徒にされた。親族の教化から始めたといえる。しかし、教信の父のように親族と雖も容易なことではない。まして不惜身命の覚悟を持てるだろうか。聖人が心血を注いで教化され、その親族が要となり周辺の有縁の者を教化して初期教団を形成した。安房や下総などの親族たちは、各々が拠点となって教団を拡張したのである。さらに、ぬきなの御局の存在は鎌倉進出の要となったと言えよう。 勧学院嗣学 妙覚寺住職 |
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