290.『兵衛志殿女房御返事』~『曽谷入道殿御返書』           髙橋俊隆

□『兵衛志殿女房御返事』(二六四)

○宗長の妻の身延登詣

一一月七日付けで宗長の妻から銅器の仏具二個を布施された礼状です。『三寶寺本』に収録されます。この頃、宗長の妻が身延に登詣されます。聖人は兄の宗仲と父との対立が再び起きることを心配されていた時期でした。一一月二〇日頃(『兵衛志殿御返事』一四〇一頁)に現実となります。本書には触れていませんが、この間における宗長のとるべき行動を相談されたと思います。

○牧牛女の粥供養

牛飼いの女人が釈尊に粥を供養しようとしましたが容れる器がありません。そのとき四天王が鉢を一個ずつ用意します。女人はそれを重ねて一つにして粥を供養します。釈尊は苦行による解脱への修行を止め、尼連禅河に入って身を浄めていました。肉体は疲弊していた時の供養でした。正気を回復した釈尊は菩提樹下の金剛宝坐上にて無上菩提を得ます。この一二月八日を成道の日とします。この鉢には常に飯食が盛られていたと言います。後に馬鳴がその鉢を戦さに敗れた華氏王より迦弐志加王に献上して、報償金の三貫に当てたと言う故事を述べます。この御器二個を釈尊の御宝前に使用するならば同じ福を得ると述べます。

□『大田殿女房御返事』(二六五)

○八寒地獄

一一月一八日付けで乗明の妻於恒から柿色で青い裏地の絹の小袖と綿十両を供養された礼状です。『平賀本』に収録されます。玉沢妙法華寺の日宗・日通の相伝には、乗明の妻は下総の道野辺(道辺)右京の孫、聖人の外叔母とあります。帥(そつ)公日高の母となり乗明三六歳の時の子供です。建治三年は日高二一歳になります。一一月になると寒さが増すので体を暖める小袖と綿を送りました。綿入れの小袖は肌に密着します。本書に熱地獄と寒地獄を説きます。特に寒地獄にふれ衣を供養する功徳を称えます。

熱地獄の火は鉄の溶けた熱湯のようで、罪人はこの中に紙を投げ入れ木の削り屑を入れるように焼かれると表現します。この地獄には「焼盗」と言って家屋を焼いて物を盗む者、放火して敵を攻める者、また、物を嫉んで胸を焦がす(心を苦しめ悩み悶える)女性が堕ちる地獄と述べます。

寒地獄は『涅槃経』に八種類の寒冰地獄(阿波波・阿咤咤・阿羅羅・阿婆婆・優鉢羅・波頭摩・拘物頭・芬陀利地獄)があり、この名称は寒さに責められる悲鳴や身体の色から付けたと述べます。諏訪湖が全面凍結し氷が轟音と共に裂け上がるような寒さや、越中の立山に吹きつける北風の寒冷。また、加賀の白山の雪中の山頂で鳥の羽が凍りつき、雉が豪雪に苦しめられる酷寒に例えます。夫を亡くした老女の着物の裾が冷え、雉が雪に責められてほろほろと鳴いている和歌をもって察するように述べます。他人の衣服を盗み寒さで苦しめた者や、父母・師匠が寒苦に悩まされても、自分だけは暖かにしている恩知らずの者が八寒地獄に堕ちると述べます。

商那和修や鮮白比丘尼は、過去に父母・主君・三宝の貴い人に衣服を与えた功徳をもって、生まれながらに衣服に不自由しなかったこと、また、憍曇弥とい言う女性は金色の衣を釈尊に供養した善根により、法華経の教えを聞いて一切衆生喜見仏となった述べます。これは、於恒が小袖を供養された善根がいかに大きな功徳かを教え、今生には大難を除け後生には寒地獄から逃れられると述べます。この功徳は男女の子供にも衣に衣を重ね色に色を重ねるように徳が及ぶと述べます。

 

□『兵衛志殿御返事』(二六六)

○宗仲の再度の勘当

一一月二〇日付けで宗長より方方(あれやこれや)の品物が人夫二人により運ばれた礼状です。真蹟一六紙は京都妙覚寺に所蔵されます。本書に義政(武蔵入道)が三六歳の若さで出家し遁世した近況の事件にふれます。これは建治三年四月のことです。また、極楽寺殿(重時)一門が亡び越後守殿の一人だけになったとあります。重時は弘長元(一二六一)年一一月二三日に六四歳にて死去します。長男為時は早世、次男長時は文永元年に死去、三男時茂も死去、五男の義政は出家遁世、残ったのが四男の業時で建治三年五月に越後守になりました。

父と兄弟との信仰問題は一度は解決し、兄宗仲の勘当が許されました。ところが、良観の懐柔により父は重ねて宗仲を勘当したのです。宗長に退転のないように「第一の大事」(一四〇一頁)を教えます。末法になると賢人は姿を消し我欲により主臣・親子・兄弟の争いが絶えまなく起きる。善神は国を捨去するから三災七難が興起し、結句は地獄となる道理を述べます。そして、親の悪事を戒めると孝養になることは、先の書状(『兄弟抄』等)に記したので常に自身を諌めるように述べます。宗仲が再び勘当されることは予測しており、それよりも宗長の心変わりが不安であるから、宗長の妻が身延に来た時に堅固な信心を持つように励ましたと述べます。宗長が父親に反抗できないこと家督を継ぐ欲心を心配されていたのです。 

ただしこのたびゑもん(右衛門)の志どのかさねて親のかんだう(勘当)あり。とのの御前にこれにて申せしがごとく、一定かんだうあるべし。ひやうへ(兵衛)の志殿をぼつかなし。ごぜん(御前)かまへて御心へあるべしと申て候しなり。今度はとのは一定をち給ぬとをぼうるなり。をち給はんをいかにと申事はゆめゆめ候はず。但地獄にて日蓮うらみ給事なかれ。しり候まじきなり。千年のかるかや(苅茅)も一時にはひ(灰)となる。百年の功も一言にやぶれ候は法のことわりなり」(一四〇二頁)

 宗長が退転するのは本人の責任として、法華経の教えによれば地獄に堕ちるであろう、そのとき聖人を怨んではならない、救けることはないと慈悲心から突き放します。千年をかけて蓄えた苅茅も灰となる時は一瞬であり、百年をかけて積みあげた功績も一言で破棄されるのが道理と諭します。父の左衛門大夫(康光)は法華経の敵となるが、兄の宗仲は信仰を貫いて法華経の行者となると述べます。

目先に捕らわれて父に味方したら良観は喜ぶとして、孝養についてを平重盛の故事を挙げます。宗盛は父の清盛の悪事に随って篠原で頸を斬られ、長兄の重盛は随わないで先に死ぬが、どちらが孝養の人かを問います。宗長が法華経の敵である親に従い、行者である兄を捨てることは親の孝養となるのかを戒めます。そして、

「ひとすぢにをもひ切て、兄と同く仏道をなり(成)給へ。親父は妙荘厳王のごとし、兄弟は浄蔵・浄眼なるべし。昔と今はかわるとも、法華経のことわりたがうべからず。当時も武蔵入道そこばくの所領所従等をすてて遁世あり。ましてわどのばらがわづかの事をへつらひて、心うすくて悪道に堕て日蓮うらみさせ給な。かへすがへす今度とのは堕べしとをぼうるなり。此程心ざしありつるが、ひきかへて悪道に堕給はん事がふびんなれば申なり。百に一、千に一も日蓮が義につかんとをぼさば、親に向ていゐ切給。親なればいかにも順まいらせ候べきが、法華経の御かたきになり給へば、つきまいらせては不孝の身となりぬべく候へば、すてまいらせて兄につき候なり。兄にすてられ候わば兄と一同とをぼすべしと申切給へ。すこしもをそるゝ心なかれ」(一四〇三頁)

一筋に覚悟を決めて兄と同じように仏道を第一に考えるように勧めます。妙荘厳王品に説かれた父妙荘厳王に子供の浄蔵・浄眼が父王を信仰に導いたように、昔と今と時は違っても法華経の道理は同じと述べます。また、義政が四月に遁世したように僅かな所領に執着しないで、父親を恐れずに兄と同心して法華経の信心を貫くように重ねて諫めます。「三障四魔」により退転し成仏できない事を不安に思っていたところ、使いの者を特別に遣したことは、信仰心が残っている証拠なので書簡を認めていると伝えます。「もしやと申すなり」(一四〇四頁)と述べているように、供養品を送ってきた厚意に聖人に帰依する道心があると見たのです。

不軽品の「億億万劫至不可議時乃得聞是法華経。億億万劫至不可議諸仏世尊時説是経。是故行者於仏滅後聞如是経勿生疑惑」の文を引き、法華経を聞法できる不可思議な縁を疑わないように、この経文は宝塔湧現の多寶仏と釈尊の御前にて説かれた「殊に重きが中の重き」(一四〇四頁)教えと述べます。また、『涅槃経』「尽地草木為四寸籌以数父母亦不能尽」の文を引き、々世々に父母に値うのは容易だが、法華経に縁を持つことは最も至難であると述べ、釈尊が悉達太子の時に親に背いて出家したが、悟りを開いて両親を成仏の道に導いたことを挙げ、親への孝養とは何かを考えさせたのです。

再度の勘当問題は良観や念仏者が、池上家の家庭内の問題を姦策し、兄弟を仲違いさせるために父親を利用しました。その背後にふれます。

「これはとによせかくによせてわどのばらを持斉念仏者等がつくりをとさんために、をやをすゝめをとすなり。両火房は百万反の念仏をすゝめて人々の内をせきて、法華経のたねをたゝんとはかるときくなり。極楽寺殿はいみじかりし人ぞかし。念仏者等にたぼらかされて日蓮をあだませ給しかば、我身といゐ其一門皆ほろびさせ給。ただいまはへちご(越後)の守殿一人計なり。両火房を御信用ある人はいみじきと御らむあるか。なごへの一門の善光寺・長楽寺・大仏殿立させ給て其一門のならせ給事をみよ。又守殿は日本国の主にてをはするが、一閻浮提のごとくなるかたきをへさせ給へり」(一四〇五頁)

 両火房とは良観のことです。建治元年の三月二三日に鎌倉に火災があり極楽寺の堂舎が小規模ながらも消失したことに因みます。(『王舎城事』九一五頁)。良観は百万遍の念仏称名を勧めていました。その良観を信じた者が没落した事実を示して法華不信による堕獄を述べます。即ち義時の三男である重時の一門が滅びたこと。名越の一門とは義時の次男朝時の一門のことで、名越氏は念仏を信じて善寺・長楽寺・大仏殿を建てたが、朝時の三人の子供は早死にし光時は隠居、時章と教時は文永九年に誅殺されたこと。これらを念仏信仰の現罰とします。そして、時宗は良観や念仏者を信じたため蒙古から侵逼されていると述べます。

この例から宗長が兄を捨てて家督を得ても子孫は繁栄せず、蒙古の攻めも予測できないと述べます。宗長の動向に不安がありこの書状が無駄になると思えば筆が進まないと心情を述べながらも、宗長やその妻を心配されます。この勘当は一二月中には解け康光は改心します。『四条金吾殿御書』一四三七頁)

 

○御本尊(四六)一一月

 一一月に染筆され通称「切鉑御本尊」と言い京都本国寺に所蔵されます。紙幅は縦九二.四㌢、横四五.八㌢、三枚継ぎの御本尊です。善徳仏の勧請は文永一一年六月の京都妙満寺の曼荼羅(『御本尊集』一一)に始まり、この御本尊までに限られます。弘安年間の曼荼羅には善徳仏・十方分身仏は見られなくなり、曼荼羅の図顕にも佐前・佐後の教学のように、弘安年間の曼荼羅を随自意とする見方があります。
 

□『曽谷入道殿御返事』(二六七)

○経題の「如是」

一一月二八日付け、教信から細字の法華一部経の写経の開眼供養のため、小袖二重ね金銭一〇貫、扇百本を布施された礼状です。『本満寺本』に収録されます。法華経一部を一巻に仕立てたことに因み、法華経の入文の最初である「如是我聞」の「如是」について解説されます。続いて経典の肝心は題目に収まり、経典の中でも法華経は特出して勝れているので、妙法蓮華経の題目を弘めたと述べます。

まず、天台の『文句』と妙楽の『文句記』の「文句一云如是者拳所聞之法体。記一云若非超八之如是安為此経之所聞云云」(一四〇七頁)を引き、「如是」とは「所聞の法体」と示されます。つまり、阿難が聞法した法華経の理です。華厳経・般若経・大日経等経題にく「如是」とは、それぞれの経の法体である理と述べます。つまり、その経の肝心の法門は題目に表されます。阿含・般若・華厳・方等部の各々の理について、妙楽の『文句記』の文は経題の相違と勝劣を説いていると述べます。

「阿含経の題目は一経の所詮無常の理をおさめたり。外道の経の題目のあう(阿の二字にすぐれたる事百千万倍也。九十五種の外道、阿含経の題目を聞てみな邪執を倒し、無常の正路におもむきぬ。般若経の題目を聞ては体空・但中・不但中の法門をさとり、華厳経の題目を聞人は但中・不但中のさとりあり。大日経・方等般若経の題目を聞人は或析空 或体空 或但空 或不但空 或但中不但中の理をばさとれども、いまだ十界互具・百界千如・三千世間の妙覚の功徳をばきかず。その詮を説ざれば法華経より外は理即の凡夫也。彼経経の仏菩薩はいまだ法華経の名字即に及ばず。何況題目をも唱へざれば観行即にいたるべしや」(一四〇七頁)

阿含経は無常の理を説きますが仏教の中では低い教えです。しかし、外道の阿漚の教えよりは勝れているとします。阿漚とは無と有のことです。外道の経は阿漚の二字にあります。意味は万法は「有無の二道」を出ないことです。これに対し仏典は始めに「如是」と置くのは、「如ならず是ならず」として外道の「有無の二道」の見解を否定するためです。(『法華文句』巻一)。仏教の理は無常・折空(蔵教)・但空・体空(通教)・不但空・但中(別教)・不但中(円教)の順で深まることを述べます。しかし、これら諸経は法華経の一念三千(十界互具・百界千如・三千世間)を説いていないので、六即の位階で比べても法華経より低いとします。

「妙楽大師記云若非超八之如是安為此経之所聞云云。彼彼の諸経の題目は八教の内也、網目の如。此経の題目は八教の網目に超て大綱と申物也。今妙法蓮華経と申す人人はその心をしらざれども、法華経の心をうるのみならず、一代の大綱を覚り給へり」(一四〇八頁) 

 そして、妙楽の『文句記』を引き、法華経は八教を超越した最高位の「如是」の法体であり、諸経は網目、法華経は大綱と解釈します。釈尊の四二年の教えを、天台は化法の四教と化儀の四教の八教を立てて教相判釈をしました。法華経はこの八教を超勝しているので「超八」と言います。つまり、教信が書写した細字法華経の功徳は、爾前経よりも勝れていると述べたのです。また、法華経の経題である妙法蓮華経を唱えることは、釈尊一代の大綱を悟ることと述べます。国政のことを知らない幼少の太子でも臣下が従うようなものであり、赤子が母の乳の栄養を知らなくても成長することに例えます。諸宗の学者はこの理を知らないで、法華経の王子を迫害して無間地獄に堕ちるのが現状と述べます。

題目の理を詳しく知らなくて、諸宗の智者から威嚇されようが退転してはならないと諫めます。その例えに始皇帝に仕えた趙高の故事を引きます。趙高は始皇帝の死後、長子の扶蘇を殺して末子の胡亥を二世皇帝とし権力を把握します。その胡亥をも殺して自ら王になろうとします。つまり、胡亥のように諸宗の者の言いなりになって退転しないように戒めたのです。

設問に釈尊の滅後の付法蔵の賢人や天台・妙楽・聖徳太子・伝教等の高位の学匠でさえも、南無妙法蓮華経と唱題を説かなかったのに、法華経の肝心は南無妙法蓮華経であると公言しても誰が信じるかと反論します。これに答えて、烏は卑しい鳥であるが鷲や熊鷹の知らない吉凶を知り、蛇は七日の内の洪水を知ることから、竜樹・天台が知らない法門であっても経文に説かれているならば、それを信じるべきで何も疑うことはないと答えます。聖人を卑下して題目を唱えないことは、小児が母の乳を疑って飲まず、病人が医者の薬を疑って服さないのと同じと例えます。

 そして、仏教の流通には時と機根があると説き、竜樹・天親は時機未熟のため弘通しなかったが、末法に到来したら題目を広める好期と説きます。最後に章安の釈を引いて妙法蓮華経の五字は玄意であり、法華一経の心であるとして唱題の意義を述べます。