291.『庵室修復書』 (268)                  髙橋俊隆

□『庵室修復書』(二六八)

 冬頃に時光より芋二駄の供養があり、その礼状で題号が示すように身延の庵室(あじち・あんじち)が朽ちている状況を知らせます。真蹟は四紙断簡が身延に曾存(『日乾目録』)されていました。本満寺の写本が伝えられており、追伸として、「これにつけても、こうえのどのの事こそ、をもひでられ候へ」の文は、『九郎太郎殿御返事』(弘安元年一一月一日。一六〇二頁)の文と対応しています。南条兵衛七郎の子息と言われる九郎太郎へ宛てた書とも言います。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇一四頁)

 身延入山の文永一一年六月一七日に建てた庵室が、徐々に柱は朽ち壁も剥がれ落ちて来ていたが、特段の修理をしなかったため、四年を経た今年は一二本の柱が四方に傾き壁も落ちてしまったとあります。

「やうやく四年がほど、はしら(柱)くち、かきかべ(牆壁)をち候へども、なを(直)す事なくて、よる(夜)(火)をとぼさねども、月のひかりにて聖教をよみまいらせ、われと御経をまき(巻)まいらせ候はねども、風をのづからふきかへ(吹返)しまいらせ候しが」(一四一〇頁)

と、これ迄は夜は火を灯さなくても月の光で経典を読むことができ、自分で経本を巻かなくとも吹き込む風がもとのように巻き返してくれたと述べます。庵室の内部には月光が入り外風も吹き入っていた状態でした。庵室の環境は川に近い為もあり湿気が強く、太陽の光も入らない所でした。そのため積雪により倒壊したと思われます。居住できない状態になったので弟子たちに修理作業をさせていました。

「今年は十二のはしら(柱)四方にかふべ(頭)をな(投)げ、四方のかべは一そ(所)にたう(倒)れぬ。うだい(有待)たもちがたければ、月はす(住)め、雨はとどまれと、はげみ候つるほどに、人ぶ(夫)なくしてがくしやうども(学生共)をせめ、食なくしてゆき(雪)をもちて命をたすけて候ところに、さき(前)にうへのどの(上野殿)よりいも(芋)二駄これ一だはたま(珠)にもすぎ」(一四一一頁)

肉体を持つ凡身なので衣食住に依存しなければなりません。月の明かりが雲で隠れないように、雨も降らないで欲しいと祈りながら弟子に工事をさせていたのです。しかも、雪を食べるほど食料が乏しくなり困窮していた時に、前に時光より芋二駄を供養してもらい、今回は一駄を供養してもらったことは、珠玉にも過ぎて有り難かったのです。冬の季節ですから極寒に耐えていたのです。本書から庵室が三間四面の壁塗りであったことが分かります。かきかべ(牆壁)とは墻壁(しょうへき)とも言い垣根と壁、囲いのことです。また、居住していた弟子を学生(がくしょう)と呼称しているのは珍しいと言います。朝廷は宣旨を下して秋以来の疫病の除災のため、法勝寺にて『仁王経』の転読をさせています。

□『大白牛車書』(二六九)

 一二月一七日付けですが著作年時に建治三年と弘安元年説(『境妙庵目録』)があります。宛先は時光・九郎太郎の説があります。近世における基本遺文の一つである『録外御書』の目録には、『庵室修復書』と合本になっていました。(『昭和新修日蓮聖人遺文全集』別巻二八八頁)

 譬喩品に「乗此宝乗直至道場」(『開結』一六四頁)と説かれている文を引き、建長五年四月二八日に立教開宗し、始めて「宝乗」である「大白牛車の一乗法華の相伝を」(一四一一頁)宣顕した日であると述べます。ここに、「相伝」と述べたのは、釈尊より法華経の弘通を附属された別附属を言います。大白牛車とは一仏乗を説く法華経のことです。そして、牛の両角を本迹二門の二乗作仏・久遠実成に例えます。蜂のように争起した真言・浄土・禅宗の者の曲説を治すため牛の角を矯正したなら、牛を殺すように見えるかも知れないが、牛の本体である謗法を根治することであると述べます。

「抑此車と申は本迹二門の輪を妙法蓮華経の牛にかけ、三界の火宅を生死生死と、ぐるりぐるりとまは(廻)り候ところの車也。ただ信心のくさび(轄)に志のあぶら(膏)をささせ給て、霊山浄土へまいり給べし。又心王は牛の如し、生死は両の輪の如し。伝教大師云生死二法一心妙用 有無二道本覚真徳云云。天台云十如只是乃至今境是体云云。此文釈能能案じ給べし」(一四一二頁)

 生死の火宅を輪廻する凡夫は、大白牛車である法華経を信じれば、安心して霊山浄土に参ることができると励まいます。伝教・天台の釈を引いて、牛の本体を我等の心とすれば、生死はその心に具わったものであり、十如は法華経の実相であり一心の観心に得脱があると説きます。

□『法華初心成仏鈔』(二七〇)

 古来より真偽が問題となり日持の著作とする説があります。著作の年時は建治三年の他に弘安四年説があります。真偽が問題となるのは無知の者の「即身成仏」についての見解です。

「問云、無智の人も法華経を信じたらば即身成仏すべき歟。又何の浄土に往生すべきぞや。答云、法華経を持においては、深く法華経の心を知り、止観の坐禅をし一念三千・十境・十乗の観法をこらさん人は、実に即身成仏し解を開く事も有べし。其外に法華経の心をもしらず、無智にしてひら(但)信心の人は、浄土に必生べしと見えたり。されば生十方仏前と説、或は即往安楽世界と説きき。是法華経を信ずる者の往生すと云明文也」(一四二六頁)

 成仏について、智者は止観の座禅をし一念三千の観法により即身成仏するとします。智者の理観に対し、無智の凡夫の但信口唱は浄土に往生すると、「生十方仏前」と「即往安楽世界」の文を引いて説明します。つまり、智者は成仏であるが愚者は往生であると区別することに疑義があります。(小松邦彰稿「日蓮遺文の系年と真偽の考証」『日蓮の思想とその展開』所収一〇七頁)。これは、『観心本尊抄』の受持成仏・霊山往詣を説く佐渡在中・佐渡後の教学と相違しており、対機の説示としても迹門付随の教学を述べることはあり得ないと言えましょう。

○御本尊(『御本尊鑑』第二〇)

 「泥筆青蓮華御本尊」と称されるように紺紙に金泥で書かれ、首題の下に青蓮華座があり金筋の模様があったと記載しています。紙幅は縦八四.三㌢、横五六.四㌢、年号は書かれていません。影山尭雄氏は弘安式の書式と判断されますが、花押が判然としないため建治末年に留めています。(『御本尊鑑』四〇頁)