292.『実相寺御書『』~七面がれの嶽                髙橋俊隆

 ◆第三節 実相寺の教化

◎五七歳 建治四年(弘安元年)一二七八年

この年、元が日本商船の交易を許可します。日興の弟子である駿河の天台宗実相寺の肥後公・豊前公日源と、長老尾張阿闍梨との論争が起きます。豊前公から法門についての問い合わせがありました。これに答えて尾張阿闍梨の圧力と、四十九院別当の抑圧に対しての処し方を指示し諸宗批判の論拠を教えます。これが『実相寺御書』です。弘安元年に西大寺別当乗範が叡尊に西大寺の検断職以下の諸権限を寄進し、西大寺律宗の基礎となります。(大石雅章稿「中世南都律宗寺院と七大寺祈祷」『古代中世の社会と国家』所収五三四頁) 

□『実相寺御書』(二七一)

○尾張阿闍梨と弟子の確執

建治四年一月一六日付けで実相寺の豊前公日源に送った書状です。『興師本』が北山本門寺に所蔵されています。実相寺は久安年間(一一四五~五一年)智印によって開創されます。智印は阿弥陀上人と呼ばれ、二代目の禅印は法然の弟子明善の弟子でしたので、実相寺は天台浄土教の寺院とされます。実相寺の三代目の道暁は頼朝の弟阿野全成の五男と言います。権力を縦にし真弟に実相寺を相続させようとしますが、寺僧に反対され交替させられます。しかし、幕府から派遣された四代目の院主も悪行を重ねたため、文永五年八月に大衆は幕府へ愁状(日興筆)を提出します。その後、官命により聖人の弟子となっていた日源(智海・播磨法印)が五世となり日蓮宗に改宗します。筑前房は高橋一族で日興と俗縁になります。

豊前公は筑前房の許にいて、その娘を妻として同居していました。しかし、建治二年一二月九日の『松野殿御返事』によると、聖人に帰依して実相寺より追放され所領を失っていました。豊前公のその後については不明なため聖人の没後に背反したと言います。 

「実相寺の学徒日源は日蓮に帰伏して所領を捨て、弟子檀那に放され御座て我身だにも置処なき由承り候に、日蓮を訪衆僧を哀みさせ給事、誠の道心也、聖人也。已に彼人は無双の学生ぞかし。然るに名聞名利を捨てて某が弟子と成て、我身には我不愛身命の修行を致し、仏の御恩を報ぜんと面面までも教化申し、此の如く供養等まで捧げしめ給事不思議也」(一二六四頁) 

実相寺の住侶の中には豊前公のように聖人に帰依する者と敵対する者がいました。本書は浄土教を信奉する住侶との法論であり、得宗領内における大寺院内部の確執です。その尾張阿闍梨から質疑があり、賀状に託して教示を願ったことの返書です。尾張阿闍梨は『法華玄義』第四巻に『涅槃経』を引用して、小乗をもって大乗を破し、大乗をもって小乗を破するのは盲目の因という文により、聖人が法華経の実教をもって諸宗の権教を折伏することを批判しました。豊前公はこの文言が真実なのかを質問してきたのです。

 聖人は小乗をもって大乗を破し、大乗をもって小乗を破すことを、法華経の教えを理解していない盲目の者と言うのならば、弘法・慈覚・智証・善無為・金剛智・不空を「盲目」とするのかと反論するように述べます。問題の『法華玄義』とそれを解釈した『釈籖』を引き、尾張阿闍梨は『法華玄義』の文の意味を誤って解釈していると指摘します。(「迷惑此釈者歟」一四三四頁)

「玄義四云、問法華開麤々皆入妙涅槃何意更明次第五行耶。答法華は為仏世人破権入実無復有教意整足。涅槃為末代凡夫見思病重定執一実誹謗方便雖服甘呂(露)不能即事而真傷命早夭故扶戒定慧顕大涅槃。得法華意者於涅槃不用次第行也。籤四云次料簡中言扶戒定慧者事戒・事定・前三教慧並為扶事法故。具如止観対治助開中説。今時行者或一向尚理則謂己均聖及執実謗権。或一向尚事則推功高位及謗実許権。既処末代不思聖旨其誰不堕斯之二失。得法華意則初後倶頓。請揣心撫臆自暁浮沈等云云。迷惑此釈者歟。此釈は所詮或一向尚理者等達磨宗也。及執実謗権者華厳宗・真言宗也。或一向尚事者浄土宗・律宗也。及謗実許権者法相宗也」(一四三四頁)

 法華経は爾前で説いた諸行を開会して、絶対の妙法一行に帰入させたのに、なぜ、『涅槃経』に爾前に説いた「次第の五行」を説くのかと問います。次第五行とは菩薩の五種(聖行・梵行・天行・嬰児行・病行)の行法のことです。聖行とは戒定慧の三学による自行の菩薩行のことです。梵行とは化他の菩薩行を言います。この五行のそれぞれに順序があるので次第五行と言います。答として、法華経は釈尊が権教の執着を破して実教に入れたから、それ以後は麤法はない。『涅槃経』は末代の衆生が煩悩が強く、実教に執着して方便の教えを蔑ろにするため、真理を悟ることができない。還って成仏の命を損ねてしまうので、釈尊はこれらの衆生を救うため再び戒定慧を説いたのである。故に法華経の権即実の意が分かれば『涅槃経』の次第行は必要のないことになります。

 この文を解釈した『釈籤』に、戒律・禅定・蔵通別の三教に説かれた智慧は、『止観』に「対治助開」(助道対冶)とあるように修行の助けとなることです。そして、今の行者は「一向尚理」として円融の理のみを尊んで我が身が仏であると言う禅宗。「執実謗権」として実教に執着して権教を謗る華厳宗と真言宗。「一向尚事」として現実の差別の事相を尊び、円教は高位の人に限るとする浄土宗や律宗。「謗実許権」と言うのは実教を謗って権教を許容する法相宗と述べます。既に末代となり法華経の開会の法門や、『涅槃経』にて次第の五行を再説した理由を知らなければ、「一向尚理」「一向尚事」の二つの失に堕ちると述べます。ただし、法華経の権実不二を理解すれば、理を尊ぶ者も事相を尊ぶ者も成仏するのであるから、このことを自ら思量して浮沈を明らかにすべきとの文を読み違えていると指摘します。

 そして、法華経の妙の一字に相対妙と絶対妙の二義があるとして、相対妙は法華以前の教えを麤法として破し妙法を顕します。絶対妙は法華以前の麤法を開会してそのまま妙法とすることです。ここで、法華経以外の諸経には絶対妙の義は説いていないとして、法華経のみが絶対開会の独自の法門であると述べます。ところが、他経に依存する者は「破顕二妙」(破麤顕妙・開麤顕妙)の義があるとしたり、天台の智慧を盗んでいるとして批判します。尾張阿闍梨はここの解釈を誤っていると指摘します。自分が目まいしているのに山が回っていると思うように、自らの誤りを知らないと例えます。また、「以実破権」「絶権執入実」と言うのは、釈迦・多寶・十方諸仏の「常儀」(一四三五頁)であり、これを盲目と言うならば、釈尊や天台・伝教も盲目の人師なのかと反論するように教えます

 

○四十九院の動向

また、実相寺と共に四十九院の動向にふれます。四十九院の別当(厳誉と思われます)は無智のため、聖人を恐れて小田一房を使って迫害していると述べています。小田一房は四十九院にいた僧と思われます。『滝泉寺申状』(一六七七頁)にみるように、建治二年頃には熱原の滝泉寺の行智は、日禅・日秀・日弁の住房を奪い取っていました。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇一一八六頁)

同じように四十九院にいた弟子に危害が現れてきます。聖人はこれらの迫害の元である別当の所業が現れることは、「根あらわれば枝が枯れ、源が竭(つき)れば流れが尽きる」ように、邪法が滅亡する先兆であると述べます。木の根が出てしまうと枯れてしまいます。水源が枯渇すると川の流れは消失します。そのように、四百年のあいだ隠れていた弘法・慈覚・智証の謗法の大罪が暴かれ枯渇することを例えました。また、拘留外道が石となったのを、数百年後に陳那菩薩に責められて水になったこと。尼犍外道が立てた塔を馬鳴菩薩の弟子が礼拝したら、忽ち崩れたことや、『止観』に臥している師子に手を触れれば怒るように、聖人を誹謗すれば邪見が現れ滅亡に向かうと述べます。

□『松野尼御前御返事』(二七二)

 一月二十一日付けで日持の母、松野尼が身延に登詣した信心に感謝された礼状です。真蹟は第一三紙目の八行のみが伝わり前文が欠失しています。本書の残存には、「鳥」となったことの故事を引き、正しい法華経を広める為に諸宗の誤りを是正したため、日本国中の人々から憎まれていると胸中を述べ、松野尼が真冬の誰も訪れない身延へ厚い志しを送り届けたことに感謝します。日持は建長二年の生まれで松野尼の二子なので、聖人よりやや若い同年代の婦人であったと思われます。

「みち(道)(踏)みわる(悪)く人も候はぬに、をも(思)いよらせ給ての御志ざし、石の中の火のごとし。火の中の蓮のごとし。ありがたく候」(一四三六頁)

 

□『四条金吾殿御書』(二七三)

 一月二五日付けで頼基から若布を供養され、同月に主従関係が修復された喜びを伝えた書簡です。本書にも近辺の用心を細かく注意されます。真蹟は伝わっておらず日意の真蹟対照本が京都の妙伝寺に伝わります。

 

○七面がれの嶽

身延の山中に若布を捜してもどこにもない、若布は海でなければない山でなければ茸はないように、法華経でなければ成仏の道はないと供養に感謝されます。庵室周辺の山々を鷹取の嶽、身延の嶽、七面がれの嶽、飯谷(いいだに)と述べています。七面(なないた)の嶽は頂上に大きな崩崖(がれ)があったことが分かります。建治二年一二月九日の『松野殿御返事』に「七面と申す山峨々として白雪絶えず」(一二六四頁)と七面山は険難な所と述べていますが、直接的に修験の霊峰とは述べていません。飯谷は不明ですが「おふや」と読むことから大野(おふや)とも言います。「いいだに」「いいさわ」とも言うように谷を表しています。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇四一頁)

○頼基の勘気がとける

勘気が解けて江馬親時の出仕に随行する要人になったとの報告を受けます。宗仲も勘当されていたが主君の一言で許されたと述べます。頼基は昨年の冬頃には不安でしたが、魔事なく解決し気分も爽快になります。聖人も「いかなる事ぞ。ひとへに天の御計らい、法華経の御力にあらずや」(一四三七頁)と、善神の守護と法華経の経力の現われと悦びます。鎌倉にいる弟子の円教房が、頼基の出仕の姿が二五騎の中でも際立って立派であり、身長といい容姿といい性格も馬も下人までも一番であると、鎌倉中の人たちが噂していると述べます。重ねて近辺の用心に注意されます。『崇峻天皇御書』と同じく孔子の「九思一言」、周公旦の「吐哺握髪」の例を挙げて、暗殺されないように日常の行動を注意されます。腹巻(簡易な鎧である腹当て)を着用することや自宅の戸の脇、厠の裏等の暗い所を調べること、火事があっても慌てて火元に近寄らないこと、他人と酒を呑んではいけないこと等が綴られます。これらの注意は聖人自身が鎌倉の草庵や流罪中に経験されたことを基にしていると窺えます。

舎弟には銭湯や草履を買う小遣いを与え、妹など女性には過失があっても怒らないことを『涅槃経』の「罪雖極重不及女人」罪が極めて重いといっても女人には及ぼさない)の文を引き訓示します。また、

「我母心ぐるしくをもひて、臨終までも心にかけしいもうとどもなれば、失をめん(免)じて不便というならば、母の心やすみて孝養となるべしとふかくをぼすべし。他人をも不便というぞかし。」(一四三九頁)

頼基の母は臨終まで妹の身の上を心配していたので、妹を大事にすれば母も安堵し孝養になると述べます。兄弟の情愛が頼基を護ることを双六の二つの石、鳥の両翼、将門や貞任などの勇将でも一人では何もできないことを例に引いて諭します。

京都の内裏、院の御所と鎌倉の御所が、正月と一二月の一年の内に二度火災にあったことに、原因は真言師を重用したので法華経・十羅刹女の諌めと述べます。蒙古は侵略の準備をしているので世相に対しても賢明な判断をするよう注意されます。山・海・空・市に免れられるならば、今年は遠くに避難して過ごすように述べます。阿私陀仙人が釈尊の生まれたのを見て、長生きしようと命を惜しんだように、法華経が広まる前兆であるので命を大事にするよう伝えます。