294. 『始聞仏乗義』~四十九院の紛争 髙橋俊隆 |
□『始聞仏乗義』(二七七)
二月二八日付けにて常忍から母親の三回忌法要の布施を受けた返書です。真蹟九紙が法華経寺に所蔵され重要文化財に指定されます。漢文の問答体にて書かれ、別名を『就類種相対法門事』と言うように、就類(じゅるい)種と相対種の二種開会の法門を述べます。そして、法華経の相対種の開会により末代凡夫の即身成仏を示し常忍の母の成仏を説きます。 始めに天台が説いた前代未聞の『止観』とは何かを問います。実践の修行として三種止観を説いている中の円頓止観を挙げ、法華三昧の異名であるから法華経の修行と述べます。そして、この法華三昧とは何かを問い、末代の凡夫が法華経を修行し仏果を開くことに、就類種と相対種の二つの開会があるとします。 「問、法華三味心如何。答、夫末代凡夫修行法華経意有二。一就類種開会、二相対種開会也。問此名出何。答、法華経第三薬草喩品云種相体性四字。其四字中第一種一字二。一就類種、二相対種」(一四五二頁) この就類種・相対種は薬草喩品の「唯だ如来のみあって、此の衆生の種相体性、何の事を念じ何の事を思し何の事を修し云何に念じ云何に思し云何に修し何の法を以て念じ何の法を以て思し何の法を以て修し何の法を以て何の法を得ということを知れり」(『開結』二〇七頁)の、「種相体性」の「種」を解釈した『法華玄義』を引きます。 就類種は正因・了因・縁因の三種の開会を説き、この正・了・縁の三因仏性を開発して成仏を説きます。相対種は煩悩・業・苦の三道を、そのまま法身・般若・解脱の三徳に転ずると説きます。就類種の根拠は法華経にあるが、義は爾前経にも一分あるのに対し、相対種は法華経に限られた即身成仏の法門と述べます。これは信じ難いとして、例えば火から水は出ないし石から草は生じないと同じように、悪因は悪果を感じ、善因は善報を生ずるのは仏教の定めと問います。これに答えて「能以毒為薬」(変毒為薬)の釈を引いて示します。 「答汝難大道理也。我不弁此事。但付法蔵第十三天台大師高祖龍樹菩薩釈妙法之妙一字譬如大薬師能以毒為薬等云云。云毒者何物我等煩悩業苦三道也。薬者何物法身・般若・解脱也。能以毒為薬者何物。変三道為三徳耳。天台云妙名不可思議等云云。又云夫一心乃至不可思議境意在於此等云云。即身成仏申此是也」(一四五三頁) 「譬えば大薬師がよく毒を以って薬とするようなものである」の文は龍樹の『大智度論』です。毒と言うのは凡夫の煩悩・業・苦の三道のことで、薬とは法身・般若・解脱の三徳のことです。毒を以って薬とすることが、三道を転じて三徳とすることです。天台の釈は『法華玄義』の「妙とは不可思議と名づく」と言う文。『止観』の一心に十法界を具しているの文。「不可思議境意」の文を挙げて答えます。つまり、相対種は法華経の即身成仏の法門とするのです。そして、末代の凡夫には計り知れないことではあるが、法華経の二乗作仏は変毒為薬を示したことであり、これが秘密と釈されたことを信ずべきと述べ、このような相対開会の法門を知ることにより、始めて法華経を聞法したことになると述べます。そして、この「始聞法華経」により、 「以之案、法華経唯仏与仏乃能究尽者爾前灰身滅智二乗押煩悩業苦三道、説法身般若解脱二乗還作仏。菩薩凡夫亦如是釈也。故天台云、二乗根敗名之為毒。今経得記即是変毒為薬。論云、余経非秘密法華是秘密等云云。妙楽云、論云者大論也云云。問、如是聞之有何益乎。答云、始聞法華経也。妙楽云、若信三道即是三徳尚能度於二死之河。況三界耶云云。末代凡夫聞此法門唯我一人非成仏父母又即身成仏。此第一孝養也。為病身之故不委細。又々可申」(一四五四頁) と、常忍が三回忌に『止観』の意義を質問して、この法門を聞くことは母親の即身成仏を促すことであり、第一の孝養であると褒めます。末尾に聖人が病身であることを伝えます。 □『弘安改元事』(二七八)
二月二九日に全国に疫病が蔓延したため、弘安と年号が変わったことを伝えます。一紙三行の前後を欠く断片で西山本門寺に所蔵されている新加の遺文です。 ○四十九院の紛争
一月一六日に起きた四十九院の紛争が三月に表面化します。厳誉は日興・日持ら四人に対し、法華経を「外道の大邪教」と批判します。そして、四十九院に在住する日興等の住房・田畑を奪いとり追放したのです。故に三月、日興はこの不当を訴え(『四十九院供僧日興等連著申状』)対決しました。「駿河の国蒲原の庄・四十九院の供僧等謹んで申す。寺務たる二位律師厳誉の為に日興並に日持承賢賢秀等の所学の法華宗を以て外道大邪教と称し往古の住坊並に田畠を奪い取て寺内を追い出せしむ謂れ無き子細の事」(原漢文『宗全』第二巻九三頁)と申し出ます。 この『四十九院申状』の案分は聖人が作成されたと言います。(菅原関道稿「弘安初頭における日蓮門弟と天台僧の論争」『興風』第一七号八四頁)。『断簡』(二〇九)の真蹟三行「法師申。為寺務二位律師厳譽雖無世間一分之科」(二九二八頁)が、多古町正覚寺に所蔵されます。終わりの署名は逆次に上がるので、承賢・賢秀・日持、日興の名前にて訴状が出されます。(堀日亨著『冨士日興上人詳伝』上、一一八頁)。 まず、法華経を邪教と批判したこと。住坊や田畑を奪い寺内を追い出されたことを不当として幕府に訴えます。教義としては「已今当の三説」を挙げ、釈尊一代五十年の中において法華経のみが真実と述べます。諸宗は大小・権実の勝劣を知らず、師子相伝の口決を信じ秘密の法を行っているが効験はないと批判します。そして、王法は仏法の擁護によって国家の長久が得られるので、正否を正すため厳誉と召し合わせることを願い出ます。更に『立正安国論』の他国侵逼の的中にふれ、蒙古が再来しても法華経を信受するならば戦勝すると主張します。このことから日興等の弘教を窺うことができ、この頃より身延に往復していたと思われます。(池田令道稿「本圀寺蔵日興本『善無畏抄』の考察」『興風』第二七号三九二頁)。この訴状は後に熱原法難へと展開します。 ○御本尊(四七)
三月一六日に顕示された御本尊です。通称「病即消滅御本尊」と言い中山の法宣院に所蔵されます。紙幅は縦六六.一㌢、横四三.四㌢の一枚継ぎで右下に日親の自署花押があります。通称のように首題の横に釈迦・多寶、四菩薩を勧請し、その両横に「不老、此経即為閻浮提人病之良薬、不死、得聞是経病即消滅」の讃文があります。ただし、四天王・不動愛染は勧請されません。また、この御本尊より「経」の字体が第三期に入ります。先に述べたように分身・善徳仏の勧請も見られなくなります。 ○御本尊(正中山霊宝目録)三月一六日
御本尊(四七)と同じく「病即消滅」の御本尊です。相違点は三枚継ぎと記録していることです。或いは一紙にて本紙の地の一部に金の縁取り線があり装飾本尊とも言います。(寺尾英智著『日蓮聖人真蹟の形態と伝承』一二頁)。 □『立正安国論広本』(二七九)
三月(推定は春)に『立正安国論広本』を再冶されます。その理由に公場対決に備えて浄書したことが考えられます。『定遺』は建治・弘安の頃とし、『対照録』は筆跡から弘安元年とします。真蹟は二四紙が京都本国寺に所蔵されます。『立正安国論広本』は聖人の手元に残り日朗に譲られ京都本国寺に現存します。 文応本の『立正安国論』に経文の引用と加筆し長文になってます。特に東密・台密批判に及び行者自覚が文章化されます。通常、『立正安国論』は文応本を指します。文応本を略本と呼ぶことはないので、本書を広本と呼ぶのは適切ではないとします。法華経寺の日祐が『本尊聖教録』に「再治本」と記していることに倣うべきと言います。(小松邦彰稿「日蓮遺文の系年と真偽の考証」『日蓮の思想とその展開』所収九六頁)。 |
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