295. 『諸人御返事』~『教行証御書』                 髙橋俊隆

□『諸人御返事』(二八〇)

○公場対決の知らせ

「宗論」があると言う「内内」の情報は、建治二年七月二六日の『報恩抄送文』(一二五〇頁)に見えました。その一年八ヶ月後の三月一九日付けにて、公場対決があるとの知らせが二一日の夜八時に届きます。同日の戌の時(午後八時)に日朗を中心とした門弟に回状を送ります。真蹟三紙が完存し平賀本土寺に所蔵されます。

頼基の主従関係と宗仲の親子関係が修復された報せが正月に届きました。(『四条金吾殿御書』一四三七頁)

どちらも良観が池上父子と江間氏に圧力をかけて画策したことでした。良観は策略が失敗した反動として、聖人が鎌倉に不在なので一月から三月にかけて宗論を行うと放言したのです。門弟はこれに乗じて幕府に働きかけ宗論の実現化を願い出ました。聖人に送られた真言と禅宗との宗論の知らせはこのような背景をもっていました。

立教開宗いらい公場対決を願い求めていました。(『三澤鈔』一四四七頁)。法論に勝つための論理の構成や、経論章疏の引用は相手に知られないように配慮されます。特に身延期は一部の弟子にしか教授しなかった天台密教の論述をします。佐前の段階においては真意を明かしませんでした。それほど用意周到に準備をされたのです。聖人が待ち望んできた宿願が実現し、これにより仏記が符契して「五五百歳」に法華経が広まると喜ばれます。意気揚々とした漢文体にて書かれます。

「三月十九日和風並飛鳥 同廿一日戌時到来。日蓮一生之間祈請並所願忽令成就歟。将又五々百歳仏記宛如符契。所詮召合真言禅宗等謗法諸人等令決是非、日本国一同為日蓮弟子檀那。我弟子等出家為主上上皇師、在家列左右臣下。将又一閻浮提皆仰此法門。幸甚々々」(一四七九頁)

□『教行証御書』(二八一)

○聞法下種

『諸人御返事』と同日の三月二一日に三位房に宛てた書状です。『朝師本』に収録されます。本書は三位房から対論問答についての質問に答えたものです。桑ヶ谷問答の経験から宗論の責任者とされました。「宗論」(一四七九頁)に備え、諸宗との法論における法門や問答の心構えを指導されます。その法門として「教行証の三証」を教えます。末法は教のみあって行・証はないとし、機根が五逆・謗法の時には、妙法五字を下種とする「末法下種」を教示されます。

「されば正法には教行証の三倶に兼備せり。像法には有教行無証。今入末法有教無行証在世結縁者無一人。権実二機悉失せり。此時は濁悪たる当世の逆謗の二人に、初て本門の肝心寿量品の南無妙法蓮華経を以て為下種。是好良薬今留在此汝可取服忽憂不差是也」(一四八〇頁)

本門の肝心とする寿量品(「内証の寿量品」『観心本尊抄』七一五頁)は久遠実成を説きます。久成釈尊の因行果徳を妙法蓮華経の五字に収めました。妙法蓮華経は釈尊の因果の功徳です。ここに、寿量品の肝心は南無妙法蓮華経のこととして題目に下種を認めます。久成釈尊の「久種」(『観心本尊抄』七一五頁)が良薬として下種となります。

 次に「末法下種」をする具体性として不軽菩薩の「聞法下種」を述べます。

「過去の威音王仏の像法に大乗を知る者一人も無りしに、不軽菩薩出現して教主説置給二十四字を向一切衆生令唱がごとし。聞彼二十四字者無一人亦値不軽大士得益。是則前聞法を下種とせし故也。今も亦如是。彼は像法、此は濁悪の末法。彼は初随喜の行者、此は名字の凡夫。彼は二十四字の下種、此は唯五字也。得道の時節雖異、成仏所詮は全体是同かるべし」(一四八〇頁)

不軽菩薩は威音王仏の像法に生まれます。聖人は釈尊滅後の末法に生まれ法華経の行者となります。その違いを不軽菩薩は初随喜の行者で聖人は名字の凡夫として、不軽菩薩は「我れ深く汝等を敬う」の二十四文字の法華経を弘め、聖人は妙法五字を弘教された比較されます。得道の違いはあっても目的である成仏は同じです。つまり、不軽下種と末法下種は得道の時節は異なっていても、同じ聞法下種による成仏と述べます。

そして、末法は行・証は無くなる時であるが、薬王品に「後五百歳広宣流布」と説かれているように、この時にこそ法華経は「末法万年」(一四八一頁)に広宣流布すると述べます。諸宗の学者は爾前権経に執着しているため、この「法華経の下種」を忘れ、「三五塵点の昔」と説かれた過去の謗法罪を知らないと述べます。今もまた衆生成仏の「純円妙経」(一四八一頁。「本門の肝心寿量品の南無妙法蓮華経」を捨てていると述べます。

 

○三位房から法論についての質問

「状云難問云爾前当分之得道等云云。涅槃経第三善男子応当修習の文を可立。受之弘決第三所謂久遠必無大者と会して、爾前諸経にして得道せし者は、依久遠初業なるべしと云て一分の益無之事を治定して、其後滅後の弘経に於ても亦復如是、正像の得益証果の人は依在世結縁なるべし等云云」(一四八一頁)

 三位房から質疑があった「爾前得道」について答えます。爾前得道とは法華経以前に成仏を認めるものですが、ここに『涅槃経』を引いたのは成仏の基となっているのは、久遠の過去に法華経の下種(「久遠の初業」)があり、在世に結縁があったからで、余経を下種とした成仏ではないことを強調します。『涅槃経』の巻三の文とは、「善男子、応当に仏・法及び僧を修習して常に想を作すべし。是の三法には異想有ること無く無常相無く変異想無かれ。若し三法に於いて異の想を修する者は、当に知るべし、是の輩は清浄の三帰、則ち依処無く所有の禁戒皆具足せず、終に声聞・縁覚・菩提の果を証すること能わず。若し能く不可思議に於いて常に想を修せば則ち帰処有り。善男子、譬えば樹に因りて則ち樹影有るが如し」の文です。つまり、仏法僧の三宝が一体となって本有常住を修得することにより、爾前の諸経における声聞・縁覚・菩薩の得道も可能になることです。『涅槃経』の文の意味は法華経の寿量品のことを説きます寿量品を木に譬え爾前・迹門を影に譬えます。 

そして、釈尊滅後の正像時に成仏の利益を得たのは、在世の結縁が成就したと教えます。爾前得道を執拗に問われたら、「未顕真実」の文により対処し、それよりも深い「正直捨方便」「世尊法久後」の文には触れないように指導します。『観経』の西方往生も方便の仮の浄土の教えであり、真実は法華経の下種であることを、「未顕真実」や方便品の「但以仮名字」の文、法師品の「已今当の三説」等を証文として出すように指示され、他に『法華玄義』『釈籖』の経釈をよく理解して、大事な時にだけ引用するように教えます。(「経釈能々料簡可秘」一四八二頁)

次に、真言宗の質疑の論点を述べます。まず、弘法が法華経を戯論とし釈尊を無明の辺域としたのは何の経文によるのか。その経文を答えてきたら、大日如来は三世の諸仏のどこに位置する仏なのか。中国の善無畏と金剛智の偽りを知っているかと問い、善無畏が一行に大日経疏で真言が法華経に勝れるとの誤りを筆受させたことを糾明するように述べます。一念三千の法門は大日経には説かれていないこと、善無畏や金剛智が中国へ渡って一念三千の法門を習い理同事勝の邪義を立てたこと、最大の僻見は灌頂の時に壇上に曼荼羅を敷いて仏の頂を踏むことで、三世の諸仏はどこにそのようなことを説いているかを糾問する主な論点を示します。

その他のこととして、常日ごろ教えている通りに問答対論をするように述べます。法論の順序や問答の方法については常に指導していたことが分かります。また、相手が何宗であっても真言の法門を主張したなら、真言の誤りを糾明するように指示されます。これは真言の教えが禅宗など諸宗に取り入れられていたためです。

 次に、念仏者との法論を述べます。まず、念仏の基本となる教えについて、曇鸞の立てた難行道・易行道。道綽が立てた聖道門・浄土門。善導が立てた雑行・正行。法然が立てた捨閉閣抛について、その依拠となる確かな経・論はあるのかを糾明すること。その経論を提示したとしても、経に権実の違い論に通申別申の違いがあり、仏説による白論、仏説に依らない黒論があるので慎重に判断すべきと述べます。そして、邪義が露見したなら譬喩品の通り、誹謗の罪により堕獄することを説き示し、周りにいて聴聞している人々にも解らせることが大事でと述べます。法論においては第三者にも聞かせて納得させることを教えます。最も重視することは、諸経の勝劣を判断するのは成仏の有無にあることです。全ては現証にあるとされ善無畏や一行、弘法・慈覚の臨終の悪相を証拠とします。死相による成仏の判断は幼少からの課題でした。来世に続く救済を求めていたからです。臨終の悪相は謗法の罪科の現れとして、正法を受持する行者にはあり得ないとします。

問答の態度は柔らかな中にも強い意思をもって論じ、両眼を細目に開いて面相に威厳を称え静かに言上するようにと、顔の表情や口調を指示されます。徒弟教育を細やかに指導されていたこと分かります。

「一切は現証には不如。善無畏・一行が横難横死、弘法・慈覚が死去の有様、実に正法の行者如是有べく候乎。観仏相海経等の諸経、並に龍樹菩薩の論文如何が候や。一行禅師の筆受の妄語、善無畏のたばかり、弘法の戯論、慈覚の理同事勝、曇鸞・導綽が余行非機、如是人々の所見、権経権宗の虚妄の仏法の習にてや候らん。それほどに浦山敷もなき死去にて候ぞやと、和かに又強く、両眼を細めに見、眼貌に色を調へて閉に言上すべし」

(一四八四頁)

次に、法華経と余経の「得益」についての質義に答えます。これは相手が諸経の利益を設問した時の対応で、諸経の得益では不足と答えるように述べます。諸宗の依経に釈尊・多宝・十方分身諸仏の三仏の証明があるか否かが要点となります。続いて「六難九易」「五百塵点の顕本」「二乗の成不成、龍畜下賎の即身成仏」は法華経に限ることにふれ、「十法界の開会」「草木成仏」を示します。また、法華経は「二十の大事」の勝れた法門があり、その中でも五百塵点劫の本地を顕した寿量品は、「無作本覚(有)の三身と成し」(一四八五頁)た一念三千の極理と述べて、諸経を論破するように指示されます。ただし、公場対決の場を離れた所では軽率にこれらの法門を吹聴してはならないと厳命し、「日蓮己証」(一四八五頁)と言う意味はここにあると述べます。

聴衆に向かって法華経が尊いからこそ多宝仏は遠方より来て証明され、分身来集の三仏も御舌を梵天につけ虚妄ではないと証明したことを是認させ、末法弘通を八十万億那由佗の菩薩の発誓を止めて地涌の菩薩に別付嘱されたと論を進めること。相手は必ず文証を提示させるから、その時にこの湧出品の地涌別付属の文や、『法華文句』『文句記』に、迹化他方の菩薩を止めた理由の三義と、本化の菩薩を召し出した理由の三義を解釈した「止召三義」の釈を用いるように述べます。「止召三義」は「前三後三六釈」と言い『法華文句』に示されます。「下方を召すの三義」の法門は、末法の行者が不惜身命の弘通をする核心です。ゆえに、「但日蓮之門家(一門)の大事不如之」(一四八六頁)と最重要な法門とされます。

しかし、この別付属の解釈に対し、聖人の他宗折伏を批判するため、竜樹の『大論』「自法愛染不免堕悪道」「自法の愛染の故に他人の法を呰毀せば、持戒の行人と雖も地獄の苦を脱せず」)証文として反論されると述べます。この文は外道の出家者が自らの法を賛美して、他人の法を罵ることを戒めたものです。諸宗はこの文を用いて聖人の他宗批判を問責したのです。これに備えて龍樹は権教に執着して実教である法華経を誹謗する「執権謗実」の罪を知らない訳がないと述べます。故に同じ『大智度論』にある「余経は秘密に非ず法華是れ秘密」の文を引き、同じく大薬師の譬えである「変毒為薬」の文を挙げて、法華経こそが二乗作仏を説く真実の教えであると明確にすることを指示します。法華経の秘密とは「成仏の種子」と定めたことです。逆に竜樹は弘法や曇鸞、そして、質問者こそが悪道に堕すと指摘された謗法者と答えるように教えます。

 次に、嘗て良観が時宗(法光寺殿)に訴状を提出したことを挙げます。これは竜口法難の前に提出した訴状のことです。ここには聖人が律宗の斎戒は堕獄と批判する論拠を示せ、及び念仏は無間地獄の業と批判する証文を問い質す等の六ヶ条を掲げた訴状でした。「行敏初度の難状」『行敏御返事』(四九六頁)聖人は常に経論を証文として法論を行うので、良観の一方的な告発は悪印象を与えるためです。今回も宗論を持ち上げて聖人を愚弄するなら、幕府へ目安(陳情)を提出して良観に次のように言明するように指示します。

「是体の爾前得道の有無の法門六箇條云云。然るに推知するに極楽寺良観が如已前日蓮に相値て可有宗論由る事有之者上目安対極楽寺可申。某師にて候者は去る文永八年に蒙御勘気佐州へ披遷給て後、同文永十一年正月の比、蒙御免許帰鎌倉。其後対平金吾様々の次第申し含せ給て、甲斐国の深山に閉篭らせ給て後は、何なる主上女院の御意たりと云ども、出山内諸宗の学者に法門あるべからざる由仰せ候。随て其弟子に若輩のものにて候へども、師の日蓮の法門九牛が一毛をも学及ばず候といへども、付法華経有不審と仰らるる人わたらせ給はば存候、なんど云て、其後は随問而答の法門可申」(一四八七頁)

と、師匠の聖人は佐渡赦免の後に頼綱と対面して、種々の事を申し含めて身延に閉籠し、天子や皇后が召喚されても身延を出て宗論はしないことを述べ、三位房が代わって宗論に立ち会うことを宣言するように指示します。「日蓮が弟子等は臆病にては不可叶」(一四八七頁)と弟子としての自信と善神の守護の確信をもって法論に臨む心がけを促します。

 戒律について、律宗は破戒により無間地獄に堕ちること、これに対し法華経を受持することが持戒(「是名持戒行頭陀者」)であり、聖人の戒律は肝心の妙法五字を受持する「妙戒」と述べます。妙法五字は三世諸仏の万行万善の功徳を集めたものであるから、妙法五字には万戒の功徳が納まっているとします。この妙戒を一度でも持てば、後に破ろうとしても破れない金剛宝器戒と論じるように指示します。三世の諸仏は妙法五字を受持して三身ともに無始無終の仏に成られたことを、「諸教の中に於いて之を秘して伝えず」と天台が説いたと述べます。爾前・迹門の戒は一分の功徳もないので一日の斎戒も無用とします。また、この「本門の戒」を弘通することにより、前代未聞の大瑞が起きるとして、正嘉の地動・文永の長星を挙げます。

そして、釈尊滅後いらい本門の本尊と戒壇を広めた者はいないとして、今、聖人が法華経を日本国に広めたことにより、一切の衆生が成仏できると述べます。妙法蓮華経の題目受持と、本門の本尊仏、本門の戒壇が述べられ、この前代未聞の大法が広まる時とします。

末法は釈尊在世と同じように教行証の三証が具備していると述べます。その理由は既に地涌の上首である上行菩薩が出現されていること。それ故に釈尊から結要付属された大法である妙法五字の題目が広まると述べます。この大法は釈尊在世の四十二年、並びに法華経の迹門十四品にも秘して説かれなかったのを、本門の正宗分に至って始めて説き顕わされたと述べます。金輪聖王の出現の先兆と同じ優曇華に巡り会ったと喩えます。

 最後に、聖人が身延に入ったままなので、良観は宗論をして不審を払うから即刻、鎌倉に上れと自讃毀他しているが、この行為は日頃、戒法を重視している律僧の教えなのかを強いて問うように述べます。佐渡から鎌倉に帰った時は、極楽寺の門戸を閉じて中へ入らせないようにし、良観は風邪と仮病してまで対決を避けたと述べます。律宗国賊の主張は聖人と同じ述べ、正論を主張する言葉使いに注意し自惚れた風体を見せてはならないと注意します。法論は正邪を正すことが目的なので、。身口意の三業を整え相手を貶すような卑しい態度を見せないように注意し本書を結びます。三位房の性格から対論の態度を教えます。