296. 『上野殿御返事』~(『南條殿御返事』(439)             髙橋俊隆

□『上野殿御返事』(二八二)

○姫御前の「臨終正念」

 四月一日付けにて時光から白米一斗、芋一駄、蒟蒻五枚を供養された礼状です。『興師本』に収録されます。石河兵衛に嫁した姉(重須殿女房の娘の死去が知らされました。姫御前とは貴人の娘の敬称で若い未婚の女性のことです。窪尼に宛てた書簡にも「ひめ御前」(一六四五頁)とあり娘のことを指します。石河兵衛は重須郷の地頭である石河新兵衛のことで入道して道念日実と名乗ります。書簡を通して教示を受けました。娘も信心が深く聖人に度々手紙を送っていたことが本書より分かります。

 姫御前より病のない人でも疫病で年を越せないように見え、もともと病身である自分の症状が悪くなってきたので、これが最後になると死を覚悟して書いた手紙が、三月一四日の夜分に届いていたと述べます。前年の建治三年の秋頃から全国に疫病が流行しました。気にかけていた姫御前が死去したことを悼む書状です。臨終に南無妙法蓮華経と唱えた宿善と、法華経の教えを信じ「臨終正念」(一四九三頁)して成仏したと諭します。

 釈尊が阿弥陀経等を説いたのは小乗教の教えを方便と打破するためであり、法華経を説いた後は爾前経は方便として捨てよと説きます。その法華経の真実は多宝仏や十方分身の諸仏が証明され明らかと述べます。しかし、善無畏や禅宗等の開祖は将門や貞任に騙されたように釈尊に背き、日本国の人々を大怨敵とさせてしまい、聖人を迫害したため善神の責めを受けたと述べます。臨終正念であったのは、法華経の教えが正しいという証拠であると述べ姫御前の信仰を褒めます。

弟子の中には法門を理解できない者がいると述べます。末法には法華経の肝心である南無妙法蓮華経を唱題することが、聖人が教える法門と述べます。姫御前はこの教えを護って死を迎えたことを尊びます。この一文は末法の修行は唱題が正行であることを教示します。

「此尼御前は日蓮が法門だにひが事に候はば、よも臨終には正念には住し候はじ。又日蓮が弟子等の中になかなか法門しりたりげに候人々はあしく候げに候。(中略)。末法に入ぬれば余経も法華経もせん(詮)なし。但南無妙法蓮華経なるべし。かう申出て候もわたくし(私)の計にはあらず。釈迦・多宝・十方諸仏・地涌千界の御計也。此南無妙法蓮華経に余事をまじ(交)へば、ゆゆしきひ(僻)が事也。日出ぬればとぼしび(灯)せん(詮)なし。雨のふるに露なにのせんかあるべき。嬰児に乳より外のものをやしなうべき歟。良薬に又薬を加ぬる事なし。此女人はなにとなけれども、自然に此義にあたりてしををせるなり。たうとしたうとし」(一四九一頁)

 

□『檀越某御返事』(二八三)

○宗論の動きと停止

宗論の兆しは建治元年の暮れに発し真言師が運動を起こす情報が入っていました。良観は身延在山の聖人に対して宗論をするから早く鎌倉に上れと誘引していました。(『教行証御書』一四八九頁)。このような良観の態度が宗論の実現に向かったのです。これを受けて聖人は三位房に良観と法論をするよう指示します。

・宗論・公場対決の経過

建治二年一月一一日  真言師が蜂起した       『清澄寺大衆中』(一一三二頁)

        七月実現に向かうが八月に立ち消え   『報恩抄送文』(一二五〇頁)

弘安元年三月一九日  再び宗論の気配が出る     『諸人御返事』『教行証御書』(一四七九頁)

     四月一一日  宗論中止 流罪の噂      『檀越某御返事』(一四九三頁)

しかし、三月二一日付け『諸人御返事』(一四七九頁)の急使から二〇日ほど経過した四月一一日に、公場対決の中止(沙汰止み)の書状が鎌倉から届きます。これが『檀越某御返事』です。四月一一日付けにて宛名はありませんが、「宮仕い」とあることから頼基に宛てたとされます。後代の写本には「四条金吾」とあり、頼基が鎌倉のこれらの情報を隠密に伝えていたと思われます。真蹟四紙が法華経寺に所蔵されます。弟子が動揺していたのか、他筆による丁附けが第二紙と三紙が倒錯しています。

○三度目の流罪

宗論の首謀は真言律宗の良観にあったので、教団の分裂を策略して頼基や宗仲に圧力をかけました。聖人が鎌倉から遠くに隠棲しても脅威だったのです。宗論を利用して処断しようと画策したとも言えます。しかし、教団は冷静な対決姿勢を布いたので騒動は起きませんでした。不利と見た真言師は宗論を中止します。この急転は良観と頼綱が三度目の流罪の発令を陰謀したのではないかと言います。(岡元錬城著『日蓮聖人 久遠の唱導師』五二四頁)。後に虚御教書と分かる三度目の流罪の噂が広まったのです。宗論ではなく一気に流罪の方向に傾いたのです。頼綱は騒動に言寄せて聖人を流罪にする狙いがありました。

これを知らされた聖人は流罪を甘受します。佐渡に流罪した時には災害が起きました。行者を迫害すれば善神の罰を被るのは既知のはずとして、事実ならば幕府滅亡の兆しとの考えを述べます。また、これが真実であり現実となれば、行者として百千万億倍の幸せであると気概を述べます。

「今度ぞ三度になり候。法華経もよも日蓮をばゆるき行者とわをぼせじ。釈迦・多宝・十方の諸仏地涌千界の御利生、今度みはて(見果)候はん。あわれあわれさる事の候へかし。雪山童子の跡ををひ、不軽菩薩の身になり候はん。いたづらにやくびやう(疫病)にやをかされ候はんずらむ。をいじに(老死)にや死候はんずらむ。あらあさましあらあさまし。願は法華経のゆへに国主にあだまれて今度生死をはなれ候ばや。天照太神・正八幡・日月・帝釈・梵天等の仏前の御ちかい、今度心み候ばや」(一四九三頁)

疫病や老病で死ぬよりも、過去の雪山童子(施身聞掲)や「不軽菩薩の跡」を継ぐ不惜身命の覚悟を披瀝します。流罪の御教書は頼綱が仕組んだ偽物だったのです。時宗はこれを阻止したので流罪はありませんでした。(『窪尼御前御返事』一五〇二頁)。聖人は前年の一二月三〇日より下痢に苦しみます。頼基は聖人を心配されて出家の意思を伝えます。しかし、頼基達の身の安全は善神に守護を祈願するので、奉公を「御みやづかい(仕官)を法華経とをぼしめせ」と、これまで通りに出仕するように指示し、法師功徳品の文を引き「一切世間治生産業皆与実相不相違背は此なり」と、日常の生活を法華経の修行と思い昼夜に励むように諭します。

 □『是日尼御書』は建治三年四月一二日とします。

□『南條殿御返事』(四三九)

弘安元年卯月一四日付け、いも・はじかみを供養された時光への礼状です。宮城県妙教寺に所蔵されます。本文は他筆ですが花押は自署されます。「をりふしそうそう折節匆匆)なる事候し間、委細の御返事に不及由候ところに候」(三〇二一頁)と返礼が遅れたと述べます。これは実相寺との対決や四十九院の不当を主張していた時期のことです。聖人も対策に当たって慌ただしくされていたことが分かります。

○御本尊(四八)四月

 四月二一日付け「優婆塞日専」に授与されます。紙幅は縦六八.八㌢、横四四.九㌢、二枚継ぎの御本尊で京都立本寺に所蔵されます。