297.『大田左衞門尉御返事』~『南条殿女房御返事』 髙橋俊隆 |
□『太田左衛門尉殿御返事』(二八五)
○太刀一
四月二三日付けで乗明から金銭十貫文・太刀一振り・五明(おうぎ・扇)一本・焼香二十両を布施された礼状です。『朝師本』に収録されています。乗明の書簡は一八日に下総から出され二三日の昼に着きました。「軈」(やがて)とあり、暫く時間が経過してから封を開いて読みました。乗明の大厄と正月の下旬から身心に苦労が多く、病気気味と書かれていたので早速、返書されました。 ○乗明の厄年
まず、「十二因縁」にふれ煩悩・業・苦の三道の生死を述べ五七歳の大厄に答えます。十二因縁は人間が苦や迷いを感ずる原因を分析したもので、無明より始まり老死で終わる因果の理法を言います。倶舎論に説かれた縁覚の観門です。この十二因縁を過去・現在、未来の三世に当てます。 「十二因縁と申法門あり。意は我等が身は以諸苦為体。されば先世に業を造る故に諸苦を受け、先世の集煩悩が諸苦を招き集め候。過去の二因・現在の五果・現在の三因・未来の両果とて三世次第して一切の苦果を感ずる也。在世の二乗が此等の諸苦を失はんとて、沈空理灰身滅智して、菩薩の勤行精進の志を忘れ、空理を証得せん事を真極と思也。仏方等の時、此等の心地を弾呵し給し也。然るに生を受此三界者離苦者あらんや。羅漢の応供猶如此。況底下の凡夫をや。さてこそいぞぎ生死を離るべしと勧め申候へ」(一四九五頁) 無明・行は過去の二因で、これが因となって識・名色・六入・蝕・受の現在の五果ができます。愛・取・有は現在の三因で、これが因となって生・老死の二果が決まります。この十二の因縁により六道を輪廻します。また十二因縁には流転門と環滅門があります。無明によって行を生じ行によって識を生じ、最後に生によって老死を生ずることを流転の十二因縁と言います。、逆に無明を滅することにより行を滅し、行を滅して識を滅し老死を滅することを環滅の十二因縁と言います。化城諭品に説かれます。(『開結』二五三頁)。釈尊の在世の二乗はこの憂い悲しみ苦しみ悩み(憂悲苦悩)を離れるため灰身滅智を望みましたが、それは空理であって根本的な苦を免れることはできません。それよりも衆生を救済する菩薩行の必要性を説きます。つまり、人身は諸苦を体としていることを説いて化他行を促したのです。 次に厄年についての解釈をします。厄年の説の起源について八卦を挙げます。伏羲の時代に黄河から不思議な亀が発見されます。この亀の甲羅に八卦の絵文字が書かれていました。易学では河の中から現われた龍馬の背中にあった模様と伝承され河図(かと)と呼びます。この亀卜には人の一生の厄年の凶相が記されていたのです。 「厄年の人の危き事は、少水に住む魚を鴟鵲なんどが伺ひ、燈の辺に住める夏の虫の火中に入んとするが如くあやうし。鬼神やゝもすれば此人の神を伺ひなやまさんとす。神内と申す時は諸の神在身万事叶心。神外と申時は諸神識の家を出て万事を見聞するなり。当年は御辺は神外と申て諸神他国へ遊行すれば慎て除災得楽を祈り給べし。又木性の人にて渡せ給へば、今年は大厄なりとも春夏の程は何事か渡らせ給べき。至門性経云木遇金抑揚火得水光滅土値木時痩金入火消失水遇土不行等云云。指て引申べき経文にはあらざれども、予が法門は四悉檀を心に懸て申なれば、強て成仏の理に不違者且世間普通の義を可用歟」(一四九六頁) と、厄年の危険なことを述べ災を除き楽を得る信心を勧めます。伏羲は中国古代の伝説上の神農・黄帝と共に三皇の一人とされ、羲農と神農の二人を羲農と称して羲農の世を立正安国の理想社会とされます。また、陰陽五行説を用いて乗明は木性であるから春と夏の頃は何事もないと述べます。 聖人はこれらの道理を成仏の根本問題に違背しなければ採用されます。これは「四悉檀」の教えに準じることとします。世間一般の道理に順応するのは世界悉檀です。日常生活の中に古来からの道理を用いて解決するのが四悉檀です。更に深く心身の病気を治癒する良薬が法華経であると薬王品を引きます。乗明の厄除けの為に方便品と寿量品を書写したので、これを大切に重ね包んで肌身に離さないようにと授けます。そして、方便品の十界互具(十界の衆生の成仏)と、寿量品に明かされた久遠実成の一念三千の要旨を書き連ねます。法華経を信仰できることは過去に聴聞した縁があることを明かします。 「正く久遠実成の一念三千の法門は前四味並に法華経迹門十四品まで秘させ給て有しが、本門正宗に至て寿量品に説顕し給へり。此一念三千の宝珠をば妙法五字の金剛不壊の袋に入て、末代貧窮の我等衆生の為に残し置せ給し也」(一四九八頁) そして、華厳・真言師が一念三千の法門を盗取したことを説き、この一念三千の宝珠を妙法五字の袋に入れて、末代の衆生の為に留め置かれたと述べます。この表現は『観心本尊抄』の「不識一念三千者 仏起大慈悲 五字内裹此珠令懸末代幼稚頚。四大菩薩守護此人大公周公摂扶成王四晧侍奉恵帝不異者也」(七二〇頁)、と同じ筆致です。方便・寿量品の本迹二門の教義の重要性と、特に事一念三千の本門の教義は地涌の菩薩である聖人が始めて宣顕したと述べます。迹化の菩薩と本化の菩薩の違いを明確にします。 「彼天台大師は迹化の衆也。此日蓮は本化の一分なれば盛に本門の事の分を弘むべし。(中略)さては鎌倉に候し時は細細申承候しかども、今は遠国に居住候に依て期面謁事更になし。されば心中に含たる事も使者玉章にあらざれば不及申。歎かし歎かし。当年の大厄をば日蓮に任せ給へ。釈迦・多宝・十方分身の諸仏の法華経の御約束の実不実は是にて量るべき也。又又可申候」(一四九八頁) 乗明に授けた御守りは法華経の秘法が籠められており、信心を強く深めれば必ず善神が守護されるから、厄年でも心配しないようにと諭します。鎌倉に在った時にはお会いして、細々と教えを話すことができたが、身延とは離れているため使者や書簡でなければ意思を伝えられないのが嘆きと述べます。信徒の一人一人にお会いして、法華経の法門や近況をお話しされたかったことでしょう。末筆に聖人を信じ厄を逃れたら、法華経は真実であることを判断するように述べます。 □『華果成就御書』(二八六)
○道善房三回忌
四月に清澄寺の兄弟子の浄顕房・義浄房に宛てた書簡です。宛先から別称『与浄義二子書』と称します。真蹟は伝わっておらず『朝師本』に収録されています。道善房は建治二年三月一六日に逝去しました。この頃には浄顕房が師跡を継いで清澄寺の山主となっていました。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇一〇五五頁)。その折り『報恩抄』二巻を嵩が森で読み上げたことの感謝を述べます。弘安元年は三回忌に当たり師恩を述べて近況を伺います。法華経の行者となれたのは道善房の恩であると述べます。師匠は大地であり弟子は草木、また、華と果実であると例えます。 「たとへば根ふかきときんば枝葉かれず、源に水あれば流かはかず。火はたきぎかく(欠)ればたへぬ。草木は大地なくして生長する事あるべからず。日蓮法華経の行者となつて、善悪につけて日蓮房日蓮房とうたはるる此御恩、さながら故師匠道善房の故にあらずや。日蓮は草木の如く師匠は大地の如し」((一五〇〇頁) 末法には地涌の上首である上行菩薩が出現すると経文にあり、上行菩薩が出現するならば安立行菩薩も必ず出現すると、道善房を安立行菩薩の応現と受け取れる文言があります。この文言に考究の余地を述べる説があります。(『日蓮聖人遺文全集講義』第二一巻一五四頁)。本書の冒頭に「其後なに事もうちたへ不申承候。さては建治の比」(一五〇〇頁)とあることから、建治二年の『報恩抄』以来、この弘安元年まで音信がなかったことになります。著作年時も考究すべきと言います。(『日蓮聖人遺文全集』別巻三〇〇頁)。 本文に刈り取った稲の根から再び芽が再生するように、法華経を広める功徳は道善房に戻ることを述べ、「師弟仏果」を説きます。兄弟子にも霊山浄土への往詣を促します。浄顕房、義浄房は清澄寺にいる立場であるので、五百弟子授記品の「内に菩薩の行を秘し外に是れ声聞なりと現ず。少欲にして生死を厭へども実には自ら仏土を浄む。衆に三毒ありと示し又邪見の相を現ず。我が弟子是の如く方便して衆生を度す」(『開結』頁)。二八三頁)の文を伝えます。外面には貧瞋癡の三毒の煩悩をもつ姿、邪見の姿を見せながら衆生を救う方法があると言う文です。「如前前申御心得あるべく候」(一五〇一頁)と述べているように、周囲の情勢から敢えて二人には、改宗転衣をさせず清澄寺の中にいることを指示されていたのです。 □『松野殿御返事』(二八七)
五月一日付けで妙法尼御前に、干飯一斗・古酒一筒・ちまき・青ざし(青麦を煎り臼で引いて糸のようによった菓子)・筍を供養された礼状です。『朝師本』に収録されています。。本書は松野殿に宛てた書状と、妙法尼に宛てた書状の二通を一つに合わせたと言います。『朝師本』は『干飯御書』とあり妙法尼に宛てて添え書きがありません。これと本文が同じ『松野殿御返事』があります。小川泰堂居士はこれを一本にしたのではないかと推測されます。(『日蓮聖人遺文全集講義』第二一巻一六一頁)。 妙法尼は駿河の岡宮(房総の説があります)の信者と言われ、『妙法尼御前御返事』とすべきと言う説、また、松野氏の身辺にも妙法尼と言われる女性がいたとも推測されています。(『日蓮聖人遺文辞典』一〇九六頁)。或いは松野氏の妻で日持の母とも言います。(『日蓮聖人遺文辞典』一〇七一頁)。 女性宛の書簡なのに男性宛になっている不審があります。袖書きの四一字は『朝師本』にはありません。(『日蓮聖人遺文全集』別巻三〇〇頁)。妙法尼から干飯等を供養され、この功徳により必ず女人成仏し、「霊鷲山に参らざるはなし」(一五〇一頁)と、霊山往詣に直結した信心を讃えています。 この五月に疾疫が流行します。朝廷は五月一八日に疫病の流行を防止するため、興福寺に観音像を造立して祈祷させます。 □『窪尼御前御返事』(二八八)は弘安三年五月三日とします。 □『霖雨(りんう)御書』(二八九)
五月二二日付け返書で宛先は不明です。真蹟一紙が京都妙満寺に所蔵されます。縦二一,七㌢、横四七,六㌢、一二行の短文で、先の『筍御書』(一一七七頁)と同じく、覚性房に託された人物への消息です。文中に「えんどう(豌豆)かしこまりて給候了」(一五〇四頁)とあり豌豆の供養を受けた礼状です。霖雨とは例年の長雨のことです。『対照録』(中巻二一一頁)は『筍御書』(『定遺』建治二年)と本書を建治三年とします。 □『南条殿女房御返事』(二九〇)
五月二四日付けにて時光の妻から八木(米)二俵を供養されたことの礼状です。『興師本』が大石寺に保存されています。時光の妻の志を水は寒さが積もれば氷となり、深山に積もる雪は年を重ねれば水精になるように、人の行為も悪業が積もれば地獄に堕ち、善徳を積めば仏となると褒めます。また、女性は嫉妬心が重なれば毒蛇のようになるが、法華経を供養する功徳が重なれば、提婆品の竜女のように必ず成仏すると説きます。強固な信仰を持つことを教えます。供養の品を届けた労を謝します。 「山といひ、河といひ、馬といひ、下人といひ、かたがたかんなん(艱難)のところに、度度の御志申ばかりなし。御所労の人の臨終正念、霊山浄土疑なかるべし、疑なかるべし」(一五〇四頁) 身延への道中は山を越え河を渡ります。米を負う馬や曳き手の顔馴染みの下人に対しても、艱難な道中のことに感謝されます。本書に「御所労の人の臨終正念」とあり所労とは病気のことです。石河兵衛の娘の姫御前は、必ず霊山浄土に往詣すると、米の供養の功徳と合わせて「霊山往詣」の安心を書き送ります。石河兵衛の娘が三月に死去したことが知らされ、四月一日付けで返書を認めていました。(『上野殿御返事』一四九〇頁)。 □『兵衛志殿御返事』(二九一)は同年の秋の書状とします。『四条金吾殿御返事』(三一二)の次。 |
|