300. 『種々物御消息』~『千日尼御返事』(302)         髙橋俊隆

□『種種物御消息』(二九九)

 七月七日付けにて種々の品(「種種物」すずもの)を供養された礼状です。宛名は不明ですが『高祖遺文録』には「松野殿御返事」とあります。また、南条平七郎へ宛てた書状とも言います。日興の『本尊分与帳』に「駿河国富士上方成出郷給主南条平七郎母尼者越後房弟子也」、とあることから給田をもつ武士とされます。(『日蓮大聖人御書講義』第三七巻)文中に「するが(駿河)とかい(甲斐)とのさかい(境)は」と、駿河の地名が書かれているので施主の住居が窺えます。そこから窪尼とも言います。(茂田井教亨著『日蓮聖人御消息文講話』一二三頁)。真蹟は三紙断片が岩本実相寺・堀の内妙法寺・川崎匤真寺に所蔵されます。

 まず、謗法の堕獄について、父母を殺生する罪よりも出仏身血のほうが罪が深く、末法には善人であっても法華経に背信する謗法は当然のこと、「法華不信の大罪」によっても無間地獄に堕ちると述べます。漁師・猟師のように日々に魚鹿を殺生する者や、源平の合戦で兵士を殺しあった者でも、父母を殺したのではないから無間地獄には堕ちることなく、縁があって法華経を信じ成仏する者もいると述べます。そして、仏教を専門として人々を救済すべき僧尼の方が謗法の罪によって堕獄すると説きます。

「今の天台座主・東寺・御室・七大寺検校・園城寺の長吏等の真言師並禅宗・念仏者・律宗等は、眼前には法華経を信じよむににたれども、其根本をたづぬれば弘法大師・慈覚大師・智証大師・善導・法然等弟子也。源にごりぬれば流きよからず。天くもれば地くらし。父母謀反をおこせば妻子ほろぶ。山くづるれば草木たふるならひなれば、日本六十六ケ国の比丘比丘尼等の善人等皆無間地獄に堕べき也。されば今の代に地獄に堕ものは悪人よりも善人、善人よりも僧尼、僧尼よりも持戒にて智慧かしこき人々の阿鼻地獄へは堕候也」(一五三〇頁)

 天台座主は法華経を信じるように見えるが、その根本は弘法・慈覚・善導の邪義によるから、源が濁っていれば清い流れとはならず、天が曇っていれば地上も暗いのと同じと例えます。この謗法堕獄の原理を究明したのは聖人一人であり、これを表明するのが仏子の責任であるが、不軽菩薩や天台・伝教のように人々から嘲笑されると述べます。しかし、これらの法華経の行者は人々から憎まれはしたが、国主から憎まれ迫害にあった訳ではないとして、自身の受難の厳しさと忍難の強さを述べます。国主からも父母の仇のように憎まれている聖人を供養するのは、過去の父母の生まれ変わりか前世の深い宿習であると、供養の志に感謝されます。

 特に身延近辺は三ヶ月もの長雨が続き気候が不安定であったため、駿河から身延への道中の辛苦と、困窮していた時の供養の大きさと法華経の命を継ぐ功徳は計り知れないと述べます。

「其上雨ふり、かぜふき、人のせい(制)するにこそ心ざしはあらわれ候へ。此も又かくのごとし。ただなる時だにも、するが(駿河)とかい(甲斐)とのさかいは山たかく、河はふかく、石をゝく、みちせばし。いわうやたうじ(当時)はあめはしの(篠)をたてゝ三月にをよび、かわゝまさりて九十日。やまくづれ、みちふさがり、人もかよはず、かつて(糧)もたへて、いのちかうにて候つるに、このすゞの物たまわりて法華経の御こへ(声)をもつぎ、釈迦仏の御いのちをもたすけまいらせさせ給ぬる御功徳、たゞをしはからせ給べし。くはしくは又々申べし。恐々」(一五三一頁)

 駿河から身延へ向かう道路は険しい山岳地帯でした。大雨による洪水や山崩れなどで道路は通行止めになります。この時は九〇日の間も交通が寸断され食料の確保が困難でした。この供養により体力を快復し読経の声となり教えを説く声となって法華経を継ぐことになります。

□『時光殿御返事』(三〇〇)

 七月八日付けにて時光に宛てた書簡です。時光から白く搗いた麦一駄・はじかみ(生姜)を供養された礼状です。日興の写本が大石寺に所蔵されています。

 まず、阿那律の故事を引いて供養の功徳を述べます。阿那律は天眼第一と言われ普明如来の授記を得た仏弟子です。太子として富豪の徳を持った因縁を挙げます。過去世に猟師として生まれ、飢饉のとき一人の修行僧に一杯の稗を供養します。この善根によって福徳を取得します。迦葉は過去世に麦飯を修行僧に供養します。この功徳により富裕の家に生まれ、夫婦共に発心して光明如来の授記を得たとして時光の供養の果徳を述べます。

そして、聖人自身も国主から憎まれて行動を妨げられ、聖人を尋ねただけでも危害を加え、所領を没収して追放したと述べます。国主に仕える者は信心があっても仕打ちを警戒していたのです。

「たとひ心ざしあるらん人々もとふ事なし。此事事ふりぬ。なかにも今年は疫病と申、飢渇と申、とひくる人々もすくなし。たとひやまひ(病)なくとも飢て死事うたがひなかるべきに、麦の御とぶら(訪)ひ金にもすぎ、珠にもこえたり」(一五三四頁)

特に今年は疫病により死者が多数出ていたこと。(『上野殿御返事』一五九六頁)。加えて飢饉のため参詣する者が少なく、飢え死にしそうな折の麦の供養でした。この功徳は故父の霊山浄土へ導く左右の羽となり、この羽によって時光を護るであろうと述べ感謝します。

□『妙法尼御前御返事』(三〇一)

 七月一四日付けにて妙法尼の夫の臨終を受けた返書です。七月三日付け書状から(一五二八頁)から一一日後となります。本書と同様に「委は見参の時申べく候」(一五三七頁)と取次ぎの人物の存在が窺えます。真蹟は断片で第一紙と三紙から七紙迄は池上本門寺、第二紙の一行が千葉福生寺に所蔵され、第八・九紙は欠失です。

○「幼少より仏法を学ぶが」

 妙法尼から夫が朝夕に法華経を読経し、臨終の時には法華経の名号である題目を二度唱えたこと、死相は生前よりも肌の色が白く姿も整然としていたと知らされました。臨終の相による死後の成仏不成仏について、『法華経』『大論』『止観』を引き、臨終の時に肌が黒くなるのは地獄の相、堕獄に十五相、餓鬼に八種相、畜生に五種の相があり臨終観を述べます。

「日蓮幼少の時より仏法を学び候しが念願すらく、人の寿命は無常也。出る気は入る気を待事なし。風の前の露、尚譬にあらず。かしこきも、はかなきも、老たるも、若きも定め無き習也。されば先臨終の事を習て後に他事を習べしと思て、一代聖教の論師・人師の書釈あらあらかんがへあつめ(勘集)て、此を明鏡として、一切の諸人の死する時と並に臨終の後とに引向てみ候へば、すこしもくもりなし。此人は地獄に堕ぬ乃至人天とはみへて候を、世間の人々或は師匠父母等の臨終の相をかくして西方浄土往生とのみ申候。悲哉、師匠は悪道に堕て多苦しのびがたければ、弟子はとゞまりゐて師の臨終をさんだんし、地獄の苦を増長せしむる。譬へばつみ(罪)ふかき者を口をふさいできうもん(糾問)し、はれ物のの口をあけずしてやま(病)するがごとし」(一五三五頁)

 幼少からの成仏観を述べ、夫の肌の色が白かったことは、『止観』『大論』の文から天上界に生まれ変わる善相であること、天台・玄奘の死相も白かったことを挙げます。文証・現証から夫の「後生善処」を確信します。臨終に当り題目を二度唱えたことは、釈尊から地涌の菩薩へ付嘱された題目を受持したことであり、神力品の「是人於仏道 決定無有疑」の文を引き疑いなく仏道を成就したと述べます。「臨終の時色黒き者は地獄に堕つ」の文は、『大論』には見当たらず出典は不明です。『止観』の「身の黒色は地獄の陰に譬う」(一五三五頁)の文により、臨終の時に地獄に堕ちる人の死相は黒色になるとします。(『千日尼御前御返事』一五九九頁)

 次に法華経は釈尊の実語の中の実語であり、真実の中の真実であると述べます。(一五三六頁)。題目の力によって黒業の罪も白業の大善となると述べます。そして、

弥山に近づく衆色は皆金色なり。法華経の名号を持人は、一生乃至過去遠々劫の黒業の漆変じて白業の大善となる。いわうや無始の善根皆変じて金色となり候なり。しかれば故聖霊、最後臨終に南無妙法蓮華経ととなへさせ給しかば、一生乃至無始の悪業変じて仏の種となり給。煩悩即菩提、生死即涅槃、即身成仏と申法門なり。かゝる人の縁の夫妻にならせ給へば又女人成仏も疑なかるべし」(一五三七頁)

と、金色の善根により天上界に詣で、無始の悪業も仏種となるとして即身成仏を説きます。妙法尼も妻として女人成仏は疑いないと述べます。これが妄語ならば釈迦・多寶・十方分身諸仏の妄語であるとして、逆説的に仏説の真実を説いて夫婦成仏を諭して安心とします。

○蘭渓道隆没

七月二四日に建長寺の蘭渓道隆が六六歳で没します。時頼が南宋から招いて帰依し時宗も幼少から帰依していました。主に蒙古政策の相談役となります。大学禅師と勅諡され諡号「禅師」の初めになります。時宗が執権に就いたのは文永五(一二六八)年三月の一八歳の時です。その翌年に大休正念が来日して時宗の指導にあたり後に浄智寺の開山となります。正念は「仏儒道三教一致論」者で時宗の宗政に影響を与え、鎌倉武士に儒教(朱子学)が受容される契機を作ったと言います。祖元の辞世の偈は「用翳晴術 三十余年 打翻筋斗 地転天旋」(陰陽術を用いて三十年あまり天地が打翻(ひっくり返る)筋斗(宙返り)する目まぐるしい世相であった)です。道隆の禅は陰陽道や道教の伝統を継いでいたと指摘されます。

時宗は一二月二三日に道隆の衣鉢を継ぐ名僧を求め、弟子の無及徳詮と傑翁宗英を宋に派遣します。(『円覚寺文書』)。環渓惟一(かんけいいいつ)を要請しますが、天童寺の首座を務めていた無学祖元(五四歳)を推挙します。蒙古再来に備え蒙古の情報が必要でした。弘安の役の翌弘安五年に円覚寺を建て祖元を開山とします。極楽寺の良観は宝塔を椎尾山に建てます。 

○御本尊((正中山霊宝目録)七月一六日

 「同日三幅」と称される三枚継ぎの御本尊が三幅記載され、一幅は「経女」に授与されます。七月は体調が回復されたようで曼荼羅本尊をまとめて染筆されています。

□『千日尼御前御返事』(三〇二)

○阿仏房の登詣

 七月二八日付けで佐渡の千日尼に宛てた書簡です。真蹟の二四紙は佐渡妙宣寺に所蔵されます。夫の阿佛房(九〇歳)は七月六日に佐渡より出立し三度目の登詣となります。千日尼は順徳上皇に仕えた右衛門の佐の局の侍女と言いますが生没年も不詳です。二十七日身延に到着し二十八日に本書を携えて下山します。阿仏房の参詣と千日尼の配慮に感謝を述べています。

千日尼からの書簡に「女人の罪障」「女人の成仏」(一五三八頁)についての問い合わせがありました。法華経を説いた釈尊と法華経が中国から日本へ伝法されたことにふれます。今は二二三〇余年を経て国々により人心や言語、仏教の理解に違いがあると指摘します。その上で経文の文字は同じであるから、経典を基準に法華経を説きます。法華経は「明鏡」であることを、

「此御経を開見まいらせ候へば明なる鏡をもつて我が面を見るがごとし。日出て草木の色を弁るにに(似)たり。序品の無量義経を見まいらせ候へば、四十余年未顕真実と申経文あり」(一五四〇頁)

と、無量義経と方便・宝塔・神力・薬王品を引いて、十方諸仏が評定し二乗天上界の神々から諸菩薩も見聞した真実であると述べ、法華経の明鏡に一切経の中で最勝であると写し出されていると譬へます。方便品を始として二乗作仏を説き、提婆品に龍女の女人成仏が現実として教示されたことは第一の「肝心」(一五四一頁)であり、一切経の中で法華経にしか説かれていないと述べます。伝教・天台の釈を証文として即身成仏の問いに答えます。

 続いて四恩にふれ特に悲母の大恩は、内典五千七千巻の中でも、法華経のみが悲母の成仏を可能にする報恩経であると述べ、聖人は悲母の報恩のために一切の女人に題目を唱えさせる誓願を立てたと述懐します。それに反して弥陀の念仏を信じることは、無間地獄の業であり法華経の大善を破るとします。そして、将門や安陪貞任が朝的となったように、今の各宗の僧侶は「五逆にすぎたる謀反」(一五四三頁)を起こし、「大怨敵」(一五四四頁)となったと責めます。これが誤りならば善神はその是非を示すべきであり、正しければ善神は仏前の誓状を破っていると強く諫暁したので疫病が流行したと述べます。他国侵逼により大勢の国民が命を失うことを避けるため、疫病により謗法の者の手足を切るように治罰し、王臣などの要職にある者を覚醒させ、そして、法華経の弘通を行なうことによって回避していると述べます。

○法華経十巻を千日尼に与える

 良観は虚御教書を捏造して聖人の殺害を企てたことにふれます。地頭や念仏者が昼夜に庵室を囲み、聖人に給仕する者を脅したことを述懐します。

「天の御計はさてをきぬ、地頭々々等念仏者々々々等日蓮が庵室に昼夜に立そいてかよ(通)う人あるをまどわさんとせめしに、阿仏房にひつ(櫃)をしをわせ、夜中に度々御わたりありし事、いつの世にかわすらむ。只悲母の佐渡国に生かわりて有か。漢土に沛公と申せし人、王相有とて秦始皇の勅宣下云、沛公打てまいらせん者には不次の賞を行べし。沛公は里中には隠れがたくして山に入て七日二七日なんど有しなり。其時命すでにをわりぬべかりしに、沛公の妻女呂公と申せし人こそ山中を尋て時時命をたすけしが、彼は妻なればなさけすてがたし。此は後世ををぼせずばなにしにかかくはをはすべき。又其故に或は所ををい、或はくわれう(科料)をひき、或は宅をとられなんどせしに、ついにとをらせ給ぬ。法華経には過去に十万億の仏を供養せる人こそ今生には退せぬとわみへて候へ。されば十万億供養の女人なり」(一五四五頁)

 佐渡在島中における阿仏房夫妻の給仕の様子が窺えます。また、阿仏房が所領を奪われ過料を徴収されていたことが分かります。「十万億供養の女人」と賛嘆される理由がここにあります。文永一一年に身延に入山し五年を経ても、不変の信仰を続け夫の阿仏房を三度まで給仕に使わす心に謝意を伝えます。

去文永十一年より今年弘安元年まではすでに五ケ年が間、此山中に候に、佐渡の国より三度まで夫をつかわす。

大地よりもあつく大海よりもふかき御心ざしぞかし」(一五四六頁)

 千日尼の手紙には、岳父の一三回忌が八月一一日なので、供養の銭一貫文を添えた旨が書かれていました。千日尼の親を慕う孝養を愛でて、大事にされていた法華経十巻を与えます。この経本は妙宣寺に秘蔵されていると言います。学乗房から経文の意味などを教えてもらい、後生にはこの御経を証拠(しるし)として、霊山浄土にて再会することを約束します。

 疫病が流行していたので、佐渡の信徒を心配し法華経を読誦して祈願をしていたけれど、顔を見ないので心配していたが、二七日の午後四時に阿仏房と再会し、皆々の健康なことを聞いて安心したと述べます。国府入道も途中まで同道しましたが交通状況が悪く引き返します。国府入道には子供がいないため、早稲の刈り入れに合わせたのです。疫病で死ぬ者が多いなか弟子信徒は守護されていると知らせます。

○一谷入道の死去について

 一谷入道が死去されたことについて悲しみを妻に伝えてほしいと述べ、入道宅の廊下で命を度々助けていただいたことを懐古します。

「さわ(谷)の入道の事なげくよし尼ごぜんへ申つたへさせ給。ただし入道の事は申切り候しかばをもひ合せ給らむ。いかに念仏堂ありとも阿弥陀仏は法華経のかたきをばたすけ給べからず。かへりて阿弥陀仏の御かたきなり。後生悪道に堕てくいられ候らむ事あさまし。ただし入道の堂のらう(廊)にていのちをたびたびたすけられたりし事こそ、いかにすべしともをぼへ候はね。学乗房をもつてはか(墓)につねづね法華経をよませ給とかたらせ給」(一五四七頁)

入道は退転して阿弥陀仏を信じたので後生は悪道に堕ちると懸念され、学乗房に入道の墓前で恩があるので供養するように指示します。尼から便りがないので嘆息していると述べます。一谷の配所には妙照寺が建立されました。学乗房(一三〇一年没)は日静のことと言います。一谷に二宮として実相寺を創建して弘教されました。本書より佐渡の信徒との深い繋がりを知ることができます。