304.日蓮聖人ご生誕の意義ー安房の歴史に探るー      髙橋俊隆

第一講 「日蓮聖人ご生誕の意義 ―安房の歴史に探る―」

 ―清澄寺入山の動機・生まれた意義を見出された

  日蓮聖人は大きな悩みを解決されるため、虚空蔵(こくうぞう)菩薩に誓願(せいがん)を立てられた

  それは幼少時の環境が影響していたのでは?

 

   内容の要旨

御遺文に見られる『出生(しゅっしょう)』の記事によりますと、

「海辺の漁労民としての御自分を説かれた」こと。

「裕福な生活はしていなかった」ことが分かります。

 

安房の小湊に生まれたことに特別な意義を感じて育ったと思われること。

A.「安房地方は御食国(みけつくに)」であったこと

安房は古代より天皇に奉仕と献納を担った部民(べみん)が住んでいた。

     天皇崇拝の歴史の中に三上皇(さんじょうこう)の敗退と八幡大菩薩の百王守護に疑問をもった。

B.「東條の御厨(みくりや)」の存在は天照大神の信仰を高めた

     その日本国守護の天照大神に疑いをもった。

御厨を往来する海人(かいじん)・供御人(くごにん)から諸国の情報を聞き国家に対する疑問をもった

C.「東条氏が台頭して領家を圧迫したことの反感」

地頭の東条氏と領家との紛争に父母の窮状があった。日蓮聖人は現実の社会を変革することを重視され、「日本第一の智者」への誓願となった。

 

資料

 出生の記事からわかること

「海辺の漁労民としての御自分を説かれた」

 

『本尊問答鈔』一五八〇頁

「然に日蓮は東海道十五ケ国内、第十二に相い当たる、安房国長狭(ながさ)郡、東條郷片海の海人(あま)が子也

『善無畏(ぜんむい)三蔵鈔』四六五頁

「而るに日蓮は安房国、東條片海の石中(いそなか)の賎民が子也。威徳なく、有徳のものにあらず」

『中興入道御消息』一七一四頁

「然に日蓮は中国、都の者にもあらず、辺国の将軍等の子息にもあらず、遠国(おんごく)の者、民が子にて候しかば」

 

「裕福な生活はしていなかった」

 

『富木殿女房尼御前御返事』一七一〇頁  常忍の母に幼少の頃に恩恵を受けた

「たうじ(当時)とてもたのしき事は候はねども、むかしはことにわびしく候し時より、やしなわれまいらせて候へば、ことにをん(恩)をもくをもひまいらせ候」

『清澄寺大衆(せいちょうじだいしゅ)中』一一三五頁  大尼の恩義

又一には日蓮が父母等に恩をかほらせたる人なれば、いかにしても後生をたすけたてまつらんとこそいのり候へ」

『新尼(にいあま)御前御返事』八六九頁  大尼の恩義

「日蓮が重恩の人なれば扶けたてまつらんために」

『新尼御前御返事』八六五頁  食事

「古郷の事はるかに思わすれて候つるに、今此のあまのりを見候て、よしなき心をもひいでて、う(憂)くつらし。かたうみ(片海)・いちかわ(市河)・こみなと(小湊)の礒のほとりにて昔見しあまのりなり。色形あぢわひもかはらず。など我父母かはらせ給けんと、かたちがへ(方違)なるうらめ(恨)しさ、なみだをさへがたし」

 

「父母の念仏信仰に疑いをもった」

 

『妙法比丘尼御返事』一五五三頁  現実の生き方を大切に思った

皆人の願せ給事なれば、阿弥陀仏をたのみ奉り、幼少より名号を唱候し程に、いさゝかの事ありて、此事を疑し故に一の願をおこす

『妙法尼御前御返事』一五三五頁 臨終に瑞相を示さない

「世間の人々は或は師匠父母等の臨終の相をかくして西方極楽往生とのみ申候」

 

『立正安国論』二一六頁  弥陀の救済には限界があると思った

或捨或閉或閣或抛以此四字多迷一切剰以三国之聖僧十方之仏弟皆号群賊併令罵詈。近背所依浄土三部経唯除五逆誹謗正法誓文遠迷一代五時之肝心法華経第二若人不信毀謗此経乃至其人命終入阿鼻獄誡文者也」

『開目抄』五四四頁

「父母の家を出て出家の身となるは必ず父母をすくわんがためなり」

A、「安房地方は御食(みけつ)(くに)」であったこと

安房は部民集団に属し、天津小湊の人々は天皇への従属と奉仕、朝廷の仕事分掌・貢納の人的な関係を伝統的に根強くもっていたのです。(『天津小湊の歴史』上巻八六頁)

沿岸を点々と開拓していった人々を「海人部(あまべ)の民」と言い、鰒(あわび)や鰹(かつお)などを漁獲する特殊技術をもった漁民のことです。(『房総の伊勢信仰』一七頁)

 

 「平城京跡出土木簡」にあるように鰒の貢進国としての性格が強い。安房郡は現在の館山市から白浜町、朝夷(あさい)郡は丸山町から千倉町にかけて、長狭郡は鴨川市から勝浦市にかけての地域と考えられ、海に面した地域だけではなく、内陸部からも鮑を税として納めていたことがわかります。『千葉県の歴史』資料編考古3)

 

平城京跡出土木簡  調として貢納した荷札

「安房国朝夷郡建田郷仲村里戸私部真島調鰒六斤三列長四尺五寸束一束 養老六年十月」

「安房国安房郡公余郷長尾里 戸主大伴部忍麻呂 鰒調陸斤 陸拾弐條 天平七年十月」

「上総国安房郡白浜戸主日下部床万呂戸白髭部島輸鰒調陸斤□□参拾条 天平一七年十月」

(負担料の6斤は3.6㎏ 実際は40㎏以上)

B、「東條御厨」の存在は天照大神信仰を高めた

 

『新尼御前御返事』八六八頁

「而を安房国東條郷辺国(へんこく)なれども日本国の中心のごとし。其故は天照太神跡を垂れ給へり。昔は伊勢国に跡を垂(たれ)させ給てこそありしかども、国王は八幡加茂等を御帰依深(ふかく)ありて、天照太神の御帰依浅かりしかば、太神瞋おぼせし時、源右将軍と申せし人、御起請文をもつてあをか(会加)の小大夫に仰つけて頂戴し、伊勢の外宮にしのびをさめしかば、太神の御心に叶はせ給けるかの故に、日本を手ににぎる将軍となり給ぬ。此人東條郡を天照太神の御栖と定めさせ給。されば此太神は伊勢の国にはをはしまさず、安房国東條の郡にすませ給か」

 

『弥源太殿御返事』八〇七頁

「其上、日蓮は日本国の中には安州のものなり。総じて彼国は天照太神のすみそめ(住初)給し国なりといへり。かしこにして日本国をさぐり出し給ふ。あはの国御くりや(廚)なり。しかも此国の一切衆生の慈父悲母なり。かゝるいみじき国なれば定で故ぞ候らん。いかなる宿習にてや候らん。日蓮又彼国に生れたり、第一の果報なるなり

 A・B より

御食国としての安房小湊、東條御厨が存在する東條郷の共通として見られるのが、

天皇と天照大神への思慕

 

『神国王御書』八八二頁

其上天照太神は内侍所と申明鏡にかげをうかべ、大裏にあがめられ給、八幡大菩薩は宝殿をすてて、主上の頂を栖とし給と申。仏の加護と申、神の守護と申、いかなれば彼の安徳と隠岐と阿波・佐渡等の王は相伝の所従等にせめられて、或は殺れ、或は嶋に放、或は鬼となり、或は大地獄には墮給しぞ(中略)天照太神は玉体に入かわり給はざりけるか。八幡大菩薩の百王の誓はいかにとなりぬるぞ。(中略)而に日蓮此事を疑しゆへに、幼少の比より随分に顕密二道並に諸宗一切経を、或は人にならい、或は我と開見し、勘へ見て候へば、故の候けるぞ」

 

東條御厨の領家は伊勢外宮であるが、領家の尼の領家職は天津神明神社に付属していたものと考えられる。 (伊藤一男著『日蓮誕生』九九頁)

 

「海人・供御人との交流」

 

『千葉県の歴史』 資料編中世1 近世2、905頁 安房)

安房は東海道方面から東北地方に進む海上交通の拠点となっており、海を通じた交通と交易は絶えることはなかった。入り江が多く浦や湊などの港湾施設が早くから発達していた。外房の小湊は東廻り船路を航海する諸国の大型廻船にとっても格好の風待ち湊として重宝された。 

 同じ東条のうちには、水上交通に長けた伊豆狩野氏と同族で得宗(とくそう)被官である工藤氏の一族とされる工藤吉隆がおり、天津を領有していたという。白浜御厨の管理はこの工藤氏が行っていたと考えられる。供御人は関所などに煩わされることなく全国どこでも自由に通行できるという特権を、天皇の名において与えられ、商業交易の分野で活発な活動をしていた。

 

海人・供御人の情報

1228年4月  興福寺衆徒・延暦寺衆徒、激しく争う

       11月 六波羅、高野山僧徒の武装を禁じる

1230~31年 寛喜の飢饉 (日蓮聖人9歳)

1231年5月  六波羅、京都の飢民らが富民を脅迫することを禁圧する

1232年2月  飢饉により麦などで牛馬を飼うことを禁じる

1233年5月  日蓮聖人、清澄寺に入山

 

C、「東条氏が台頭して領家(りょうけ)を圧迫したことの反感」

 

頼朝が幕府を開いてからは、安房国は四氏に分与された。

安西三郎景益は平群郡を領した。  神余光秀は安房郡

丸信俊は朝夷郡。東条秋則は金山に城を築いて長狭郡を領した。

 

承久の乱以後は幕府の権力が強化され、地頭の非法をめぐる争いが激化し裁判の場となる。

 

「日本第一の智者への誓願」

 

 A・B・C の疑いの解決を求めて清澄寺に入られた

『報恩抄』一一九二頁

仏法を習い極め智者とならで叶べきか」

()(りょう)(かん)(とう)御書』一二八三頁

予はかつしろしめされて候がごとく、幼少の時より学文に心をかけし上、大虚空蔵菩薩の御宝前に願を立つ、日本第一の智者となし給へ。十二のとしより此願を立つ。其所願に子細あり。今くはしくのせがたし

 

 まとめ 

このような、安房小湊の天照大神・八幡大菩薩信仰という歴史環境と、浄土僧の狂乱死、

三上皇の敗退、地震災害、飢饉横死、悪政による困窮などの十二年間の幼少期の体験が、

「日本第一の智者」の誓願となられた。そして、出家としての生き方を決められ、一生

にわたる法華経信仰と行者としての行動に、大きな意味を持ち続けたと思われます。                 

  

・・参考資料・・ 

 凡身としての日蓮聖人

(ただ)有待(うだい)()(しん)なれば()ざれば(かぜ)()にしみ、(しょく)さざれば命持(いのちたもち)がたし。(ともしび)(あぶら)をつがず、火に(たきぎ)(くわ)へざるが(ごと)し。(いのち)いかでかつぐべきやらん。(いのち)(つづき)がたく、つぐべき力絶(ちからたえ)ては、(あるい)一日(いちにちお)乃至(ないし)五日(いつか)(すで)法華経(ほけきょう)読誦(どくじゅ)(こえ)(たえ)ぬべし、止観(しかん)のまど(窓)の(まえ)には(くさ)しげりなん                       

(『松野殿女房御返事』1651頁断片) 

人の身(有待の依身)であるので、衣服を着なければ寒風が身にしみ、食事をとらなければ生命を継ぐことができない、とのべています。食料が絶えると肉体の力も失せて、それが5日も続くと法華読誦の声も絶えてしまい、『摩訶止観』の修行にも障害がでるとのべています。 

私たちと同じ凡身をもつ日蓮聖人が、必死に法華経の行者として生き続けたことが尊いと思います。