305.下総宗論 『稟権出界抄』 髙橋俊隆 |
○「下総宗論」
宗論(訴訟)が守護所で何時行われたかが問題となります。次の『富木入道殿御返事』(『稟権出界抄』)の系年に関わるからです。ここでは弘安元年一〇月一日付けにて常忍へ宛てた書簡とします。真蹟一〇紙は法華経寺に所蔵されます。注目することは四十九院の追放問題と、三月に公場対決の噂があり四月には三度目の流罪の噂が立ちました。滝泉寺では日秀・日弁の布教が熱原の信者を形成したことです。宗論を主催したのは千葉胤宗です。頼胤は蒙古との戦いで建治元年八月一六日に佐賀県子城町で没していました。胤宗(一二六八~一三一二年)はこの時まだ一一歳です。この訴訟事件を仕組んだ中に頼綱に近い長崎次郎がいた筈です。太田親昌や大進房、滝泉寺の本院主の動向を気にした理由もここにあります。 九月二八日に聖人を誹謗していた天台宗の学頭である了性・思念房と常忍との間に、下総の守護所で宗論が行われます。宗論は公の場で主君の面前にて行ない判定をする者も同座します。この場に乗明と教信も出廷したと言います。(中尾堯著『日蓮聖人のご真蹟』七三頁)。この結果を伝える文書が三〇日に身延に届き、翌日一〇月一日付けの返事が『富木入道殿御返事』(一五八八頁)です。この書簡は宗論の記録のような内容であったと言われ、宛名を書いていませんが常忍・乗明・教信を始めとした下総の信者と言います。宗論は従来、天台宗の学林があった真間山弘法寺で行われことから「真間問答」としましたが、「下総宗論」と改称されています(中尾堯著『日蓮聖人のご親蹟』六〇頁)。 了性房信尊(一二一三~)は武蔵足立郡に生まれ、太田庄天台宗鷲の宮談林学頭義了房幸範について出家得度します。恵心流椙生流の天台学を幸範について学び、叡山に登って受戒、律師として土佐竪者の称号を得ます。文暦の頃(一二三四)泉福寺に下って中興の祖となります。仁治元年(一二四〇)頃迄に談所を設け活発に布教します。上洛して俊範の弟子燈明院承瑜より恵心流の相承を受けます。聖人が「広学多聞の人」と評するように関東における天台の学匠です。武蔵河田谷泉福寺にいたことから河田谷上人とも言います。了性房や円頓房尊海によって関東天台は興隆を極めていました。真間天台宗談林にも赴き化主をしています。この折りに起きた宗論で常忍は了性・思念を論破し勝利を収めます。建治三年の『真間釈迦仏供養逐状』には釈尊像を造立し、日頂が開眼して御堂に安置されました。真間の御堂は既に常忍が管理していました。常忍に屈伏されてからは完全に退出し真間談所は真間山弘法寺となります。その後、日頂が住持として入ります。了性房は弘安八年(一二八五)法門を弟子の尊海に相承して永仁三年(一二九五)頃に没します。 □『富木入道殿御返事』(『稟権出界抄』)(三一〇)
一〇月一日付けにて常忍へ宛てた書簡です。真蹟一〇紙は法華経寺に所蔵されています。著作年時に『縮遺』の建治三年説、『『対照録』の弘安二年説があります。山川智応氏と山中喜八氏は筆跡と花押から弘安二年とします。弘安元年とする理由は大進房が再び教団に帰信したと言う記述によります。弘安二年の同日となる『聖人御難事』に、大進房は落馬したとの記述があるからです。つまり、本書を弘安二年とすると同日となる両書に違いがあるとします。(鈴木一成著『日蓮聖人遺文の文献学的研究』三七九頁)。中尾堯氏も『定遺』の弘安元年とします。(『日蓮聖人のご真蹟』六一頁)。内容から『稟権出界抄』と称します。常忍は了性と法論を行い論破します。その報告に答えた返書です。 ○「稟権出界名為虚出」の文
了性は法華経に絶対開会が説かれたので、爾前の権教もそれにより実教に帰入し融会(成仏)するとします。即ち「権実不二」の論を立てます。そこで常忍は妙楽の『文句記』に、「稟権出界名為虚出」の文があるとして、法華経以前の四十余年の方便権教を稟(う)け信行し、六道三界を出離し成仏することは、虚妄の出離であると反論します。『文句記』の「禀権出界」を巡っての論争でした。禀(ほん)とは受ける授かるという意味です。つまり、法華以前の教えを受けて成仏すると説くのは、虚妄で真実ではないと反論したのです。「爾前無得道」です。これに対し了性は妙楽の『文句記』にそのような釈文はないと返答したのです。聖人は常忍が言うように釈文は『文句記』第九に確かにあります。即ち、 「寿量品云諸善男子如来見諸衆生楽於小法徳薄垢重者乃至以諸衆生乃至未曽暫廃云云。此経の文を承天台妙楽釈也。此経文者初成道華厳別円乃至法華経迹門十四品或云小法或徳薄垢重或虚出等説る経文也」(一五八九頁) と、寿量品の文を釈していることを述べます。ただし、法華経の迹門も虚出として教示します。爾前の権教は法華経の寿量品を説くための方便であるから出離は虚妄の説と言うことです。寿量品により出離が真実となります。故に華厳経を依経とする華厳宗、同じく深密経の法相宗、般若経の三論宗、大日経の真言宗、観経の浄土宗、楞伽経の禅宗等の諸経と諸宗は、いくら読誦し修行しても依経の教えの範囲を超えないので成仏はないとします。 浄土宗の「千中無一」、真言宗の「理深解微」等の説による成仏は方便(虚妄)の出離となります。しかし、天台・妙楽の解釈は爾前の頓漸二法・七方便を虚出としますが、迹門を虚出としてはいませんでした。これに対し聖人は寿量品以前を虚出としたことに相違があります。教学的には天台・妙楽は迹化の立場から迹面本裏、聖人は本化の立場から本面迹裏として台当の相違を論じるところです。この迹門本門の相違は寿量品の久遠実成にあります。『涅槃経』の「一体三法」の文を引いて次のように述べます。 「今日蓮粗勘之法華経之此文重て演涅槃経云若於三法修異想者当知是輩清浄三帰則無依処所有禁戒皆不具足。終不能証声聞縁覚菩薩之果等云云。此経文正顕説法華経寿量品也。寿量品は譬木、爾前迹門をば譬影之文なり。経文に又有之。五時八教・当分跨節・大小益如影本門の法門は如木云云。又寿量品已前之在世之益は闇中木影也。過去に聞寿量品者事也等云云」(一五八九頁) 寿量品の教え(久遠実成)によらなければ、声聞・縁覚・菩薩の証果はないと『涅槃経』に重ねて説いているのです。譬えとして寿量品は樹木の本体であり、爾前経や迹門はその木の影に譬えます。本門の教えは樹木であり五時八教・当分跨節・大乗小乗の教えの証果は木の影と譬えます。寿量品以前に説く在世の得道は「闇中木影」とします。闇の中では木陰が見えないように、寿量品がなければ無意味であると本門思想を説きます。 また、法華以前の爾前の得道や迹門の二乗作仏は、過去の寿量品の聞法下種にあると述べます。『観心本尊抄』(七〇六頁)においても二機根を挙げ、「法華得道」「教外得道」を十界互具論から述べていました。『小乗大乗分別鈔』に(七七五頁)もこの根拠に「化導始終不始終相」、「下種」(久遠下種)を説いて説明します。つまり、「毒発不定」と言う爾前・迹門の得道の源は、寿量品の久遠下種にあるのです。 次に「不信謗法」の質疑の見解を述べます。まず法華不信は謗法ではないという意見と、不信でも堕獄することはないとする意見に答えます。聖人の立場は不信の者は謗法であり、これは直ちに「謗法堕獄」と看做しています。その文証として提婆品の「生疑不信者則当堕悪道」の文を挙げます。 ○「第三の法門」
そして、勝劣浅深を判断するときに当分と跨節の見方があります。当分とはそのままの解釈ですが、跨節は節を跨(また)ぐという意味です。つまり、円教の立場から蔵・通・別教の内容を理解することです。広い視野に立ち全体的な解釈をすることです。そこに三通りの解釈の方法があります。「根性の融不融の相」(衆生の理解力が統一されているかどうか)、「化導の始終不始終の相」(仏の教化が完了しているかどうか)、「師弟の遠近不遠近の相」(仏と衆生が永遠の教化という関係にあるのかどうか)と言う視点から考察することです。この中で「第三の法門」を主軸とした教学であると心得ておくよう常忍に述べます。 「又不信非謗法申事。又云不信者不堕地獄云云。五巻云生疑不信者則当堕悪道云云。惣御心へ候へ。法華経与爾前引向判勝劣浅深当分跨節の事有三様。日蓮が法門は第三の法門也。世間粗如夢一二をば申ども、第三不申候。第三法門は天台・妙楽・伝教も粗示之未事了。所詮譲与末法之今也。五々百歳は是也。但此法門御論談は余は不承候。彼は広学多聞の者也。はばかりはばかりみ(見)たみたと候しかば、此方のまけなんども申つけられなばいかんがし候べき。但彼法師等が彼の釈を知候はぬはさてをき候ぬ。六十巻になしなんど申は天のせめなり。謗法の科の法華経の御使に値て顕れ候なり」(一五八九頁) 天台・妙楽は「第三の法門」は末法に譲られた法門とします。「三種教相」の第三「師弟の遠近不遠近」を言います。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇八一七頁)。釈尊の久遠実成と地涌の菩薩も久遠の弟子と言う関係を問題とします。「第三の法門」について異説があります。その一つに天台の「根性の融不融の相」と「化導の始終不始終の相」は第一法門(権実相対)、「師弟の遠近不遠近の相」は第二法門(本迹相対)に過ぎないとし、脱益を当分、下種を跨節とする種脱相対を「第三の法門」とする解釈があります。(『日蓮大聖人御書講義』第一七巻九九頁)。 そして、了性は博識の学僧であるから、強引に常忍が負けたと吹聴することを危惧します。成り行きでは負けと判定されることを考えたtのです。寿量品に「皆実不虚」と説かれているからです。ただ、了性が天台・妙楽の『三大部』六〇巻の中に、この「稟権出界」の釈文を知らなかったことは天罰(天のせめ)であり、「謗法の科」(一五九〇頁)が法華経の使いである常忍によって露見したことであると賛辞します。 ○宗論の沙汰
次に内容が変わり大進房等の動向について尋ねます。 「又此沙汰の事も定てゆへありて出来せり。かしま(賀島)の大田次郎兵衛・大進房、又本院主もいかにとや申ぞ。よくよくきかせ給候へ。此等は経文に子細ある事なり。法華経の行者をば第六天の魔王の必障べきにて候。十境の中の魔境此也。魔の習は善を障て悪を造しむるをば悦事に候」(一五九〇頁) この「沙汰の事」とは二つの見方があります。一にはこの宗論の判決のこと。二には大進房が改心した通知のことです。沙汰には処置・手配・裁断・訴訟・噂・報告などの意味があります。この場合、文脈から主君からの命令・指図・裁断と思われます。(『古語大辞典』七〇五頁)。つまり、宗論にて勝訴となった判決も深い理由があって起きたものと解釈します。 次にかしまの大田次郎兵衛(親昌)・大進房・本院主と三名の名があります。宗論の頃は教団から背離しそうな気配でしたので、この熱原の者が扇動したと思われます。賀島は冨士郡にある地名で加島町があります。大田親昌は熱原法難に関して落馬したことから賀島に居住していたと思われます。後の『四菩薩造立鈔』に大田方の人々が迹門無得道を主張したとあり、この大田方の人とは大田親昌のことと思われます。『聖人御難事』にも「太田親昌・長崎次郎兵衞尉時綱・大進房が落馬」(一六七三頁)と名を列記しています。大進阿闍梨は弘安二年八月以前に死去しますので大進房とは別人です。(『曽谷殿御返事』一六六四頁)。また、長崎次郎兵衛時綱は頼綱の伯父になり頼綱と長崎氏は同族でした。(佐藤進一著『鎌倉幕府訴訟制度の研究』一〇九頁)。頼綱は長崎氏の惣領であり、長崎時綱は長崎氏権力の中の人物であり、熱原法難の執行者の一人でした。(細川重男著『鎌倉政権得宗専制論』一七五頁)。 常忍に「いかにとや申ぞ。よくよくきかせ給候へ」と催促したことから、太田親昌・大進房は常忍の近く下総にいたと思われます。ここから太田親昌は乗明の一族、大進房は曽谷氏の一族とされます。本院主については『健鈔』に了性とありますが、これを否定して思念・談所の主・真間の主とします。(『本化聖典大辞林』上六五七頁)。 宗論の場に同座していた人物は誰でしょうか。こちら側には常忍・乗明・教信の三名がいたとされます。相手側には了性・思念がいました。この宗論の立ち会い人として太田親昌・大進房・本院主がいました。この宗論の判決が太田親昌と大進房の改心の契機になります。判決の通知があったのは九月二八日とされますので、宗論はこれ以前になります。末文からこの間に大進房は改心の旨を常忍に告げます。そして、敗訴した本院主はどのように弁明しているか、その後の動向を尋ねたのです。(『日蓮聖人遺文全集講義』第二〇巻二五四頁)。ただし、本院主は了性ではないとして、この三人が改悔したとする解釈もあります。(『日蓮聖人御遺文講義』第一七巻三九二頁)。 続いて了性は『止観』の二十五方便の始に「持戒清浄」とあることから、『止観』の行者は持戒でなければならないと問難した時は、『文句記』分別功徳品の「四信五品」の解釈を引き反論します。『文句記』には初随喜にも利根・鈍根があり、鈍根の者には持戒を制止していることを教えます。更に正・像・末の不同、摂受・折伏の異なりがあること、伝教が『末法灯明記』に末法の持戒は「市の虎」であると解釈したことを思惟するように述べます。常忍には了性・思念を論破したことで充分なので、宗論と常忍の価値を下げないため下総での宗論を控えるよう誡めます。了性と思念は聖人を批判をするのは愚かなことで、天台法華宗の者であるなら、本来は南無妙法蓮華経と唱え念仏は成仏の教えではないと説くべきを、題目を唱えないばかりではなく、法華経を広める者に迫害を加えることは奇怪なことであると述べます。 最後に大進房はこれを機に改心の兆しがあるが、以前に書き送ったように厳しく指導するように強く述べます。常忍とは近い距離にいて親しい関係であったことが分かります。 「大進房が事。さきざきかきつかわして候やうに、つよづよとかき上申させ給候へ。大進房には十羅刹のつかせ給て引かへしせさせ給とをぼへ候ぞ。又魔王の使者なんどがつきて候けるが、はなれて候とをぼへ候ぞ。悪鬼入其身はよもそら事にては候はじ。事々重候へども此使いそぎ候へばよる(夜)かきて候ぞ」(一五九一頁) 十羅刹女の力と魔王の使者が離れて改心したと述べ、常忍からの使者が帰路を急ぐので夜中に返書を認めたと結ばれます。しかし、翌年九月に大田親昌・長崎次郎兵衛時綱・大進房は離団し、富士熱原法難に加担するのです。一〇月一三日に二条内裏が焼亡します。 |
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