306.『初穂御書』 ~『随自意御書』           髙橋俊隆

□『初穂御書』(三一一)

 一〇月二一日付け宛先は不明の書簡です。文中の「法華経の御宝前」(一五九二頁)という語例は、弘安期以降の一三例にしか見られないこと、花押の形態から弘安元年とします。山中喜八氏は弘安三年とします。真蹟は末尾一紙一四行の断片のみが大石寺に伝えられています。

本書は「御所」(おんもと・みもと)から供養された礼状です。「御所」とは相手を親しみをもって呼ぶ時と、『沙石集』の用例から親王・執権など高貴な人の屋敷を含めて、そこに住む人を敬っていう言葉です。法華経の御宝前に恭しく供えたことを伝えるよう述べます。文中の「はつお」は初穂のことで、中世近世はハツオと発音しました。その年に最初に収穫した稲の穂のことですが、後に穀物や野菜・果物・金銭も初穂と呼ぶようになります。本書の初穂は本年の最初に実った稲と思われ、丁重に謝辞を述べ「御所御返事」とあることから、身分のある人からの供養でした。かしこまり申よし。けさん(見参)に入させ給候へ」(一五九二頁)と、畏まりと言うのは相手からの言動を有り難くもったいないと思うことです。(『古語大辞典』三五三頁)即ち敬虔な心で取り次ぎをお願いし、見参(げんざん)とは対面のことですから、お目に掛かるようにと配慮します。信徒に対してこのような謙譲の形式を用いたことはありません。(鈴木一成著『日蓮聖人遺文の文献学的研究』三八四頁)

 

□『四条金吾殿御返事』(三一二)

○佐渡井箇田の所領

 一〇月付けにて頼基から金銭一貫文を送られた謝礼の書簡です。『平賀本』に収録されています。主君の江馬氏より新たに佐渡に三箇郷の所領を給わったことが知らされました。別称『所領給書』と言います。この喜びの知らせに満悦の嬉しさを述べます。法華信者として世間からは疎まれていたのが、主君から認めてもらったことは存外の喜びであったのです。書中に同僚の者、数十人から訴えられていたと書いています。ほとんどの者が頼基に敵対する状況であったことが窺えます。また、兄弟からも捨てられていたとあります。兄弟仲よくするようにと再三、頼基に諭していたのも信仰を通してのことで、これらの悪条件の中で報奨を得た恩を忘れないようにと述べます。

 新たな所領は佐渡のいかだ(井箇田)と言う所でした。以前に領していた信濃国下伊那伊賀良村の殿岡(飯田市大瀬木三日市場附近)の土地よりも三倍の領地でした。しかし、頼基は佐渡の辺鄙な田畑が少ない所なので不満をもったようです。ですから、身延にいる佐渡の弟子が三箇郷の中で、年貢にしても井箇田が一番良い所と言っているので、殿岡よりも劣っていても以前の三倍もの土地なのであるから、愚痴を言わず有難いと感謝するように諭します。

 阿闍世王は殺父の大罪を犯したが、父王の積善の功徳と後に法華経を庇護した功徳により成仏したことを例に挙げ、頼基も同僚や兄弟など多くの人から疎まれたが、竜口法難の折りには共に行者となった功徳により、善神から守護されていると述べます。

「との(殿)も又かくのごとし。兄弟にもすてられ、同れいにもあだまれ、きうだちにもそば(窄)められ、日本国の人にもにくまれ給つれども、去文永八年の九月十二日の子丑の時、日蓮が御勘気をかほりし時、馬の口にとりつきて鎌倉を出て、さがみ(相模)のえち(依智)に御ともありしが、一閻浮提第一の法華経の御かたうどにて有しかば、梵天・帝釈もすてかねさせ給へるか。仏にならせ給はん事もかくのごとし。いかなる大科ありとも、法華経をそむかせ給はず候し、御ともの御ほうこう(奉公)にて、仏にならせ給べし。例せば有徳国王の、覚徳比丘の命にかはりて釈迦仏とならせ給がごとし。法華経はいのり(祈)とはなり候けるぞ。あなかしこあなかしこ。いよいよ道心堅固にして今度仏になり給へ」(一五九四頁)

成仏は疑いないとして強盛な信心を勧めます。終わりに頼基の一門の出家や在家の者も所領を給わったことを喜んでいると述べます。『普賢経』の「煩悩を断ぜず五欲を離れず」、『止観』の「煩悩はそのまま菩提となる」、『大論』の「大薬師のよく毒を変じて薬となすがごとし」の文を引いて、これは欲の喜びではあるが法華経の奉公となる欲は、菩提になる善因であると教えます。

 

「御一門の御房たち又俗人等にもかゝるうれしき事候はず。かう申せば今生のよく(欲)とをぼすか。それも凡夫にて候へばさも候べき上、欲をもはなれずして仏になり候ける道の候けるぞ。普賢経に法華経の肝心を説て候。不断煩悩不離五欲等云云。天台大師の摩訶止観云煩悩即菩提生死即涅槃等云云。龍樹菩薩の大論に法華経の一代にすぐれていみじきやうを釈云譬如大薬師能変毒為薬等云云。小薬師は以薬治病。大医は大毒をもつて大重病を治す等云云」(一五九四頁)

 

□『兵衛志殿御返事』(二九一)

『定遺』は五月頃としますが『対照録』は秋頃とします。ここでは一〇月末頃とします。五月と一〇月の見解の違いは、本文にふれている農事が初夏の田植え時か秋の収穫時の繁忙期に当たるかによります。ここに「たうじはのうどき(農時)にて」とあり、農時は田植えの春か稲苅りの秋になります。身延へ向かう国府入道が思わぬ日数がかかり、「わせ(早稲)」の時期も重なり諦めて引き返します。(『千日尼御前御返事』一五四六頁)。この時期は七月になります。他に夏頃(『日蓮聖人御遺文講義』第一六巻二一一頁)、『類纂』は弘安四年とします。真蹟は七紙が京都妙覚寺に所蔵されています。前文が欠失し磨滅が多く目立ちます。

 宗長から金銭や様々なものが供養されたことの礼状です。大貳阿闍梨は本書のみの記載です。大貳とは令制で帥(そつ)の下、少貳の上位になります。阿闍梨号をもつ天台僧で池上氏と有縁の人と思われます。武蔵房円日も同じ立場と思われます。教学の理解も深いので使者とされたと言えます。

 

「御ふみにかゝれて候上、大にのあざりのかたり候は、ぜに十余れん并にやうやうの物ども候しかども、たうじはのうどき(農時)にて□□人もひきたらぬよし□□も及候はざりけ□□□兵衛志殿の御との□□□御夫馬にても□□□□て候よし申候」(一五〇五頁)

 

病床にあった聖人は、宗長の書簡と登詣した大弐阿闍梨から、金銭や種々の供養品を用意していたが、農繁期で人手が不足して長引いた事情を知ります。宗長自身が供養の物を運ぼうとしたが、代わりに大貳阿闍梨が歩馬を牽いて身延へ届けたことを聞きます。

人手が足りない時にたくさんの供物が届けられました。百済から日本に仏教が伝わったが、車がなければ都へは運べなかったように、たとへ鎌倉に居て財物を受領しても、舎人と馬がなければ届けられないのと同じと述べます。また、供養を運んだ歩馬は、釈尊が出家する時に乗った御馬であった金泥駒(こんでいこま・こんじく)となり、舎人は釈尊の御者であった車匿(しゃのく)のように、法華経への給仕の功徳により成仏すると述べます。池上親子の入信という慶事と合わせて殊更に嬉しかったのです。

親子兄弟が同心に信仰しなければ、過去の摩訶羅王と善友・悪友太子が、今の浄飯王・釈尊・提婆の関係となって敵対し、片方は仏となり片方は無間地獄に堕ちたのと同じになったと述べます。日本においても後白河院と崇徳院(讃岐院)は兄弟であったが、位を争って敵となり共に地獄に堕ちたと述べます。頼朝は弟の義経一族を滅ぼしたことにより滅亡した例を挙げ、親子・兄弟が結束して信仰を貫くように諭します。

 三人の功徳は父母の親類をも成仏へ導くと述べ、子孫も末永く繁栄すると述べます。経文を引きこの功徳については百千枚書いても尽きないと褒めます。宗仲は勘当中の住まいを母方に借りていました。(高木豊著『日蓮とその門弟』二二九頁)聖人は「やせやまい」の病床中にありました。

 

「又とのゝ御子息等もすへの代はさかうべしとをぼしめせ。此事は一代聖教をも引て百千まいにかくとも、つくべしとはをもわねども、やせやまいと申、身もくるしく候へば、事々申ず。あわれあわれいつかけさん(見参)に入て申候はん。又むかいまいらせ候ぬれば、あまりのうれしさに、かたられ候はず候へば、あらあら申。よろづは心にすいしはからせ給。女房の御事、同くよろこぶと申せ給へ」(一五〇七頁)

 

 病の聖人が兄弟を心配されて書簡を認めたのです。再会の機会があれば語り尽きないと伝え、宗長の妻の安堵のことを同じく喜んでいると結びます。五月に三井寺の円城寺金堂供養のことで、延暦寺衆徒が強訴します。

 

□『上野殿御返事』(三一四)

 閏一〇月一三日付けにて時光から里芋一駄、柑子密柑一籠、金銭六百文の代わりの茣蓙十枚の供養を受けた礼状です。茣蓙(御座)の筵は藺草(いぐさ)の茎を織って筵状に作った敷物のことで、畳が普及する以前は屋内の敷物として使用していました。聖人の書斎や弟子の部屋などに暖房のために使用されます。真蹟は存せず日興の『興師本』が大石寺に伝えられ、弘安元年に書状が到来したと記入しています。

 本書には疫病が流行していたことを記します。八月九月の大雨大風のため作物が熟さず、生きて越冬ができるか困難な状況を知らせます。疫病と飢饉に苦しみ寛喜・正嘉年間を越えた災害と述べます。一〇月には京都に大風が吹くなどの天災が続きます。盗賊が充満し蒙古再来に備え異国警護番役が強化され、人々は心労を費やしていました。このような世相であるから善神は国を守護せず、三宝も国を捨てるような状態であると述べます。

「民の心不孝にして父母を見事他人のごとく、僧尼は邪見にして狗犬と猨猴とのあへるがごとし。慈悲なければ天も此国をまほらず、邪見なれば三宝にもすてられたり」(一五九六頁)

一旦は疫病が止んだと思えたが、鬼神が再来して四方から疫病に苦しんでいる悲報を聞いていると述べ、このような国も人心も乱れた時に過去の宿善による供養の温情に感謝しています。

 

○御本尊(五六)後一〇月一九日

 後一〇月一九日付け御本尊で授与者の名前はありません。通称、第五一の御本尊と同じく表装の裂地文様から「鴛鴦御本尊」と言われます。紙幅は縦五〇.三㌢、横三一.五㌢、一紙にて京都本国寺に所蔵されます。

□『不孝御書』(三一三)の続きが『陰徳陽報御書』(三三一)となり、弘安二年四月二三日付けの書状となります。

□『千日尼御前御返事』(三一五)本書は建治二年閏六月の書状とします。

 

□『四条金吾殿御返事』(三一六)

○頼基の身延登詣

 頼基は鎌倉より聖人を尋ねます。所領を賜ったことの報告と何よりも病気を心配されての登詣でした。幾日か滞在し薬などを調剤して下山します。その後、一ヶ月して鎌倉に帰ったことの報せがあり、閏一〇月二二日付けにて頼基に宛てたものです。『本満寺本』の写本が伝わります。『必假心固神守則強書』と別称します。

 身延から険阻な箱根路を騎馬にて鎌倉に帰ります。頼基の新たな所領となった信濃から、金銭三貫文、白米一俵、餅五〇枚、酒の大筒一、小筒一、串柿五把、柘榴一〇箇が届きます。本書はその謝礼と、以前に身延にて施薬看護をされた薬効により、衰弱した体力が回復したことを伝えます。

 

「日蓮は他人にことなる上、山林の栖、就中、今年は疫癘飢渇に春夏は過越し、秋冬は又前にも過たり。又身に当て所労大事になりて候つるを、かたがたの御薬と申し、小袖、彼しなじなの御治法にやうやう験候て、今所労平愈し、本よりもいさぎよくなりて候。弥勒菩薩の瑜伽論・龍樹菩薩の大論を見候へば、定業の者は薬変じて毒となる。法華経は毒変じて薬となると見えて候。日蓮不肖の身に法華経を弘めんとし候へば、天魔競ひて食をうばはんとする歟と思て不歎候つるに、今度の命たすかり候は、偏に釈迦仏の貴辺の身に入替らせ給て御たすけ候歟」(一六〇〇頁)

 山中における生活の不便の上に、この年は疫癘飢渇が増し厳しくなったこと、頼基の治療により以前よりも元気になったと述べます。定業の者は薬も毒となるが、法華経は毒変じて薬となると病気を甘受します。天魔は法華経を弘める者の食を奪い、命を断ずるものと分かっていたので歎きはしなかったと述べます。しかし、頼基の施薬により命長らえたことに、釈尊が頼基の身に入り替って治癒されたものと感謝します。

 また、主君の勘気が解けたとは言え、同僚や他宗徒の迫害を心配されて頼基の帰路道中のことを案じていました。頼基にとっても気の重い帰路となりました。 

「今度の御返りは神を失て歎候つるに、事故なく鎌倉に御帰候事、悦いくそばくぞ。余りの覚束なさに鎌倉より来る者ごとに問候つれば、或人は湯本にて行合せ給と云、或人はこふづ(国府津)にと、或人は鎌倉にと申候しにこそ心落居て候へ。是より後はおぼろげならずは御渡りあるべからず。大事の御事候はば御使にて承り候べし。返返今度の道はあまりにおぼつかなく候つる也。敵と申者はわすれさせて、ねらふ(狙)ものなり。是より後に若やの御旅には御馬をおしませ給ふべからず。よき馬にのらせ給へ。又共の者ども、せん(詮)にあひぬべからんもの、又どうまろ(胴丸)もちあげぬべからん御馬にのり給べし」(一六〇一頁)

と、無事に鎌倉に帰ったかを身延に来る人毎に尋ねています。湯本(箱根)・国府津小田原市の東部、森戸川の河口付近)などで頼基に出会ったと言う地名が書かれ、聖人の元に尋ねて来た人も多かったことが分かります。格別なとき以外は訪ねてはならないとし、大事な場合でも本人ではなく使いの者を身延に参らすように述べます。敵と言う者は油断させて隙を狙うものであると細心の注意を促します。遠出の場合には甲冑を着け力の強い駿馬に乗るように、供の者は役に立つ者を連れるようにと細かく指導をします。

 次に『止観』に信心強固な者には必ず善神が守護するとの文を引きます。そして、法華経は利剣と同じであるが、切れ味は使う人により違うという喩をもって信心のあり方を説きます。末法の弘通を地涌の菩薩に付属されたのは信心が堅固である故と述べます。石虎将軍の故事を引き地涌の一人として信心を強固に持つならば、大難も消滅すると結びます。

 

□『九郎太郎殿御返事』(三一七)

 一一月一日付けにて九郎太郎から芋一駄、栗、やきごめ焼米、はじかみ生姜)を供養された謝状です。『対照録』は文永一一年とします。『本満寺本』に日乾と思われる筆跡にて、「弘安」と注記されていることから弘安一年とします。(小松邦彰稿「日蓮遺文の系年と真偽の考証」『日蓮の思想とその展開』所収九八頁)。追伸の部分は『本満寺本』の『庵室修復書』(建治三年冬。一四一一頁)とほとんど同文ですが、『定遺』の『庵室修復書』には載せておらず、本書『九郎太郎殿御返事』に載せます。真蹟は二紙断片が身延に所蔵されています。九郎太郎は南条一門の者であることは間違いなく、本書にあるように南条七郎の子息とされます。九郎太郎宛の書状は他に一通あるのみで、父の信仰を受け継ぎ純真な信仰をしていたことが窺えます。

 身延の山中にはない供養品の有り難さを述べています。また、周辺には里芋を作る人はいないが、作ったとしても聖人を憎んでいるので農産物を供養してくれる人はいないと述べます。

「さてはふかき山にはいもつくる人もなし。くりもならず、はじかみもをひず。まして、やきごめみへ候はず。たといくりなりたりとも、さる(猨)のこすべからず。いえのいもはつくる人なし。たとえつくりたりとも人にくみてたび候はず。いかにしてかかゝるたかき山へはきたり候べき」(一六〇二頁)

 山は高い頂からに下へ降っていき、海は浅い所から沖にいけば深くなるように、末法という時は山に曲がった木だけが残るように人の心も曲がり、低い草ばかりになるように智人が少なくなり邪法がはびこると例えます。念仏を称え形ばかりの戒を持って往生を願う人は多いが、法華経を信ずる人は少ないことを、いくら星は多くても大海を照らせないように、草はたくさんあっても宮殿の太い柱にはならないと譬えます。つまり、念仏を称えても浄土へ参る種にはならないのです。そして、南無妙法蓮華経の七字を唱えることこそが仏になる種と教えます。題目に仏種を認め唱題に成仏を説かれました。

 

「但南無妙法蓮華経の七字のみこそ仏になる種には候へ。此を申せば人はそねみて用ひざりしを故上野殿信じ給しによりて仏に成せ給ぬ。各々は其末にて此御志をとげ給歟。龍馬につきぬるだには千里をとぶ。松にかゝれるつたは千尋をよづと申は是歟」(一六〇三頁)

 

と、題目こそが成仏の仏種であることを述べ、故上野氏はこのことを信じた篤信の者であると讃えます。竜馬についている壁蝨は千里を飛び、松にかかる蔦は千尋をよじ登るとの例えを挙げて、その子である九郎太郎も信心を継承して成仏の志を遂げるように勧奨します。(「立正安国論」「蒼蝿驥尾に附して万里を渡り碧蘿松頭に懸りて千尋を延ぶ」)。九郎太郎の供養は徳勝童子が土の餅を釈尊に供養した功徳と同じであると、今生には利生をうけ後生も成仏はまちがいないと述べます。九郎太郎は下人を持たない貧しい身の上で、厳しい山路を越えて供養の品を運ぶのは難儀なことでした。志はあっても実行できないのが常ですが、供養を届けたことに感謝され、鬼子母尊神・十羅刹女が守護されるであろうと褒めています。

 

○御本尊(五七)一一月二一日

 紙幅が縦二四三.九㌢、横一二四.九㌢、大小二十八枚継の大幅の御本尊です。現存する御本尊の紙幅の大きさでは随一の大きさです。二番目は玉沢妙法華寺の「伝法御本尊」(『御本尊集目録』第一一)、三番目が平賀本土寺の「二十枚継御本尊」(『御本尊集目録』第一八)となります。これに次ぐのが身延旧蔵の『御本尊鑑』(三二)で、紙幅は縦一八二.六㌢、横一一五.六㌢となります。「優婆塞、藤太夫日長」である甲州南津留郡小立村の渡邊藤太夫に授与されたものです。同村の妙法寺に護持されていましたが、後に沼津光長寺に所蔵されます。また、この讃文は同寺所蔵の弘安二年七月に日法に授与された御本尊第六五と全く同じです。

 讃文は法華経の持経者を供養することの功徳が大きいことと、逆に持経者に悪言をし悩乱させたときの罪業の深さを示す文を書き入れています。即ち「若於一刧中常懐不善心作色而罵仏獲無量重罪、其有読誦持是法花経者須臾加悪言其罪復過彼。有人求仏道而於一刧中合掌在我前以無数偈讃由是讃仏故得無量功徳、歎美持経者其福復過彼。有供養者福過十号、若悩乱者頭破七分。讃者福安明謗者開罪於無間」の文が両横に書き入れられています。法師品(『開結』三一一頁)と陀羅尼品(『開結』五七一頁)の文と『文句記』の釈文です。法華経を謗る者の罪の深さと、持経者を供養する徳福の功徳を説いた文です。

○御本尊(五八)

 年月日が不明の御本尊です。紙幅縦八三.六㌢、横四〇.三㌢の絹本に書かれています。京都の要法寺に所蔵されています。

 

□『兵衛志殿御返事』(三一八)

 一一月二九日付けにて宗長へ宛てた書簡です。真蹟は六紙断片が大津本長寺などに伝わります。宗長から金銭六貫文が届き、そのうちの一貫文は次郎と書かれ、兄弟二人から白の厚綿の小袖一領が届きました。次郎は池上家の家族か親戚と考えられ詳細は不明です。

 

○供養の功徳に勝劣浅深がある

 四季にわたり三宝に供養することは功徳になると述べ、同じ功徳でも時に従って重宝とされる供養の品があること、また、四季に関わらず有り難い品々があることを次のように述べます。

「但時に随て勝劣浅深わかれて候。うへたる人には衣をあたへたるよりも、食をあたへて候はいますこし功徳まさる。こゞへたる人には食をあたへて候よりも、衣は又まさる。春夏に小袖をあたへて候よりも、秋冬にあたへぬれば又功徳一倍なり。これをもつて一切はしりぬべし。たゞし此事にをいては四季を論ぜず、日月をたゞさず、ぜに・こめ・かたびら・きぬこそで、日々、月々にひまなし」(一六〇四頁)

食料に困っている人は衣服よりも食物を頂くほうが有り難いです。有り難さに違いがあるように功徳にも浅深があると述べます。寒苦に身を凍えている者には食物よりも衣服のほうが身を助けます。また、夏の暑い時に厚綿の小袖を供養するよりも、冬の寒さの厳しい時のほうが功徳は大きいと述べます。時によって供養にも勝劣があるのです。池上兄弟は四季や月日を問わず、常に銭・米・帷子・衣小袖などを供養されていたようです。頻婆娑羅王が釈尊に毎日、五百輌の車に品物を積んで供養したこと、阿育王が十億の沙金を鷄頭摩寺に布施したことよりも勝れていると述べます。

 

○波木井地方の大雪

 この年の身延は特に寒さが厳しく、周辺の長老も経験をしたことがない寒波であると知らせます。厚綿の小袖は身を暖め心を温めるほど有り難かったのです。

「其上今年は子細候。ふゆと申ふゆ、いづれのふゆかさむからざる。なつと申なつ、又いづれのなつかあつからざる。たゞし今年は余国はいかんが候らめ、このはきゐは法にすぎてかんじ候。ふるきをきなどもにとひ候へば、八十・九十・一百になる者の物語候は、すべていにしへこれほどさむき事候はず」(一六〇五頁)

 近辺(波木井)は積雪が一丈二丈も積もった所があり、少なくても五尺は積雪があると述べています。閏一〇月三〇日に降雪があったが一旦は融け、一一月一一日午前八時から降り始めた雪が一四日まで降り続けて大雪となり、その後、雨となったため雪が締まり寒波のため金剛のように固くなったと述べ堂内の様子を知らせます。

「このうるう十月卅日、ゆきすこしふりて候しが、やがてきへ候ぬ。この月の十一日たつの時より十四日まで大雪下て候しに、両三日へだてゝすこし雨ふりて、ゆきかたくなる事金剛のごとし。いまにきゆる事なし。ひるもよるもさむくつねたく候事、法にすぎて候。さけはこをりて石のごとし。あぶらは金ににたり。なべ・かまに小水あればこをりてわれ、かんいよいよかさなり候へば、きものうすく食ともしくして、さしいづるものもなし。坊ははんさくにて、かぜゆきたまらず。しきものはなし。木はさしいづるものもなければ火もたかず。ふるきあかづきなんどして候こそで一なんどきたるものは、其身のいろ紅蓮大紅蓮のごとし。こへははゝ(波々)大ばゝ地獄にことならず。手足かんじてきれさけ、人死ことかぎりなし。俗のひげをみれば、やうらくをかけたり。僧のはなをみれば、すゞをつらぬきかけて候」(一六〇六頁)

 寒さのため酒は石のように凍り油も金のようになり、鍋・釜に貯まった水があれば割れてしまう程でした。薄い衣服に食物も乏しく、草庵は半作の建物であったので風雪も吹き抜けていました。薪もなくなり火を焚いていないと述べています。寒さのため肌の色が大紅蓮のようになった者や、八寒地獄にいるような叫び声をだす者がいました。手足は切れ裂け在家の者の髭を見ると息が凍って瓔珞を吊したようになり、僧の鼻は鈴を貫ねていると表現しています。

 昨年の一二月三〇日から下痢の症状が出て、今年の一〇月には非常に悪化しましたが、頼基の施薬治療により小康を持っていました。しかし、この寒さのため下痢の症状が起きてきたと述べます。このような時に兄弟二人から供養された二つの厚く軽い小袖を着用することにより、寒さを忍ぶことができると述べます。この小袖は綿が四〇両(約一、五㌕)も入っているのに夏の帷子のように軽くて着やすいと述べます。頼基などから身延の寒さと病状について知らされていたのでしょう。また、食料も兄弟と右近尉から送られたことにより命を繋いでいると感謝します。それのみならず食料も届いたことに感謝されます。同じく右近尉という草案の門弟からも食料が届いていたと知らせます。池上氏の知りあいの人物だったのでしょう。

 

○身延在山の門弟

そして、草案に居住している人数について知らせ心境を次のように述べます。

「人はなき時は四十人、ある時は六十人、いかにせき候へども、これにある人々のあにとて出来し、舎弟とてさしいで、しきゐ候ぬれば、かゝはやさに、いかにとも申へず。心にはしづかにあじちむすびて、小法師と我身計御経よみまいらせんとこそ存て候に、かゝるわづらわしき事候はず。又としあけ候わば、いづくへもにげんと存候ぞ。かゝるわづらわしき事候はず。又々申べく候」(一六〇六頁)

草庵に住する門弟が四〇~六〇人と言う程に膨らんでいました。同居している者の兄弟と言って入門を願うので、冷たく断ることができなかったのです。下痢の症状もあり体調が優れなかったので、十分な教育もできなかったと思います。何事にも労せず心静かに小法師と二人だけで読経する生活を望むこともあったのです。年が明けたらどこかへ逃げたいと言う心情に窺えます。この中には在家の者もおり向学心の強い者ばかりではなかったのです。翌年は一〇〇人に増えたのです。身延に参詣する信徒や居住する弟子が多くいたことが分かります。頼基と湯本などで会ったという情報は、これらの者の連携にあったのです。身延を中心として弘教活動が展開されていたのです。最後に兄弟・親子の信仰問題が円満に解決されたことを喜ばれます。親子の心情も良く主君からの覚えも良いこと等の悦びは、手紙では心情を語り尽くせないと結ばれます。この一一月に元の世祖は日本商船に交易を許可します。

 

□『出雲尼御前御書』(四四〇)

 弘安元年一二月一日付けにて安房の出雲尼へ宛てた書状の末尾になります。川崎市匤真寺に所蔵されています。出雲尼の道中について「をぼつか(覚束)なし」と気がかりであることを述べています。本書に対する疑義があります。(若江賢三稿「御書の系年研究(その7)」)

 

□『食物三徳御書』(三一九)

 真蹟は四紙断片のみで前半と後半が欠失し大石寺に所蔵されています。平かなが多用され大石寺に伝来することから、南条氏関係の信徒へ宛てた書状と言われます。内容は供養の品に因んで食物の三徳を述べ、人に物を施すことは自身の功徳となることを教えます。

「食には三つの徳あり。一には命をつぎ、二にはいろ(色)をまし、三には力をそう。人に物をほどこせば我身のたすけとなる。譬へば、人のために火をともせば、我がまへあきらかなるがごとし」(一六〇七頁)

 他人のために灯を点せば自分の前も明るくなるように、供養の因果応報の功徳を述べます。ただし、悪人に供養すると悪事を増長させるのみで、施主はかえって気力や体力を失い悪果を招くと説きます。善人に供養することが大事なのです。続いて一切経の文字の一つ一つは「釈迦如来の生気」(一六〇八頁)と述べ、この正気には九界と仏界の二つの気があるとして以後は欠失しています。

 

□『獅子王御書』(三二〇)

 真蹟は七紙(一一~一七)断片にて前後が欠失し大石寺に所蔵されています。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇四四五頁に、真蹟六紙、真蹟は現存しないようだとあります)。本書は長編の著述と思われ、月日、宛先は不明です。書き出しの文字から『閻浮提中御書』とも称し、本文中の文により『獅子王御書』とします。

閻浮提の中の飢餓や疫病の原因は、釈尊を蔑ろにしているためです。聖明王のとき仏教が伝えられたが、欽明・敏達・用明の三天皇が採用しなかったので仏罰を受け、長野の善光寺の仏像は本来は釈尊であるのを阿弥陀仏として隠蔽したことを挙げます。同じく法華経の行者に仇をなすために災厄にあうとして、譬喩品や勧発品の文を引きます。

そして、弘法・慈覚・智証の三大師の真言密教を用いた国主も皇法も滅んだと述べ、その仏罰の現証として「承久の乱」と明雲座主の例を挙げ、獅子王のごとき信念をもって布教すべきと門弟を諌めます。

「願は我弟子等師子王の子となりて群猿に笑る事なかれ。過去遠々劫より已来、日蓮がごとく身命をすてて強敵の科を顕す師には値がたかるべし」(一六〇九頁)

 昔より聖人のような行者には会い難いとし、国主の弾圧よりも来世で閻魔王の責めに会うほうが恐ろしいと述べます。迫害を恐れずに信仰を貫くことを教えます。書簡を受け取った人が疫病に罹ったためか、『涅槃経』を引用して仏教を信じて人生の苦悩から解脱しようとする者が、怠慢になっているのを気づかさせるために仏が疫病を与えたのであり、法華信仰を励まし勧めることに本意があると述べます。

 聖人は凡夫であるけれど、八宗十宗の邪正、インド・中国の論師人師の勝劣、八万法蔵・十二部経の趣旨を学び、日本国の危機を知ることができたのは「法華経の御力」(一六一〇頁)であると述べます。即ち『立正安国論』の二つの予言を指します。以後、国主は讒言に惑わされて迫害するが、度重なる法難にも退転しないことに言及すると思われます。この後は欠失しています。

 

□『随自意御書』(三二一)

 真蹟第一紙~二七紙迄が大石寺に所蔵されています。前文と末尾が欠失しているため著作年次や宛名は不明です。建治三年の説があります。冒頭の書き出しから『衆生身心御書』とも言います。内容は釈尊の教え(仏説)には随他意と随自意の二説があり、爾前経は随他意方便の権教、法華経は釈尊の御心のままに説かれた随自意の実教と述べます。法華経の説き方にも機根・時代・国土により違いがあります。

 まず、爾前経は衆生の心に合わせて説いていることを述べます。例えを挙げて、

譬へばさけ(酒)もこのまぬをや(親)の、きわめてさけをこのむいとをしき子あり。かつはいとをしみ、かつは心をとらんがために、かれにさけをすゝめんがために、父母も酒をこのむよしをするなり。しかるをはかなき子は父母も酒をこのみ給とをもへり」(一六一〇頁)

 

 酒を飲まない親でも子供が酒好きならば、好きなような素振りをして心を引き寄せるという例をもって、爾前の教えを説いた釈尊の御心を述べます。提謂経は提謂・波利の二長者のために人間界と天上界の五戒十善を説き、阿含経は声聞と縁覚の二乗のために四諦の法門と十二因縁を説き、華厳経は菩薩のために六波羅蜜を説きます。これらの教えは凡夫自身の心を説いた方便の施教となります。釈尊の真実の御心を説いた法華経は利益があると述べます。この法華経を受持する功徳について、 

「麻の中のよもぎ・つゝ(筒)の中のくちなは(蛇)・よき人にむつぶもの、なにとなけれども心もふるまひ(振舞)も言もなを(直)しくなるなり。法華経もかくのごとし。なにとなけれどもこの経を信ぬる人をば仏のよき物とをぼすなり」(一六一一頁)

と、無解の者であっても法華経の功徳によって身心が得脱し、釈尊から認められると述べます。法華経においても機・時・国・人師により弘教の方法が異なることを、等覚の菩薩でも認識できないと述べます。

「人のつかひ(使い)に三人あり」(一六一一頁)として、インドの四依・中国の人師・日本の末代の凡夫の三種の使いの例えを挙げます。この弘教の人師について、正法・像法における仏教史を概観し、法華経がどのように認識されたかを述べます。像法に天台が法華経を最勝としたが、玄奘は法相宗を第一として天台宗と水火の異なりを説き、則天皇后は華厳宗を第一として天台宗を格下げしました。

 

「其後則天皇后の御世に華厳宗立。前に天台大師にせめられし六十巻の華厳経をばさしをきて、後に日照三蔵のわたせる新訳の華厳経八十巻をもつて立たり。此宗せん(詮)にいわく、華厳経は根本法輪、法華経は枝末法論等云云。則天皇后は尼にてをはせしが内外典にこざかしき人なり。慢心たかくして天台宗をさげをぼしてありしなり。法相といゐ、華厳宗といゐ、二重に法華経かくれさせ給」(一六一四頁)

 玄宗皇帝の時代に善無為等が印・真言を中国に伝え真言宗を第一とし、妙楽は天台の後の法相宗・華厳宗・真言宗と法華経の勝劣を論じたが、公場対決ではなかったので完璧に破折することができなかったと述べます。

 次に仏教が伝来した欽明から桓武天皇時の伝教へ進みます。伝教は天台・真言の二宗を日本に弘めたが、二宗の勝劣は内心に秘して人に説くことをしなかったとみます。

「天台真言の宗を日本国にひろ(広)めたり。但勝劣の事は内心に此を存て人に向かってと(説)かざるか」(一六一五頁)

同じ時代に弘法が真言宗を立て、天台宗の慈覚・智証がこの真言を法華経と同等としたことを批判します。中国・日本のいかなる知者でも、弘法・慈覚・智証の教義を破折することはできないとします。人はこの教えによって成仏し、国主もこの教えを尊崇することにより国土安穏であると、誰しもが許容するであろうが、聖人は同意しないと述べます。法華経以外に「諸経の中に於いて最も其の上に在り」の法華最勝の文を破った文はないことから、真言劣・法華勝の立場を述べます。しかも、朝廷の宣旨を添えて威厳を持たせたのは、確かな経文がない証拠と言えます。宣旨については両方の主張を確かめて明らかな証文を記載して下されるべきと批判します。

そして、「已今当」の経文を知らなければ罪がないように見えるが、この経文を立てて法華経を弘める行者が出現した時は大事なことが起きると述べます。この行者を迫害するならば善神は行者を守り、終には国土も民も滅びると述べます。蒙古襲来は他国侵逼の現れなのです。聖人の諫言は聞き入れられず弟子信徒にも迫害が及ぶという仏意に符契したことになります。

行者を善神は守護すること、また、悪人に供養すれば大悪になってしまうが、法華経の行者を供養する功徳は甚大であると述べます。結びに動乱の時に孟宗筍を供養され涙が止まらないほど嬉しいと述べます。

「其上当世は世みだれて民の力よわし。いとまなき時なれども心ざしのゆくところ、山中の法華経へまうそう(孟宗)がたかんな(笋)ををくらせ給。福田によきたねを下させ給か。なみだもとゞまらず」(一六一八頁)

福田は供養により福徳を生み出す田と言うことで、その心が私達に具わっていることです。三福田とは仏や僧を恭敬する敬田、父母や師僧の恩に報いる恩田、老病や貧苦の人に憐愍心を持つ悲田があります。孟宗竹の由来は呉の孟宗(~二七一年)の母は筍を好んでいたので食べさせようとしたが、ある冬の朝、竹林に入ったけれど地が凍りつき筍を得ることができず哀嘆したところ、筍が生えてきて母に食べさせる事ができた故事によります。