308.『大学三郎御書』~『十字御書』              髙橋俊隆

□『大学三郎御書』(三二二)

 真蹟一紙一五行の断片が能登の妙成寺に所蔵されています。本書の断片に一九の丁付があり長編の書簡となります。『対照録』は本書断片(第一九紙)・『断簡一九七』(二五三九頁。第二一紙後半一〇行)・『大尼御前御返事』一七九五頁。末尾第二二紙)を同一の書状とし、高木豊氏はこれを支持します。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇六七〇頁)。また、『断簡一九七』(二五三九頁)は『大尼御前御返事』へ続くと見られます。そうしますと大学三郎に宛てたのではなく『大尼御前御返事』とするのが正しくなります。(岡本錬城著『日蓮聖人遺文研究』第一巻一一二頁)。しかし、本書は紙背に書かれた書簡であり、『大尼御前御返事』は通常の料紙に書かれていることから、別の遺文と見るのが妥当とします。(小松邦彰稿「日蓮遺文の系年と真偽の考証」『日蓮の思想とその展開』所収一〇一頁)。著作年時に弘安三年説があります。蒙古の再来に備え降伏の祈願を命じ鎮西警護に緊迫した時とすると弘安三年説が近くなります。

 大学三郎は比企能員の末子で「承久の乱」のとき順徳天皇の佐渡島配流に同行します。後に四代将軍藤原頼経御台所となった姪の竹御所の計らいにより鎌倉に戻っていました。本書に秋田城介安達泰盛が大学三郎を仲介として、何らかの祈願を依頼されたことを述べています。直接の依頼は泰盛になります。しかし、大学三郎の依頼であってもその祈願は叶わないことを告げます。

 

「いのりなんどの仰かうほるべしとをぼへ候はざりつるに、をほせたびて候事のかたじけなさ。かつはしなり、かつは弟子なり、かつはだんななり。御ためにはくびもきられ、遠流にもなり候へ。かわる事ならばいかでかかわらざるべき。されども此事は叶まじきにて候ぞ」(一六一九頁)

 泰盛より祈願を依頼されるとは思ってもいませんでした。大学三郎は聖人にとって『立正安国論』の添削指導を受けていたように師匠でもありました。仏門にあっては弟子であり檀越であるから、斬首されようとも遠流に処せられても代われるものなら代わりたいがとして、その祈願は叶わないと伝えます。つまり、祈願を断ったのです。その祈願とは異国調伏のことであり、ここに、頼綱と泰盛の敵対関係があったと推測されます。(菅原関道稿「中山法華経寺聖教に見える異筆文書の考察」『興風』第一六号二〇六頁)。また、大川善男氏は金沢実時が病気であったので子顕時が泰盛を介して快癒を願ったが、律宗称名寺の大檀那であったので断ったと言います。また、「かつはしなり」は「か川ハし累な里」(かつは知るなり)と読みます。(『日蓮遺文と教団関係史の研究』一一頁)。一方では聖人の理解者であると解釈できますので意味は同じと思います。

大学三郎を「坂東第一の御てかき」と言われ、能書家であったことが分かります。その縁により景盛と親交がありました。文永八年の竜口首座の折りには泰盛に助命嘆願をした篤信の信徒でした。。

「大がくと申人は、ふつうの人にはにず、日蓮が御かんきの時身をすてゝかたうどして候し人なり。此仰は城殿の御計なり。城殿と大がく殿は知音にてをはし候。其故は大がく殿は坂東第一の御てかき、城介殿は御てをこのまるゝ人也」(一六一九頁)

また、頼基が主君より勘気を受けたとき、陳状の清書を大学三郎に依頼するように指示していました。(『四条金吾殿御返事』一三六三頁)。鎌倉の教団において重要な信徒であったのです。父能員の法号長興と母の法号妙本をもって比企谷に長興山妙本寺と命名して開堂供養を行います。

□『衣食御書』(三二三)『断簡』(三一二)について『対照録』は建治二年とします。『女人某御返事』(九九)の妙心尼への書状とし、高橋入道死去の五月四日以降と思われます。

□『十字御書』(三二四)

 一二月二一日付けにて真蹟一紙が村雲瑞龍寺に所蔵されています。縦一七、九㌢、横三八、八㌢です。通常用いた料紙の半分となります。『筍御書』(一一七七頁)と同じように半分に折った片方には何も書かず、供養品が届けられ近辺にあった料紙に急いで謝状を書かれたと思われます。折紙の上の部分が表装されて伝わりました。

ほりの内殿から十字(むしもち。蒸し餅)三〇枚、炭二俵を供養された謝状です。蒸し餅は中華風の蒸した饅頭のことで、中に野菜や餡が入っていました。六と四でむし、字はちと読み「むしもち」となります。これを蒸し食べ易くするために、真ん中から十の字に割って食べることから「十字」(ひしもち)が当て字とされました。蒸餅は饅頭の異名と『和漢三才図会』にあります。十字を「満月の如し」(一六二一頁)と形容しているので、平たく丸い形だったことが分かります。語源は『晋書』の列伝第三巻の「蒸餅の上に十字を作し坼(たく)さざれば食せず」に由来します。饅頭に朱点を打つのは、十字の遺風と言います (『嬉遊笑覧』)

頼朝が建久四 (一一九三)年 五月に富士山麓で巻狩を行った際、頼家が鹿を射ったことを祝い、参加した将士に「十字 (じゅうじ)」を配っています。また、武士は身につけて戦場に行軍したと言います。身延近辺の住民が炭焼き仕事や、木樵などの山仕事に携帯した食料でした。冬の山仕事に炭焼きをする者が多く、良質の木炭二俵を使者に背負わせて運ばせたのでしょう。炭は暖房のためや食事の支度に使用されます。蒸し餅は御宝前に積み重ねて供えました。

宛名の「ほりの内殿」は本書にのみしか見られず、甲斐・駿河在住の土豪とされます。また、殿と敬称されるのは、その地の領主と言います。周囲に高い土塁と深い水をためた堀を廻らした館に住んでいると言います。この所から堀之内殿とか御館殿と呼ばれます。蒸し餅と炭俵を供養されたことから、近隣に館を構えか波木井氏と同じ南部氏の信徒であると言います。(中尾尭著『日蓮聖人のご真蹟』一五四頁)

□『断簡』(一七八)『秀句十勝鈔』(二三)

(一七八。二五三四頁)。『対照録』は文永一一年とします。真蹟は堺妙国寺に所蔵されています。『秀句十勝鈔』(二三五九頁)は伝教の『法華秀句』三巻中の法華十勝の要文を挙げ私見を述べます。伝教に真言宗破折があることを『依憑天台集』を引いて述べます。(二三八一頁)。真蹟の六三紙三巻は(第三紙欠)法華経寺に所蔵されます一二月二三日に時宗は蘭渓の後の師事を求め、禅僧招来のため徳詮と宋英を日宋させます。(『円覚寺文書』)