309.『上野殿御返事』(三二五) ~『孝子御書』(三二八) 髙橋俊隆 |
◎五八歳 弘安二年 一二七九年
□『上野殿御返事』(三二五)
一月三日付けにて時光から餅九〇枚、山芋五本を供養された礼状です。三日午後二時に身延の洞(ほら)に元旦の供養の品が届いたと知らせます。真蹟は四紙断片が広島の妙頂寺ほか京都妙覚寺、本法寺等に所蔵されます。 昨年の七月から飢饉が続き一一月には大雪のため路が閉ざされました。登詣者も少なく食料が乏しくなっていました。海辺の者は木を財とし山中に住む者は塩を宝とするように有り難いと述べます。国王は民を親のように大事にし、民は生活を支える食物を天と尊びます。国王は国民の生命を補償することが大事です。
「王は民ををやとし、民は食を天とす。この両三年は日本国の内、大疫起て人半分げんじて候上、去年の七月より大なるけかち(飢渇)にて、さといちのむへんのものと山中の僧等は命存がたし」(一六二一頁)
この二、三年の間に疫病により人口の半分の人が死に、遠方の里市に行って食料を買うことができない者や、山中に居住する僧侶は食料不足のため存命が危ぶまれると近況を述べます。さらに、法華誹謗の国に生まれ、国中から怨まれて衣食に乏しい生活をしているので、粗末な布でも錦のように貴く、雑草の葉でも甘露のように美味しいと述べます。そのうえ厳しい積雪のため心情の厚い者でなければ訪れる者はいないと心細く過ごしていました。正月の三箇日の内に届いた蒸し餅は、満月のように心を明るくし生死の闇も晴れたと感歎します。これも故親父の恩徳であると喜ばれています。
「こうへのどの(故上野殿)をこそ、いろあるをとこと人は申せしに、其御子なればくれない(紅)のこき(濃)よしをつたへ給るか。あい(藍)よりもあを(青)く、水よりもつめたき氷かなと、ありがたしありがたし」
(一六二一頁)
時光は父の篤い信仰心を受け継ぎ共に情けの深い人と述べます。『荀子』勧学篇に「青は之を藍より取りて而も藍より青し。氷は水之を為りて而も水より寒し。(青取之於藍、而青於藍。冰水爲之、而寒於水)」とあります。青と冰を時光、藍と水を父に例えたのです。「青は藍より出て藍より青し」の元となり出藍の誉とも言います。
□『越後公御房御返事』(四三七)
一月八日付けにて越後房から供養を受けた礼状です。真蹟は二紙一一行完にて福井本妙寺に所蔵されています。越後公は竜泉寺の大衆で日弁と名乗り日秀と熱原の弘通をしています。『本尊分与帳』によると弘安年間に日興より離れ、後に下総に妙興寺、上総に鷲山寺を草創します。
内容は大餅五枚、太い暑預(しょよ)一本。これは長芋のことで『日本書記』の武烈天皇の記事に「暑預(うも)を掘らしむ」とあります。それに、里芋一俵が届きました。去年からの飢饉と疫病に加え、三災(刀兵・疾病・飢饉の災難)の戦乱が起きるようであると述べ、主食の芋頭を山中に届けたことに感謝します。(二八七四頁)。日弁の房地・供田の生産物であったと言います。(岡元錬城著『日蓮聖人の御手紙』第二巻一六六頁)。
□『上野郷主等御返事』(三二六)は弘安五年とします。(寺尾英智稿「『上野郷主等御返事』の形木について」)。
□『日眼女釈迦仏供養事』(三二七)は弘安三年二月二日とします。
□『日眼女釈迦仏供養事』(三二七)
二月二日付けにて頼基の妻である日眼女に宛てた書簡です。真蹟は身延曾存で『平賀本』に収録されています。日眼女は三七歳の厄年に当たり釈尊一体三寸の木像を造立して除厄祈願をします。冒頭に厄除けの御守りを染筆したことを述べ、前回は二貫文、今回は開眼供養の一貫文の布施があったことを記しています。 寿量品の「六或示現」の文を引き一切の諸仏菩薩・善神は釈尊の垂迹であり、天照太神・八幡大菩薩も本地は三界の主である教主釈尊と述べます。釈尊一体を造立する人は十方世界の諸仏を造立することになるとして、頭を振れば髪もゆれ心が働けば身体もそれに従って動くことに譬えます。また、大風が吹けば草木が揺れ、大地が振動すれば大海も波立つように、釈尊が動けば一切の諸仏菩薩・善神は釈尊の垂迹として動くと譬えます。釈尊が諸仏を統一する本師であることを教えます。そして、日眼女の三七歳の厄年に当たり、
「今の日眼女は三十七のやく(厄)と[云云]。やくと申は譬ばさい(采)にはかど、ます(升)にはすみ、人にはつぎふし(関節)、方には四維の如し。風は方よりふけばよはく、角より吹ばつよし。病は肉より起れば治しやすし、節より起れば治しがたし。家にはかきなければ盗人いる、人にはとがあれば敵便をうく。やくと申はふしぶしの如し。家にかきなく、人に科あるがごとし。よきひやうし(兵士)を以てまほらすれば、盜人をからめとる。ふしの病をかねて治すれば命ながし」(一六二三頁)
と、厄は体の節々の病いで治癒し難いものであるが、それを知って早くから対処すれば災厄を逃れられると述べます。釈尊像を建立する功徳によって善神は守護すると述べます。優填大王が造立した釈尊像を礼拝するために、大梵天王や日天月天が来臨した時、木像は造立の功徳主である大王を供養するようにと説諭します。日眼女の功徳も同じとして女人成仏にふれます。
「法華経云若人為仏故建立諸形像如是諸人等皆已成仏道云云。文の心は一切の女人釈迦仏を造り奉れば、現在には日々月々の大小の難を払ひ、後生には必仏になるべしと申文也。(中略)日本国と申は女人の国と申国也。天照太神と申せし女神のつきいだし給る島也。(中略)今日眼女は今生の祈のやうなれども、教主釈尊をつくりまいらせ給候へば、後生も疑なし。二十九億九万四千八百三十人の女人の中の第一也とをぼしめすべし」(一六二四頁)
法華経は女人成仏を説いた唯一の経典であり、天台・妙楽も法華経以外の教えでは女人は成仏できないと説き、天照太神も女人の神であると示して、日眼女の功徳は今生の厄を除くのみではなく後生の成仏も疑いないとして、日本の二九九万四八三〇人の女性の中で第一の果報者と褒めます。
□『孝子御書』(三二八)
○池上康光の死去
二月頃に宗仲の父が没し本書(一六二七頁)を二月二八日付けで宗長に宛てた書状です。真蹟は四紙断片が京都頂妙寺などに散在します。弘安元年に康光は帰信(『兵衛志殿御返事』一一月二九日。一六〇七頁)しました。康光は建久元(一一九〇)年の生れ逝去の時は九〇歳となります。兄弟が浄蔵・浄限のように父を帰信させた孝心を褒め、父亡き後も異体同心に信仰に励むように述べます。宗仲にも同様の書状を送っているので、互いに協力して弘通すべきことを願っています。宗仲はこのとき五七歳ですので勘当の争いは年老いてのことでした。 ○御本尊(五九)二月
中山の浄光院に所蔵され「妙心」に授与された御本尊です。讃文に「有供養者福過十号」と「若悩乱者頭破七分」の経文が首題下部の左右に書かれています。行者を供養する功徳と行者を悩乱させる者の罪業を示しています。紙幅は縦八八.八㌢、横四八.五㌢の三枚継ぎの御本尊です。 ○御本尊(六〇)二月
同じ二月の染筆で「釈子日目」に授与された御本尊です。讃文は「有供養者福過十号」と「若悩乱者頭破七分」に、「讃者積福安明、謗者開罪於無間」が加えられ、四天王に大の字が冠されていることが第五九の御本尊との違いです。日興の添え書きがあったのを削損した跡があります。広目天王の王の字の中に「日興」の二字が残っていると言います。この御本尊より再び提婆達多の列座が見られ、「龍王女」を書かれているのはこの御本尊だけです。紙幅は縦九四.九㌢、横五二.七㌢の三枚継ぎの御本尊です。桑名の寿量寺に所蔵されています。
○御本尊(『御本尊鑑』二三)二月
「優婆塞日載」に授与された絹地、紙幅は縦六九.八㌢、横四一.二㌢の御本尊です。御本尊(五九・六〇)との違いは広目天王と増長天王が梵名で書かれていること、年月の位置が花押と毘楼博叉天王との間にあることです。
○南宋滅亡
二月、南宋が滅亡します。海軍の将帥であった夏貴や范文虎らの武将が蒙古(元)に降伏します。最後の皇帝である衛王も入水し宋は完全に滅亡します。このとき元は直ちに日本への攻撃を狙ったようです。
○阿佛房逝去
三月二一日に阿佛房が死亡しました。
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