310.『松野殿後家尼御前御返事』 ~『新池殿御消息』     髙橋俊隆

□『松野殿後家尼御前御返事』(三二九)

 三月二六日付けにて松野六郎左衛門の後家尼に宛てた書状です。『朝師本』に収録されています。夫の入道は前年の弘安元年の一一月に没したと言います。本書から聖人とは直接に会ったことはないが、度々の供養をしていたこと分かります。故に一眼の亀の浮木に値えるように尊い志であると褒められたのです。安楽行品の「文殊師利此法華経於無量国中乃至名字不可得聞」の文を引き、人間に生を受けても法華経の教えには会い難いことを、「盲亀浮木」の譬えを挙げ、題目にも会い難いと述べます。

「設ひ法華経には値とも肝心たる南無妙法蓮華経の五字をとなへがたきに、あひたてまつる事のかたきにたとう」(一六二九頁)

 次に三国に未だ広まらなかった法華経と唱題の信仰を述べ、聖人一人が建長五年より唱えたこと、経文の通り刀杖・流罪などの迫害にあったことを回顧します。このような値難を法悦として受容します。

「但日蓮一人ばかり日本国に始て是を唱へまいらする事、去建長五年の夏のころより于今二十余年の間、昼夜朝暮に南無妙法蓮華経と是を唱る事は一人也。(中略)五ノ巻の経文にすこしもたがはず。さればなむだ(涙)左右の眼にうかび、悦び一身にあつまれり」(一六三一頁)

 

と、建長五年から値難の生涯を振り返り行者として貫徹した法悦を述べます。そして、このような日本国中の人々から疎まれた聖人を供養することを感謝して結ばれます。

「衣は身をかくしがたく、食は命をささへがたし。例せば蘇武が胡国にありしに、雪を食として命をたもつ。伯夷は首陽山にすみし、蕨ををりて身をたすく。父母にあらざれば誰か問べき。三宝の御助にあらずんばいかでか一日片時も持つべき。未だ見参にも入ず候人の、かやうに度々御をとづれのはんべるはいかなる事にや、あやしくこそ候へ。法華経の第四巻には、釈迦仏 凡夫の身にいりかはらせ給て、法華経の行者をば供養すべきよしを説れて候。釈迦仏御身に入らせ給候歟。又過去の善根のもよをしか。龍女と申女人は法華経にて仏に成りて候へば、末代に此経をまいらせん女人をまほらせ給べきよし誓せ給し、其御ゆかりにて候か貴し貴し」(一六三一頁)

身延の苦しい生活が窺えます。蘇武が胡国に捕えられた時の例や、首陽山に隠棲した伯夷・叔斉の例をもって飢餓の心中を伝えます。稀少な供養の功徳は大きいのです。

第二節 熱原浅間神社祭礼

○熱原浅間神社の神事と刀傷事件

 四月八日、浅間神社の神事(流鏑馬)の最中に行智と共謀した冨士下方の政所代が、雑踏を利用して信者の熱原四郎(「四郎男」日弁の父と伝えます)に刀傷を負わせるという事件が起きます。(『滝泉寺申状』)。行智は日秀の信徒が刃傷沙汰を起こすのを仕組んだのです。下方の政所は北条氏の在地である冨士地方を支配するための機構です。熱原は得宗家の所領でした。行智は得宗領の利権を得ようとしました。つまり、この事件の背後に幕府の力があったのです。その人物とは九月二一日の「刈田狼藉」・熱原法難にて頼綱とはっきりします。また、この時には大進房が背反していたと言います。

 

○御本尊(六一)四月八日

 釈尊の生誕の四月八日付けにて六老僧第一の「日向法師授与」と書かれています。讃文は陀羅尼品の「若悩乱者頭破七分」と「有供養者福過十号」「讃者積福於安明、謗者開罪於無間」の文を両横に書かれ、法華信不信の福徳と罪業を示されます。紙幅は縦八九、四㌢、横四七.六㌢、三枚継ぎ中型の御本尊で、茂原の藻原寺に所蔵されています。なを、四月付けの御本尊は他に二幅(第六二・六三)現存しており、『本化高祖年譜』には同じ四月八日付けにて日朗にも授与されたと記載します。また、同四月八日付けの御本尊が第六二になり、同日に二幅を染筆されています。藻原寺に伝わる曼荼羅の方が先に染筆されたようです。全体的に筆の勢いがよく二幅目には疲れが見えると言います。精魂を傾けて染筆されるので、一日に二幅の曼荼羅を染筆されるのが限度であったと言います。(中尾尭文著『日蓮』一九一頁)。第六二・六三の御本尊には経文を書き入れた讃文がありません。

○御本尊(六二)四月八日

 「優婆塞日田」に授与され玉沢妙法華寺に所蔵されます。紙幅は縦九七.三㌢、横五一.五㌢、三枚継ぎの御本尊で、不動愛染の梵字の起筆の部分に変化が見られ、七月付けの御本尊第六五より本格的に宝珠型となります。

○御本尊(『御本尊鑑』第二四)四月八日

 遠沾日亨の筆跡にて「法蓮」に授与され、嘗て法華経寺に所蔵されていたとあります。三枚継ぎの御本尊で「沙弥法蓮」と堀之内妙法寺の『御本尊鑑広本』に記録されます。

○御本尊(六三)四月

 「比丘日弁」の授与者名が記され、滝泉寺に寄宿して行智と対立していた日弁に与えられました。日興より日弁に渡されましたが、後に背反して日忍に渡り中山の日祐に伝来したと言います。紙幅縦一〇〇㌢、横五三㌢、三枚継ぎの御本尊で千葉県の多古町の妙興寺に所蔵されます。

○御本尊(『御本尊鑑』第二五)四月

 寂照日乾の記録によれば加治左馬助へ与えた三幅の内とあります。後に加治左馬助の遺言により返納されたことも記載されています。紙幅は縦八三.七㌢、横三六.三㌢の御本尊です。

 

□『上野殿御返事』(三三〇)

 四月二〇日付になっていますが『朝師本』には年時が記入されていません。本書の内容から『竹杖書』『杖木書』の異称があり時光に宛てた書簡です。

○龍口の頚の座と東條の難にはすぎず

 冒頭に竜口と小松原の刀難が大難であると述懐します。その理由は生死に関わる法難であったからです。

「抑日蓮種々の大難の中には、龍口の頚の座と東條の難にはすぎず。其故は諸難の中には命をすつる程の大難はなきなり。或はのり、せめ、或は処をおわれ、無実を云つけられ、或は面をうたれしなどは物のかずならず。されば色心の二法よりをこりて、そしられたる者は日本国の中には日蓮一人也」(一六三二頁)

 罵られ杖木瓦石に責められて住居を追われたこと、無実なのに流罪されたこと、経本をもって顔面を叩かれたことなどは、この大難に比べれば小さな迫害であると述べます。刀剣などによる身体的な迫害、悪口や讒言などの精神的な迫害、つまり、色心の両方から加害された者は日本国の中では一人しかいないと述べます。

 

○少輔房の逆縁

その中でも忘れられないとして、松葉ヶ谷の草庵にて少輔房により顔面を打たれたことに言及します。頼綱は武装した兵士を引き連れ捕縛します。このとき同行した郎従の少輔房が、法華経第五の巻を持って顔面を叩いたのです。「平左衛門尉が一の郎従少輔房と申者はしりよりて、日蓮が懐中せる法華経の第五巻を取出して、おもて(面)を三度さいなみて、さんざんとうちちらす」(『種々物御消息』九六三頁)と述べたところです。これを、

「せうばう(少輔房)が法華経の第五巻を取て日蓮がつら(面)をうちし事は、三毒よりをこる処のちやうちやく(打擲)なり」(一六三三頁)

述べます。三毒とは貪・瞋・癡の欲のことです。この三毒について勧持品に末法の衆生は三毒が強いため、法華経の行者は三類の強敵に加害されると説かれています。打擲とは人を叩くこと、殴ることですが、「手にした杖ではげしく打擲する」と言うように、棒などで強く打ち叩くことです。つまり、「刀杖の難」のうち杖の難を挙げたのです。

 ここで、天竺における「嫉妬の女人」の例を述べます。インドに嫉妬深い女性がおり、嫉妬のため姿は青鬼・赤鬼のようになり家の中の物を悉く壊し、しかも、夫が大事に読誦していた法華経の第五の巻を取り出して両足で散々に踏みつけます。この女性は死後に地獄に堕ちますが、不思議にその両足だけは堕獄を免れます。その理由は法華経を足で踏んだ逆縁の功徳にあったのです。少輔房の行為も同じでした。しかし、女人は夫を憎んだが法華経を憎んだ訳ではありません。少輔房は聖人と法華経の両者を憎んだとします。ですから、女人とは違い譬喩品の「其人命終入阿鼻獄」の文の通り無間地獄に堕ちると述べます。一身が堕獄することは不憫であるが、不軽上慢の四衆のように仏果を受けるであろうと逆縁成仏にふれます。これは、不軽菩薩の逆縁成仏を聖人の折伏逆化に移して少輔房の未来の成仏を述べたのです。

そして、この第五の巻に納められている中の提婆品・勧持品・湧出品にふれます。まず提婆達多の悪人成仏と竜女の女人成仏にふれます。

「夫第五巻は一経第一の肝心なり。龍女が即身成仏あきらかなり。提婆はこゝろの成仏をあらはし、龍女は身の成仏をあらはす。一代に分絶たる法門也。さてこそ伝教大師は法華経の一切経に超過して勝れたる事を十あつめ給たる中に、即身成仏化導勝とは此事也。此法門は天台宗の最要にして即身成仏義と申て文句の義科也。真言・天台の両宗の相論なり。龍女が成仏も法華経の功力也。文殊師利菩薩は唯常宣説妙法華経とこそかたらせ給へ。唯常の二字八字の中の肝要也。菩提心論の唯真言法中の唯の字と、今の唯の字といづれを本とすべきや。彼の唯の字はをそらくはあやまり也。無量義経云四十余年未顕真実。法華経云世尊法久後要当説真実。多宝仏は皆是真実とて、法華経にかぎりて即身成仏ありとさだめ給へり。爾前経にいかやうに成仏ありともとけ、権宗の人々無量にいひくるふ(言狂)とも、たゞほうろく(焙烙)千につち(槌)一なるべし。法華折伏破権門理とはこれなり。尤もいみじく秘奥なる法門也」(一六三四頁)

と、提婆・龍女の成仏は法華経の肝心であるとして即身成仏を説きます。慈覚以来、天台の『三大部』を用いて説を立ててとも、法華経の題目が成仏の直道であると述べます。これに反する者は仏説であっても用いるべきではなく、まして人師が説く教義を信用すべきではないと述べます。それを権教は焙烙のようで実教の一つの槌に打たれれば全ての焙烙は悉く粉砕されると例えます。提婆・龍女の成仏について次のように解釈を加えます。、

「爰に日蓮思ふやう、提婆品を案ずるに提婆は釈迦如来の昔の師なり。昔の師は今の弟子なり。今の弟子はむかしの師なり。古今能所不二にして法華の深意をあらはす。されば悪逆の達多には慈悲の釈迦如来、師となり、愚癡の龍女には智慧の文殊、師となり、文殊・釈迦如来にも日蓮をとり奉るべからざる歟。日本国の男は提婆がごとく、女は龍女にあひにたり。逆順ともに成仏を期すべきなり。是提婆品の意なり」(一六三五頁)

日本国の男は提婆達多のようであり女は竜女と似て、謗法による逆縁の衆生も順縁の者も共に成仏することを説いたのが提婆品の大事なところとです。

 次に勧持品の二十行の偈文を色読したのは聖人一人であると述べます。三国において刀難にあった行者は皆無であるとして、刀杖の二字の難を予言した法華経は「不思議なる未来記の経文」(一六三六頁)と受容します。その加害者である少輔房に対し、

「さればせうばうに、日蓮数十人の中にしてうたれし時の心中には、法華経の故とはをもへども、いまだ凡夫なればうたてかりける間、つえ(杖)をもうばひ、ちから(力)あるならばふみをり(踏折)すつべきことぞかし。然れどもつえは法華経の五巻にてまします。いまをもひいでたる事あり。子を思ふ故にや、をや(親)つぎ(槻)の木の弓をもて、学文せざりし子にをしへ(教)たり。然間、此子うたてかりしは父、にくかりしはつぎの木の弓。されども終には修学増進して自身得脱をきわめ、又人を利益する身となり、立還て見れば、つぎの木をもつて我をうちし故也。此子そとば(卒都婆)に此木をつくり、父の供養のためにたててむけ(手向)りと見へたり。日蓮も又かくの如くあるべき歟。日蓮仏果をえむに争かせうばうが恩をすつべきや。何況法華経の御恩の杖をや。かくの如く思ひつづけ候へば、感涙をさへがたし」(一六三六頁)

心の中では少輔房を跳ね返し杖を奪おうと思ったが、その杖は法華経の経典であり、しかも第五巻であったと表現されます。この巻の中に忍難弘教を説いた勧持品があります。少輔房が打った杖は法華経第五の巻であり、増上慢の人に打擲されると説いているのも第五の巻でした。「未来記の経文」と覚知したのです。

○槻木の卒塔婆

(つぎ)の木の卒塔婆の故事にふれます。これは子供のために親が厳しく育てた話です。この親は学問に励まない子を槻の木の弓で打って誡めます。子供は父を情のないものと思い槻の木を憎んだのです。時を経て修学も進み人格を備え人を教化する立場になります。この時、父親が槻の弓で怠惰な心を正してくれた情愛に気づきます。亡き父親に感謝して槻木で率搭婆を作り供養しました。つまり、仏果を得たことを思えば、その時は辛かったが少輔房の恩の賜物であると述べたのです。まして、第五の巻であったことの恩の深さを思うと感涙を抑えることができないと述べます。

 次に涌出品は「日蓮がためにはすこしよしみある品也」(一六三六頁)と述べ、その縁故とは上行菩薩が出現して法華経を弘通することと解釈します。そして、「しかるに先日蓮一人出来す」と、地涌六万の菩薩から忠賞を受け賞賛されると法悦観を述べています。聖人がその上行菩薩であることを示唆しています。

 時光に法華経に身心を預け他人にも法華経の縁を結ぶように述べ、その功徳を父母の成仏に参らせるよう勧めます。時光の臨終の時には必ず迎えに行くことを約束され、生死について次のように説きます。

「相かまへて相かまへて、自他生死はしらねども、御臨終のきざみ、生死の中間に、日蓮かならずむかいにまいり候べし。三世の諸仏の成道は、ねうし(子丑)のをわり、とらのきざみ(寅刻)の成道也。仏法の住処鬼門の方に三国ともにたつなり。此等は相承の法門なるべし」(一六三七頁) 

 子丑は午前零時から二時。寅の刻は四時迄です。生死の境は丑寅と表現することがあります。これは丑は陰の極として死を表し、寅は陽の首として生の始まりを表すことに起因します。丑寅は陰の終りで陽の始めになりますので陰陽の中間となります。ここから死の終り生の始めとして生死の中間の時とみることができます。また、諸仏が成道する時刻をここに認めることも、諸仏が有為の生死を滅却して真浄の涅槃を証得することの事由によります。仏法の住処は王城の鬼門の方に立つことはインド・中国・日本の三国ともに同じであるとして、これらは相承の法門と述べます。霊鷲山は王舎城の丑寅になり、天台山は漢陽宮の丑寅になり、比叡山は平安城の丑寅の方向にあります。これらは鎮護国家のために造立されました。つまり、鬼門の思想の一端にふれて悪事を防ぐ必要性を述べたのです。結びに、

「かつへて食をねがひ、渇して水をしたうがごとく、恋て人を見たきがごとく、病にくすりをたのむがごとく、みめかたちよき人、べに(紅)しろいもの(白物)をつくるがごとく、法華経には信心をいたさせ給へ。さなくしては後悔あるべし云云」(一六三七頁)

と、信心のありようは飢餓の時に食を欲し、喉が渇いた時に水を欲し、病気で苦しむ時に良薬を欲するように、美しい人が紅や白粉をつけるのと同じように、他心なく真剣に求めることを教訓されます。信心の篤い時光に更に信心の基本となる心のあり方を教えていることは感慨深いことです。

 

□『不孝御書』(三一三)

 本書は弘安二年四月二三日付けの頼基に宛てた『陰徳陽報御書』に続くことが、立正安国会の調査によって解明されました。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇九六五頁)。真蹟は一紙一四行の断巻にて京都妙覚寺に所蔵されています。長文の書状とみられ本書は第一〇紙になります。(鈴木一成著『日蓮聖人遺文の文献学的研究』三八五頁)

 本書の前文一~九紙の内容は不明です。本書には頼基の兄弟が信仰を捨て離れたことが記されています。兄とはもともと信仰の違いがありました。(『崇峻天皇御書』一三九四頁)。弟たちは竜口首座のとき同心であったのが信仰を捨て頼基から離れたのです。このことを兄弟は不孝の者になったと述べます。離反した理由の一つに頼基の直情径行、一徹短慮の性格にあると指摘します。(鈴木一成著『日蓮聖人遺文の文献学的研究』三八九頁)

「なによりも人には不孝がをそろしき事に候ぞ。とのゝあに(兄)をとゝ(弟)はわれと法華経のかたきになりて、とのをはなれぬれば、かれこそ不孝のもの、とのゝみ(身)にはとがなし。をうなるい(女類)どもこそ、とのゝはぐゝみ給はずは一定不孝にならせ給はんずらんとをぼへ候。所領もひろくなりて候わば我りやうえも下なんどして一身すぐるほどはぐゝませ給。さだにも候わば過去の父母定でまほり給べし。日蓮がきせい(祈請)もいよいよかない候べし」(一五九五頁)

まず、新加の『不孝御書』の内容は、頼基の兄と弟が離反したことについて、兄たちは不孝の者であるが、頼基の責任ではないと伝えます。そして、妹たちを可愛がり大切に養育することを勧めます。所領を受けた時は妹にも分け与えて充分に配慮することが大事であると述べます。その心が父母に感応して守護されるとします。(『四条金吾殿御書』一四三九頁)。聖人の祈請の意図はここにあるとして『陰徳陽報御書』に接続し、その祈請が叶うと述べます。ここ迄が『不孝御書』です。なを、兄弟の背反行為を「不孝」の「失」であるとしたのは、本書の前半に釈尊の三徳と「不孝謗法の失」についての記述があったことを窺うことができます。

□『陰徳陽報御書』(三三一)

 四月二三日付けにて真蹟は二紙断片が京都妙顕寺に所蔵されています。本書の内容が弘安二年九月一五日に頼基に宛てた『四条金吾殿御返事』(三四〇)の主君と同僚についての記事と類似することから、頼基に宛てた書簡とします。同年の一〇月に所領が加増されていました。なを、本書の第一一紙と一二紙の二紙が残存し、『不孝御書』の第一〇紙目一四行が、『陰徳陽報御書』の第一〇紙になります。従って『不孝御書』の続きが本書です。

本書には重ねて妹や夫人に優しくするように注意されます。妹にどのような悪事があっても知らない振りをすること。同僚の悪口にも動転せずに今迄のように聖人の指示に従っていれば、更に主君から所領などを賜ることができ、人々からも信用が増すと述べています。また、先々に「陰徳あれば陽報あり」(一六三八頁)と教えたように、主君のために「現世安穏後生善処」の法華経を勧めた行為を褒めます。正直な真意と数年にわたる忍耐が主君に通じて利生を受けたのであり、これは物事の始まりで大果報はまたこれから来るとします。「陰徳あれば陽報あり」の出典は漢の『准南子』人間訓(じんかんくん)です。『准南子』の原文には、「有陰德者、必有陽報有陰行者、必有昭名(それ陰徳ある者は必ず陽報あり。陰行ある者は必ず昭らかなる名あり)」とあります。

昭名とは明らかな誉れのことです。つまり、人に知られなくても善を行うことを陰徳と言い、その陰徳が必ず現れることを陽報と言います。陰行と果徳と言えます。他に「陰徳陽報」の故事は『呂氏春秋』『説苑』『韓詩外伝』にみえます。主君の折伏については一度、諫言したので、以後は不本意であっても自重するように指示します。

「又此法門の一行いかなる本意なき事ありとも、みずきかず、いわずしてむつばせ給へ」(一六三八頁)

他宗の者とはどのような不本意なことがあっても、見ず聞かず言わずして温厚に交際するように指示します。穏やかに祈る信仰を勧め、主君の問題については聖人が善神に祈請をしていることが窺えます。以上のことは聖人の私言ではなく外典・内典の肝心はここにあると教えます。

□『新池殿御消息』(三三二)

 五月二日付けにて新池左衛門に宛てています。新池氏は遠江国磐田新池に住む幕府直参の武士と言います。妻が新池尼で日興によって入信したと言い、この後の熱原法難の時に日興は同家に滞在したと言います。(『日蓮大聖人御書講義』第三二巻)真蹟は現存せず『平賀本』に「にいけ左衛門」と明記されています。新池左衛門の子供が逝去し、その追善に米三石(三百㌔)を供養しました。   

始に法華経の「小善成仏」を説いて、子供への供養の功徳と成仏を示されます。最愛の子供のために法華経の御寶前において、南無妙法蓮華経と一遍唱えました。霊山浄土へ疑いなく送り参らせるためと報じます。両親は安堵に涙を流されたことでしょう。

「抑因果のことはりは華と果との如し。千里の野の枯たる草に、螢火の如なる火を一つ付ぬれば、須臾に一草二草十百千万草につきわたりてもゆれば、十町二十町の草木一時にやけつきぬ。龍は一滴の水を手に入て天に昇ぬれば、三千世界に雨をふらし候。小善なれども、法華経に供養しまいらせ給ぬれば功徳此の如し」(一六三九頁)

供養について因果は華と果のようなものであると譬えます。供養の功徳について、千里の野の枯れ草に螢火のような小さな火をつけると忽ちに燃え広がって焼き尽くしてしまう。竜は一滴の水があれば天に昇り三千世界に雨を降らすことができるように、小善ではあるけれども法華経に供養するならば、このように大きく広がると述べます。法華経への供養は小さな因でも大きな果とし報いられる「小善成仏」を説きます。その例として阿育大王と阿那律の故事を挙げます。阿育大王の因位の功徳は土の餅を釈尊に供養したことと、阿那律が御器(食器)を持って生まれ食事に困らなかったのは、飢餓の時に修行者に稗の飯を供養した功徳によることを引きます。そして、末代に行者を供養する功徳は無量無辺の仏を供養する功徳よりも勝れていると教えます。

○踊り念仏

 次に日本国と仏教伝来にふれ、各宗の「諍論」(一六四〇頁)を挙げて法華経こそが最第一であり随自意であることを説きます。この中に阿弥陀仏を本尊として踊り念仏を唱えていた者がいたことを述べます。

「愚なる人々実と思て、物狂はしく金拍子をたたき、おど(躍)りはねて念仏を申し、親の国をばいとひ出ぬ」

(一六四一頁)

主師親三徳を備えた実父の釈尊を捨て、それを知らずに弥陀が来迎すると思って踊り念仏などに狂奔していると述べます。正しい信仰を説いても人々は覚醒するところではなく、還って住居を追い払い流罪に追い込んだため堕獄するのを不憫と述べます。そして、法華経は真実であることは釈尊の金言であると述べます。

「しかるに如来の聖教に随他意・随自意と申事あり。譬ば子の心に親の随をば随他意と申。親の心に子の随をば随自意と申。諸経は随他意也、仏 一切衆生の心に随ひ給ふ故に。法華経は随自意也、一切衆生を仏心に随へたり。諸経は仏説なれども、是を信ずれば衆生の心にて永く仏にならず。法華経は仏説也、仏智也、一字一点も是を深く信ずれば我身即仏となる。譬ば白紙を墨に染れば黒くなり、黒漆に白物を入れば白くなるが如し。毒薬変じて薬となり、衆生変じて仏となる、故に妙法と申す」(一六四二頁)

 この観点から釈尊を軽率に扱う者は、「不孝の失」の罪を受ける謗法の者であるとします。これを主張したことにより人々から怨まれ遺恨に思われたことを回想します。日本に謀反を起こした者が二六人おり、武士などの謀反人は人々から恨まれ殺されそうになったが、同じ謀反人でも法師や尼僧には穏便であったと述べます。これに反して聖人は人々から遺恨を受け殺害されそうになったと述べ、三類の強敵を示して迫害が熾烈であったことを述べます。

 三類の強敵の中でも僧尼からの迫害が多かったのは、求道心ではなく渡世の名誉や欲得のためであると指弾します。強敵に迫害を受けた者は天神七代地神五代から人王九十余代の現在まで、聖人より他にはいないと述べます。そして、日本国の上下万人一同から憎まれた聖人を訪ね供養することに対し、

「かゝる上下万人一同のにくまれ者にて候に此まで御渡り候し事、おぼろげの縁にはあらず。宿世の父母歟、昔の兄弟にておはしける故に思付せ給歟。又過去に法華経の縁深して、今度仏にならせ給べきたねの熟せるかの故に、在俗の身として世間ひまなき人の公事のひまに思出させ給けるやらん。其上遠江国より甲州波木井の郷身延山へは道三百余里に及べり」(一六四三頁)

と、前世の父母なのか昔の兄弟であったから供養されたのか。法華経との縁が深く仏果を成就する種が熟したためなのか。在家であるから多忙な公務の間に供養されたのであろうかと、来訪に感謝され善因の宿縁を愛でています。重ねて遠江国より甲州波木井の身延へは道三百余里もあると述べます。道中の宿々は粗末で不快であるし、嶺に登れば天に届くように高く、谷へ下れば底知れない深い穴に入るかと思われるようであり。河の水は矢を射るように早く、大石が流れて人馬は渡ることに恐れてしまう。船も紙を水に侵したように難破してしまう。身延へ来る男は樵夫、女は山姥のようであり、道は縄のように細長く、大木は草のように茂って心細い処と表現されます。このような難儀な身延に尋ねた宿縁を尊び、釈尊や帝釈・梵天・日月などの善神が道案内として守られたと悦ばれます。

最後に、「此程風おこりて身苦しく候間、留候畢」(一六四四頁)と、風邪の病により体調が良くない述べています。新池氏は遠江国の人で貫名重忠家と何らかの関係があったと窺えます。