312,『寂日房御書』~熱原法難の推移         髙橋俊隆

□『寂日房御書』(三四一)

九月一六日付けにて寂日房日家(にけ)に宛てた書簡です。真蹟は伝わっていません。古来、『他受用御書』に載録されていました。寂日房は上総興津の領主佐久間重吉の第三子になります。貫名重忠の猶子となりますので聖人の義弟になります。誕生寺を開創して房総における教団の基盤を築きます。後に自邸を妙覚寺とします。誕生寺の第二祖。妙覚寺は第二祖に帥房美作公日保、第三祖に寂日房が継ぎます。兄の重貞の子が美作房日保(にほ)です。二人は叔父と甥の関係になりますが文永二年に出家した時は共にに七歳でした。この重貞の妹が光日房妙向と言われ、重忠の弟小林実信の子男金実長の妻となります。貫名氏と佐久間氏は親戚となります。寂日房から上総の女性信者の求めに応じて、本尊の授与を懇請されてきた返書です。

○父母は大果報の人

始めに使いの者を身延まで訪問させたことを謝し、人間に生まれることの難しさと生まれても法華経の題目に値い難いことを述べます。そして、「題目の行者となれり」(一六六九頁)と、法華経を身読した行者となった誇りを述べます。この徳は過去に十万億の諸仏を供養した功徳と等しいとし(法師品『開結』三〇六頁)、勧持品の二十行の偈文を色読した只一人の行者であると強調します。そして、聖人を生んだ父母は大果報の人であると恩徳を述べます。

「不思議の日蓮をうみ出せし父母は日本国の一切衆生の中には大果報の人也。父母となり其子となるも必宿習なり。若日蓮が法華経・釈迦如来の御使ならば父母あに其故なからんや。例せば妙荘厳王・浄徳夫人・浄蔵・浄眼の如し。釈迦・多宝の二仏、日蓮が父母と変じ給歟。然らずんば八十万億の菩薩の生れかわり給歟。又上行菩薩等の四菩薩の中の垂迹歟。不思議に覚え候」(一六六九頁)

父母は大果報の人であると述べます。行者をこの世に出生させたからです。ここには不思議な前世からの宿習があり、聖人が釈尊の御使であるならば、その父母も釈尊の御使とも言えます。例として厳王品に説かれた浄蔵・浄眼の二子と浄徳夫人が王を仏道に導いたことを挙げます。また、釈迦・多宝の二仏が父母として生まれかわったのか。法華経の会座において弘教を誓った八十万億那由佗の菩薩の生まれかわりなのか。地涌の四大菩薩の垂迹であろうかと父母の恩徳に感謝されます。

日蓮と名乗ることは自解仏乗

 父母に頂いた名前を「日蓮」と変えたことにふれます。「日蓮」の由来を「自解仏乗」と解説します。

「日蓮となのる事自解仏乗とも云つべし。かやうに申せば利口げに聞えたれども、道理のさすところさもやあらん。経云如日月光明能除諸幽冥斯人行世間能滅衆生闇と此文の心よくよく案じさせ給へ。斯人行世間の五の文字は、上行菩薩末法の始の五百年に出現して、南無妙法蓮華経の五字の光明をさしいだして、無明煩悩の闇をてらすべしと云事也」(一六六九頁)

 天台が五重玄義の初めに名玄義を説いたように名の由来は大切であるとして、「日蓮」と名のったは「自解仏乗」と述べます。これは、天台が師伝を受けずに自ら法華三昧を証得したことを賛嘆された文で、『法華玄義』の「私記縁起」にあります。自らの境智を悟ったのです。『妙密上人御消息』に、

「聖人と申すは師無して我と覚れる人也。仏滅後、月氏・漢土・日本国に二人の聖人あり。所謂天台・伝教の二人也。此二人をば聖人とも云べし、又賢人とも云べし。天台大師は南岳に伝たり。是は賢人也。道場にして自解仏乗し給ぬ」(一一六七頁)

とあることから、師匠より伝法されるのではなく自らが開拓して得た境地です。世間の人は揶揄するであろうが、道理の確証があるとして経文を挙げたのです。

名前の理念は神力品と涌出品にあります。本書はその神力品のみを抄出し、特に「斯人行世間」の「人」である上行菩薩に視点をあてます。これは、次の文から窺えるように本化上位の自覚に立つもので、それ故に信者も共に行者であることの自覚を促します。つまり、法華経の信仰者としての一体感と行者意識の実感を述べているのです。そして、退転することは後世の恥辱となると述べます。

「彼のはんくわい樊噲・ちやうりやう(張良)・まさかど(将門)・すみとも(純友)といはれたる者は、名ををしむ故に、はぢを思故に、ついに臆したることはなし。同じはぢなれども今生のはぢはもののかずならず。ただ後生のはぢこそ大切なれ。獄卒だつえば(奪衣婆)・懸衣翁(けんえおう)が三途河のはた(端)にて、いしやう(衣装)をはがん時を思食て、法華経の道場へまいり給べし。法華経は後生のはぢをかくす衣也。経云如裸者得衣云云」(一六七〇頁)

と、樊噲や張良、平将門や藤原純友は武士の名聞を汚すことを今生の恥として臆しませんでした。退転を恥とする信心のあり方を説きます。今生の恥は世間体の見方であるが後生の恥は謗法堕獄の恥とします。三途の河にて獄卒や奪衣婆・懸衣翁の二人から衣装を剥ぎ取られることを恐れて、そうならない信仰をし法華経の浄土(道場)に参るべしと述べます。そして、法華経は後生の恥をかくす衣であるとして、薬王品の「裸なる者の衣を得たるが如く」の文を引きます。つまり、この恥である罪を隠し消す衣装が法華経であり、その求めに応じて本尊を授与し後生善処を祈られたのです。

「此御本尊こそ冥途のいしやう(衣装)なれ。よくよく信じ給べし。をとこ(男)のはだへ(膚)をかくさざる女あるべしや。子のさむさをあわれまざるをや(親)あるべしや。釈迦仏・法華経はめ(妻)とをやとの如くましまし候ぞ。日蓮をたすけ給事、今生の恥をかくし給人也。後生は又日蓮御身のはぢをかくし申べし。昨日は人の上、今日は我身の上なり。花さけばこのみなり、よめ(嫁)のしうとめ(姑)になる事候ぞ。信心をこたらずして南無妙法蓮華経と唱給べし。度々の御音信申つくしがたく候ぞ。此事寂日房くわしくかたり給へ」(一六七〇頁)

 冥途にて身を護る衣装として御本尊を授与されました。夫や子供が寒がっている時に衣装を着せない妻や親はいないように、釈尊や法華経も同じく護ると述べます。題目を唱え信仰に励むように勧めます。本文に「日蓮をたすけ給事」「度々の御音信申つくしがたく候ぞ」と述べていることから、古くからの恩人と思われます。寂日房から詳しく伝えるようにとされた婦人は聖人の両親と縁故のある佐久間氏の人と思われます。

この文面から小湊近辺の有縁の人との交信が継続されていたことが分かります。寂日房と言う十八中老僧を通じての教化のあり方と、弟子たちの各地における教線拡張の実態を知ることができます。

 

○御本尊(六六)九月

 「日仰優婆塞」に授与され和歌山県の蓮心寺に所蔵されています。自署と花押が剪除されており、紙幅は不明の一紙の御本尊です。首題に釈迦・多寶、四菩薩のみの勧請ですが、下部に右から左に「今此三界皆是我有、其中衆生悉是吾子、而今此処多諸患難唯我一人能為救護」の譬喩品主師親の三徳の文を書き入れています。

□『伯耆殿御書』(三四二)

 九月二〇日付けにて伯耆殿(日興)に宛てた書簡です。真蹟はなく『興師本』の断片が重須本門寺に所蔵されています。日付は日興の記入によるもので年号の「弘安二年」は他筆となっています。

身延から熱原までは四〇数㌔の距離があり、富士川に沿う険しい道を急げば一日の距離です。なを、九月二〇は熱原法難の前日にあたり、苅田狼藉の後の書簡ではありません。ただし、「不受余経一偈」の引用が一〇月付け『滝泉寺申状』(一六八〇頁)にあることから日付に疑義があります。また、一〇月一二日付け『伯耆殿御返事』(一六七六頁)の前文という説もあります。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇一〇〇五頁)。また、『変毒為薬御書』の奥書は本書の奥書とする説があります。(大谷吾道稿「北山本門寺蔵・日興上人筆「日興賜書写本掛物」について」『興風』第一一号二七七頁)。 しかし、書簡の内容から『定遺』のとおり九月二〇日とします。本書は前半が欠失した断片なので詳細は不明ですが、『滝泉寺申状』との関連から、明らかに行智と日興の法論における指示であることは間違いありません。

経釈を引文を指示し「不受余経一偈」の文をもって対応すべきと命じます。この引文は法華経と諸経との勝劣を論じる時の証文です。天台の『法華三昧懺儀』の「形像舎利並余経典 唯置法華経一部」の文。『法華文句』の「直専持此経則上供養」の文です。両方共に諸経(余経)よりも法華経を用いることが最上という証文です。そして、諸経とは小乗経のことだけかと問われれば、妙楽の『五百問論』の「況彼華厳但以福比、不同此経以法化之。故云乃至不受余経一偈」の文を引くこと。つまり、大乗の『華厳経』は過去世からの菩薩を教化しているので、諸経と比べると勝れてはいるが法華経の教化とは違う。故に「余経の一偈をも受けざれ」を文証とします。 

岡元錬城氏は日興と行智の間に論議が設定されており、本書はその指示を仰いだものと言います。さらに、九月二一日、熱原では「刈田狼藉」の法難が起きます。その犯人として百姓二〇名が捕縛されます。つまり、行智は論断をするように見せかけて、頼綱と入念に苅田狼藉の策謀をしていたと推測します。(『日蓮聖人遺文研究』第一巻五一一頁)

◆第三節 熱原法難の推移

○「熱原法難」とその推移

 九月二一日、行智たちによる苅田狼藉が起きます。これにより熱原の百姓たち二〇名が捕縛され起訴されます。この熱原法難の経緯を全体的に把握したいと思います。日興は時光の姉妹の嫁ぎ先である重須の地頭石川氏や伊豆の御家人新田氏を教化します。日興の母方は大宅氏の出身で下方の高橋・由比・石川氏や西山氏(河合)を教化していました。(高木豊著『日蓮とその門弟』二〇三頁)。南条氏から日目・日道・日行などが輩出します。また、実相寺に隣接する四十九院の住僧として住坊と田畠を持っていたので、供僧の甲斐房日持・賢秀・治部房承賢(じょうけん)を弟子として教化の拠点としていました。実相寺にては肥後・筑前・豊前公を教化し尾張阿闍梨と対抗していました。更に滝泉寺には下野房日秀・越後房日弁・少輔房日禅・三河房頼円たちの弟子がいました。松野氏は日持の生家です。

富士郡には百姓と言われる農民層が日興の信徒として連なっていました。『本尊分与帳』の中に神四郎・弥五郎・弥六郎と言う名字を持たない信徒がいました。日興を中心として聖人の教団が巨大化されつつあったのです。また、聖人の弟子の中で天台宗に属している者が、そのまま天台寺院に止住して法華経の弘通をしていました。文永一一年以降、台密を批判し亡国の元凶であると攻撃しながらも、経済的な基盤として退出せずに布教していました。この中から改宗する寺院が続出してきます。

 北条氏得宗としては特に得宗領における在地統制の強化をしなければなりません。得宗被官・侍所所司の立場にある頼綱の処断の厳しさはここにありました。加えて聖人の教団の拡大とその教説の定着が熱原の農民たちに広がったのです。従って得宗領を侵害したとする罪科は重くならざるを得なかったと指摘されます。(高木豊著『日蓮とその門弟』二一四頁)更に良観たちと共謀して迫害してきた延長だったのです。聖人は教団全体に対しての大難と受け止めています。(『聖人御難事』「一定として平等も城等もいかりて此一門をさんさんとなす事も出来せば」一六七四頁)。それ故に教団壊滅の危機意識を高めて異体同心の結束を促したのです。事実、熱原法難は得宗権力と聖人の御家人の信者との対抗関係に展開します。

―法難の推移―    

文永五年  ―日興上人の布教―

一月一八日。蒙古来朝。

八月。岩本実相寺の衆徒は、日興を中心として幕府に「実相寺衆徒愁状」を呈します。院主の非法五十一ヶ条を挙げて幕府の補任した院主の解任を請い、院主には住僧中から撰補することを願った。(高木豊著『日蓮とその門弟』一九四頁)

文永六年

一二月八日。日興は「実相寺住僧等申状」を呈します。

文永一一年

 八月六日。『異体同心事』(八二九頁)に熱原の信者に結束を呼びかけます。蒙古襲来の危惧を伝えています。日興は聖人が身延に入山された文永一一(一二七四)年初秋より、幼少より宿縁深い駿河・富士地方へ弘教されます。実相寺と身延を往復されていた。実相寺・四十九院・滝泉寺の住僧が日興の弟子となっていった。実相寺は比叡山横川の流れをくみ、蒲原の四十九院とは富士川を挟んで五㌔の距離です。滝泉寺とは三㌔ほどの近接した距離でした。滝泉寺の僧のなかに日秀・日弁が弟子となった。日秀らも熱原の農民を信奉者にしていった。

   ―天台系寺院を中核とした駿河の門弟が形成された―

実相寺   肥後公・筑前公(興師と俗縁高橋一族)・豊前公日源(           妻は筑前公の娘)・日仲

四十九院  日持上人・賢秀(治部房日位)・承賢

龍泉寺   日秀(~一二九八~)・日弁(一二三九~一三一一)・           少輔房日禅(~一二九八~) 三河房頼円・大進房

農民の信者

日秀の弟子――熱原六郎吉守・熱原新福地神主・三郎太郎

日弁の弟子――江美弥次郎・太郎大夫入道と子弥太郎、弟又次郎、弥            四郎入道、田中弥三郎

  一一月五日  元の使者

文永一二年 建治元年  ――熱原法難の萌芽――

  一月。日興を南条兵衛七郎の墓に代参させる。(『春之祝御書』八五九頁)。日興は駿河一帯に弟子・信徒を養成します。

六月二二日、西山氏(北条家に仕える西山郷の地頭大内太三郎)へ「善知識」(『三三蔵祈雨事』一〇六五頁)を教えます。聖人は駿河が得宗領であることから、その政治権力の弾圧に注意されていた。

六月二七日「返返するが(駿河)の人々みな同御心と申させ給候へ」『        浄蓮房御書』一〇七二頁)と激励します。

実相寺・四十九院の上層部との対立抗争が起きた。熱原でも行智はこれに反発,日弁、日秀らが対立します。(行智の院主代行した時期、頼綱の一族と思われる)

  七月二日。時光に所領替えの弾圧があっても不退の信心を勧めます(『南       条殿御返事』一〇八〇頁)

  七月一二日。高橋入道(妻興師の姉持妙尼)に信心を勧奨します。このとき日興と覚乗坊が賀島の高橋家を拠点として弘教された。(『高橋入道殿御返事』一〇八九頁)

  八月。熱原に日向を遣わす。

  九月七日。元使者を竜の口で斬首

 建治二年   ―滝泉寺の対立―

三月。日興は時光邸にて布教されていた。(『南條殿御返事』一一四七頁)。

行智は日弁・日秀に法華信仰を止め念仏信仰をする誓状を強要します。その結果、罷免され住房を奪われます。日禅は河合に離散します。日秀・日弁は罷免されても寺に寄宿し弘教を続けます。信徒の外護があったためと思われます。そのため熱原の農民をはじめとして多くの信仰者を生むことになります。この事が契機となり、行智は百姓農民に対し在地有力者として非法を行います。行智は得宗の政所代と連絡して農民を挑発して傷害事件を起こさせた。

  七月二一日。『報恩抄』著述。日向上は清澄寺に向かいます。(『報恩抄送         状』一二五一頁)

  一二月。三位房を駿河の松野氏に遣わします。(『松野殿御返事』一二六七頁)。実相寺の日源はこれ以前に所領を失い追放されています。(『松野殿御返事』一二六四頁)。

 建治三年    ―信徒への圧迫が各地に起き対処と結束を促す―

大進房を賀島に遣わします。

  一月二三日、西山氏へ弟子から教えを聞くように伝えます。(『西山殿御返        事』一二九一頁)。

  三月。三位房を賀島の高橋六郎次郎のもとに遣わします。(『六郎次郎殿御     返事』一二九四頁)

  五月一五日、時光は友人から聖人に帰依していては「上の御気色もあしからん」と、主君の抑圧を招くと忠告されます。新田家・石川家や興津の信者(浄蓮房)も弾圧されます。(『上野殿御返事』一三〇九頁)

  六月。『下山御消息』

  六月二五日。『頼基陳状』(一三四六頁)。三位房は鎌倉にいて「桑ヶ谷問         答」にて竜象房を論服します。

建治四・弘安元年(四月二九日改元)  ―実相寺の対立、四十九院、門下に                     迫害―

一月一六日。実相寺では尾張阿闍梨と日興の弟子肥後・筑前・豊前公に論争(絶対開会の解釈)が起きます。尾張阿闍梨は豊前公らの諸宗批判を非難します。聖人は一月に批判の論拠を教えます。(『実相寺御書』一四三三頁)。同じ一月、四十九院の別当小田一房との論争(東密台密の真言破)にふれます。四十九院の厳誉は日興・日持・賢秀・承賢の住坊・田畑を奪い取り寺内から追放します。

二月二三日。駿河の信者を励まします。(『三澤鈔』一四四三頁)「かへすがへす。するが(駿河)の人々みな同御心と申せ給候へ」。熱原の農民、神四郎・弥五郎・弥六郎が入信し、滝泉寺の日秀・日弁・日禅の指導を受けます。(『弟子分本尊目録』。神四郎の名を甚四郎・勘四郎とするのは誤伝と言います。(富谷旭霑著『熱原法難史談』二三頁)。

三月。日興は「四十九院申状」を上申して、厳誉の不当を主張し召し合わせを願い対決します。最終的には追放されます。(本間俊文著『初期日興門流史研究』三六頁)

  五月。太田親昌。長崎時綱・大進房が落馬し大進房は死去します。(『聖人     御難事』一六七三頁)

  一〇月一日。常忍は了性房と問答をしました。この下総宗論に常忍に大田親昌・大進房・本院主の動向を聞くように指示します。(『稟権出界抄』一五九〇頁)。

弘安二年   得宗権力による弾圧

駿河冨士一帯は得宗領であった。現地も得宗の機関。下方政所と賴綱は結託して弾圧を策した。

一月八日。日弁から供養が届く。(『越後公御房御返事』(二八七四頁)

四月。熱原浅間神社の神事の最中に、行智は下方の政所と謀って、日秀の信徒らに刀傷沙汰になるように仕向けさせ、「四郎男」を刃傷します。(『滝泉寺申状』一六八一頁)

五月一三日。某氏に事件が深まり「日蓮が身の上の一大事」と告げます。(『一大事御書』一六四六頁)

六月二六日。元使筑紫にて斬首

八月。日秀に見立てて弥四郎が斬首されます。(最初の殉教者。『滝泉寺申状』一六八一頁)。迫害者の中に大進房が再び背いて加担していたのです。大進房は八月に落馬して死去します。(『聖人御難事』一六七三頁)

九月二〇日。窪尼の所に集まっていた日興達に教学的な指示を与えます。(『伯耆殿御書』一六七一頁)

○苅田狼藉と神四郎たちの捕縛

九月二一日。行智が日秀の信者の田を勝手に刈り取り農民と乱闘になります。行智は熱原法華衆の者が自坊に弓矢を持って立ち入り、日秀が紀次郎に指示をして作毛を刈り取らせ持ち帰ったと捏造します。苅田狼藉の濡れ衣を着せて行智と結託していた役人が大挙して神四郎達二十人を捕らえます。弥藤次(神四郎の兄)が訴人となり百姓を幕府に提訴したので即刻鎌倉に拘引されます。日興は熱原の農民が捕縛されたことを聖人に知らせ鎌倉に向かいます。聖人は弟子を派遣し指示を与えます。

二三日。神四郎達は鎌倉に着き入獄します。頼綱による拷問が始まります。頼綱は私邸で蟇目の箭を射る拷問を行います。日興・日秀もこの日か二四日に鎌倉に入ります。即刻、聖人に指示を仰ぎます。

九月二六日。聖人はこの報告を受けて陳状などの指示をします。(『伯耆殿並諸人御中』二八七四頁)

 二八日に鎌倉に届き常忍は鎌倉にいました。

一〇月一日。頼基に神四郎達を救出するよう指示を出し結束を促します。(『聖人御難事』一六七四頁)

三・四日頃に若宮にいた常忍は書状を受け取り鎌倉の千葉邸に入ります。日秀の訴状を協議します。大田親昌・長崎時綱・大進房の落馬は現罰と誡めます。(『聖人御難事』一六七三頁)

一〇日。常忍が代表して陳状の草稿を聖人に送り指示を仰ぎます。神四郎達は信仰を貫く覚悟をします。

一〇月一二日。聖人は陳状の添削をし、問注の具体的な指示と不当を弁明して釈放を要求します。弾圧が全門弟に及ぶと日興に返答します。(『伯耆殿御返事』一六七六頁)。しかし、頼綱が審理に当たった頼綱は処断を決めていた。

  一五日。頼綱は神四郎・弥五郎・弥次郎の兄弟三名を首謀者として斬首し一七人を禁獄します。(『変毒為薬御書』一六八三頁)。日興は斬首の処断を聖人に知らせます。(『弟子分本尊目録』)

一七日午後六時に書簡が届き、午後八時に淡路房を鎌倉へ急行させ、問注を行うことを指示し信者を激励します。頼綱に現罰を忠告するよう日興に命じます。(『変毒為薬御書』一六八三頁)

  一九日。淡路房鎌倉に到着。日興は指示通り浄書し『滝泉寺申状』を上申します。

  二三日。頼基が危害に遭います。(『四条金吾殿御返事』一六八四頁)。以降曼荼羅に変容がみえます。

○勝訴釈放

 ―一一月六日以前に勝訴した一七人が釈放されます―

一一月六日。時光の助力を感謝されます。(『上野殿御返事』一七〇九頁)。一七人が釈放された時期や経過は不明です。問注が功を奏し時宗の上聞に達し頼綱の抑圧がなくなります。(『窪尼御前御返事』一五〇二頁)

 弘安三年

  三月。熱原の信者たちに御本尊を授与されます。

五月三日。窪尼から供養が届き熱原の信心を褒めます。「(『窪尼御前御返事』一五〇三頁)日興が教化されます。(『妙心尼御前御返事』一七四八頁)

  七月二日。時光は日秀の弟子の神主を保護していた。(『上野殿御返事』一       七六六頁)

一一月二五日。常忍に日秀・日弁を預けます。(『富城殿女房尼御前御書』一七一〇頁)。苅田狼藉の首謀者とされた二人が処罰されていないことに事件の策謀がみえます。このあとも迫害は続きます。

  一二月二七日。時光は多額の課税をされ困窮しています。(『上野殿御返事         』一八二九頁)

 弘安四年三月一八日。時光に神主は身延に居ることをに知らせます。(『上野           殿御返事』一八六一頁)

さて、この事件が教団にとってどのような意義があったのかと言いますと、それ迄の法難は聖人個人が受けていた弾圧であったのに対し、教団が始めて受けた弾圧であったとされます。加えて事件が得宗領で起きたこと。つまり、幕府の在地統制の強化の中で権力の優位を認めず、仏法為先を主張したことに頼綱の厳しい処罰がありました。(『日蓮辞典』五頁)信徒としてあるべき姿を教えています。

 日興の弟子の龍泉寺の住僧日秀と日弁は熱原の農民を信者としました。熱原法難はその農民が迫害にあう事件です。経過をみますと四月の熱原浅間神社の神事に政所代が熱原四郎を刀傷し八月には弥四郎を斬首します。この事件は日興から聖人に報告されます。(九月二〇日『伯耆殿御書』一六七一頁)。しかし、九月二一日に田地の稲を不法に刈り取る「苅田狼藉」事件が起き、二三日に首謀者として熱原神四郎達が鎌倉に護送され起訴されます。