313,『伯耆殿並諸人御中』~『滝泉寺申状』         髙橋俊隆
□『伯耆殿並諸人御中』(四三八)

 九月二六日付けの書状です。真蹟は丁付けより第一九紙目と分かる八行が、和歌山市了法寺(天台宗)に所蔵されています。日付の上に異筆(日興)にて「弘安二年」と書かれています。この表装の裏書きに元文二年九月に、法華経寺第一四、頂妙寺二三世の日遂の證判があります。また、「三」の丁付けがある「断簡追加」(二九四二頁。東京都國土安穏寺所蔵)と、「七」の丁がある『断簡』(一五八。二五二七頁)が、本書の第三紙と第七紙です。その理由は第七紙と一九紙の紙背の継目の裏にある花押(日興)から判断されました。墨跡の大小長短、枯渇も同じ書状とされます。末紙の第一九紙に日興が二一枚花押と記したのは上書き等を含めた為です。(坂井法曄稿「伯耆殿並諸人御中御書の原形について」『興風』第一七号一一一頁所収)。

 九月二一日に苅田狼藉の濡れ衣を着せて、太田親昌・長崎時綱等の武士が神四郎等二十人を捕らえ即刻鎌倉に拘引します。事件の謀者として行智から日秀たちに訴状が出ます。二三日に神四郎達は鎌倉に着き頼綱による取り調べが始まります。頼綱は私邸で子息の飯沼判官資宗に命じて蟇目矢を射り拷問を行います。この知らせを受けた聖人は日興に指示を与えた書状です。現存するのは次のところです。

・第三紙 

「刄傷し百姓をを(追)いいだ(出)したる現証か、重科のがれがたければ百姓□□□て」(二九四二頁)

・第七紙

「とかくべし。阿弥陀経等の例時をよまずと申は、此又心へられず。阿弥陀経等は星のごとし。法花経は月のごとし、日のごとし。勝たる経をよみ候を、劣る経の者がせいし(制止)こそ心えられ候はねとかけ。恒例のつた(と)めと申はなにの恒例ぞ。仏の恒例は法華経なり。仏は但楽受持等とて真の法華経の行者、阿弥陀経等の小経をばよむべからずとこそとかせ給て候へとつめ、かきにかけ」(二五二七頁)

・第一九紙

「此事はすでに梵天・帝釈・日月等に申入て候ぞ。あへてたがえさせ給べからず。各々の御はからいとをぼすべし。恐々謹言」(二八七四頁)

この残存から窺えるのは熱原の農民を刀傷して追い出したことの重い罪について。行智が法華経を読まずに阿弥陀経を読めと命じたことの教学的な見解があります。これは『滝泉寺申状』と同じ内容であることが分かります。最後に善神に祈願をしていることを述べ、法華経に背反する行動を厳戒します。異体同心の覚悟で対処するよう促します。そして、頼綱の動向に心配して具体的に指示したのが『聖人御難事』です。

 

□『聖人御難事』(三四三)

 一〇月一日付けにて弟子・信徒(「人々御中」一六七六頁)に対して不退の信仰を勧めます。真蹟は一二紙あり法華経寺に現存します。直接には頼基に宛てて鎌倉にての対応と本書の管理を任せます。四条三郎左衛門の左衛門尉は官位の名称で唐ではこれを金吾校尉と称していました。入牢していた熱原の信者との面会を赦されていたと思われ、日興・常忍と共に中心的な役割を果たしています。

 本書は同年四月・八月の熱原での刀傷事件に発し、九月に起きた熱原法難に対処するための書状です。九月に熱原の神四郎たち二十余名が捕縛されて鎌倉に連行されました。本書は門下にたいし日蓮聖人の二七年間にわたる不惜身命の弘通をのべて、命にかかわる大難にあってきたが、諸天善神の威力により守られてきたことをのべます。捕縛されている熱原の信徒たちにも、師子王のような不退の信心を貫くことを求め、門下全般に対し動揺しないことを説諭することを目的としています。しかし、一〇月一五日に神四郎たち三人の兄弟が斬首されるという悲惨な結果となります。

 

○「今に二十七年」

冒頭に開宗以来、二七年に亘る行者としての弘通と色読をしたのは聖人一人であると述べます。

「去建長五年[太歳癸丑]四月二十八日に、安房国長狹郡之内東條の郷、今は郡也。天照太神の御くりや(廚)、右大将家の立始給日本第二のみくりや、今は日本第一なり。此郡の内清澄寺と申寺諸仏坊の持仏堂の南面にして、午時に此法門申はじめて今に二十七年、弘安二年[太歳己卯]なり。(中略)。其間の大難は各々かつ(且)しろしめせり。(中略)。弘長元年[辛酉]五月十二日には伊豆国へ流罪。文永元年甲子十一月十一日頭にきず(疵)をかほり左の手を打をらる。同文永八年[辛未]九月十二日佐渡の国へ配流、又頭の座に望。其外に弟子を殺れ、切れ、追出、くわれう(過料)等かずをしらず。仏の大難には及か勝たるか其は知ず。龍樹・天親・天台・伝教は余に肩を並がたし。日蓮末法に出ずば仏は大妄語人、多宝十方の諸仏は大妄語の証明なり。仏滅後二千二百二十余年が間、一閻浮提の内に仏の御言を助たる人但日蓮一人なり」(一六七二頁)

 

 ここに開宗の時と場所を述べ法華経の行者として色読した事実を明かします。伊豆流罪・小松原法難・佐渡流罪・竜口法難を挙げ松葉ヶ谷法難にはふれていません。四大法難を定めるときに松葉ヶ谷法難を加えない理由はこの文にあります。

弟子を殺され斬られたのは小松原法難です。土地や住居を追放され過料を課せられたのは多々ありました。色読は釈尊の予言を証明します。これを示したのは聖人一人であることを強調します。

 

大進房の落馬は現罰

 そして、聖人を迫害した者に始めは罰がないように見えるが、経年してみると滅亡の道を辿っていると述べます。聖人も始めは験がないように思えたが、二十七年の間に聖人を守護しなかったなら誓願は嘘になり、虚妄罪による堕獄を恐れて今では力を注いで守護していると述べます。

「過去現在の末法の法華経の行者を軽賎する王臣万民、始は事なきやうにて終ほろびざるは候はず。日蓮又かくのごとし。始はしるし(験)なきやうなれども今二十七年が間、法華経守護の梵釈・日月・四天等さのみ守護せずば、仏前の御誓むなしくて、無間大城に墜べしとをそろしく想間、今は各々はげむらむ。太田親昌・長崎次郎兵衛尉時縄(綱)・大進房が落馬等は法華経の罰のあらわるゝか。罰は惣罰・顕罰・現罰・冥罰、四候。日本国の大疫病と大けかち(飢渇)とどしうち(同士討)と他国よりせめらるゝは惣ばち(罰)なり。やくびやう(疫病)は冥罰なり。太田等は現罰なり。別ばちなり」(一六七三頁)

 

謗法罪の現世における顕在化が現罰です。故に大田親昌・長崎次郎時縄(綱)・大進房が落馬して非業の最期を遂げたことに言明します。罰には惣罰・別罰・顕罰・冥罰の四罰があり、疫病・飢渇・同士討ち・蒙古襲来は惣罰であり、疫病は冥罰、大田や大進房の落馬死は顕罰であり別罰であると断言します。そして、獅子王の信心を確立して如何なる迫害があっても退転しないよう強く促します。佐渡に流罪されたが後に時頼・時宗に赦免されたのは、無実が判明されたからであると述べ、他人の讒言に動揺しないで善神の守護を信じて日々に精進するように伝えます。少しでも弛む心があれば悪魔間民の攻めに負けると説諭します。

 必ず頼綱や安達泰盛は怒って徹底的に迫害することを覚悟するように述べます。頼綱は聖人を憎んで弾圧しました。それを抑えていたのが泰盛でした。その泰盛も得宗領内における熱原の事件においては激怒し、厳罰に処すとした風聞があったのでしょう。(『本化聖典大辞林』上七六頁)幕府の権力は時宗を超えてこの二人にありました。弘安八年の霜月騒動により泰盛は賴綱に滅ぼされますが、両者と敵対すれば教団に大打撃があると想定したのです。蒙古襲来に備えて筑紫に戦いに派遣されようとしている人、また、征伐に向かっている者、戦地にいる者の心境をわが身にあてて思念せよと述べます。

「我等凡夫のつたなさは経論に有事と遠き事はをそるゝ心なし。一定として平等も城等もいかりて此一門をさんざんとなす事も出来せば、眼をひさい(塞)で観念せよ。当時の人々のつくし(筑紫)へか、さゝれんずらむ。又ゆく人、又かしこに向る人々を、我が身にひきあてよ。当時までは此一門に此なげきなし。彼等はげん(現)はかくのごとし。殺ば又地獄へゆくべし。我等現には此大難に値とも後生は仏になりなん」(一六七四頁)

これまで聖人に対しての迫害は熾烈でも門下には命に及ぶ悲しみはなかったと述べ、筑紫に向かう武士は現実に死の苦しみがあると述べます。熱原の者が死罪に及ぶ懸念を持たれていたのです。武士たちは殺害されれば地獄に堕ちるが、門下は殺害にあっても必ず成仏すると安心を与え励まします。我々の苦しみは例えば灸治のようなもので、その時は痛いが後には治癒するから嘆くことはないと述べます。ここに熱原法難が門下に大きな打撃を与えていた情況が窺えます。

 

○捕縛された熱原の信者

 入牢している熱原の信者と接見できたと思われます。ですから、彼らはこの事態に動揺しているので、法華経の功徳を説いて励ますよう、決して畏怖させないように指導します。

「彼のあつわら(熱原)の愚癡の者どもいゐはげま(言励)してをどす事なかれ。彼等には、ただ一えん(円)にをもい切れ、よ(善)からんは不思議、わる(悪)からんは一定とをもへ。ひだるしとをもわば餓鬼道ををしへよ。さむしといわば八かん(寒)地獄ををしへよ。をそろしゝといわばたか(鷹)にあへるきじ(雉)、ねこにあへるねずみを他人とをもう事なかれ」(一六七四頁)

「愚癡の者ども」とは物事の是非を判断する力がない暗愚な者ではなく、仏法における智者に対しての愚者とされます。つまり、教学的には未熟な者であるが強い信仰心を持っている者と解釈できます。(『本化聖典大辞林』上七五頁)法難に恐れているであろうから、行者として強い信仰を持つように言い励ますことを勧めたのです。威嚇するような言葉使いで恐れさせてはいけない。一筋に思い切ること決心させなさいと述べます。赦されることは奇蹟であり、罪に問われることがあれば確定していたことと教えること。飢えてひもじいと言えば餓鬼道の苦しみはこれ以上であると教え、寒いと言えば八寒地獄の凍えはこれ以上であると教えるように。刑罰が恐しいと言ったら鷹にあった雉、猫にあった鼠を自分の身にあてて思うようにと伝えます。死に至かもしれない法難の覚悟を教えられたのです。

 そして、このように受難に対しての覚悟を細々と書いたのは、日々常々に教訓していても退転した者がいたからです。それは名越尼・少輔房・能登房・三位房です。これらの者は臆病で法華経を理解できないこと、欲が深く疑い深い者には根気よく教化しても無駄であったからです。塗られた漆に水をかけても流れてしまい、空を刀で切っても切れないように空虚なことであると述べます。

 

「ぬれる(塗)うるし(漆)に水をかけ、そら(空)きり()たるように候ぞ」(一六七五頁)

○三位房日行の死去について

三位房の死去について今まで語らなかった理由を述べます。三位房は日興がいる駿河方面の弘教を命じられていました。これを愚かな者は三位房の優れた学徳に嫉妬していると陰口を言う者がいたためと述べます。聖人は三位房が悪心を持ったため大罰を被ったとします。もし、「なかなかさんざんとだにも申せしかばたすかるへんもや候なん」(一六七五頁)と、遠慮せずに言い聞かせ誡めていたならば救済できたかもしれないが、一連の出来事が不思議であったため今まで弁解をしなかった心境を述べます。また、真意を聞いても愚かな者は邪推して死去した者のことをあれこれ言うと批判すると述べます。しかし、後々のために真実を写す鏡として書き置くことを言い添えます。門下の中には信仰の浅い者や聖人の教えを聴聞したことが少ない者もいたでしょう。

最後に聖人に造反する者は内心では恐れていると述べます。武装した者を門下に差し向けて騒動を起こすことがあった時や、、武器を用意する者がいたなら即刻、連絡をするように指示します。つまり、弾圧されても騒動を起こしてはいけないと指示されたのです。受難を甘受する姿勢を貫いていたことと、逼迫した鎌倉の状況が窺えます。一〇月八日に藻原寺において延年の舞が行われています。(『茂原市史』九〇六頁)

 

□『伯耆殿御返事』(三四四)

 一〇月一二日付けにて、熱原法難にて不当に捕縛された農民二〇余名の信徒の無罪を主張するために、鎌倉にいた日興・日秀・日弁に宛てた書簡です。日興は陳状案『滝泉寺申状』の返事を待っていました。申状とは下位の者が上位の者に差し出す上申の文書様式のことです。正しくは申状(訴状)ではなく得宗公文所への陳状となります。(川添昭二著『日蓮と鎌倉文化』一三一頁)。本書は『滝泉寺申状』に添えた注意書きです。真蹟は現存せず写本が北山本門寺に所蔵されています。

本書には、①まず、熱原の百姓たちが釈放(安堵)された時は問注の必要はないとします。②次に、大進房と彌藤次入道の狼藉は当方が仕組んだことではなく、行智が策動した殺害・刃傷事件であると主張すること。③そして、問注所から狼藉を認めた起請文を書くように命じられても、決して提出してはならいと注意します。なぜなら、こちらが被害者であるのに無実の罪を認める事柄だからです。行智の重罪は明らかであると述べます。このことを心得て裁判になった時は、この主旨を強く主張すれば幕府の中枢にも知れわたり解決策が出てくると述べます。(「定可及上聞歟」一六七六頁)。時宗は知らなかったと思われます。 (岡元錬城著『日蓮聖人遺文研究』第一巻五〇九頁)また、行智が狼藉の証人を立てたなら、その証人こそが行智と結託して狼藉を起こした者と反論すべきこと。証文を出したら偽文書であると主張するよう指示します。彼らが熱原の農民を殺害・刃傷した事だけを訴えることを念押しします。これに背く者は聖人の門家ではないと強く訓戒されます。

 『変毒為薬御書』の奥書は本書の奥書とされます。この奥書の前文に「返々いままであげざりける事しんへうしんへう」の二一字が入ります。(菅原関道稿「中山法華経寺聖教に見える異筆文書の考察」『興風』第一六号二九二頁)

「返々いままであげざりける事しんへうしんへう。この事のぶるならば、此方にはとがなりと、みな人申べし。又大進房が落馬あらわるべし。あらはれば、人々ことにおづべし。天の御計也。各々もおづる事なかれ。内よりもてゆかば、定て子細いできぬとおぼふる也。今度の使にはあわぢ房を遺べし」(一六八四頁)

となります。奥書の追而書「返々」で始まるのが普通です。行智から起請文を提出するように命じられたが、日興達は拒否したことを褒めています。「しんへう」は「しんべう」(神妙)との見解があります。(大谷吾道稿「北山本門寺蔵・日興上人筆「日興賜書写本掛物」について」『興風』第一一号二八一頁)。神妙とは普通の人にはできないほど感心なことと言う意味があります。

行智らの悪行を申し述べたら策謀が判明し、当方に罪がないことが明らかになると述べます。また、大進房が落馬した理由も分かり現罰の恐怖に落ちるであろう、しかし、善神の決めたことであり皆は恐れることはないと述べます。いよいよ守護があることを信じて不惜身命の覚悟で対処すれば、結果的に当方の言い分が聞き入れられると指導されます。次に事態を知らせる時には淡路房を使わすように指名します。淡路房の詳細は不明ですが、日興の『身延山久遠寺輪番帳』に三月の輪番として越後房と共にあり、輪番十八人の一人になります。日興の法系で日持の弟子となり、河国西部に住み熱原法難に関係したとされます。『本化別頭仏祖統紀』には静岡村松海長寺二世の日賢と言います。

 

□『滝泉寺申状』(三四五)

 行智が日秀・日弁を訴えた訴状に対し弁明の陳状を提出しなければなりません。その陳状(申状)の草案である土代(どだい)・案文(あんもん)が本書です。正式には『滝泉寺申状案』となります。聖人が添削される前は四紙程であったと言います。(中尾堯著『日蓮聖人の御真蹟』二三八頁)。鎌倉にいる日興に宛て問注所に提出したのは一〇月一四日以降と思われます。

本書の第一紙裏に一行の「大体可有此状様歟。但熱原沙汰之趣其子細出来歟」(一六七七頁。おおよそ、この書状の内容と形式にされたらよい。ただし、熱原法難の裁決でさまざまな事件が起こると思われます)との追而書があります。裏に書いたのはこの草案が問注所に提出されることを考慮されたためと言います。(庵谷行亨稿「滝泉寺申状の「法主聖人」をめぐって」『印度学仏教学研究』第四五巻第一号二一一頁所収)。真蹟は一一紙が法華経寺に所蔵されています。前半一~七紙七行迄は聖人の自筆でここまで書き改めたことが分かります。後半の第八・九・一〇紙はもとの原稿になります。この異筆三紙の筆者については日秀か日興と言われましたが、菅原関道氏は筆跡の鑑定から常忍が書かれたとされました。(「中山法華経寺聖教に見える異筆文書の考察」『興風』第一六号八九頁)

この中にも所々に聖人の加筆・削除が見られます。第一〇紙の六行は他筆でこの後の四行が聖人の自筆。第九・一〇・一一紙の紙背に聖人の自筆の文章があります。この裏書きを剥いで第一一紙としました。第一紙は五㌢ほど切り取られて、そのまま貼ってあります。これは第一紙の裏に書かれたものです。第一紙の始めの袖の所は追って書きのため空白にして書状を書かれます。陳状案を書き終え最後に巻いた所に「大体はこのような書式にして」と指導された文章になります。(中尾堯著『日蓮聖人の御真蹟』二四三頁)。

聖人が書き改めた文章――第一紙から第七紙の切断された半ばまで

第一紙一三行  端裏書(はしうらがき) 追而書二行の後に継ぎ目があります

   第二紙一六行  第三紙一七行  第四紙一五行  第五紙一四行  第六紙一七行

   一~六紙  約縦三二、一㌢。横三九、二㌢

   二~六紙  約縦三二、二㌢。横四五、六㌢

   七紙    約縦三二、二㌢。横一九、七㌢  同じ紙を使用

   第七紙は、日蓮聖人の真筆は七行のみ。下書きと繋げて書いている。「御・不」一六八〇頁八行

「此等之子細相貽御」迄が第七紙で、「不審者被召合高僧等可被決是非歟」から第八紙、原文

最初に門弟が書いた原文

八紙    約縦三〇、二㌢。横三六、二㌢

九紙    約縦三〇、二㌢。横四三,八㌢

一〇紙   約縦三〇、二㌢。横三五、〇㌢不揃い

   一〇紙末 四行 日蓮聖人の加筆 (九紙裏)

   一一紙   約縦三〇、〇㌢。横二八、〇㌢(一〇紙裏九行を相剥ぎ)

一二紙   三行(第九紙の裏に貼付されている。全一一紙となります)

   詳しい寸法は中尾堯著『日蓮聖人のご真蹟』二四〇頁。『興風』第一六号八二頁。菅原関道氏稿にあります。

料紙は一〇紙まで継ぎ合わされ本文が継ぎ目を渡っていることから、最初から継ぎ紙に書いていたことが分かります。丁付けは後世の加筆(他筆)です。(中尾堯著『日蓮聖人のご真筆を観る』。「法華」第八一巻第九号所収二三頁)。

本書は申状と言うよりも陳状となります。(高木豊著『日蓮とその門弟』二一〇頁)訴訟を起こす原告を訴人、被告を論人(ろんにん)と言います。訴人・論人それぞれの主張を注記することを問注と言います。訴状とは訴人の言い分を記した文書のことで引付に提出します。論人はこれに対し反論します。これを陳状と言います。問注所ではくばり)奉行が訴状を受理し引付が決められます。そして、本奉行により訴訟手続きが進められます。

①「訴状」は論人の許に送られます。(「問状」回答命令書)。訴状に対する意見・反論を文書で述べることが論人に求められます。論人は「訴状」に対する反論をまとめた「陳状」を裁判所に提出します。裁判所は「陳状」を訴人に送ります。②訴人は陳状に対する反論をまとめた二番目の訴状を提出します。論人は二番目の陳状を提出します。これを三回まで行うので三問三答と言います。(初問状・二問状・三問状 初答状・二・三答状)。訴状をいう場合は「もん状」、裁判所の回答命令書は「といじょう」と区別します。③三問三答が進むと両者に出頭を命じます。これを「召文」(めしぶみ)と言います。引付が口頭で質問し回答させるので「問注」と言います。引付は勘録を作成します。勘録が上程される評定は引付評定と呼ばれます。そして、「評定沙汰落居」として決着します。

 そこで、行智の訴状をみますと、まず、差し出し人である論人の書き出し文言(もんごん)を記します。続いて内容の趣旨である事書(ことがき)となります。

「駿河国富士下方滝泉寺大衆 越後房日弁・下野房日秀等謹弁言。当寺院主代平左近入道行智、為塞條々自科遮 致不実濫訴無謂事」(一六七七頁)

 つまり、滝泉寺の大衆としての身分を持つ日弁・日秀達は、謹んで訴状に対し弁明すると述べます。滝泉寺のある富士下方は「今泉・原田・吉原・伝法・鷹岡」など一帯を言います。上方は「大宮町・白糸・芝富・上野・上井出・北山・富丘」一帯を指します。、まず、行智は自分の罪や悪行を隠すために訴訟を起こしたと述べます。正当な理由がないのに不当に訴えられたと陳状します。その一つに、

「訴状云日秀・日弁号日蓮房之弟子、自法華経外余経或真言行人者、皆以今世後世不可叶之由申之云云。取意(一六七七頁)

 日秀や日弁が聖人の弟子と名乗って、法華経以外の諸経や真言の行者の修行は、現世においての得脱、後世における成仏はないと他宗を批判していると訴えます。聖人の門下が「現世安穏後生善処」の教えを忠実に布教していたことが分かります。行智の狙いは日弁達を追放することでした。これに対する弁明は、一、『立正安国論』に述べた法華経の信仰による国土の安穏について。二、阿弥陀経を読まず題目を唱える理由。そして、三、日秀・日弁や熱原の農民が不当な仕打ちを蒙っていることを訴えます。

まず、一、聖人の勘文『立正安国論』に準じて主張したと言う筋を立てます。論拠の責任者を聖人に置いて反論を組み立てます。即ち『立正安国論』を奏進した理由である天変地異の起きる原因と、そこに予言した自界反逆・他国侵逼の二難が的中したことを挙げます。注目されるのは行智が「日蓮房」と呼ぶことに対し、聖人自身が改行して「日蓮聖人」と称されていることです。これは本書だけに見られることです。

また、蒙古襲来について注目される文章があります。通常ですと蒙古が謗法治罰のために日本国を滅ぼすと述べますが、本書には、

「外書云 知未萠聖人也。内典云 智人知起蛇自知蛇云云。以之思之 本師豈非聖人哉。巧匠在内国宝不可求外。外書云 隣国有聖人敵国之憂也云云。内経云国有聖人天必守護云云。外書云世必有聖智之君 而復有賢明之臣云云。見此本文 聖人在国 日本国之大喜蒙古国之大憂也。駈催諸龍 敵舟沈海 仰付梵釈召取蒙王。君既在賢人 豈不用聖人 徒憂他国之逼」(一六七八頁)

と、法華経を弘通する聖者がいる国は蒙古から攻められても護られると述べています。外書は『文選』、内典は法華経の湧出品の『文句記』です。外書の引用に出典の未詳のものがあります。「駈催諸龍 敵舟沈海」(聖人の威徳により八代龍王を動かし蒙古の敵船を沈める)との文章は文永の役と弘安の役に当てることができます。続いて天台・妙楽・伝教、法華経の文を証拠として、『立正安国論』の未来記が符号したのは末法「五五百歳」の導師である「法主聖人」であることを論じます。庵谷行亨氏は「法主聖人」の表記は特異なものであるが、日興が法主聖人と尊称されていたことであり、敢えてこの表記を用いたことに陳状の意義があると述べています。また、「日蓮聖人」「法主聖人」「聖人」の文字を表記するたびに、次行の冒頭から書く平出(改行)の書式をとられていることに、熱原法難における強い指導力を指摘されています。(「滝泉寺申状の「法主聖人」をめぐって」『印度学仏教学研究』第四五巻第一号二一三頁所収) 

「法主聖人知時 知国 知法 知機 為君為民為神為仏 可被対治災難之由雖勘申無御信用之上 剰依謗法人等之讒言 聖人頭負疵左手打折之上 両度蒙遠流之責 門弟等所々射殺・切殺・殺害・刀傷・禁獄・流罪・打擲・擯出・罵詈等之大難 不可勝計。因茲大日本国皆成法華経之大怨敵 万民悉為一闡提人之故 天神捨国地神辞所天下不静之由粗伝承之間雖非其仁不顧愚案所令言上也」(一六七八頁)

「法主聖人」は日本国の安穏のために法華経を説く、末法の大導師という尊厳性を主張します。しかし、信用されず逆に讒言されて、小松原法難にては頭に刀傷を負い左手を打ち折られ、伊豆と佐渡に流罪されたこと。弟子や信徒も射殺・切殺・殺害・刀傷・禁獄・流罪・打擲・擯出・罵詈などの迫害を受けた事実を挙げます。そのため国は法華経の怨敵となり人々も謗法となり、天神は国を捨去し地神も辞所して見捨てたと、天下が乱れる原因を示します。これが師匠より教えられたことであり、自分はその身分ではないとして言上の意図を述べます。儒教に「心の邪な権力者が政治を行なえば賢人は用いられない」とあり、『涅槃経』にも「正法を壊る者を見て責めない者は還って仏法を壊す怨敵となる」と説かれたことを示します。そして、蒙古調伏のため諸宗の高僧を請い祈祷を依頼していると悪い結果になる指摘します。安徳天皇や後鳥羽上皇が叡山・東寺の真言師に修法を行わせ、高僧も現罰を受け天皇も敗退したことを引例します。聖人が身延山中にて心を痛めていると述べます。

 次に二、行智が阿弥陀経を読経するように要求したことに対し答えます。(「次以阿弥陀経可為例時勤之由事」一六七九頁)。訴状の内容は宗義的なことです。この教義の解釈は権実論にて『阿弥陀経』一巻『無量寿経』二巻『観無量寿経』一巻の計四巻と法華経の勝劣を述べます。証文として法華経の開経である『無量義経』の「四十余年未顕真実」(『開結』二〇頁)の文を挙げます。この前置きとして仏法は時に応じて取捨があると述べます。花を愛でるのも月を眺めるのも時があってのことです。また、水や火を使うのも時に応じて用いるものです。過去の先例に従わなくてもよいと言うことです。つまり、行智が用いる『阿弥陀経』等は「未顕真実」の分限であり、その少経に執着しているとします。

 その証拠として舎利弗の成仏にふれます。智慧第一の舎利弗は長い間、『阿弥陀経』を読誦したが得脱できませんでした。『阿弥陀経』を離れ法華経を信ずることにより華光如来となります。まして、末代の凡夫が弥陀の名号を称えても来世に順次に往生できるだろうかと疑義を呈します。そこで、方便品の「「正直捨方便 但説無上道」(『開結』一二〇頁)を引きます。『阿弥陀経』等は方便の教えであるから、これを捨てて正しい法華経を受持するように説かれたと論証します。『涅槃経』にも虚妄の説があると説くのはこのことであるとします。

また、譬喩品の「但楽受持大乗経典乃至不受余経一偈」(『開結』一七四頁)の文を挙げます。実大乗である法華経を持ち他の経の一偈でも持ってはならないと説きます。これを妙楽は『五百問論』に「況彼華厳但以福比。不同此経以法化之。故云 乃至不受余経一偈」と解説します。『華厳経』にも法師品と同じような「六難九易」が説かれています。しかし、『華厳経』は宿世に根が成熟した大菩薩を教化したので、そこに諸経と比較して勝れていると説きました。全ての衆生に法を説いた法華経とは違います。福を比較したのであり法華経のように法を比較してはいないとして、法華経に「不受余経一偈」と説く理由を示します。つまり、絶対開会による権実不二の考えから弥陀信仰を許容する誤りを示します。

続いて法華経が最も優れていることを述べます。寂滅道場は尼連禅河畔の伽耶城の南の菩提樹下を言います。『華厳経』は釈尊が悟りを開き最初に説法をされた教えです。その教えとは「法界唯心」の法門です。世界の全てのもの(一切諸法)は自己の心(一切心)によって造られたとします。竜宮の『華厳経』は三本あり数多くの品や偈があったとされ、現在は一切経蔵には新訳八十巻、旧訳は六十巻、四十巻の三本があるだけと数を提示します。そして、その他の方等経(維摩経・金光明経・勝鬘経など)・般若経・大日経・金剛頂経などの顕密の大乗経を、釈尊は「未顕真実」と説きました。それ故に仏に成ることはできないので「多留難故」「其有衆生不得聞者 当知是等為失大利 過無量無辺 不可思議阿僧祗劫 終不得成無上菩提 所以者何 不知菩提大直道故 行於険逕 多留難故」『開結』三〇頁)と説きます。留難(るなん)が多いのは法華経の教えによらなければ、いかに仏道を歩んでも困難な険しい道を行くと言うことです。また、法然の『選択集』に「捨閉閣抛」と言った文を引用して、逆に「門閇或抛」(門を閉じ抛てよ)と示し、法華経以外の諸経は捨てよと釈尊は説いたとします。以上から、行智が言う『阿弥陀経』は法華経と比べると、大きな山と蟻の作った砂山のどちらが高いかを争い、師子王と狐や莵とが角力をして力比べをするように無益なこととします。

日秀らが『阿弥陀経』を捨てて法華経を読誦し、あらゆる人々に南無妙法蓮華経と唱えることを勧めることが、釈尊に対しての忠義であると主張します。なを不審ならば諸宗の高僧たちと召し合わせて、正邪を決するべく公場対決を望むと述べます。

 

「今日秀等抛彼等小経専読誦法華経勧進法界奉唱南無妙法蓮華経。豈非殊忠哉。此等之子細相貽御不審者被召合高僧等可被決是非歟。被糾明仏法優劣事月氏・漢土・日本之先例也。今当明時何背三国旧規矣」(一六八〇頁)

国主が仏法の勝劣を明らかにすることは、インド・中国そして日本でも、繰り返し論議されてきた先例があると述べます。先例とは阿闍世王が仏教徒と外道とを対決させたこと、陳隋の王が天台と南三北七の高僧と対決させたこと、そして、日本では桓武天皇が伝教と南都六宗の高僧と対決させて、法華経が他経を屈服させた事実を示します。これにより、今更、対決する迄もなく法華経が勝れている証左としたのです。

そして、三、訴状の核心である熱原の苅田狼藉について行智の訴えの不当を主張します。

「訴状云 今月二十一日催数多人勢帯弓箭打入院主分之御坊内。下野房乗馬相具 熱原百姓紀次郎男立点札苅取作毛取入日秀住房畢云云」(一六八〇頁)

 行智が訴えた苅田狼藉については先述の通りです。苅田狼藉とは他人の田畠の作物を奪い取ることです。麦畑を苅ると苅麦狼藉と言います。即ち九月二一日に、下野房(日秀)ら多数の者が弓矢を身につけ院主の坊内に乱入したこと。日秀は武装して馬に乗り紀次郎に点札(てんさつ)を立てさせ、寺領の稲を苅り取り日秀の住む房に運び入れたと言うのが訴状の大要です。紀次郎男は農民ですが生没年は不明です。点札は問題の生じた土地・家屋や農作物などの田地に札を立て、解決する迄は立ち入りを禁止したものです。また年貢未進の時に田地に点札して、年貢を完済する迄その土地を差し押さえることです。点定(てんじよう)とも言います。

そこで訴状は虚誕(根拠のないことを大げさに言う)であると弁明します。その理由として日秀達は行智からさまざまな被害をうけ不安な日々を暮らしており、そのような身分の者の言葉を聞いて点札を立てる者はいないこと。弱い農民達が日秀に雇われる訳がなく資金もないこと。そして、日秀達が武装して狼藉したなら、行智や下方政所の役人がその場で弓矢を奪い取り、それを証拠として召し捕らえて訴え出なかったのか。つまりは行智の訴えは矯飾(きょうじき。偽り飾る)であると賢察を促しています。

そして、行智の非法について六項目を提起します。①、日秀・日弁等は滝泉寺代々の住僧として修行(行法)を積み、天長地久の祈祷を行ってきたので批判されないのです。行智は院主代でありながら住僧である三河房頼円や少輔房日禅・日秀・日弁に対して、法華経の読誦を停止(ちょうじ)し念仏を唱える起請文を要求したこと。滝泉寺は天台宗として天長地久の祈祷を行う勤めがあります。法華経の読誦を止めさせ念仏のみを強制することはできないのです。起請文を提出すれば今迄とおり寺内に住むことを認めると命令(下知)したのです。

 頼円は命令に随って起請文を書き居住を認められます。日禅等は拒否したため任じられた住房を奪われ寺を追われます。日禅は実家の冨士郡河合へ移ります。日秀・日弁は頼る所がないので四年の程は縁故の人を頼み滝泉寺の中で寄宿していたのです。けれど行智は日秀らが所職とする住房を奪い取り法華経による祈祷を禁止しました。それも飽き足らず法華経の行者を一掃するために謀略を計画して、さまざまな偽りを人々に言いふらしたのです。その姿は釈尊在世のときの提婆達多のようであるとします。

続いて行智の悪行を列挙して公平な判断を図りますが、これより先に日秀は行智の悪事を幕府に訴えようとしていました。それを察した行智が先手をうったのが事件の発端と思われます。その悪行とは、

「凡行智之所行以法華三昧供僧和泉房蓮海作法華経於柿紙彫紺形為堂舎修治。日弁給御書下所構置之上葺槫一万二千寸内八千寸令私用之。勤下方之政所代。去四月御神事之最中法華経信心之行人令刀傷四郎男。去八月令切弥四郎男頚。(日秀等擬刎頭事此中書入の一一字は日蓮聖人の加筆)。以無知無才之盗人兵部房静印取過料称器量仁令補当寺之供僧。或催寺内之百姓等取鶉狩狸殺狼落之鹿於別当坊食之 或入毒物於仏前之池殺若干魚類出村里売之。見聞之人莫不驚耳目。仏法破滅之基悲而有余。如此之不善悪行日々相積之間日秀等愁歎之余依欲驚上聞。行智為塞條條自科廻種々秘計相語近隣之輩遮申付無跡形不実擬令損亡日秀等條言語道断之次第也。付頭付頚□無戒御沙汰哉」(一六八一頁)

②、法華三昧堂の和泉房に法華経の経典をほぐさせ、何枚も重ねて厚くして柿紙(こけら。柿渋をひいて作った紙)とし、必要な分だけ切り取った型紙(紺形)建物の修理に使ったこと。③、日弁が書き下し状により用意した屋根の葺槫(ふきくれ。上葺きの板材)一万二千枚のうち、八千枚を行智が私用に使ったことを挙げます。この柿紙の件について、「堂舎の修理をした」を、第一〇紙の最後に「重い罪のうえ謗法にあたる」と訂正し「仏法怨敵」と批判されます。(「法華三昧供僧和泉房蓮海~」一六八二頁)。また、④、政所代を誘い四月の浅間神社の神事中に紛れて四郎男を切ったこと。そして、八月には弥四郎男をも殺害したことを挙げます。聖人はこの文に行智は日秀達が二人を殺害したように偽装工作をしたと書き入れるようにと加筆指示されます。(「日秀等擬刎頭事此中書入」一六八一頁)。殺害の犯人は行智側であるのを日秀達とした不当を挙げたのです。また、⑤、無知の盗人の兵部房静印から内密に罰金(過料)を取り、有徳の僧と偽って供僧に採用したこと。⑥、農民に寺内の鶉や狸を狩り、狼を捕獲するために好物の鹿を殺し別当の坊にて食べたこと。仏前の池に毒を入れて魚を捕り村里にて売ったこと。つまり、獣狩りの悪事に農民は苦しめられていること。行智は仏法を破滅させる元凶の僧侶であることを示して反論したのです。在地の有力者である行智と農民との対抗関係が根付いていたのです。(高木豊著『日蓮とその門弟』二一二頁)

日秀達は行智の悪事が日々に積み重なるので、嘆きのあまり幕府へ訴えようとしたが、(愁歎之余」一六八二頁。聖人の加筆)。これを察知し罪状を隠す秘計を廻らしたのです。これこの訴状です。「言語道断」の理由です。つまり、事件は行智の策謀であると傍証したのです。

最後に行智に対する戒めの処罰を要求します。まず仏法の権実(邪正)や訴訟の真偽について真相を追求すること。そして、真実誠諦之金言)を説いた法華経と御成敗式目の条文によって行智の悪行を禁遏(きんあつ。とどめて止めさせる)するなら、守護の善神は銷変(しょうへん。天変地異を消)し、擁護の善神は喜ぶとします。行智を罷免すべきでこの重罪を免れることはできないとします。日秀達が復帰するなら堂舎を修繕し天長地久の祈祷に励むと弁明し結びます。

「然則被改易不善悪行之院主代行智将又本主難脱此重科。何例如実相寺。任不誤之道理日秀・日弁等蒙安堵之御成敗令修理堂舎欲抽天長地久御祈祷之忠勤矣。仍勒状被陳。言上如件」(一六八二頁)

ここに、「将又本主難脱此重科。何例如実相寺」(はたまた本主この重科を脱れがたからん。何ぞ実相寺に例如せん)の一五字は聖人の加筆です。『日蓮聖人全集』(第五巻三一六頁)には、行智らの悪行が実相寺の事件と一つに取り扱われるのを不当とします。これは、実相寺の別当厳誉は日興・日持・日源を寺内から追放しましたが、厳誉は行智のような謀略を廻らした殺害などの悪行はなかったので、本件と実相寺とでは事件の内容が違うとする解釈です。また、実相寺の事件の判決において院主は無罪となったとする解釈があります。(堀日亨著『冨士日興上人詳伝』上、一五一頁)。

これに対し行智を罷免しなければ本院主も重罪となり、実相寺の院主のように解任されるとする解釈があります。文永五年に提出した「実相寺衆徒愁状」は、実相寺の院主が更迭された想定によります。(石附敏幸稿「日蓮と中世寺院社会―『実相寺衆徒愁状』の考察を中心に―」『興風』第二七号一三二頁)最後の「沙門 日秀・日弁等上」はもと「僧 日秀・日弁等上」となっていたのを訂正しています。

 

○一〇月一五日、熱原の三人が斬首される

一二日付けの『滝泉寺申状』と日興に宛てた『伯耆殿御返事』は一五日には鎌倉に届いていたと思われます。投獄されていた信者達は頼綱に糾問され、念仏を唱えれば許すと強要されますが、屈しなかったため蟇目(ひきめ)の矢を射て拷問します。蟇目は桐材を矢尻とした鏑矢(かぶらや)で、拷問としての役割と当たれば体内に潜む悪魔が退散すると言う理由がありました。(堀慈淋著『熱原法難史』一二八頁)。しかし、子息・飯沼判官資宗に命じて蟇目矢を散々に浴びせて威嚇するのが目的です。その結果、首謀者として神四郎、弥五郎、弥六郎の三人は題目を唱えながら斬首されたのです。

苅田狼藉の係争は田地の管理と年貢の徴収の所務の争いが多くみられます。境界や所領地の係争中に中間狼藉することもありました。この場合は米獲得を目的とする窃盗行為になります。裁判では苅り取った現物の帰属が争われます。文永六年の判例として、苅田面積の百倍以上を相手側に引き渡した例があります。鎌倉末期には追放や私領没収などの刑を課す傾向が見られます。(『国史大辞典』三巻六七三頁)斬首の刑罰について仮に刈田狼藉の事実があったとしても過去の例からして過酷すぎます。(高木豊著『日蓮とその門弟』二二〇頁)。通常はは追放や所領没収であったと言います。

得宗領における裁判は得宗家公文所において審理されていたことからも、頼綱の個人的な感情による裁決と言えます。頼綱の独裁的な横暴について指摘されるところです。(佐藤進一著『鎌倉幕府訴訟制度の研究』一〇五頁)。故に苅田狼藉の罪ではなく聖人の教団に対する弾圧と言えましょう。頼綱の後ろ盾には後家尼御前がいます。極楽寺重時の長女であり、時頼の妻、時宗の母です。重時と同じく西大寺流律宗に帰依し良観の信奉者でした。葛西谷(小町)に居を構えたことから葛西殿(葛西禅尼)と呼ばれ得宗領などを支配しとの貿易関わっていたことからも権力をも有していました。文永八年の竜口・佐渡流罪にも関与しており事件の策謀が窺えます。(『高橋入道殿御返事』一〇八九頁)。

また、頼綱の同族の長崎次郎兵衛時綱は、得宗公文所の重鎮として後家尼御前が領する下方政所を仕切っていたのです。日興はこの残忍な報せを一五日の夕刻(午後六時頃)に急使をもって知らせます。