314.        髙橋俊隆
□『変毒為薬御書』(三四六)

 一〇月一七日付けにて「聖人等御返事」(一六八四頁)と書かれたように、日興達を法華経の聖人、行者と認めて宛てた書簡です。『興師本』が北山本門寺に所蔵されています。日興は熱原の三人が斬首されたことを一五日の午後六時に知らせます。身延の聖人に渡ったのが二日後の一七日の午後六時と書かれています。日興は『本尊分与帳』に次のように書いています。

「次在家人弟子分

一 富士下方熱原郷住人神四郎〔兄〕

一 富士下方同郷住人弥五郎〔弟〕

一 富士下方熱原住人弥次郎

此の三人は越後房・下野房の弟子廿人の内なり、弘安元年奉信じ始め奉るところ、舎兄弥藤次入道の訴に依りて鎌倉に召し上げられ、終に頸を切られ畢ぬ。平ノ左衛門入道の沙汰なり。子飯沼判官〔十三歳〕ひきめを以て散々に射て、申すべきの旨、再三之を責むと雖も廿人更に以て之を申さざる間、張本三人お召し禁めて斬罪せしむる所なり。枝葉十七人は禁獄せしむと雖も終に放たれ畢ぬ」(『宗全』二巻一一六頁)

 熱原の信者たちは拷問に耐えて題目を唱えたことに、十羅刹女が頼綱に入って信心を試し、雪山童子や尸毘王のように行者を試したのか、勧持品のように悪鬼がその身に入って行者を試したのかと、不退の信心を称賛します。そして、「五五百歳」に善神が守護すると誓った証を見せるのは今であると述べます。『大論』と天台が説いた「変毒為薬」の文を引き、行者を悩ます毒は変じて法華流布の薬となって広まると評します。法華経は現証の賞罰を顕すから、受難の信者は仏果の功徳を受け、謗法の者は現罰を受けると述べます。日興に問注の時はこの旨を存して弁明するように指示します。注目されるのは「聖人仰」とあることです。

「伯耆房等深存此旨可遂問註。平金吾可申様去文永之御勘気之時乃聖人仰忘給歟。其殃未畢。重招取十羅刹罰歟。最後申付」(一六八三頁)

「日蓮聖人の仰せを」とは文永八年の法難の時に、国の滅亡と謗法堕獄を頼綱に諫言したことです。その罪が現れないうちに更に十羅刹女の罰を招き寄せたいのかと、問注の最後に申し伝えるように厳命します。奥書は前述のように『伯耆殿御返事』の奥書とされます。

 なを、実相寺の厳誉との問題は、弘安八年に厳誉の悪行が露見して失踪します。これにより日興の所管となり、日持・日源・日底と続きます。(富谷旭霑著『熱原法難史談』二二頁)。また、頼綱は熱原法難の一四年後の正応(一二九三)年四月二二日に、九代執権貞時により経師谷の邸において一族九〇余人と共に一朝にして滅ぼされます。これを「平禅門の乱」と言います。日興は『本尊分与帳』に、「其の後十四年を経て平ノ入道、判官父子、謀反を発して誅せられ畢ぬ、父子これただ事にあらず法華の現罰を蒙れり」(『宗全』二巻一一六頁)と述べます。

 

□『四条金吾殿御返事』(三四七)

○摩利支天

頼基は仇敵に命を狙われたが無事に難を逃れたことを知らせます。一〇月二三日付けにて頼基に返事を認めた書簡です。『境妙目録』は弘安元年とします。『本満寺本』が伝えられています。別名に『剣形鈔』と言い頼基が摩利支天に守護されていることに由来します。

「先度強敵とりあひ(取合)について御文給き。委見まいらせ候。さてもさても敵人にねらはれさせ給しか。前々の用心といひ、又けなげといひ、又法華経の信心つよき故に、難なく存命せさせ給、目出たし」(一六八四頁)

頼基の日頃の用心と信心により護られたと喜ばれ、福運と果報が蓄積され善神に守護されたと述べます。行者守護について属累品の誓状を挙げ、摩利支天については序品の「万天子」の中の摩利支天にふれます。そして、頼基がこのたび守護されたのは摩利支天の力であるとします。

「ことにことに日天の前に摩利支天まします。日天 法華経の行者を守護し給はんに、所従の摩利支天尊すて給べしや。序品の時、名月天子・普光天子・宝光天子・四大天王与其眷属万天子倶と列座し給ふ。まりし天は万天子の内なるべし」(一六八五頁)

 

○「臨兵闘者皆陳列在前」

摩利支天は頼基に「剣形」を与え、聖人は「首題の五字」を授けたことによる善神の守護であると述べます。「臨兵闘者皆陳列在前」という道教の六甲秘術の文は法華経の「皆順正法」より開出したことを述べます。

「臨兵闘者皆陳列在前の文も法華経より出たり。若説俗間経書 治世語言 資生業等 皆順正法とは是也。これにつけてもいよいよ強盛に大信力をいだし給へ。我が運命つきて、諸天守護なしとうらむる事あるべからず」

(一六八五頁)  

どんな兵法があっても法華経の「諸余怨敵皆悉摧滅」の秘法を用いるように示し、「兵法剣形の大事」(一六八六頁)も妙法蓮華経より開出していることを述べ、臆病にならずに深い信心を心懸けるよう諭します。熱原神四郎たちの処刑があり不穏な動きと動揺があったのです。日秀達の陳状が提出され時宗の上聞に達し、捕縛されていた信者一七名は釈放されます。(『日蓮聖人御遺文講義』第一二巻三〇六頁)。その月日については不明です。神四郎の邸跡に建立されたのが厚原(持栄)山本照寺で「加島法難遺跡」があります。

 

○御本尊(六七)一〇月

 通称「子安御本尊」と称し沙弥「日徳」に授与されました。紙幅縦九一.二㌢、横四九.一㌢、三枚継ぎの御本尊で戸田の妙顕寺に所蔵されています。讃文は磨耗していますが、引用される経文から「若悩乱者頭破七分有供養者福過十号、讃者積福於安明、謗者開罪於無間」と認められます。この御本尊より以降は四天王を漢名を用い「大」の字を冠せられます。また、「華」の字の書風が異例なことを特徴とします。

「子安御本尊」の由来は佐渡流罪の道中に、武州新倉(埼玉県和光市の城主である墨(隅)田五郎時光の妻の難産を助たことにあります。妻が難産に苦しんでいたおりに、付近を通る高僧にすがるようにとの神託があります。聖人は鎌倉街道を護送される途上でした。『高祖年譜攷異』は文永八年一一月一一日とします。流人の身分であるため館に行くことは許されず、その場で清水を汲んで墨を擦り柳の小枝を噛み砕いて筆として、懐紙に安産の護符を書いて渡します。これにより無事に男子(徳丸)を出産します。弘安二年一〇月に時光と徳丸の父子は身延に登詣し出家し、日徳・日堅と名乗ります。この折りにこの御本尊を授与されます。翌年に新倉に戻り後に自邸を寺としたのが長誓山妙顕寺です。開山は日向、日徳・日堅が第二世・第三世となります。

 

□『三世諸仏総勘文教相廃立』(三四八)

 本書の成立について、浅井要麟先生は『日蓮聖人教学の研究』(二八一頁)に偽書としての一考を述べています。理由は「心性本覚」(一六九〇頁)「無作三身」(一六八八頁)五大体大」(一六九七頁)の思想があることです。「三如是の本覚三身如来」(一六九〇頁)の本理を覚知すれば即身成仏と説くのは中古天台と同じ解釈であるとします。(『日蓮聖人教学の研究』二六七頁)。久遠本仏論や唱題成仏論を説かないので偽書と判断します。

 

□『持妙尼御前御返事』(三四九)

 一一月二日付けにて高橋六郎兵衛入道の後家尼持妙尼から、夫の供養のために僧膳料を送られてきた返書です。持妙尼は日興の叔母窪尼のことです。『興師本』が大石寺に所蔵されています。高橋入道は建治元年の一一月頃に死去します。(『智慧亡国御書』一一三一頁)。その僧膳料を受け取り、命日が近いのに多忙にて忘れていたが、持妙尼は何があっても忘れることはないであろうと述べます。過去に夫婦別離の悲しみにあった蘇武・陳子・相思・松浦佐与姫の故事を引き、死別の悲しさの中でも夫婦の別れほど悲しいことはないと察します。

蘇武(そぶ。紀元前一四〇~六〇年頃)は武帝の使いで匈奴(きょうど)の単于王(ぜんう)に捕虜交換に行きますが、内紛に巻き込まれ十九年間も抑留されます。妻は秋が来る度に夫の衣を碪の上で叩いていると、思いが通じて蘇武の耳に聞こえたと言う故事です。布に艶を出すため砧の上で槌などを使って衣を叩くことを擣帛と言います。衣を擣つための板や敲く音を砧杵と言い仲秋から晩秋に行います。昭帝の代になって漢と匈奴の和睦が成立します。蘇武を還すよう要求しますが蘇武は死んでいると答えます。一計をもって仕留めた雁の足に帛を付け蘇武は大沢にいると書きます。これにより本国に帰ることができました。この故事により手紙を「雁書」と言います。(『妙心尼御前御返事』一七四七頁。に「ふるさとの妻と子とのこひしさに、雁の足につけしふみ」とあります)

陳子(ちんし。未詳。陳の国の人)夫婦は離れる時に鏡を割って一つずつ持っていましたが、夫婦がお互いのことを忘れた時に鏡が鳥となって飛び去ったと言う故事です。また、唐時代の「本事詩」の「破鏡重円(はきょうちょうえん)」の章に、陳の東宮侍従徐徳言と妻の話があります。徐徳言が妻との離別の時に鏡を破り半分を渡します。後に半鏡を捜し他人の妻となっていた妻と再び添い遂げたとあります。また、「今昔物語」巻一〇の「不信蘓規・破鏡与妻遠行語第十九」に、国王の使いで遠国に赴いたた夫は、別れに愛を誓って鏡を破って半片を分け合います。後に妻が他人と通じてしまった時に妻の持っていた鏡が夫の元に飛び来ったとあります。

相思という女性(未詳)は夫を恋しく思い、遂には墓に行って木となります。相思樹と言うのがこの木とされます。相思はお互いに相手のことを慕い合いながら自由に会えないことです。両地相思とは離れ住んで慕い合うことです。相愛とはお互いに愛し合うことです。六朝時代の「捜神記」の「相思樹」の章に、宋の康王の侍従であった韓憑(かんぴょう)と妻何氏の謂われがあります。康王が韓憑の美人の妻を奪いとったため韓憑は自殺します。それを知った妻も夫と一緒に埋めてくれるように言い身投げをします。しかし、王は二人を別々の墓に埋めます。ところが二人の墓から梓(あずさ)の木が生え、根と枝が交錯し始めます。これを見た人々は哀れに思いその木に相思樹と名を付けたとあります。

そして、志賀の明神神社にふれ、松浦佐与姫が中国に渡った夫を恋い慕って神になったと言い、その島の姿は女人に似ているという故事を述べます。佐用姫は唐津(江戸時代までは肥前国松浦郡)の長者の娘で美女として知られています。宣化天皇のころ戦のために任那に行く大伴狭手彦(おおとものさてひこ)との別れを悲しんで、鏡山(領布振山ひれふりやま)から衣の領布(ひれ)を振って見送ります。佐用姫は山を下って呼子の浦の加部島(東松浦半島の呼子)に渡り、海を見続けて石になったと言う伝説があります。(『肥前国風土記』・『古今著聞集』巻五)。これらを引用して昔から今に至るまで親子の別れや主従の別れなど様々あり、いずれも辛くない別れはないけれど男と女の別れほど辛いことはないと慰めたのです。末尾に古歌二首を引き入道の成仏のために、法華経の題目を唱えるようにと教えます。

 

「ちりしはなをちしこのみもさきむすぶなどかは人の返らざるらむ。こぞもうくことしもつらき月日かなおもひはいつもはなれぬものゆへ」(一七〇七頁)

 

□『上野殿御返事』(三五〇)

○時光への熱原法難の圧迫

 一一月六日付けにて熱原法難の直後に、熱原に近い上野郷にいた時光に宛てた書簡です。真蹟は五紙が大石寺に所蔵されています。本書の端書に、

「此はあつわら(熱原)の事のありがたさに申す御返事なり」(一七〇九頁)

と、このとき二〇歳代の時光は自分の保身よりも、熱原の農民を匿い保護されたことに対する返礼の手紙です。時光は神四郎の遺族を扶助されます。(『本化聖典大辞林』上七七頁)。時光は得宗被官として鎌倉に一族がいましたので自身にも危害が及ぶ状況でした。熱原法難の渦中にいても退転せずに信仰を続けたこと、また、時光は神四郎の遺族たちを援助しましたが、その咎で公事責め(課税)に遭います。また、日弁の信者である浅間神社の神主たちを自邸に匿っていました。これら如説の行動が「上野賢人殿」(一七〇九頁)と呼称された所以です。「賢」は「聖」を改めて書かれたものです。「ありがたさに申す」と賞賛される程の働きがあったのです。この影響は翌弘安三年の一二月二七日『上野殿御返事』(一八二九頁)に、時光は乗る馬もなく妻(乙鶴)子も着る衣服に不自由していると書かれています。本書は行者としての態度を褒めています。

また、聖人は日秀・日弁を日頂に指導させ、下総の常忍のところに非難させます(『富城殿女房尼御前御書』一七一一頁)。聖人にとっても身延期における大難であったのです。信徒達は結束して教団の危機を乗り越えることに懸命でした。その一端が本書に窺えます。

 冒頭に龍門の滝の故事(『史書』の登竜門。後漢書』李膺伝と、身分が低い地下(じげ)の者(平氏)は昇殿が許されないと同じように、成仏することも難しいと喩えます。龍門は夏朝皇帝が治水のため黄河上流にある竜門山を切り開いてできた急流のことです。登龍門とは成功への道が不可能な難関を突破した諺です。鮒が滝を上り龍となるのが難しいように、不惜身命の信心を貫いて成仏することも至難のことを例えます。

「唐土に龍門と申たきあり。たかき事十丈、水の下こと、かんひやうがや(矢)をいとをと(射落)すよりもはやし。このたきに、をゝくのふな(鮒)あつまりて、のぼらむと申。ふなと申いを(魚)ののぼりぬれば、りう(龍)となり候。百に一、千に一、万に一、十年二十年に一ものぼる事なし。或ははやきせ(急瀬)にかへり、或ははし(鷲)・たか・とび・ふくろうにくらわれ、或は十丁のたきの左右に漁人どもつらなりゐて、或はあみをかけ、或はくみとり、或はいてとるものもあり。いをのりうとなる事かくのごとし」(一七〇七頁)

 源氏と平氏は天皇の御所を警護し地方の謀反を平定する役目を持っていました。身分的には山人(猟師や木樵)のように低いものでした。地下(じげ)の者と言うのは、清涼殿・殿上(てんじよう)の間に昇ることを許されていない者です。朝廷内の序列である位階の高い者や家格によって定められました。昇殿を認められた者を殿上人 (てんじようびと)・堂上 (とうしよう)と称し認められない者を地下と言います。そこで、

「平氏の中に貞盛と申せし者、将門を打てありしかども、昇でんをゆるされず。其子正盛又かなわず。其子忠盛が時、始て昇でんをゆるさる。其後清盛・重盛等、てんじやうにあそぶのみならず、月をうみ、日をいだくみ(身)となりにき。仏になるみちこれにをとるべからず。いをの龍門をのぼり、地下の者のてんじやうへまいるがごとし」(一七〇八頁)

地下の身分であった貞盛が朱雀天皇に対抗して、新皇を自称し朝敵となった将門を討ちますが(九四〇年。承平天慶の乱)、その後、清盛が保元の乱・平治の乱で源氏を破り、仁安二(一一六七)年に従一位太政大臣となり平氏政権を樹立するまで二二七年も経過します。聖人は登龍門の例えと同じように、退転しないで大願を成就することの難しさを述べたのです。

 これらは一般のことですが、次に仏道を歩む者として『開目抄』(六〇一頁)と同じように舎利弗の例を引きます。舎利弗が六十劫のあいだ布施の菩薩行を修していた時ときバラモンより眼を乞われます。片方の眼を与えますが汚らわしいとして地に投げ捨て足で踏みつけます。この仕打ちにより菩薩行を退転し、自己の為だけの修行に切り替え二乗の道に堕ちてしまったのです。また、大通結縁の三千塵点、久遠下種の五百塵点の退転を挙げて、長いあいだ生死流転したことを述べます。つまり、法華経の信心はいかに難信難解なのかを示されたのです。

そして、舎利弗が退転した理由を、「第六天の魔王」(一七〇八頁)が国主などの身心に入って障りをなしたと述べます。『兄弟鈔』(一七〇八頁)と同じです。国主の身に魔王が入って聖人の門家もこの魔王に迫害を加えられていると述べます。これは明らかに熱原法難を「第六天の魔王」の仕業であると受容されます。頼綱や行智達に魔が入ったと受けとめます。門下に対し大願を起こして信心を貫くことを命じます。近年の厄病(伝染病など)にては死ななかったが、蒙古が襲撃して来れば死を免れることはできないとします。死を迎えた時の嘆きは今うけている苦しさと同じであり、同じ死を選ぶなら「かり(仮)にも」法華経の弘通に身命を奉るように諭します。

「願くは我弟子等、大願ををこせ。去年去々年のやくびやうに死し人々のかずにも入ず。又当時蒙古のせめにまぬかるべしともみへず。とにかくに死は一定なり。其時のなげきはたうじ(当時)のごとし。をなじくはかりにも法華経のゆへに命をすてよ。つゆを大海にあつらへ、ちりを大地にうづむとをもへ。法華経第三云願以此功徳普及於一切我等与衆生皆共成仏道云云」(一七〇九頁)

命は露や塵のような微少なものであるが、法華経の広大な大海に一滴の露を入れ、大地に一塵の塵を埋めることの重要性を教えます。化城諭品(『開結』二五二頁)の文は、法華経に命を奉る功徳は大勢の者へ巡らされると説きます。共に仏道を成就することが可能であり、この功徳は未来までも失われないと述べます。最後に端書きとして、熱原法難に当たり献身的に教団を外護した有り難さに書いたとあります。

なを、本文と日付が代筆で署名と花押は聖人自筆の『治部房御返事』が京都本圀寺に所蔵されています。奥書はありませんが治部房も熱原法難に寄与していたことが分かります。(山上弘道稿「日蓮大聖人の思想(六)」『興風』第一六号二二六頁)。この月に無学祖元が時宗の招きで建長寺に住します。無住一円は『沙石集』を起稿しました。

□『富城入道殿御返事』(三五一)は弘安三年一一月二五日とします。

□『富城殿女房尼御前御書』(三五二))は弘安三年一一月二五日とします。

□『兵衛志殿女房御返事』(三五三)は弘安三年一一月二五日とします。

 

□『中興入道御消息』(三五四)

○「遠国の者、民が子」

 一一月三〇日付けにて中興夫妻から金銭一貫文を布施され、「妙法蓮華経の御宝前」(一七一二頁)に報告したことを妻に知らせた書簡です。卒塔婆供養の記載から娘の一三回忌の供養を兼ねての登詣でした。『平賀本』に収録されています。本書は聖人の自伝としての内容を多く含んでいます。主な内容は日本への仏教の伝来と行者としての意識を明かします。佐渡での故次郎入道の恩義にふれ法華信仰による霊山往詣の功徳を説きます。

 まず、日本国は須弥山から見て南に位置し、神武天皇は神代の時で欽明天皇の時に百済から仏教が伝わり、用命天皇の時に聖徳太子が法華経を定着させたと述べます。今は七百年を経過し天皇は六〇余代に及び、仏法諸宗も国中に広まり特に念仏が隆盛したと述べます。

 

「無智の道俗をすゝむるには、ただ南無阿弥陀仏と申べし。譬ば女人の幼子をまうけたるに、或はほり(堀)、或はかわ(河)、或はひとり(独)なるには、母よ母よと申せば、ききつけぬれば、かならず他事をすてて、たすくる習なり。阿弥陀仏も又如是。我等は幼子なり。阿弥陀仏は母なり。地獄のあな、餓鬼のほりなんどにをち入ぬれば、南無阿弥陀仏と申せば音と響との如く、必来てすくひ給なりと、一切の智人ども教へ給しかば、我日本国かく申ならはして年ひさしくなり候」(一七一三頁)

と、阿弥陀仏は母親のように困った時には必ず救うと説いたので、人々はそれを信じて念仏を唱えたと述べます。

そして、聖人は「遠国の者、民が子」(一七一四頁)の身分と述べます。「遠国の者」とは『本尊問答抄』に、「日蓮は東海道十五ヶ国のうち、第十二に相当る安房の国、長狭の郡、東条の郷、片海の海人が子也」(一五八〇頁)とあるように、都から遠く離れた辺境の地を指します。『延喜式』によると安房国から都(平安京)迄は往路三四日、帰路一七日と税の貢納が定められています。調庸物が中央に届けられる期限が近国は一〇月三〇日、中国は一一月三〇日、遠国は一二月三〇日となっていました。(『千葉県の歴史』)

その聖人は誰も唱えなかった南無妙法蓮華経を唱え、しかも、阿弥陀仏を信じ念仏を称えれば無間地獄に堕ちると説きました。同じく千日尼にも、「弥陀念仏は女人たすくる法にあらず。必地獄に堕給べし。いかんがせんとなげきし程に(『千日尼御前御返事』一五四三頁)と述べています。念仏の信徒は激怒します。その様子を食べ物に石を混ぜて炊き、石につまずいて馬が跳ね上がり、航海中に台風が来たように、村落に大火事が起き、とつぜん敵が攻めてきたように、そして、分不相応の女(とわり)が身分の高い貴人の后になったように驚き怨嫉を持ったと表現されます。しかし、立教開宗より二七年に至るまで退転せずに唱えてきたと述べます。

 

「はじめは日蓮只一人唱へ候しほどに、見人・値人・聞人耳をふさぎ、眼をいからかし、口をひそめ、手をにぎり、はをかみ、父母・兄弟・師匠・ぜんう(善友)もかたきとなる。後には所の地頭・領家かたきとなる。後には一国さはぎ、後には万人をどろくほどに、或は人の口まねをして南無妙法蓮華経ととなへ、或は悪口のためにとなへ、或は信ずるに似て唱へ、或はそしるに似て唱へなんどする程に、すでに日本国十分が一分は一向南無妙法蓮華経、のこりの九分は或は両方、或はうたがひ、或は一向念仏者なる者は父母のかたき、主君のかたき、宿世のかたきのやうにのゝしる。村主・郷主・国主等は謀反の者のごとくあだまれたり」(一七一四頁)

そのため、親しい人からも謀反人のように憎まれます。大海に浮かぶ木片が風の吹かれるままに漂い、柔らかい軽毛が空中に上がったり下がったりして定まらないように、国中から追われた漂泊の思いを述べます。ある時は打擲され捕縛され殺傷にあい弟子を殺されました。そして、竜口首座と佐渡流罪の経緯を述べます。

「去文永八年九月十二日には御かんき(勘気)をかほりて、北国佐渡の島にうつされて候しなり。世間には一分のとがもなかりし身なれども、故最明寺入道殿・極楽寺入道殿を地獄に墜たりと申法師なれば、謀叛の者にもすぎたりとて、相州鎌倉龍口と申処にて頚を切んとし候しが、科は大科なれども、法華経の行者なれば左右なくうしなひなば、いかんがとやをもはれけん。又遠国の島にすてをき(捨置)たるならば、いかにもなれかし。上ににくまれたる上、万民も父母のかたきのやうにおもひたれば、道にても又国にても、若はころすか、若はかつえしぬ(餓死)るかにならんずらん、とあてがはれて有しに」(一七一五頁)

と、佐渡にて殺害か餓死することを想定して流罪に処したと述べます。しかし、十羅刹女などの善神の守護により次郎入道の外護を得たと述べます。賢人で尊敬される次郎入道が聖人を信頼したので、子息も下人も敵対しないで幕府の指示の通りにしました。幕府の中には反対があったが時宗の裁量により赦免となり鎌倉に帰ったと述べます。赦免の理由は正嘉・文永の災害の原因を調べるために一切経蔵に入り『立正安国論』を著述し、九年後の文永五年に蒙古の牒状が渡り、他国侵逼の予言が的中したことでした。時宗は蒙古に敏感になっていたのです。日本国にとっては「第一の忠の者」(一七一六頁)との意識を持ちます。「忠」とは釈尊の意思を不惜身命に弘通することです。仏国土を実現する強い意志とも言えます。

 嘗て時頼に『立正安国論』を奏進し自界叛逆・他国侵逼を予言した時は、念仏者、真言師は嘲笑したが、九年を経て的中します。そのとき念仏者達は自分の立場に執着し聖人を怨み殺害を企てました。その様子は楊貴妃が皇帝の寵愛を独り占めにするため、宮中の美官女を上陽宮に移します。偽の宣旨を出して美官の父母兄弟を流罪・殺害し、美官を四〇年ものあいだ牢に閉じ込めて苦しめたことを述べます。

「日蓮が勘文あらわれて、大蒙古国を調伏し、日本国かつならば、此法師は日本第一の僧となりなん。我等が威徳をとろうべしと思かのゆへに、讒言をなすをばしろしめさずして、彼等がことばを用て、国を亡さんとせらるゝなり」(一七一七頁)

 しかし、幕府は法華経の敵である真言師・禅宗・律僧・持斎・念仏者を信用し、聖人を流罪にしたため国を亡ぼすことになったと述べます。例えれば秦の二世王(前二二九~前二〇七年)は、趙高の讒言を用いて李斯を殺し即位したが趙高に殺されます。日本でも醍醐天皇は左大臣藤原時平の讒言を用いて、菅原道真を左遷したため地獄へ堕ちたと述べます。同じように法華経の敵である真言師達を信じて聖人を迫害したので、善神は行者を守護し迫害者を罰したと述べます。

「日蓮をあだみ給ゆへに、日蓮はいやし(賎)けれども、所持の法華経を釈迦多宝十方の諸仏、梵天・帝釈・日月・四天・龍神、天照太神・八幡大菩薩、人の眼をおしむ(惜)がごとく、諸天の帝釈をうやまう(敬)がごとく、母の子を愛するがごとく、まほりおもん(守重)じ給ゆへに、法華経の行者をあだむ人を罰し給事、父母のかたきよりも、朝敵よりも重く大科に行ひ給なり」(一七一八頁)

賤しくても釈迦・多寶仏を始め善神は、人が眼を大事にするように帝釈天を敬うように、そして、母親がわが子を慈愛するように守り重んじると述べます。故に経説に従い善神は行者を迫害した者を、父母の敵よりも朝敵よりも重い大科の現罰に処すと述べます。ここに法華持経の福徳と謗法者の罪業を説かれました。そして、

「貴辺は故次郎入道殿の御子にてをはするなり。御前は又よめ(嫁)なり。いみじく心かしこかりし人の子とよめとにをはすればや、故入道殿のあとをつぎ、国主も御用なき法華経を御用あるのみならず、法華経の行者をやしな(養)はせ給て、としどし(年々)に千里の道をおくりむか(迎)へ、去ぬる幼子のむすめ御前の十三年に、丈六のそとば(卒堵波)をたてゝ、其面に南無妙法蓮華経の七字を顕してをはしませば、北風吹ば南海のいろくづ(魚族)、其風にあたりて大海の苦をはなれ、東風きたれば西山の鳥鹿、其風を身にふれて畜生道をまぬかれて都卒の内院に生れん。況やかのそとばに随喜をなし、手をふれ眼に見まいらせ候人類をや。過去の父母も彼そとばの功徳によりて、天の日月の如く浄土をてらし、孝養の人並に妻子は現世には寿を百二十年持て、後生には父母とともに霊山浄土にまいり給はん事、水すめば月うつり、つづみ(鼓)をうてばひびきのあるがごとしとをぼしめし候へ等云云。此より後々の御そとばにも法華経の題目を顕し給へ」(一七一八頁)

と、故父の信仰を女房も共に受け継いで年々に身延へ夫を遣わしていることを褒めます。年々に千里の道を送り迎へていたと述べています。佐渡から身延までは凡そ三八〇㌔で二〇日ほどの旅になります。海山を越えての道中に夫の身を思う妻の姿を見ていたのです。この時は中興入道一人の登詣でした。また、幼くして死去した娘の十三回忌にあたり塔婆を建立した功徳を説きます。塔婆建立により精霊は浄土に成仏し、父母も後生には娘と同じ霊山浄土に往詣できると諭します。この功徳はあらゆる法界の万霊に回向されると述べます。亡き父母たちは空の日月のように浄土への道を照らします。中興入道の子や妻たちも命を長らえると現世安穏の功徳を説いています。題目の功徳は水が澄めば月がはっきりと映り、鼓を打てば響くように真実であると再説して、卒塔婆に題目を書いて法界に顕すようにと勧めます。佐渡の信徒との深い繋がりを窺うことができます。

 

○御本尊(六八)一一月

 「優婆塞日安」に授与され、紙幅は縦七八.五㌢、横四六.一㌢、三枚継ぎの御本尊です。沼津の妙海寺に所蔵されます。

〇御本尊 一一月

『日蓮聖人門下歴代大曼荼羅本尊集成』(一二)に、縦五九、八㌢、横四〇、八㌢の御本尊が掲載されています。多寶仏側に鬼子母神、その外側に天台大師、釈迦仏側に十羅刹女、その外側に伝教大師が勧請されます。筆勢は御本尊(六八)・(六九)と同じです。小田原浄永寺に所蔵されます。(「解説」二六頁)

○御本尊(六九)一一月

 「沙門日永」に授与され、紙幅は縦六八.八㌢、横四五.二㌢、二枚継ぎの御本尊です。京都の立本寺に所蔵されます。日興の『本尊分与帳』に下山の因幡房日永は日興の弟子であったので御本尊を授与したが、今は背信したと書かれています。(『宗全』第二巻一一三頁)

○御本尊(七〇)一一月

 「優婆塞日久」に授与され、紙幅は縦四五.一㌢、横三〇㌢、一紙の御本尊です。通称「四天王画像御本尊」と称します。伊豆韮山の江川吉久に授与された御本尊を、画工の大蔵に依頼して上方に瓔珞と毘沙門天・持国天、下方に華台と広目天・増長天を絹本に極彩色で書かせています。この御本尊は明治初年に京都の村上重信家に渡り、現在は随喜文庫(立正安国会)に所蔵されます。また、一二月に本紙の上部(天)に瓔珞の装飾がされた一紙の本尊が鎌倉妙本寺に所蔵されていると言います。(寺尾英智著『日蓮聖人真蹟の形態と伝承』一二頁)

 

□『右衛門太夫殿御返事』(三五五)

宗仲より久しぶりに書簡が届き、供養として青い裏地の小袖一枚、帽子一個、帯一篠、金銭一貫文、栗一籠を受け取ったことを一二月三日付けにて伝えます。『本満寺本』があります。宗仲の父康光は二月頃に没し、『孝子御書』(一六二七頁)を二月二八日付けで池上宗長に宛てています。康光の逝去の後は宗仲が家督を継ぎ、兄弟そろって作事奉行の任に当たりました。

 上行菩薩が今この末法に生まれ、南無妙法蓮華経の「五字」を弘通することは、法華経に明白に説き明かされていると述べます。

「当今は末法の始の五百年に当りて候。かゝる時刻に上行菩薩御出現あつて、南無妙法蓮華経の五字を日本国の一切衆生にさづけ給べきよし経文分明也。又流罪死罪に行るべきよし明かなり。日蓮は上行菩薩の御使にも似たり。此法門を弘る故に、神力品云如日月光明能除諸幽冥斯人行世間能滅衆生闇等云云。此経文に斯人行世間の五の文字の中の人の文字をば誰とか思食す。上行菩薩の再誕の人なるべしと覚えたり。経云於我滅度後応受持此経是人於仏道決定無有疑云云。貴辺も上行菩薩の化儀をたすくる人なるべし」(一七一九頁)

そのため流罪・死罪に処せられることも経文に明白であるとし、その受難の説示と自身の色読と一致することから上行自覚を暗示します。これを神力品を引いて経証とし、特に「斯人行世間」の中に「人」とあるのは誰かを問い、上行菩薩の再誕の「人」、即ち聖人に他ならないと言う文脈になります。再誕の人である行者は仏道に誤りのない人であり、弘める法華経も疑いのないことを示します。

そして、池上父子が帰信したのは宗仲の信仰の強さでしたので、上行菩薩の弘通(化儀)を支えているのは宗仲であると述べ信仰を褒めます。

□『窪尼御前御返事』(三五六)

 一二月二七日付けにて窪尼から正月を迎え、蒸し餅(十字)五〇枚、串柿一連、飴桶一個を供養された礼状です。『興師本』が大石寺に所蔵されています。

窪尼は持妙尼とも言い富士郡賀島の高橋六郎の妻で日興の叔母になります。夫の死後の建治三年十一月に幼少の一人娘を連れて生家の西山の由井家に帰り、窪(久保村)に住したことから窪尼と称されます。夫の没後(建治元年一〇月末頃死去)に折にふれて供養します。その志しの深さについては筆が摺り減り指もくたびれてしまう程、書き尽くしてしまったと感謝の言葉を述べます。三千世界に七日間も降る雨の粒を数え、十方世界の大地の塵を数えることができても、「法華経一字供養」(一七二〇頁)の功徳は数えられないほど大きいと釈尊は説かれていると述べ、供養受け取りの書簡を送りました。

 

□『上野殿御返事』(三五七)

○「春は花、秋は月」

一二月二七日付け時光への礼状です。食料に困窮していた時に白米一駄の供養がありました。一駄は馬一頭に背負わせた荷物の量で二俵は背負ったと言います。真蹟は四紙完存にて大石寺に所蔵されています。

 

「白米一だ(駄)をくり給了。一切の事は時による事に候か。春は花、秋は月と申事も時なり。仏も世にいでさせ給し事は法華経のためにて候しかども、四十余年はとかせ給はず。其故を経文にとかれて候には、説時未至故等と[云云]」(一七二〇頁)

適時の供養の有り難さを述べ弘教にも適時があると教えます。春は梅や桜の花が咲き秋は夜の月が美しく心に残ります。道元は「春は花夏ほととぎす秋は月 冬雪きえですずしかりけり」と詠んでいます。これは宝治元(一二四七)年に時頼の招きにより鎌倉に下った時に、北の方毛利季光の娘か)から求められて詠んだ十余首の内の一首です。天地自然の無常と人間の生死とを凝視し修行の意義を追求します。四季の移り変わりを詠むのは王朝和歌の形式です。聖人は「春は花、秋は月」純粋に春春夏秋冬の時節を言います。釈尊は四十余年を経て法華経を説く「時」を待っていました。方便品に「説時未だ至らざるの故に」と説いています。つまり、本書に「説時未至故 今正是其時 決定説大乗」(『開結』一〇六頁)を文証として、法華経が随自意・真実の教えであることを示します。それには「時」が重要になります。

「なつあつわた(厚綿)のこそで、冬かたびらをたびて候は、うれしき事なれども、ふゆ(冬)のこそで、なつ(夏)のかたびらにはすぎず。うへて候時のこがね(金)、かつ(渇)せる時のごれう(御科)はうれしき事なれども、はん(飯)と水とにはすぎず」(一七二一頁)

冬は薄い着物より厚綿の着物、飢えてる時は金銭よりも食べ物を欲しがると同じように、弘教も時に適うことを述べます。釈尊に食べられない土の餅を供養しても、その功徳により徳勝・無勝童子は成仏します。しかし、高価な宝石を供養したのにも拘わらず地獄に堕ちた者もいるとして、「時」に叶うことが大事であるとします。即ち末法に法華弘通の意義を説いた末法正意論の教えです。

聖人は人を騙したり他人の物を盗んだりせず、末代の僧侶としては罪科が少ない者と自己を見つめます。しかし、白法隠没の末代においては重用されず、還って憎まれて身延に入山したと邂逅します。

「日蓮は日本国に生てわゝく(誑惑)せず、ぬすみせず、かたがたのとがなし。末代の法師にはとがうすき身なれども、文をこのむ王に武のすてられ、いろ(色)をこのむ人に正直物のにくまるゝがごとく、念仏と禅と真言と律とを信ずる代に値て法華経をひろむれば、王臣万民ににくまれて、結句は山中に候へば」(一七二一頁) 

 身延にては五尺の積雪と寒苦に責められ、訪う人がいないので食料もなくなり、将に絶命すると思われたところに白米を戴いたと述べます。嬉しさもあるが餓死することを覚悟していたので、灯火に油を注がれた状態であると述べます。嘆きもあるが法華経を弘通できるのは尊いことであると喜ばれます。供養に対し釈尊と法華経の加護があると感謝されます。身延の生活に辛苦があり供養の大きな意義を善巧な文をもって表現されています。。

「天いかんが計せ給らむ。五尺のゆき(雪)ふりて本よりもかよわぬ山道ふさがり、といくる人もなし。衣もうすくてかん(寒)ふせぎがたし。食たへて命すでにをはりなんとす。かゝるきざみ(刻)にいのちさまたげの御とぶらい、かつはよろこびかつはなげかし。一度にをもい切てうへし(餓死)なんとあん(案)じ切て候つるに、わづかのともしびにあぶら(油)を入そへられたるがごとし。あわれあわれたうとくめでたき御心かな。釈迦仏法華経定て御計候はんか」(一七二一頁)

 

□『本門戒体抄』(三五八)

 『朝師本』『平賀本』に収録しますが偽書とされます。冒頭に「大乗戒並小乗戒事」(一七二二頁)と小題があることから『大乗戒並小乗戒事』、内容から『大小戒事本門戒体抄』と称します。一〇箇条の戒を挙げ、寿量品の久遠の戒を持てば成仏するとします。(一七二六頁)これは『梵網経』の十重禁戒を法華経の本門戒の戒条に当て変えたものです。聖人が法華受持を持戒としたことから内容に疑いがあります。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇一〇六一頁)。聖人は分別功徳品(『開結』四三八頁)「現在の四信」の第一「一念信解」と、「滅後の五品」の第一「随喜品」を依拠として、「以信代慧」「信心為本」の修行を立てます。私たち凡夫の一念の信と喜びの心に成仏を認めます。 

そして、戒・定・慧の三学の中の慧(智慧)を重視します。同じように布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六波羅蜜も最後の智慧を重視します。つまり、末法においては三学の戒・定を慧に収めます。六波羅蜜では五波羅蜜を差し置き智慧に集約します。その智慧も「信」を大事とします。この信は智慧に代わるとしたのが「以信代慧」です。この信心は南無妙法蓮華経と唱題することにあります。この一念信解・初随喜を法華経の本意と述べます。(『四信五品鈔』一二九六頁)。つまり、但信口唱の信心為本を修行とした、滅後における『法華経』弘通を主体的に説きます。ここに本書との相違を指摘できます。

 

〇断簡「須弥山」

 弘安二年とされる断簡で彦根蓮華寺に所蔵されています。「須弥山の諸山にすぐれ、月輪の衆星にこえ、日輪の燈炬等に」(『対照録』下巻三九二頁)とあり、法華経は諸経に勝れていることを述べたと思われます。同じように薬王品の十喩(『開結』五二二頁)を引いた『秀句十勝鈔』(図録二三)に、

又云 須弥山為第一[略之第二譬竟。]又云 如衆星之中月天子最為照明[略之第三譬竟以迹門譬水月本門譬本月釈有之]。又云 又如日天子能除諸闇 此経亦復如是。能破一切不善之闇[已上経文]。玄一云 燈炬星月与闇共住。譬諸経存二乗道果与小星並立故。日能破闇故。法華破化城除草菴故。又日映奪星月令不現故。法華拂迹除方便故[日蓮云 迹門譬月本門譬日歟。九喩如何]」(二三六七頁)

と引用されていることから窺えます。

十喩とは諸水の中に海第一(第一喩・水喩)、衆山の中に須弥山第一(第二喩・山喩)、衆星の中に月天子第一(第三喩・衆星喩)、日天子の諸闇を除く(第四喩・日光喩)、諸王の中に転輪聖王第一(第五喩・輪王喩)、三十三天の中に帝釈天第一(第六喩・帝釈喩)、大梵天王は一切衆生の父(第七喩・梵王喩)、一切凡夫の中に五仏子第一(第八喩・四果辟支仏喩)、一切の無学の中に菩薩第一(第九喩・菩薩喩)、仏は諸法の王(第十喩・仏喩)、つまり、法華経は釈尊が説かれた中でも最高の教えであると説いたものです。聖人が十喩の全てを引用されたのは、この弘安元年の『秀句十勝鈔』(『法華秀句』下の「仏説十喩校量勝」の文)に見られるだけで、二、三の喩を挙げて他を省略することが多くみられます。

 また、薬王品の十喩を引用されるとき、法の勝劣と人の勝劣と言う二つの視点があります。通例は法(法華経)の超勝を証明されるときに薬王品の十喩を引用します。人(行者)の勝劣を比較するときにも引用します。それは第八喩の「有能受持是経典者亦復如是於一切衆生中亦為第一」の文を根拠として、法華経の行者は真言師などの行者よりも勝れていると述べるときです。初見は文永九年の『真言諸宗違目』「依教定人勝劣。先不知経勝劣何論人高下乎」(六四〇頁)にみられ佐渡流罪を契機に多く述べるようになります。

□『一代五時鶏図』(二三・二四)

『一代五時鶏図』(二三)は弘安元年、二年の説があります。(二五)は弘安三年とされます。聖人は釈尊一代の教えを五時に配当して図示されます。初学の弟子に教えたものと思われます。身延においても自ら教えていたことが分かります。真蹟はそれぞれ京都本満寺(八紙完)、本国寺(七紙完)に所蔵されています。年代不明の真蹟も多数伝わっています。(図録二八~三〇)