316.『窪尼御前御返事』~『大田殿女房御返事』 髙橋俊隆 |
□『窪尼御前御返事』(二八八)
○千日酒
著作年時は本文に「あつわらの事」とあり、弘安二年九月の熱原法難を指すとしますと弘安三年とするのが妥当です。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇二八二頁)。五月三日付けにて窪尼(妙心尼)から粽五把・筍一〇本・千日(さけ・酒)一筒の供養があった礼状です。千日の由来は酒造りの名人である狄希(てきき)が造った「千日酒」は、人を千日酔わせると言われ、事実、劉玄石(りゅうげんせき)と言う酒好きが、その酒を飲んで一千日のあいだ酔って寝ていたと言う「一酔千日」の故事によります。五月五日の節句のために供養されたと思います。夫に先立たれ一人娘を育てながら信仰しました。真蹟は四紙断簡が保田妙本寺に所蔵されます。後半の文章は日興の写本から判明し、全文の写本は大石寺に所蔵されています。 ○窪尼と熱原法難の余波
例年のように長雨(梅雨)が続く蒸し暑い時期に、山深く草が生い茂った悪路の中を、時鳥の鳴き声に誘われたような供養を感謝されます。次に熱原法難と偽御教書にふれます。 「さてはあつわらの事。こんど(今度)をもつてをぼしめせ。さきもそら事なり。かうのとの(守殿)は人のいゐしにつけて、くはしくもたづねずして、此御房をながしける事あさましとをぼして、ゆるさせ給てののちは、させるとが(科)もなくては、いかんが又あだ(怨)せらるべき。すへ(末)の人々の法華経を心にはあだめども、うへにそしらばいかんがとをもひて、事にかづけて人をあだむほどに、かへりてさきざきのそら事のあらわれ候ぞ。これはそらみげうそ(虚御教書)と申事はみ(見)ぬさきよりすい(推)して候。さどの国にてもそらみげうそを三度までつくりて候しぞ。これにつけても上と国との御ためあはれなり。木のしたなるむし(虫)の木をくらひたうし、師子の中のむしの師子を食うしなふやうに、守殿の御をんにてすぐる人々が、守殿の御威をかりて一切の人々ををどし、なやまし、わづらはし候うへ、上の仰とて法華経を失て、国もやぶれ、主をも失て、返て各々が身をほろぼさんあさましさよ」(一五〇二頁) 日興の教化により滝泉寺や他宗徒から弾圧を受け御教書が発令されました。「さきもそら事なり」とは弘安元年四月三日の三度目の流罪の虚御教書のことです。過去に時宗(守殿)は讒言を鵜呑みにして佐渡流罪に処したが、このことを後悔して赦免した人であるから、明確な罪がないのに処分はしないと述べます。側近の者は聖人を憎んでいても、時宗に聖人の悪口を言うことは不利と思い、根拠のない熱原事件に置き換えて迫害したので、還って前々の虚偽が露見したと述べます。今回も御教書を出すことはないと確信していたと述べます。佐渡においても三度の虚御教書があったことから推測できたのです。家臣の中に師子身中の虫のような背信の者がいることは、国家も自分をも破滅に追い込むと述べます。法華経を信じる者には善神が守護すると説かれ、法華経に敵対する者は現罰があると述べます。窪尼は熱原の事件に当たっても退転せずに信心を深めたことを賛辞します。 ところで、熱原の農民一七名が釈放された時機について、本書の虚御教書の文面より弘安三年の五月三日以前、四月の下旬頃と言います。(山上弘道稿「日蓮大聖人の思想(六)」『興風』第一六号二三一頁)。苅田狼藉は無実の事件であったことが認められたのです。 □『妙心尼御前御返事』(三六五)は建治三年とします。『四条金吾殿御返事』(二四五)の次。 ○御本尊(九二)五月八日
「沙門日華」に授与され日興の添え書きに「大本門寺重宝也」とあります。甲斐の蓮華寺住僧寂日房は日興の弟子であるので授与された由縁が書かれています。紙幅は縦九五.一㌢、横五八.八㌢の三枚継ぎの御本尊で京都本能寺に所蔵されています。 ○御本尊(九三)五月八日
右下に書かれた授与者明は削損されています。御本尊(九二)と同じ五月八日に染筆され、紙幅は縦九九.一㌢、横五四.二㌢の三枚継ぎの御本尊で沼津妙海寺に所蔵されています。 ○御本尊(『御本尊鑑』第二九)五月一八日
「沙門日命」に授与され、紙幅は縦一一八.七㌢、横六二㌢の御本尊です。讃文に「若悩乱者頭破七分」(『法華文句記』陀羅尼品の取意『開結』五七一頁)。「有供養者福過十号」(『法華文句記』薬王品の取意。『開結』五二二頁)。「讃者積福於安明、謗者開罪於無間」(伝教『依憑天台集』)の文が追記されています。嘗て身延に所蔵されていました。 □『妙一尼御前御返事』(三六六)
五月一八日付けにて妙一尼に宛てた書間です。真蹟は現存しません。『録外御書』二五ノ七に収められています。『境妙庵目録』は弘安四年とします。『祖書目次』『高祖年譜』は弘安三年とします。、妙一尼は桟敷の女房、桟敷の尼御前と言います。印東裕信の妻で日昭の母と伝えます。 「夫(それ)、信心と申は別にはこれなく候。妻のをとこ(夫)をおしむが如く、をとこの妻に命をすつるが如く、親の子をすてざるが如く、子の母にはなれざるが如くに、法華経・釈迦・多宝・十方の諸仏菩薩・諸天善神等に信を入奉て、南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを信心とは申候也」(一七四九頁) 信心は夫婦や親子の情愛のように釈迦・多寶仏を信じ、南無妙法蓮華経と唱題することであると教えます。そして、「正直捨方便」(方便品『開結』一二〇頁)。「不受余経一偈」(譬喩品『開結』一七四頁)の経文を、女性が鏡を捨てないように、男が刀をさして面子を保つように、法華経の信心を捨ててはならないと述べます。女性と武士の性格を把握し、譬をもって法華経を受持する心構えを教えます。 □『諸経興法華経難易事』(三六七)
○難信難解と随自意
五月二六日付けにて、常忍に宛てた仮名交じり漢文体(和漢混合体)の著述です。真蹟は一〇紙一〇四行完存にて法華経寺に格護されています。常忍から法師品の難信難解についての解釈を問われた返書となります。四問答を用いて法華経は釈尊が真実を説いた随自意の経であるから難信難解であることを論じます。そして、随自意の法華経を信じることにより成仏し、仏法(法華経)は体、世間は影であることを説きます。諸経と法華経の難易の違いを説くことから『諸経興法華経難易事』と題し『難信難解書』とも称します。 第一の問いに法師品の「難信難解」について質問を設けます。仏滅後の千二百年(二八六年)に竺法護(二三九~三一六年)が『正法華経』を中国に伝えます。これは鳩摩羅什の『妙法蓮華経』の以前に翻訳されました。羅什以前の訳経を古訳と言い、竺法護の訳経は古訳経典の中心となります。その後、二六五年を経て欽明帝の一三年(五五二年)に日本に伝来します。それから鎌倉時代に至るまで七百年になります。この間に経文の意義を悟ったのは、竜樹・天台・伝教の三人のみであると答えます。そして、それぞれの難信難解の解釈を挙げます。 竜樹―――「譬如大薬師能以毒為薬」(『大智度論』) 天台―――「已今当説最為難信難解」(『法華玄義』) 伝教―――「法華経最為難信難解。随自意故」(『法華秀句』) 第二の問答は「随自意」について論じます。諸経を相対して勝劣を判断します。随他意は釈尊が方便を使って指導した教えです。機根に応じて説きますので易信易解です。随自意は釈尊の「「正直捨方便 但説無上道」の真実の説です。機根に関係なく本意を説くので理解できない者がいて難信難解となります。そこで、この相関により随自意と随他意を比較します。弘法は法華経は顕教の中では難信難解だが、密教と比べれば易信易解とします。慈覚・智証は法華経と大日経は諸経と比べれば共に難信難解であるが、両経を比べると大日経は法華経以上に難信難解(「最為難信難解」)であるとします。聖人はこの解釈に対し大日経は法華経には及ばない経であり、大日経は方等部で般若経と比べても易信易解であると反論します。 「日蓮読云外道経易信易解 小乗経難信難解。小乗経易信易解。大日経等難信難解 大日経等易信易解 般若経難信難解。般若与華厳 華厳与涅槃 涅槃与法華 迹門与本門 重々難易あり」(一七五〇頁) 更に般若と華厳経、華厳と涅槃経、涅槃と法華経の難易があります。これは蔵痛別円の四教により教相を比較(教相判釈)します。法華経も迹門と本門とで重々(七重)の難易があるとします。本迹においては久遠実成の人法を明かす本門が難信難解です。本門においても文上と文底があります。文上は教相、文底は観心として、本門寿量品の文底観心の法門こそが難信難解と述べます。(『日蓮聖人遺文全集講義』第二四巻二二二頁)。 第三の問いは随自意・難信難解の教えの必要性を述べます。それは生死の長夜を照す大燈明と、元品の無明を切る利剣の法門を判明することと述べます。生死の長夜とは唯識論に「未だ真覚を得ず恒に夢中に処(お)る。故に仏説いて生死の長夜と為す」とあり、真実の覚りを得ていないことを言います。爾前・迹門の仏は久遠実成を顕していないので夢中の虚仏です。また、爾前・迹門の仏は未だ元品の無明を断じていない惑者とします。迷いながら生死の流転を繰り返す苦しみを長い闇夜に譬えたのです。その迷いの根本を元品の無明(むみょう)と言います。釈尊の随自意・真実の教えを知ることは迷いを転じ成仏に繋がると述べます。即ち本門寿量品の一念三千の成仏に展開する教えとなります。本書には詳説せず随他意についての見解を述べていきます。 「随他意者真言宗・華厳宗等は随他意易信易解。仏随九界衆生意楽所説経々随他意という。譬へば賢父が如随愚子。仏随仏界所説経随自意という。譬へば聖父が愚子如随。日蓮付此義大日経・華厳経・涅槃経等勘見候に、皆随他意経々也」(一七五一頁) ここに、随他意とする理由を挙げます。つまり、法華経以外の諸経は九界の衆生の意に応じて説いた方便の施説です。賢父が幼い子供を養育することです。これに対し法華経は子供に言い聞かせて随わせることです。この観点から諸経は随他意とします。 その証拠を挙げて論証するのが次の問いです。ここに『勝鬘経』と『法華経』の法師品(『開結』三〇五頁)を引きます。『勝鬘経』に「非法のみを行ずる衆生には人間や天上に生まれる善根を説き」と、因果・是非が分からない者には、人界や天上界の善根である五戒・十善を教えて能力を育てると説いています。つまり、華厳経・大日経・般若経・涅槃経等の諸経は、衆生の機根に応じて法を説いた随他意・易信易解であることの証文として勝鬘経を引きました。 法華経には聴衆の善神・竜神・夜叉(薬叉・夜乞叉。暴悪と訳し羅刹と並び人を傷つけ人肉を食う悪鬼)・乾闥婆(香を好む神)・阿修羅(闘争を好む悪魔の通称)・迦楼羅(竜をえさとする鳥形の神)・緊那羅(美しい声で歌舞する神)・摩睺羅伽(人身蛇首の神)・八部衆の人と非人、及び僧・尼・在俗の男女の信徒の声聞を求むる者・辟支仏(縁覚)を求むる者・仏道を求むる者達が、仏の御前において妙法華経の一偈一句を聞いて、ほんの一念でも随喜するならば、必ず仏になれる保証を授けると説いています。つまり、法華経は機根に関係なく直ちに法華経を説くことを示しています。故にこの文を解釈して、 「如諸経者人五戒天十善梵慈悲喜捨魔王には一無遮比丘二百五十 比丘尼五百戒 声聞四諦 縁覚十二因縁 菩薩六度。譬へば水随器方円 象随敵出力ごとし。法華経は不爾八部四衆皆一同演説法華経。譬へば定木削曲師子王不嫌剛弱出大力がごとし。以此明鏡見聞一切経大日三部・浄土三部等無隠。而をいかにやしけん、弘法・慈覚・智証の御義を本としける程に此義すでに隠没日本国四百余年なり。珠をもつて石にかへ、栴檀を凡木にうれり。仏法やうやく顛倒しければ世間又濁乱せり。仏法は体のごとし、世間はかげのごとし、体曲ば影なゝめなり。幸我一門随仏意自然流入薩般若海。苦世間学者信随他意沈苦海。委細之旨又々可申候」(一七五一頁) と、諸経は随他意ですから、人間界には五戒、天上界には十善、梵王には慈悲喜捨、魔王には一無遮(出家者に等しく施すこと)、そして、声聞には四諦、縁覚には十二因縁、菩薩には六波羅蜜と、機根に応じて教えを説き分けています。例えば水が器の形によって変わり、象が敵の強弱に応じて力を使い分けているようなものとします。法華経は違います。八部・四衆の全てに同じく法華経を説きます。ですから随自意です。例えば定木が曲がっている所を削って平にし、師子が相手の強弱に拘わらず全力を尽くすようなものであると述べます。 この視点を明鏡として一切経と比べると、真言の三部経や浄土の三部経は、全て随他意の方便の教えであることが明確になると述べます。それなのに、弘法・慈覚・智証がこれを隠匿したため四百年を経過した責任を問います。宝石(法華経)を石ころ(大日経)と交換し、高価な栴檀の香木をただの木片として売るような状態になってしまったと嘆かれます。 真実の教えが失われてくると人の心も乱れ社会も濁ると述べます。即ち仏法は肝心な本体であり、世間の状況はその影が反映したものとします。本体が曲がれば影も斜めになる(『止観』)と同じように、仏法と世間(国家・国土)の同一的な因果を述べます。仏教を湾曲したことにより日本国は他国侵逼に遭うことになります。しかし、聖人の門下は随自意真実の仏意を信じているから、自然に一切智を証得して薩婆若海に流入し成仏すると説きます。この智慧は無明を断じ涅槃の海に入ることを意味します。反対に随他意の他経を依拠として成仏を願っても、謗法堕獄の苦界に沈むと表現されます。世間は法華経の不信と聖人門下への反感を持っています。それは法華経を信仰することの難信難解な現れでした。そこに、「我が一門」の真実性を強調し不退の信心を勧奨されます。 □『新田殿御書』(三六八)
五月二九に付けにて、新田(にいた)夫妻からの布施供養に感謝した礼状です。新田氏は四郎信綱のことで妻が時光の姉になります。信綱の父は重綱その妻は南条一門の蓮阿尼です。大石寺時第二世の日目の両親になります。伊豆仁田郡の畠村に住んでいます。宛名に新田殿(~一二九八年~)と「並女房御方」と併記しているのは特異なことで、これは夫とは別に妻自身の所有する財物を供養したことを表します。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇八四六頁)。漢文体から識字能力のある人物と分かります。真蹟の一紙一一行は大石寺に所蔵されています。 「使御志無限者歟。経法華経顕密第一大法也。仏釈迦仏諸仏第一上仏也。行者相似法華経行者三事既相応。檀那一願必成就歟。恐々謹言。五月二十九日。日蓮[花押]新田殿 並女房御方」(一七五二頁) 新田夫妻から祈願を依頼され、法華経・釈尊・法華経行者の法・仏・僧の「三事」(三宝)相応することにより、所願が必ず成就すると述べます。ここに、本門の本法・本仏・本僧の三宝を立て本僧は法華経の行者とします。行者とは聖人であるとの認識は檀那にも敷衍していたのです。この月に清澄寺に六十六部経が奉納されます。 ○御本尊(九四)六月
「俗日円」に授与され小濱長源寺に所蔵されています。紙幅は縦四六.一㌢、横三〇.三世、一紙の御本尊です。六月に授与された御本尊は三幅伝えられており、三幅共に四大天王の書き入れはありません。 ○御本尊(九五)六月
「俗藤原国貞、法名日十」に授与され、京都本法寺に所蔵されています。紙幅は縦六五.八世、横四〇世、二枚継ぎの御本尊です。 ○御本尊(九六)六月
「俗日肝」に授与され愛知県の実成寺に所蔵されています。紙幅は縦六〇.三世㌢、横三八.五㌢、一紙の御本尊です。 ○時光は弟五郎と身延に登詣
六月一五日に時光が一六歳になる弟の七郎五郎と登詣しました。また、時光の二子誕生を控え命名を依頼します。時光は熱原法難における神主を自邸に匿っています。これによる幕府からの悪影響が出始め、時光の立場を案じて身延へ寄こすように知らせたのが七月二日付けの『上野殿御返事』(三七二)です。五郎は九月初旬に死去したことが、九月六日の『上野殿御返事』(一九七三頁)にあります。六月二四日、比叡山の衆徒は金堂供養勅願の噂に怒り園城寺を攻め北院を焼きます。 □『窪尼御前御返事』(三六九)
六月二七日付けにて、窪尼から早い出来の粟(粟のわさごめ)が届けられました。阿那律の前世の善因を引いて、供養の功徳による成仏を述べています。『興師本』が大石寺に所蔵されています。阿那律は弗沙仏の末法飢餓の世に、修行僧に稗の飯を供養した功徳により天眼第一となり普明如来となります。『法蓮鈔』(九三八頁)に見えます。窪尼の供養もこれと同じように大きな果報となることを示されました。 ○遠藤守綱登詣
七月一日に佐渡の遠藤藤九郎守(盛)綱が二度目の登詣をします。父阿仏房日得の一周忌の墓参と供養をします。阿仏房は佐渡妙宣寺の開山となります。寺伝には俗姓を遠藤為盛と言い、承久の乱で佐渡に遷された順徳上皇に随従した北面の武士とあります。佐渡の住人である程度の地位を持っていたと言います。阿仏房は聖人の居る三昧堂に、食糧を入れた櫃を背負い夜中に通います。その恩については「いつの世にかわす(忘)らむ」(『千日尼御前御返事』一五四五頁)と回想されています。この度の登詣について千日尼に宛てたのが、七月二日付けの『千日尼御前御返事』(三七一)です。 □『太田殿女房御返事』(三七〇)
七月二日付けにて、乗明の妻から八月分の供米一石を供養された謝礼の書間です。真蹟は二一紙完存にて法華経寺に格護されています。系年に健治元年の説がありますが、鈴木一成氏は花押の形がボロン字の蕨手後期郡に属することから弘安三年とします。功徳院日通(中山一四世)が指摘されるように三通を書き足したように見えます。丁附が一~八、次の第九紙目が一から始まり第一三紙で終わります。全二一紙です。第一二紙目に丁附付けはありません。末尾に「恐々」と書き終えたのですが、最後の第一三に入ります。乗明の妻お経(恒)は聖人の親族となります。多年に亘る厚恩に筆が止まらず書き進めた心情が窺えます。建治三年の『太田殿女房御返事』(一四〇一頁)から男女の公達がおり、本書の内容から相応の識者であったことが分かります。 即身成仏の教えは諸大乗経に説かれているが、現実に可能なのは法華経の教えだけであると述べます。この内容から『即身成仏抄』とも称します。即身成仏を説くに当たり『文句記』の寿量品釈にある「二増上慢」にふれます。この文は寿量品において常住不滅を説いたところです。諸大乗経の即身成仏はこれに当たるとします。 二つの上慢とは教えを聞いても慢心を起こす者がいることです。これを理智・法身報身の立場でみますと、理法身に迷う場合と、智報身に迷って慢心を起こすことです。理に迷うとは生仏一如であるとして修行を怠る慢心を言います。智に迷うとは煩悩即菩提であるから修行をしなくても良いと慢心を起こすことです。つまり、仏と衆生は同じと言うと、衆生に慢心が起きて修行をしなくなる欠点があります。(「記九云然二上慢不無浅深。謂如乃成大無慙人」一七四五頁)。 二つ目に煩悩がある衆生がそのまま仏になると聞けば、やはり善根を積み慢心を改めようとしなくなります。この両者を比較すると理に迷う方を罪科が深いと解釈します。大日経等はこの「二増上慢」になるので無間地獄に堕ちると述べます。 「諸大乗経の煩悩即菩提・生死即涅槃の即身成仏の法門は、いみじくをそたかきやうなれども、此はあえて即身成仏の法門にはあらず。其心は二乗と申者は鹿苑にして見思を断じて、いまだ塵沙・無明をば断ぜざる者が、我は已に煩悩を尽たり。無余に入て灰身滅智の者となれり。灰身なれば即身にあらず。滅智なれば成仏の義なし。されば凡夫は煩悩・業もあり、苦果の依身も失事なければ、煩悩・業を種として報身・応身ともなりなん。苦果あれば生死即涅槃とて、法身如来ともなりなんと、二乗をこそ弾呵せさせ給しか。さればとて煩悩・業・苦が三身の種はなり候はず。今法華経にして、有余・無余の二乗が無き煩悩・業・苦をとり出て、即身成仏と説給時、二乗の即身成仏するのみならず、凡夫も即身成仏する也。此法門をだにもくはしく案ほどかせ給わば、華厳・真言等の人々の即身成仏と申候は、依経に文は候へども、其義はあへてなき事なり。僻事の起此也」(一七五四頁) これは二乗が不成仏であるとした爾前経の立場です。即身成仏の法門ではないと述べます。即ち二乗は鹿野苑で仏の教え(小乗・阿含経・三蔵経)を聞いて、見惑と思惑の煩悩を断じますが、根本の塵沙と無明惑の煩悩を断じていません。ところが煩悩を断じ尽くしたとして涅槃に入って灰身滅智の者と思い込みます。身を灰とすることは生きた身体そのままの即身成仏ではなく、また、智慧を滅すると成仏はできません。 これに対し凡夫は煩悩と前世の業を種として報身・応身となることができ、煩悩に苦しむ身があるから生死即涅槃として、そのまま法身如来となると説きます。釈尊はこのことを二乗に説いたのです。しかし、まだ煩悩・業・苦が法身・報身・応身の種とはなりません。そこで、法華経において、有余(不完全な涅槃)と無余涅槃に達したとする二乗の煩悩・業・苦を取り出して、二乗の凡身がそのまま即身成仏すると説きます。このとき二乗が即身成仏しただけでなく凡夫も即身成仏できることになります。 この法門を理解するならば、華厳・真言宗等に即身成仏の実義はないことが判明し、諸宗の誤りの根本の原因はここにあると指摘します。釈迦・多寶仏などの諸仏や天台・伝教が、法華経こそが成仏の教えであると断言していることを確信するように述べます。 「しかれども釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌・龍樹菩薩・天台・妙楽・伝教大師は、即身成仏は法華経に限とをぼしめされて候ぞ。我弟子等は此事ををもひ出にせさせ給」(一七五五頁) 次に法華経を解釈した論師・人師の中で竜樹のみが正しく法華経を解釈したとします。『大論』にある「譬如大薬師能以毒為薬」の文に着目するのが聖人の特徴です。 「毒と申は苦集二諦生死の因果毒の中の毒にて候ぞかし。此毒を生死即涅槃、煩悩即菩提となし候を、妙の極とは申けるなり。良薬と申は毒の変じて薬となりけるを良薬とは申候けり。此龍樹菩薩は大論と申文の一百の巻に、華厳般若等は妙にあらず、法華経こそ妙にて候へと申釈也」(一七五五頁) と、生死の毒を涅槃とし煩悩の毒を菩提となすのが良薬としての妙法蓮華経と説きます。天台もこの竜樹の『大論』を依拠として、南三北七の教説に勝ったと述べます。それを不空が竜樹の論として伝えた『菩提心論』に、「唯真言法中即身成仏」と誤釈したため、真言宗の教えが基本から誤った原因とします。聖人は『菩提心論』は竜樹の論説ではなく、不空の論とする争論を挙げ、『大論』と『菩提心論』との自語相違の即身成仏論の立場から、『菩提心論』は竜樹の説ではない黒論とします。また、訳者の解釈の違いであると見做します。 インドから中国へ経論を伝えた一七五人の釈者の中でも、羅什のみが釈尊の真実の言葉の通りに訳したとします。羅什を火葬した時に舌は焼けなかった故事を引用します。道宣(五九六~六六七年)の『律相感通伝』に、羅什は「絶後光前」(「後を絶ち前をてらす」一七五七頁)の立派な人であると言う文を引き、羅什以前の一六四人、並びに羅什以後の善無為・金剛智・不空等の一一人は解釈に誤りがあるとします。法華経に限定された即身成仏を、唯真言のみに限るとした説は、天下第一の僻見であり人の正しい道を踏み外した「修羅根性法門」(一七五七頁)であると述べます。 そして、天台の『法華文句』「寿量品心釈云仏於三世等有三身。於諸経中秘之不伝」(法華経いがいの諸経には仏の三身をかくして伝えていない)の文こそが、即身成仏の明文であり栴檀(千旦)の香りが他の雑香を随従させない程の存在であると述べます。釈尊は過去・現在・未来の三世に亘って、常に法身・報身・応身の三身を具えているが、法華経以外の諸経には説いていないこと。三身は爾前の諸経にも説かれているが、この三身を一身に具えた久遠本仏であることを明かされたのは寿量品です。つまり、三世常住・三身即一身を顕したところに即身成仏を認めたのです。不空はこれを竜樹の説として引用したと批判します。不空の即身成仏は生身得忍とする華厳経の菩薩の悟りの境地に似ているが即身成仏には及ばないとします。不空は即身成仏の義に到達できなかったとします。なぜなら即身成仏は二乗作仏・久遠実成を説いた法華経に限られるからです。 最後に追記して亡国の原因を述べます。儒教には為政者が悪政を行うと世が乱れ濁悪になるとあり、仏教も邪教を尊ぶことにより濁世になると明かしていると述べます。今の世は外典にも仏教の教えにも相違しているため、自界反逆・他国侵逼の二難が興起したと述べます。これにより日本が滅ぶことは不憫であると述べます。 |
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