318.『妙一女御返事』~『四条金吾殿御返事』  髙橋俊隆

□『妙一女御返事』(三七五)

○法華経と真言の即身成仏

七月一四日付けにて妙一女に宛てた書簡で『松野女房抄』と別称されます。妙一女については妙一尼と同じ人と言いますが不明です。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇一〇九三頁)。経文や釈文を多く引用し台密の即身成仏を追求していることから、深い仏教の知識が窺えます。真蹟はなく『朝師本』が伝えられています。本書は即身成仏について、伝教は法華経に限るとし弘法は真言とするのは、どちらが正しいかを問答の形にて論じます。末筆に聖人に誤りがあれば寿命を召し取ってもよいと法華経の教えは正しいことを主張されます。即身成仏について更に深く述べたのが、同年一〇月五日の同じく『妙一尼御返事』(一七九六頁)です。

伝教は入唐して真言密教の両界を順暁に学び、同じく弘法は慧果に師事したことを述べ、順暁・慧果は不空の弟子であることを確認します。弘法が真言を選択した依拠は、竜樹の『菩提心論』と『金剛頂経』『大日経』です。それは「この三昧を修する者は現に仏菩提を證す」の文。「この身を捨てずして神境通を逮得し大空位に遊歩して身秘密を成す」の文。また、「我本より不生なるを覚る」、「諸法は本より不生なり」の文です。この経文の意味を次のような解釈を示します。

「難云此等の経文は大日経・金剛頂経の文也。雖然経文は或は大日如来の成正覚の文、或は真言行者の現身得五通の文、或は十回向菩薩現身に歓喜地を証得する文にして、猶非生身得忍。何況即身成仏をや。但し菩提心論は一には経に非ず。論を本とせば背上向下の科、相違依法不依人之仏説」(一七七八頁)

 この経文は大日如来が正覚を成就した文。真言の行者が五つの通力を得るとする文。十回向の菩薩が歓喜地を証得する文であること。大日如来は法身仏であるので正覚を成じたとしても、凡夫の生身得忍には及ばないと述べます。故に即身成仏の文証にはならないと断言します。つまり、大日経・金剛頂経には即身成仏を説いていないのです。そして、『菩提心論』は人師である竜樹が説いた論であるので文証として採用できないとします。これを用いるならば背上向下となり、依法不依人の仏説に背くとします。弘法が依拠とした『菩提心論』は経典ではないこと、『金剛頂経』『大日経』には文証がないとして、弘法の真言の邪義を根底から批判したのです。これに対して真言師が聖人を批判した文言を二説挙げます。第一は、

「東寺真言師悪口日蓮云汝は凡夫也。弘法大師は三地の菩薩也。汝未非生身得忍。弘法大師は帝眼前に現即身成仏。汝未承勅宣大師にあらず。日本国師にあらず等云云是一」(一七七八頁)

 聖人は凡夫で生身得忍の者ではないが弘法は菩薩であり即身成仏したこと。また、天皇から勅宣を受けていないので大師でも日本国の師でもないと批判します。第二は叡山の先師を傍証とします。

「慈覚大師は伝教・義真の御弟子、智証大師は義真・慈覚の御弟子、安然和尚は安慧和尚の御弟子也。此三人云法華天台宗は理秘密の即身成仏真言宗は事理倶密の即身成仏云云。伝教・弘法の両大師何れもをろ(愚)かならねども聖人は偏頗なきゆへに、慈覚・智証・安然の三師は伝教の山に栖といへども、其義は弘法東寺の心也。随て日本国四百余年は異義なし。汝不肖の身としていかんが此悪義を存するや是二」(一七七九頁)

慈覚・智証・安然は天台宗を理秘密の即身成仏、真言宗は事理倶密の即身成仏とします。聖人はこの三師は比叡山に籍は置いても、教義は弘法の東寺にあると批判しました。これに対し四百余年の間は異義を立てる者はいなかったのに、聖人は不肖の身でありながら悪義を立てたと批判を受けたことです。聖人はこれに答えます。先ず慈覚・智証は漢土に渡り元政・法全の言葉を信じ、伝教の法華教義を捨てたと指摘します。心は既に真言に堕落し叡山の教義を継ぐ者ではないと反論します。即身成仏論は提婆品に「我於海中」とあるように、現実に即身成仏した人(龍女)がいない経を用いてはならないとします。真言の依経は兼・但・対・帯が明らかであり、二乗の成仏もなく久遠実成を説いていません。つまり、純円の教えではないこと。二乗作仏・久遠実成を明かしていないので真実ではない有名無実の即身成仏と述べます。

次に慈覚は伝教より直に教えを受けているので、四百年もの年月を経た聖人よりは信頼できるとの意見に答えます。経文よりも口伝を信じてよいのか、父母の遺言状を捨てて口伝えの言葉を信じてよいのかと述べます。つまり、伝教の教えは無用で慈覚のほうが正しいのかと反論したのです。そこで伝教の『秀句』「当知此文問所成仏人顕此経威勢也乃至当知他宗所依経都無即身入等」の文を引きます。この文は法華最勝の文証となる龍女の成仏を指します。他宗の依拠とする経典は全て即身成仏の義がないとした釈です。これは法華経が勝れた理由を十挙げた中の第八番目の「即身成仏化導勝」の文です。

 更に『菩提心論』に「唯真言法の中にのみ即身成仏する」の「唯」の文証を問題とします。聖人は『法華秀句』に「能化所化倶に歴劫無く妙法経力即身成仏す」の文により、伝教は『菩提心論』の即身成仏を否定したと判断します。『大田殿女房御返事』(一七五六頁)『菩提心論』は竜樹の説ではない「黒論」、また、訳者の解釈の違いと述べました。「されば此の菩提心論の唯の文字は設い竜樹の論なりとも不空の私の言なり」(一七五七頁)と指摘します。ここに大日経に即身成仏を認めた三大師は謗法であるとします。

そして、聖人の説を批判するならば「権門」(きりもの)を利用しないで、証文を示すように求めます。日月・帝釈・梵天が味方し証人となると述べます。

「寄事於権門日蓮ををど(脅)さんより但正文を出せ。汝は人をかたうど(方人)ゝせり。日蓮は日月・帝釈・梵天をかたうどゝせん。日月天眼を開て御覧あるべし」(一七八二頁)

逆に聖人の教えが正しいならば善神は速やかに守護すべきと諫言します。真言を信じる国中の人が「無眼の報い」に堕ちるのを憐れと思わないのか、二度の流罪と竜口にて斬首に及んだことは、釈迦・多宝・十方の諸仏の頚を切るのと同じと述べます。善神は法華経の法味を頂いて勢力を増すのに、その力を奪う敵を罰しないで寿命と衣食を与えて養うのは何故かと詰め寄ります。真言師の身に入って誹謗させているのか。彼等と対決させて正邪を明らかにすべきと述べます。

「彼三大師の御弟子等が法華経を誹謗するは、偏に日月の御心を入させ給て謗ぜさせ給か。其義なくして日蓮がひが事ならば、日天もしめし、彼等にもめしあは(召合)せ、其理にまけ(負)てありとも、其心ひるがへらずば天寿をもめしとれかし。其義はなくして、たゞ理不尽に彼等にさる(猨)の子を犬にあづけ、ねづみの子を猫にたふ(与)やうに、うちあづけて、さんざんにせめさせ給て、彼等を罰し給はぬ事、心へられず。日蓮は日月の御ためには、をそらくは大事の御かたきなり。教主釈尊の御前にて、かならずうた(訴)へ申べし。其時うらみさせ給なよ。日月にあらずとも、地神も海神もきかれよ、日本の守護神もきかるべし。あへて日蓮が曲意はなきなり。いそぎいそぎ御計あるべし。ちゝ(遅々)せさせ給て日蓮うらみさせ給なよ」(一七八二頁)

これ迄は猿の子を犬に預け鼠の子を猫に与えるように彼等に扱われたとし、真言師を罰しない善神の責任を問います。釈尊の御前にて約束を破った神と訴えると述べ、急いで守護の効験を顕すよう進言します。妙一女の身に差し迫った真言師との法論があり善神守護にもふれます。この即身成仏については同年一〇月五日の『妙一尼御返事』に重ねて説き示されます。七月一五日頃から各地の弟子を集めて講義に集中します。

 (□『異体同心事』の系年を弘安3年8月6日とする説が有力です。熱原法難の後の書状と思われます。『日蓮聖人の歩みと教え』身延期756頁)

□『内房女房御返事』(三七六)

○百箇日の願文

八月一四日付けにて内房女房より父の百箇日供養の布施一〇貫文と、願文を受け取り法門を述べた書簡です。真蹟はなく『本満寺本』に収録されています。

 内房女房は庵原の富士川の西岸にある内房に住み内房尼とは母子関係とされます。対岸の芝川の長貫とを吊り橋で往来し甲州への街道が通じています。内房尼は『三澤抄』によると、富士の氏神参詣のついでに尼の身でありながら身延に詣でたことで対面せずに帰した老女です。百箇日の父は内房尼の夫と思われます。内房女房は「御願文状」(一七八四頁)に「女弟子大中臣氏敬白」とあります。中臣氏は天児屋命(アメノコヤネ)の末裔とされます。天児屋命は天孫降臨にて瓊瓊杵尊に随伴し、古代日本において天皇家の神事祭祀を司る氏族でした。そのため、夫は神祇に関した人で一〇貫文を布施できる裕福な身分の人と言います。

 内房女房の手紙には父の霊山往詣を願って、妙法蓮華経一部、方便寿量品三〇巻、自我偈三百巻、五万の題目を唱えたと示されています。また、父が生存中に身延に詣でたことが分かります。

「御願文状云奉読誦妙法蓮華経一部 奉読誦方便寿量品三十巻奉読誦自我偈三百巻 奉唱妙法蓮華経題名五万返云云。同状云伏惟先考幽霊生存之時 弟子遥陵千里山河 親受妙法題名 然後不経三十日永告一生之終等云云。又云鳴呼閻浮露庭白骨仮成塵土霊山界上亡魂定開覚蕊。又云弘安三年女弟子大中臣氏敬白等云云」(一七八四頁)

八月九日は百ヶ日に当たるとあります。五月二日に逝去されます。その三〇日前は四月の始めになりその頃、身延に登詣されたことになります。本書は唱題の功徳の大きなことを述べます。亡き父が題目を唱えた功徳により、願文の通り即身に成仏し霊山浄土に往詣できると述べます。法華経を読誦する者の先例はあるが、題目を五万遍唱えた者の先例はないとして、南無妙法蓮華経の五字七字について説きます。

「今妙法蓮華経と申候は一部八巻二十八品の功徳を五字の内に収め候。譬へば如意宝珠の玉に万の宝を収たるが如し。一塵に三千を尽す法門是也」(一七八五頁)

 ここには、『観心本尊抄』の自然譲与段の因果具足論、事一念三千について簡潔に述べていることが分かります。「南無」の二字は妙法蓮華経を敬い随う心であると明かします。南無とは擬音文字でインドでは帰命・敬礼・帰敬と訳されます。一般的に「帰依」と解釈されます。

 次に多聞第一の阿難が釈尊入滅の六〇日後に、王舎城外の大閣講堂にて結集したことにふれます。文殊が下座にて南無妙法蓮華経と唱えた時に、阿難が「如是我聞」と答えたのは、法華一部経の功徳が妙法五字に収まっている証拠と述べます。続いて天台・妙楽・伝教は法華経を最勝としたことを挙げ、弘法・慈覚・智証はこれに反して真言を第一としたことは、大王に反逆する所従の「下克上、背上向下、破上下乱」(一七八七頁)であると述べます。重ねて、

「此等の意を以て知べし。妙法蓮華経の徳あらあら申開くべし。毒薬変じて薬となる。妙法蓮華経の五字は悪変じて善となる。玉泉と申泉は石を玉となす。此五字は凡夫を仏となす」(一七八八頁)

と、妙法蓮華経は「変毒為薬」「凡夫即仏」であると肝要を述べ、父親に題目を口唱させたことは妙荘厳仏の二人の子供の善知識(『開結』五八一頁)と同じに孝養の至極と賛嘆します。そして、輪陀王と馬鳴菩薩の故事を引きます。馬鳴は途絶えた白鳥を呼び寄せ白馬は元のように鳴きます。それにより輪陀王が力を回復し国も栄えた故事です。また、日本国は神代の国であったが、世が末になり人の三毒も強まり悪国化したため、善神の威光が失せます。伝教は法華経を鎮護国家の経典と定め再び国が栄えたと述べます。しかし、仏教において弘法・慈覚・智証の邪義が蔓延したため、下克上の世となり承久の乱を引き起こしたとします。国のために邪教を諫暁する聖人は排斥されたと述べます。此事は置いて、

「此等はさて置ぬ。氏女の慈父は輪陀王の如し。氏女は馬鳴菩薩の如し。白鳥は法華経の如し。白馬は日蓮が如し。南無妙法蓮華経は白馬の鳴が如し。大王の聞食して色も盛んに力も強きは、過去の慈父氏女の南無妙法蓮華経の御音を聞食して仏に成せ給ふが如し」(一七九〇頁)

と、輪陀王の故事に習い内房女房の孝養の功徳を述べます。輪陀は内房女房の亡父、女房は馬鳴菩薩、白鳥を法華経、白馬を聖人として題目を白馬の鳴く声とします。輪陀王が白馬の鳴く声を聞いて力を増したように、亡き父は女房が南無妙法蓮華経と唱える声を聞いて成仏すると述べ孝養の行いを褒めたのです。

 

□『上野殿御返事』(三七七) 

○日若御前

八月二六日付け書簡です。『興師本』が大石寺に伝えられます。時光に男の子供が産まれた報告があり、命名を願ったので日若御前(ひわかごぜ)とし女の子に続き男子が生まれたことを喜ばれます。女子と男子のどちらも家門を継ぐものであり、子供は宝であると述べます。男子は右衛門太郎、姉は新田賴綱に嫁ぎます

「女子は門をひらく、男子は家をつぐ。日本国を知ても子なくば誰にかつがすべき。財を大千にみてても子なくば誰にかゆづるべき。されば外典三千余巻には子ある人を長者といふ。内典五千余巻には子なき人を貧人といふ。女子一人、男子一人、たとへば天には日月のごとし。地には東西にかたどれり。鳥の二のはね、車の二のわ(輪)なり」(一七九一頁)

 

○御本尊(九七)八月

 「俗日重」に授与され岡宮の光長寺に所蔵されます。紙幅は縦五三.九㌢、横三四.二㌢、一紙の御本尊です。この御本尊以降は讃文に「仏滅度後二千二百三十余年之間、一閻浮提之内未曾有大漫荼羅也」と、「三十余年」を書き入れます。

 

□『松野殿女房御返事』(三七八)

 九月一日付けにて松野氏の女房から、白米一斗・梨一籠・茗荷・はじかみ(生姜)・枝大豆・えびね(山わさび)等の供養を受納した返礼の書簡です。供養の志と篤信を称え、法華経を持つ女人は濁りのない澄んだ水に月が映るように、女房の心にも釈尊と言う月が映ると譬えます。題目を心に固く信じ唱えれば、釈尊を体に感じることができると述べます。信仰を継続することは困難であるのに、退転なく継続されていることを褒めます。結びに詳細な教学や聖人の心情を子息の甲斐公から聴聞するように述べます。

「濁れる水には月住ず。枯たる木には鳥なし。心なき女人の身には仏住給はず。法華経を持つ女人は澄る水の如し。釈迦仏の月宿らせ給。譬へば女人の懐み始めたるには、吾身には覚えねども、月漸く重なり、日も屡過れば、初にはさかんと疑ひ、後には一定と思ふ。心ある女人はをのこご(男子)をんな(女)をも知也。法華経の法門も亦かくの如し。南無妙法蓮華経と心に信じぬれば、心を宿として釈迦仏懐まれ給。始はしらねども、漸く月重なれば心の仏、夢に見え、悦こばしき心漸く出来し候べし。法門多しといへども止候。法華経は初は信ずる様なれども後遂る事かたし。譬へば水の風にうごき、花の色の露に移るが如し。何として今までは持たせ給ぞ。是偏へに前生の功力の上、釈迦仏の護給歟」(一七九二頁)

 

○御本尊(九八)九月三日

 「俗日目」に授与され日興の添え書きに「富士上方上野弥三郎重満」に与えた御本尊で、正和元年に出家したことを記録し、上野家の家人であると『本尊分与帳』に書かれています。紙幅は縦四七㌢、横三一、五㌢、一紙の御本尊で京都の妙蓮寺に所蔵されています。

 

□『上野殿後家尼御前御書』(三七九)

○南条七郎五郎の死去

南条七郎五郎死去します九月六日付けにて一六歳の若さで夭死した時光の弟の死を嘆き、母親の悲しみは計り知れないことを切々と綴ります。真蹟は三紙完存にて大石寺に所蔵されています。

「人は生て死するならいとは、智者も愚者も上下一同に知て候へば、始てなげくべしをどろくべしとわをぼへぬよし、我も存、人にもをしへ候へども、時にあたりてゆめかまぼろしか、いまだわきまへがたく候。まして母のいかんがなげかれ候らむ。父母にも兄弟にもをくれはてゝ、いとをしきをとこ(夫)にすぎわかれたりしかども、子どもあまたをはしませば、心なぐさみてこそをはし候らむ。いとをしきてこご(子)、しかもをのこご、みめかたちも人にすぐれ、心もかいがいしくみへしかば、よその人々もすずしくこそみ候しに、あやなくつぼめる花の風にしぼみ、満月のにわかに失たるがごとくこそをぼすらめ。まことともをぼへ候はねば、かきつくるそらもをぼへ候はず」(一七九三頁) 

 追伸に六月一五日に身延に登詣した七郎五郎の勇姿を述べ、今は法華信仰の功徳により臨終も穏やかに、また、霊山浄土にて父親と手を取り合って喜ばれていると述べながらも、早死にした悔いと後に残された親兄弟の悲しみを思うと、悔やまれ悲しいと嘆息しています。

 

□『南条殿御返事』(三八〇)

 九月付けにて南条氏から白米一袋・芋一駄が七郎五郎の供養として届きました。時光の書状を見て七郎五郎の死去を今以て信じられないと述べます。真蹟は一紙一〇行の断片が大石寺に所蔵されています。

 

○御本尊(五五)九月

 日興の添え書きに因幡の富城寂仙房日澄の母尼に九月に授与されたとあります。本門寺の重宝とすべき遺誡も書かれています。紙幅は縦五八.二㌢、横四〇.六㌢、二枚継ぎの御本尊で京都妙覚寺に所蔵されています。

○御本尊(九九)九月八日

 「優婆夷源日教」に授与され紙幅は縦四六.一㌢、横三〇.九㌢、一紙の御本尊です。寂照日乾の記録に身延に所蔵とあります。妙心日奠の記録に智寂日省の挿記として、波木井日教に授与された当御本尊を、身延の三大檀那である水戸宰相に進上したとあります。遠沾日亨の『西土蔵物録』に「波木井日長授与」と記載され、波木井氏に縁のある女性信者でした。水戸家旧蔵の御本尊は横浜の某家に所蔵されています。

□『光日尼御返事』(三八一)

 九月一九日付けにて安房小湊の光日房に宛てた書簡です。一紙断簡が富士久遠寺に所蔵されています。現存の本紙右肩に二の丁付があることから、本書は二紙の書状であったことが分かります。第一紙には安房の海産物などの供養が届けられ、故郷や父母を想う返礼の文が存したと思われます。第二紙の始めには三従の綱と五障の煩わしさ(「三従五障」)から開放され、即身成仏の尊い体であると述べています。光日尼の篤い信仰が窺えます。

「三のつなは今生に切ぬ。五のさわりはすで(既)にはれぬらむ。心の月くもりなく、身のあかきへはてぬ。即身の仏なり。たうとしたうとし」(一七九五頁)

即身成仏の法門については、これ迄に書状を送った時にほぼ書き足りているので、それらを読み直して信仰を深めるように述べます。これに該当する書簡は建治二年三月の『光日房御書』(一一五二頁)と思われます。しかし、本書に至る五年の間に数通の書簡が送り届けられていたことは十分に推測されます。日向の母として教団の連絡経路であることは確かです。

□『断簡』一九七 □『大尼御前御返事』(三八二)

 断簡は『大尼御前御返事』(三八二)の前文(第二一丁後半)とされる一紙一〇行です。日向市定善寺に所蔵されています。九月二〇日付けにて安房の大尼に宛てた長文の書簡です。真蹟は末尾の一紙(第二二紙目)が京都頂妙寺に伝えられます。第一紙が伝わらないため供養品や依頼の内容は不明です。断片から地頭との間に訴訟問題が起き、その解決を依頼されたことが分かります。

「あるべからずの御ちかいとだにも候わば、法華経・釈迦仏・天照大神・大日天と大かくのじようどのに申べく候、これをそむかせ給わば、他のをほせはかほるとも、此事は叶がたく候。我力の及ぬ事に候へば御うらみも有べからず。地頭がいかんかいわすらむ、うたへすらむとの御をくびやうは、地頭だにもをそろし。まして」(二五三九頁)

 信仰心のない大尼から突然の依頼を受け、当惑しながらも善神に祈願し大学允にも力になるよう頼むと述べます。しかし、こちらの指示に背くならば願いは叶わないし力が及ばないことだから恨まないようにと忠告します。大学允と大学三郎は別人ですが近親者とされます。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇六七〇頁)。東条の地頭に訴えると恫喝されて怖じ恐れているが、それよりも閻魔王の方が何倍も恐ろしいと述べたのです。

「ごくそつ(獄卒)えんま(閻魔)王の長は十丁ばかり、面はす(朱)をさし、眼は日月のごとく、歯はまんぐわのねのやうに、くぶしは大石のごとく、大地は舟を海にうかべたるやうにうごき、声はらい(雷)のごとく、はたはたとなりわたらむには、よも南無妙法蓮華経とはをほせ候はじ。日蓮が弟子にてはをはせず。よくよく内をしたためてをほせをかほり候はん。なづき(頭脳)をわり、み(身)をせめていのりてみ候はん。たださきのいのりとをぼしめせ。これより後はのちの事をよくよく御かため候へ」(一七九五頁)

地獄の閻魔王の身丈は一〇丁、顔面は朱、両眼は日月、歩くときは大地を振動すること海に船を浮かべたようであると喩え、そのような時には恐ろしさのあまり題目さえ唱えられないだろうと述べます。そして、大尼は退転した者であり弟子ではないが、心の中を整えて決断したならば身体を責めてでも祈願すると述べます。ただし、聖人が祈願することは現在よりも後生のことであるとします。ここには、年老いた大尼への恩義と思いやりの心が窺えます。今後は後生のため信仰に励むことを勧めたのです。九月二四日に筑前国筥崎宮が焼亡します。

□『妙一女御返事』(三八三)

○真言と法華の即身成仏の違い

 一〇月五日付けにて妙一女に宛てた書簡です。同年の七月一四日に宛てた書簡があり(『妙一尼御返事』一七七七頁)、即身成仏について法華・真言の勝劣相違について教示されました。本書は更に真言以外の諸経との勝劣を質問され、法華経においても迹門と本門とは相違することを論じた重要な遺文です。『三宝寺本』に収録されています。即身成仏は諸宗においても大事な法門としているが、聖人においてはこの一事こそが最重要であると述べます。

「就中、予が門弟は万事をさしをきて此一事に可留心也。建長五年より今弘安三年に至るまで二十七年の間、在々処々にして申宣たる法門繁多なりといへども、所詮は只此の一途也」(一七九六頁)

 立教開宗以来もっとも力を注いだのは即身成仏の教えであると述べます。重ねて真言の即身成仏は「生身得忍」にもならないと述べ、提婆品の龍女の成仏を証拠とします。更に迹門と本門の相違をを説きます。

「夫先法華経の即身成仏の法門は龍女を証拠とすべし。提婆品云於須臾頃便成正覚等云云。乃至変成男子。又云即往南方無垢世界云云。伝教大師云能化龍女無歴劫行所化衆生亦無歴劫能化所化倶無歴劫妙法経力即身成仏等云云。又法華経の即身成仏二種あり。迹門は理具の即身成仏、本門は事の即身成仏也。今本門の即身成仏は当位即妙、本有不改と断ずるなれば、肉身を其まゝ本有無作の三身如来と云る是也。此法門は一代聖教の中に無之。文句云於諸経中秘之不伝等云云」(一七九八頁)

 迹門における即身成仏は理具であり、本門は事具の即身成仏とします。本門は久遠実成が開顕され仏界所具の九界を可能とします。仏界を具えるために必要なのは題目を受持することにあります。この受持という行いを事一念三千と言い事具の即身成仏を立てます。受持成仏とは当為即妙の成仏であり、凡夫の身そのままの即身成仏を言います。また、「無作三身」についての記述があります。「無作三身」は中古天台で言う密教の大日法身のことで、聖人の仏身論において一考される用例です。ただし、浅井円道氏は寿量品の仏や南無妙法蓮華経と唱える弟子信徒を「無作三身」と呼ぶが、取捨するところなく凡夫の全てを指して「無作三身」であると言うことはほとんどないと言います。(『日蓮聖人遺文辞典』教学篇一二〇六頁)本有不改、事の即身成仏を述べたのです。

次に法華経が広まる時は在世と末法の二回であり、修行の仕方も二通りあるとし、在世は純円の機根であるから直ちに法華経において授記作仏されます。末法は五逆誹謗の悪機・謗機の機根が集中する時であるから本門を広める時とします。この滅後の法華経の論理は末法下種論にあることは、『観心本尊抄』に「彼脱此種」「彼一品二半此但題目」(七一五頁)の文から明らかです。

「又法華経の弘まらせ給べき時有二度。所謂在世与末法也。修行又有二意。仏世は純円一実、滅後末法の今の時は一向本門の弘らせ給べき時也。迹門の弘らせ給べき時は已に過て二百余年になり、天台伝教こそ其能弘の人にてましまし候しかども、それもはや入滅し給ぬ。日蓮は今、時を得たり。豈此所嘱の本門を弘めざらんや。本迹二門は機も法も時も遥に各別也。問云日蓮計知此事乎。答云天親龍樹内鑑冷然等云云。天台大師云後五百歳遠沾妙道。伝教大師云正像稍過已末法太有近法華一乗機今正是其時。何以得知安楽行品云末世法滅時云云。此等論師人師末法闘諍堅固時地涌出現し給て本門の肝心南無妙法蓮華経の弘らせ給べき時を知て、恋させ給て如是釈を設させ給ぬ」(一七九八頁)

天台・伝教が本門法華経を弘通しなかった理由と、末法に地涌の菩薩が付属により出現して法華経を広める付法蔵の規定と、経文の証拠を示して法華弘通の意義を述べます。即ち本門の肝心である南無妙法蓮華経を広める時であり、その使命を持った地涌の菩薩とは聖人のことであると明かされたのです。更に本迹の相違を述べます。

「尚尚即身成仏者迹門は能入の門、本門は即身成仏の所詮の実義也。迹門にして得道せる人々、種類種 相対種の成仏、何れも其実義は本門寿量品に限れば常にかく観念し給へ。正観なるべし。然るにさばかりの上代の人々だにも即身成仏には取煩はせ給しに、女人の身として度度如此法門を尋させ給事は偏に只事にあらず。教主釈尊御身に入替らせ給にや。龍女が跡を継給歟。又・曇弥女二度来れる歟。不知、御身は忽に五障の雲晴て、寂光の覚月を詠給べし」(一七九八頁)

と、迹門は能入、本門は所詮とします。迹門において得道した者や、前世に小善を持つ種類種(熟類種)の得道である「小善成仏」や、不成仏とされる悪機根の相対種の成仏なども、その実義は本門寿量品に限ると述べます。久遠実成の法華開会による成仏こそが正観であると述べます。上代の者も煩瑣とした法門を妙一女が再度に亘り質疑されたことを希有とします。龍女が五障を克服して成仏し、釈尊の育ての母であり最初の比丘尼となった憍曇弥が記別を受けた例を挙げ妙一女の成仏も疑いないと褒めます。

□『四条金吾殿御返事』(三八四)

 一〇月八日付けにて七月に頼基から信州殿岡(飯田市)から送られた米の礼を認めた書簡です。殿岡は主君より新たに受領した土地です。『本満寺本』『御伝土代』に収録されます。供米は盂蘭盆の僧膳としました。

「今年七月盂蘭盆共の僧膳して候。自恣の僧・霊山之聴衆・仏陀・神明も納受随喜し給らん。尽せぬ志、連々の御訪、言を以て尽しがたし」(一七九九頁)

 この米の供養の功徳は身延に盂蘭盆法要のために参集した僧侶のみではなく、霊山会上の聴衆や仏陀、善神が納受し随喜したと述べます。自恣とは安居の最後の日に修行僧たちが罪を告白し、懺悔して許しを乞うことです。盂蘭盆の供養は精霊だけではなく修行僧や諸仏・善神への供養となります。頼基の変わらぬ奉仕の志に感謝し、後生の菩提は疑いないと断言します。そして、文永八年の竜口法難の不惜身命を身読した功績と、佐渡の流罪地へ慰問した嬉しさを回顧します。

「何事よりも文永八年の御勘気の時、既に相模国龍口にて頚切れんとせし時にも、殿は馬の口に付て足歩赤足にて泣悲み給事、実にならば腹きらんとの気色なりしをば、いつの世にか思忘るべき。それのみならず、佐渡の島に放たれ、北海の雪の下に埋れ、北山の嶺の山下風に、命助かるべしともをぼへず。年来の同朋にも捨られ、故郷へ帰らん事は、大海の底のちびきの石の思ひして、さすがに凡夫なれば古郷の人々も恋しきに、在俗の宮仕・なき身に、此経を信ずる事こそ希有なるに、山河を陵き、蒼海を経て遥に尋来給志、香城に骨を砕き、雪嶺に身を投し人々にも争か劣り給べき」(一八〇〇頁)

頼基の信仰心について、常啼(じょうたい)菩薩が曇無竭(どんむかつ)菩薩を供養するため、妙香城において自身の骨を砕いて捨身の行をしたこと。雪山童子が鬼神から法を聞くために、雪嶺の雪山で身体を鬼神に捧げた故事を挙げます。また、赦免後に三度の諫暁をし使命を遵守した法悦を述べ身延入山の心中を伝えます。

「同十一年の春の比、赦免せられて鎌倉に帰り上りけむ。倩事の情を案ずるに、今は我身に過あらじ。或は命に及ばんとし、弘長には伊豆国、文永には佐渡の島、諌暁再三に及べば留難重畳せり。仏法中怨の誡責をも身にははや免れぬらん。然るに今山林に世を遁れ、道を進んと思しに、人々の語様々なりしかども、旁存ずる旨ありしに依て、当国当山に入て已に七年の春秋を送る」(一八〇〇頁)

 三度目の諌暁は頼綱など数名の者と対面しました。頼綱の目的は蒙古の情報と戦勝祈願をさせることでした。聖人にとっては不本意な対面でしたが鎌倉を退出する決意を固めます。このとき諸処から誘いがありますが、取り急ぎ鎌倉から遠方の地として身を寄せたのが実長の所領である身延でした。当時は飢饉のこともあり幾らかの時を過ごして新たな行動を考えていたと述べています。次第に弟子や信徒が往来します。熱原の問題が起きたこと、健康の悪化などで七年の時を経過していました。この間の布教は綿密に行われ拠点として定着したのです。

「我身法華経の行者ならば、霊山の教主釈迦・宝浄世界の多宝如来・十方分身の諸仏・本化の大士・迹化の大菩薩・梵・釈・龍神・十羅刹女も、定て此砌におはしますらん。水あれば魚すむ、林あれば鳥来る、蓬莱山には玉多く、摩黎山には栴檀生ず。麗水の山には金あり。今此所も如此。仏菩薩の住給功徳聚之砌也。多くの月日を送り、読誦し奉る所の法華経の功徳は虚空にも余りぬべし。然るを毎年度々の御参詣には、無始の罪障も定て今生一世に消滅すべきか。弥はげむべし、はげむべし」(一八〇一頁)

と、身延は諸仏菩薩善神が来集する功徳聚の霊地であり、七ヵ年の間、法華経を読誦し修行した功徳は虚空に満ち溢れると強調します。このような聖域に参詣し供養することにより、無始の罪障は今生に消滅すると讃え弛まぬ信心を励まします。

○円爾弁円寂

一〇月一七日に臨済宗の円爾が七九歳にて没します。東福寺を開山し応長元年(一三一一年)に花園天皇から諡号聖一国師とを称します。晩年は母親の実家近くの駿河の蕨野に住み、医王山回春院を開き本来の禅の流布を行います。酒皮饅頭や宋から持ち帰った茶の実を薬草として栽培し、静岡茶(本山茶)の始祖と称されます。自筆の遺偈は「利生方便七十九年 欲知端的佛祖不伝 弘安三年十月十七日 東福老珍重」(利生方便すること七十九年。端的に知を欲せんとすれば仏祖は伝えず)です。(『鎌倉遺文』第一九巻一〇七頁)。