320. 『富城殿女房尼御前御書』~『四条金吾許御文』  髙橋俊隆

□『富城殿女房尼御前御書』(三五二)

○日弁と日秀を中山へ退避

前書と同じ一一月二五日付けにて日頂に持たせた母の富木尼に宛てた書簡です。鈴木一成氏は花押の空点を示す蕨手の書き方が、弘安三年七月二日から同五年二月二八日迄の後期とします。(『日蓮聖人遺文の文献学的研究』四〇三頁)。真蹟は二紙が完存にて小湊誕生寺に所蔵されています。日頂(二八歳)が学徳を備えた学生になったことを知らせ、日頂を師匠として法門を聞くように述べています。

書簡二通を日頂が持参して下総に帰省します。滝泉寺にいた日弁と日秀を、下総方面における布教のために同行させます。これについて、「しばらくふびんにあたらせ給へと、とき殿には申させ給」(一七一一頁)と、富木尼の口から夫の常忍にお願いして欲しいと頼みます。富木尼も病体であり夫常忍の負担にもなります。日頂との再会も快復の力になったと思われます。また、熱原神四郎の長男が日弁、下野阿闍梨日忍は日弁の弟と言い、富木尼は姉になり日頂は甥とも言い、この関係から下総に預けたと言えます。この内容を直接伝えたいことから、同日ながら別々に与えたのです。日秀は高橋入道の子息です。常忍のもとに非難させたことから、熱原の信徒達への迫害が続いていたことが分かります。

○「むかしはことにわびしく候し時より、やしなわれまいらせて候」

富木尼とは久しく対面していないと述べ病気の体を心配されます。そして、富木家の恩義を述べます。

「はるかにみまいらせ候はねば、をぼつかなく候。たうじ(当時)とてもたのしき事は候はねども、むかしはことにわびしく候し時より、やしなわれまいらせて候へば、ことにをん(恩)をもくをもひまいらせ候」(一七一〇頁)

 「養う」とは普通は子供や老人を養うための費用で、扶養料や養育費のことを言います。この恩が富木尼からなのか、常忍の母下総局なのかに解釈の違いがあります。年齢から見ると母尼と思われます。幼少の頃より資金等の援助を受けていたと解釈できます。確かに母尼は身延に入ってからも衣食等の世話をして保護しています。

常忍夫妻は文永一一年の夏頃に身延に登詣したと思われます。「はるかにみまいらせ候はねば、をぼつかなく候」と、久しく会っていない年数は、本書を弘安三年として七年になります。富木尼が病身であったことは『可延定業御書』や『富木尼御前御書』に述べていました。ことに病気を心配されたのは、昔より恩義を受けてきた重恩があることでした。この「むかし」とは何時のことなのでしょうか。富木尼が常忍に再嫁したのは早くても日澄の生まれた弘長二(一二六二)年です。下総局は建治二年二月に没しています。富木尼からの恩義としますと二〇年に満ちません。伊豆流罪頃となります。聖人が重恩と思うのは、下総局以来の富木家の恩義と考えられます。母妙蓮の生家大野家との縁より引き続くことと思います。

「それについては、いのちはつるかめのごとく、さいわいは月のまさり、しを(潮)のみつがごとくとこそ、法華経にはいのりまいらせ候へ」(一七一〇頁)

と、病気が平癒し長命を祈るようにと述べます。頼基より薬の調剤を受け、信仰の功徳により嘉元元(一三〇三)年一一月一日まで長生きされます。(重須正林寺の寺伝)。

○日弁のその後

日秀と日弁は日興の元にて布教をし、聖人の遺物を配分され御廟所の輪番を担当します。後に日弁は日興に背いたと言います。(『宗全』二巻「本尊分与帳」)。日弁の著とされる『円極実義抄(下)』には本迹勝劣の立論があります。永仁元(一二九三)年に諸宗との対決を望む申状を書き折伏の弘教をします。上総茂原に教線を進め鷲巣の鷲山寺を草創し鷲栖門徒と呼ばれます。その後、奥州に進出します。宮城県角田市に法光山妙立寺があります。もとは白坂にあり創立は正安元(一二九九)年三月二八日と伝えられます。開基は実長の後室妙円院日儀尼、夫の実長を開山とします。(『日蓮宗寺院大鑑』一〇四七頁)。ここより六㌔離れた佐倉地区に日弁の殉難祈念碑があり、応長元(一三一一)年閏六月二六日、暴徒に襲われ死去します。折伏弘教による殉死と思われます。(『日本仏教史辞典』八一八頁)。遺骸は常陸に運ばれ高萩市赤浜にて荼毘に臥され埋葬されます。(市川浩史著『日蓮と鎌倉』六八頁)

□『大夫志殿御返事』(三九六)

 日付けはありませんが一一月二五日と思われる宗仲に宛てた書簡です。真蹟五紙断片が京都妙覚寺・鎌倉妙本寺・埼玉県新曽妙顕寺・貞松蓮永寺・巣鴨本妙寺に所蔵されています。合わせて一一行しかなく全文は揃っていません。『本満寺本』にて全文を補っています。

天台大師の徳を論究していることから、「大師講」の一一月二四日に合わせた供養と推察されます。(『日蓮聖人遺文全集講義』第二五巻二七六頁)。『対照録』(下巻四八八頁)は一一月とし岡元錬城氏は一一月二五日とします。また『兵衛志殿女房御返事』(三五三)等の四通は同日の書状とし、日頂と日弁・日秀の三人は中山の常忍の元へ向かい、「此御房たち」と言う宗長の使いは池上に向かったと推測します。(岡元錬城著『日蓮聖人遺文研究』第二巻二八一頁)

宗仲より小袖一着、直垂(ひたたれ)と袴の上下腰が三組ずつ贈られてきました。(『日蓮聖人全集』第六巻二九九頁)。小袖の料金は七貫文、直垂と腰は合わせて一〇貫文に相当するとし、高価な衣服を奉納されたことに感謝されます。供養品を金銭に換えて述べたのは珍しいことです。この供養の荷物の中に兵衞志の妻からの片裏染めの絹布があったと思われます。(『兵衛志殿女房御返事』一七一一頁)。写本には日付と自署がなく花押だけとなっていますが、『兵衛志殿女房御返事』は自署と花押、月日、宛名があります。両書を同日と見ると整合性があります。

まず、章安は天台の位について六即では観行即の位。分別功徳品の第五品(正行六度)に当たることを引きます。また、法師品に説かれた「如来使」とは天台であることを、伝教も中国には天台よりも勝れた者はいないとし、「如来使」と賛嘆したことを述べます。

 次に付法蔵の二四人は小乗・権大乗を弘める仏の使いであって法華経の使いではないとします。三論宗では道朗・吉蔵、法相宗は玄奘・慈恩、華厳宗は法蔵・澄観、真言宗は善無畏・金剛智・不空・慧果・弘法を仏の使いと言うが、付法蔵以外の者は全く仏使ではないと反論します。

「日蓮勘之云全非仏使。全非大小乗使。供養之招災謗之至福。問汝自義歟。答云 設雖為自義有文有義ならば何の科あらん。雖然有釈伝教大師云捨福慕罪者耶と[云云](一八五一頁)

 仏使ではない者を供養すれば災いを招き、逆に謗法の者を断罪する者は福徳を得ると述べます。東西南北の四方と一の須弥山と六欲天・梵天を合わせて一つの四天下とします。この一四天下を百億集めたのを小千世界と言います。この小千世界を千集めたものを中千世界、さらに、中千世界を千集めたものを大千世界または三千大千世界と言います。この三千大千世界を一つと数えて、四百万億那由佗もある国の六道の衆生を八〇年間養ったとします。その衆生に法華経以外の教えを説いて、阿羅漢や辟支仏や等覚の菩薩とした一人の施主の功徳と、少しも施さずただ法華経の一字一句一偈を持った人の功徳を比較すると、法華経の行者の功徳のほうが百千万億倍も勝れていると述べます。しかも天台を供養することはこれより五倍も勝れていると述べます。伝教が『依憑天台集』に徳の高い天台を供養すると、須弥山の高さのように福徳を積むことができると説いことを女房に伝えるようにと述べます。

□『兵衛志殿女房御返事』(三五三)

 一一月二五日付にて宗長の妻(生没年不明)から、片裏染めの絹布を供養された礼状です。一紙一二行の短文です。真蹟一紙は京都田中平兵衛氏が所蔵されています。鈴木一成氏は花押と本文中に「法華経の御寶前」とあることから弘安二年とします。(『日蓮聖人遺文の文献学的研究』)。しかし、『対照録』は弘安三年とし岡元錬城氏は『太夫志殿御返事』(三九六。一八五〇頁)と同日の書状とします。理由は書き出しに「兵衛志殿女房、絹片裏給候了」と名前を特記していること。「此御房たちの」とあることから二人以上の人数で供養品を運んで来たと思われることを挙げます。(『日蓮聖人遺文研究』第二巻二七一頁)。ここでは弘安三年とします。池上氏とふれ合いが多いのは大貳阿闍梨と武蔵坊円日がいます。

まず供養の志を法華経の御宝前に言上したことを報告します。そして、本当のこととは思えないがと前置きし、供養品を持参した弟子が言うには、子供が多いため苦しいながらも辛うじて生活していると聞き、嘆かわしく思ったと述べます。確かに世間は難渋しているが、法華経の信者は心機一転して、信仰による法悦を楽しみにするように述べます。飢饉や疫病が充満し蒙古の不安を抱えた社会状況を考慮しなければなりません。法華経に奉仕できることを有り難く思うことを教えました。

まことゝはをぼへ候はねども、此御房たちの申候は御子どもは多し。よにせけんかつかつとをはすると申候こそなげかしく候へども、さりともとをぼしめし候へ」(一七一一頁)

文永一二年春から建治四年に至る宗仲の勘当問題では、身延に訪ねて教示を仰いでいます。宗長を支え兄宗仲との信仰の絆を強めた信仰の強い女性です。

□『異体同心事』(一五〇)の前半はこの秋冬とする説があります。同書に「白小袖一、あつわたの小袖」(八二八頁)とある文章によります。

□『富木殿御返事』(三八九)は弘安四年とします。

○御本尊(『御本尊鑑』第三〇)一〇月

 「俗日用」に授与されています。紙幅は横六〇.五㌢、長さは不明ですが一一五㌢前後とされます。嘗て身延に所蔵されていました。

○御本尊(一〇〇)一一月

 「比丘日法」に授与されます。日興の添え書きに「紀伊国切目刑部左衛門入道相伝之」とあり、同じく右下隅に「子息沙弥日然譲与之」と伝えます。紙幅は縦五九.一㌢、横三九.四㌢、一紙の御本尊で佐渡の世尊寺に所蔵されています。

○御本尊「伝法御本尊」(一〇一)一一月

「釈子日昭伝之」と日昭に授与された御本尊です。「伝之」とあることから「伝法御本尊」と別称されます。このように書かれたのは当御本尊のみです。日昭には建治二年に八枚継ぎの本尊(三七)を授与していました。僅か四年後に再び授与されたのは、『両人御中御書』に命じた大進阿闍梨の房を移築し拡張された法華堂に勧請するためです。(高木豊著『日蓮とその門弟』五六頁)。このことは日昭が鎌倉の教団の中心となることを示します。(渡邉宝陽稿「大曼荼羅と法華堂」『研究年報日蓮とその教団』第一集所収)。また、深い教学の理解を存していたことが窺えます。紙幅は縦一九七.六㌢、横一〇八.八㌢の一二枚継ぎの大幅の御本尊です。玉沢妙法華寺に所蔵されます。

□『日厳尼御前御返事』(三九〇)

叶う叶はぬは信心により

 一一月二九日付けにて日厳尼へ宛てた書状です。日厳尼については高橋六郎と有縁の人、また、実相寺の日源の母と言いますが不詳です。(堀日亨著『御書全集下巻弟子檀那列伝』二一頁)『本満寺本』に収録されています。一一月八日に何かの祈願をされ、その成就を願って金銭一貫文と楮の樹皮で織った太布帷子一著を送ってきました。本書はその返礼と立願の心構えを教えます。本年四月に本尊(第八九)を授与され、篤信の者であったことが窺えます。立願の成否について次のように述べます。

「法華経の御宝前並に日月天に申上候畢。其上は私に計申に及ばず候。叶ひ叶はぬは御信心により候べし。全(まったく)日蓮がとがにあらず。水すめば月うつる、風ふけば木ゆるぐごとく、みなの御心は水のごとし。信のよは(弱)きはにご(濁)るがごとし。信心のいさぎよきはすめ(澄)るがごとし。木は道理のごとし、風のゆるがすは経文をよむがごとしとをぼしめせ」(一八一九頁)

 祈願が叶うか叶わないかは信心によるもので、法華経や聖人に責任があるのではないと教えます。これを月と水、風と木の関係をもって信仰の基本を示します。

□『南条殿御返事』(三九一)□断簡(三二三)□『上野殿御書』(四〇六)

○故五郎の百ヶ日

 五郎の百箇日供養のため白米麞牙しらげごめ)二石と芋一駄を供養された返書です。末尾が欠失していますが著述は内容から弘安三年一二月二三日とします。真蹟は二紙断片が京都本満寺に所蔵されています。『対照録』(中巻二三三頁)は二つの遺文を貼り合わせたものとします。第一紙一一行の最後の「阿修羅王」までが一書とします。その後半の「凡夫にて」から最後の「大梵天に」迄は別の書簡とします。この後半は断簡となります。二書の真蹟が本満寺にあり一書にされたと推測します。後半の断簡は宛先や年次も不明ですが『対照録』は弘安元年の書簡とします。本書の続きとなるのは、『断簡(三二三)』の第六紙後半九行と、『上野殿御書』(一八七〇頁)の第七紙一一行となります。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇八三七頁)。『断簡(三二三)』は京都妙蓮寺、『上野殿御書』は京都妙伝寺に所蔵されます。

 薬王品の「海為第一」の経文を引き、法華経は大海のように諸経に勝れた経であることを示します。その大海の中に阿修羅王が住んでいると述べたところから欠失します。『断簡(三二三)』には同じ一滴でも江河は一水、一雨であるが、法華経の一滴は四天下の水が集まった一滴であり、一河の一滴は金であるならば、大海の一滴は如意宝珠のように尊いと述べます。次に『上野殿御書』に釈尊一代の教えは五味に分類されるが、全てを収めるのは法華経の大海に譬えます。大海の一滞は数万の薬味を一つの丸薬にしている。南無阿弥陀仏と唱えることは一河の一滴であり、南無妙法蓮華経と唱えることは大海の一滴であると勝劣の違いを例えます。

五郎の一六年間の罪は小河の一滴のように軽く、今生に須臾の間に唱えた題目の功徳は大海の一滞であると述べます。花は蕾が咲いて果となるように親は死んで子供に懇ろに弔うてもらうのが自然の次第であると述べこの後が欠損しています。子を先立たせた親の悲しみに寄り添った言葉を書き綴られたと思います。

 さて、本書に貼り合わせた後半は、釈尊が凡夫の時に不妄語戒を無量劫の間、持って仏となったことを述べます。その釈尊が「無一不成仏」と説いたのだから、南無妙法蓮華経と一遍でも唱えれば誰でもが仏になれると述べます。釈尊の言葉を疑うべきではなく、十方の諸仏の前にて虚妄を説くことはないと述べます。神力品に「舌相至梵天」とあるように釈尊・十方諸仏が同時に不妄語を示して、法華経の教説の真実であることを証明した文を引きます。この後の文章が欠失しています。幕府はこの一二月に蒙古の襲来が近いとの警報を発し、九州等の守護に沿岸警備と石塀等の防護体制の徹底を命じます。

□『四条金吾許御文』(三九二)

○八幡大菩薩は釈迦如来

一二月一六日付けにて、頼基の妻日眼女から白小袖一著と綿十両が送られた返礼の書簡です。内容から『八幡抄』(『平賀目録』)とも称します。『朝師本』に収録されています。

 身延山中の寒さと粗末な庵室のようすを述べ、日眼女から送られた小袖を直ぐにでも着用し体を暖めたいが、新年の悦びの初め(「明年の一日」一八二一頁)に着てほしいとあるので、迦葉尊者が鶏足山に入定して弥勒出現までの五六億七千万歳を待つような心境のように待ち遠しいと小袖供養を喜ばれます。椎地四郎から頼基が主君の前にて法華経の教えを説いたと聞き爽快な気持ちを伝えます。。椎地四郎は常忍とも親しい関係にあり、『本化別頭仏祖統紀』には四条氏の若党とあります。頼基の手紙や供物を送り届け、葬送の時に「御腹巻」を捧持しました。

頼基の法勲の褒美として大事な法門を教授するとして八幡大菩薩について述べます。一一月一四日に鎌倉の八幡宮が炎上したことに関連します。八幡神は農耕の神ですが豊前の宇佐に祀られてからは銅産出の神として勧請されます。東大寺の大仏建立に当たり手向山に祀られ、仏教との縁により神仏習合し朝廷から大菩薩号を贈られます。貞観元(八五九)年に山科国の石清水に勧請され、応神天皇の本地は釈尊との説が広まりました。その後、源氏の氏神とされ武士の守護神となります。八幡大菩薩は阿弥陀仏の化身という風説がありました。念仏者が赤い石を黄金と思うようなものと述べ、八幡大菩薩は釈尊であることを大隅国にある石體の銘にふれます。

「其実には釈迦仏にておはしまし候ぞ。其故は大隅国に石体銘と申事あり。一の石われて二になる。一の石には八幡と申二字あり。一の石の銘には昔於霊鷲山説法華経今在正宮中示現大菩薩云云。是釈迦仏と申第一の証文也」(一八二一頁)

 鹿児島県姶良(あいら)郡の大隅正八幡にあったのが「石體の銘」と言う石文御託宣です。一つの石が割れて二つになり一つの石に八幡の二字が記され、片方の石には「昔、霊鷲山に於て妙法蓮華経を説き、今、正宮の中に在りて大菩薩と示現す」とあったことを挙げ、八幡大菩薩の本地は釈迦仏である証拠とします。臨済宗の南浦文之(一五五五~一六二〇年)の『南浦文集』にも記載されており、この引用の文に続き正八幡大菩薩は釈牟尼世尊の分身なり」とあります。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇六一五頁)

これよりも確実な事例があるとして、仲哀天皇・神功(じんぐう)皇后の子、応神天皇出生の故事を挙げます。

「此八幡大菩薩は日本国人王第十四代仲哀天皇は父也。第十五代神功皇后は母也。第十六代応神天皇は今の八幡大菩薩是也。父の仲哀天皇は天照太神の仰にて、新羅国を責んが為に渡給が、新羅の大王に調伏せられ給て、仲哀天皇ははかた(博多)にて崩御ありしかば、きさきの神功皇后は此太子を御懐妊ありながらわたらせ給しが、(中略)新羅国へ渡り給て新羅国を打したがへて、還て豊前国うさ(宇佐)の宮につき給、こゝにて王子誕生あり。懐妊の後三年六月三日と申甲寅の年四月八日に生させ給。是を応神天皇と号し奉る。御年八十と申壬申の年二月十五日にかくれ(崩御)させ給ふ。男山の主、我朝の守護神、正体めづらしからずして霊験新たにおはします。今の八幡大菩薩是也」(一八二二頁)

八幡大菩薩は人王第十四代の仲哀天皇を父とし、第十五代の神功皇后を母とした第十六代応神天皇と述べます。 父の仲哀天皇は天照太神の命をうけて、新羅国を攻めたが打ち破られて博多で崩御されます。そこで后の神功皇后は王の仇を討つため太子を御懐妊していたが新羅国へ向かいます。ところが海上の船中で産気の気配があります。その時神功皇后は胎内にある子に、もし皇子ならば今は生れないで軍の大将となり父の仇を打つことを語ります。そして、石の帯で胎を冷やしながら新羅を打ち従え、豊前の宇佐の宮にて皇子を産みます。この皇子が応神天皇であり、。男山の主神であり日本国の守護神として霊験新たかな今の八幡大菩薩であると述べます。

仲哀天皇(足仲彦尊)は日本武尊の第二子で母は両道入姫命です。日本書紀によりますと天皇は九州の熊襲を討とうとしますが、天照太神は妃の神功皇后に新羅を討つよう命じます。天皇は西の海を見て新羅と言う国はないと放言したので、神の怒りにふれて亡くなったとされます。神功皇后は気長足姫尊、また息長帯比売命とも言います。天皇崩御の後、喪を秘し男装して熊襲を平定し新羅を征服したとされます。凱旋の途中に皇子を生み後の応神天皇となります。応神天皇は誉田別尊、また品陀和気尊とも言います。第十六代天皇でしたが明治以降に神功皇后は代数に含めなくなり第十五代天皇となりました。「男山の主」とは宇佐八幡宮の祭神を清和天皇の貞観元(八五九)年に京都八幡市の男山に勧請しました。旧称を男山八幡宮と言い、伊勢神宮とを二所宗廟と称します。以来、日本神道の中心神社とされました。

本書の記述には古事記や日本書紀と相違するところがあります。仲哀天皇が新羅征伐に行ったとするところ。応神天皇が神功皇后の胎内にあった期間を三年六ヵ月三日としているところです。日本書紀は一六ヵ月とします。応神天皇の誕生と没年についても、日本書紀は庚辰の年一二月誕生、甲午或いは庚午の年二月二五日崩御となっています。聖人は「若宮八幡日記」の説を用いたとも言います。(『日蓮大聖人御書講義』第二四巻)

 重ねて釈尊と八幡大菩薩は生没月日が同じであると述べます。八幡大菩薩はインドにては法華経を真実の教えと説いた釈尊であり、日本国にては正直の者を守護することを誓った神であるのに、なぜ、一一月一四日に八幡宮を炎上させたのかを問い質します。

「八幡大菩薩の御誓は、月氏にては法華経を説て正直捨方便となのらせ給、日本国にしては正直の頂にやどらんと誓給ふ。而に去十一月十四日の子の時に、御宝殿をやい(焼)て天にのぼらせ給ぬる故をかんがへ候に、此神は正直の人の頂にやどらんと誓へるに、正直の人の頂の候はねば居処なき故に、栖なくして天にのぼり給ける也」

(一八二三頁)

正直の人の頂上に宿り守護する役目を自ら放棄した現証が宮殿を炎上することである。とすれば今の日本に正直者はいない証拠として「神天上」を展開します。その理由は「本地垂迹」(一八二四頁)の釈尊を捨て、無縁の弥陀を崇めていることが原因です。本地を偽り釈尊を捨てたこと、この誤りを説く聖人を迫害したため力が及ばず日本を離れた「善神捨去」を述べます。

釈迦如来の国に生て此仏をすてて一切衆生皆一同に阿弥陀仏につけり。有縁の釈迦をばすて奉り、無縁の阿弥陀仏をあをぎたてまつりぬ。其上、親父釈迦仏の入滅の日をば阿弥陀仏につけ、又誕生の日をば薬師になしぬ。八幡大菩薩をば崇るやうなれども、又本地を阿弥陀仏になしぬ。本地垂迹を捨る上に、此事を申人をばかたきとする故に、力及ばせ給はずして此神は天にのぼり給ぬる歟」(一八二四頁)

 ただし、百王守護は果たせなくても草の葉に残る一滴の露にも月が写るように、僅かに残る正直の者には守護があると述べます。しかし、安徳・後鳥羽・土御門・順徳天皇は流罪され、仲恭天皇(東一条)が譲位したのは諂曲の人だから守護しなかったと述べます。逆に臣下であった頼朝・義時は正直であったからその頂に宿り守護したと見ます。故に正直の法華経を信ずる者を釈尊は守って下さるので、その垂迹である八幡大菩薩が法華経の信者を守らない筈がないと述べます。綺麗に澄んでいる水でも濁れば月が映らなくなり、糞水でも澄めば月は影を映すと述べます。水が濁るのは戒を持つと言ってるが実には破戒者で法華経に背いていることであり、糞水は戒律を持もたず三毒に塗れた愚人でも一心に法華経を信じていることを譬えます。

涅槃経には法華経によって成仏したものに蜣蜋の虫、まむし、さそりと糞虫を挙げていること。竜樹は法華経の不思議の力として糞虫を仏にすることを挙げます。また、涅槃経には法華経にても仏になれない者を一闡提の者とし、阿羅漢や大菩薩に見せかけている者と説くことを挙げます。これは濁った水は清くても月を映さないのと同じとします。つまり、法華謗法に汚れた者は仏になれないが、三毒に汚れた凡夫でも法華経を信じる者は仏に成ると述べたのです。八幡大菩薩は不正直を見て「神天上」したが、法華経の行者を見たならば身命を惜しまずに守護の力を示すので、これを疑わずに信心に励むように述べます。

「されば八幡大菩薩は不正直をにくみて天にのぼり給とも、法華経の行者を見ては争か其影をばをしみ給べき。我一門は深く此心を信ぜさせ給べし。八幡大菩薩は此にわたらせ給也。疑給事なかれ」(一八二五頁)