321.『智妙房御返事』~ 『法衣書』        髙橋俊隆

□『智妙房御返事』(三九三)

 一二月一八日付けにて智妙房から一貫文の布施が届き、法華経の御宝前に進上した返礼の書簡です。智妙房は八幡宮が焼失した報告をしていることから鎌倉在住の弟子、或いは本書の真蹟七紙が法華経寺に完存していることから、下総近辺に住む乗明に近い僧と推測されます。(鈴木一成著『日蓮聖人遺文の文献学的研究』一九頁)。『祐師目録』に乗明が本書の真蹟(『八幡大菩薩事』)を所持したとあります。(岡元錬城著『日蓮聖人の御手紙』第二巻一六七頁)。また、『常師目録』に智妙房が聖人より賜った『法華経二十八品科文』等(『定遺』二七三二頁)が収録されていることから、常忍と有縁の僧とも言います。(山上弘道稿「日蓮大聖人の思想(六)」『興風』第一六号二四五頁)。まず、八幡大宮の焼亡にふれます。

「なによりも故右大将家の御廟と故権の太夫殿の御墓とのやけて候由承てなげき候へば、又八幡大菩薩並若宮のやけさせ給事、いかんが人のなげき候らむ」(一八二六頁)

頼朝の廟所と義時の墓所が焼け八幡宮(若宮)とご神体が消失し、嘆き悲しむ鎌倉の人々を心配しています。八幡大菩薩観を弥陀の化身とした誤りを述べます。「神天上」は『四条金吾許御文』(一八二一頁)と同じ内容です。釈尊を棄捨し弥陀を崇めて謗法となったこと。これを正そうとする聖人を二八年の間、迫害したため今回の炎上が起きたと述べます。

この中には熱原法難にて斬首された信者にもふれています。そして、『立正安国論』に予言した他国侵逼が現実となり、日本国が滅亡すると述べます。謗法の者達の堕獄は不憫であるから、罪が軽くなるよう邪宗を誡めるように述べます。

 

日蓮此二十八年が間、今此三界の文を引て此迷をしめせば、信ずばさてこそ有べきに、い(射)つ、き(切)つ、ころしつ、ながしつ、をう(逐)ゆへに、八幡大菩薩宅をやいてこそ天へはのぼり給ぬらめ。日蓮がかんがへて候し立正安国論此なり。あわれ他国よりせめ来てたかのきじをとるやうに、ねこのねずみをかむやうにせられん時、あま(尼)や女房どものあわて候はんずらむ。日蓮が一るいを二十八年が間せめ候しむくいに、或はいころ(射殺)し、切ころし、或はいけどり、或は他方へわたされ、宗盛がなわつきてさらされしやうに、すせんまんの人々のなわつきて、せめられんふびんさよ。しかれども日本国の一切衆生は皆五逆罪の者なれば、かくせめられんをば天も悦、仏もゆるし給はじ。あわれあわれはぢ(恥)みぬさきに、阿闍世王の提婆をいましめしやうに、真言師・念仏者・禅宗の者どもをいましめて、すこしつみをゆるせさせ給かし。」
(一八二七頁)

□『上野殿御返事』(三九四)

 一二月二七日付けにて時光から年末にあたり一貫文を布施された礼状です。『興師本』が大石寺に伝えられています。時光は困窮していながらも布施をしたので、金色王、須達長者の故事を引いて功徳を称えます。仏になるのは自分の命より法華経の命を継ぐことにあると教えます。また、熱原法難にて罪人とされた家族の人達を匿い保護されたことを尊いことと褒めます。始めに時光に信仰心があるから、成仏についての法門を教えるのであって、聖人を欲の深い僧と思わないようにと念をおし、仏に簡単になれる方法を述べます。

 

「御心ざしの候へば申候ぞ。よく(慾)ふかき御房とおぼしめす事なかれ。仏にやすやすとなる事の候ぞ。をしへまいらせ候はん。人のものををしふると申は、車のおも(重)けれども油をぬればまわり、ふね(船)を水にうかべてゆきやすきやうにをしへ候なり。仏になりやすき事は別のやう候はず。旱魃にかわ(渇)けるものに水をあたへ、寒氷にこごへ(凍)たるものに火をあたふるがごとし。又、二なき物を人にあたへ、命のたゆるに人のせ(施)にあふがごとし」(一八二八頁)

成仏の例として金色王と須達長者が万民の為に布施供養した故事を引きます。金色王の故事は乗明の妻に宛てて述べていました。(『大田殿女房御返事』一五八七頁)須達長者は祇園精舎を建立した舎衛城の富豪のことです。釈尊は二〇年の間この精舎にて説法をします。須達は善施と訳します。貧しい孤独な人に衣食を与えたことから給孤独長者とも呼ばれました。この故事は夫婦二人の糧が五日分となった時、乞食に来た迦葉・舎利弗・阿難・羅睺羅、そして釈尊の五人に五升の米を供養します。これにより須達はインド第一の長者となり祇園精舎を建立したと言う積善を説きます。

この捨身布施の事例をもって万事を心得るように述べます。熱原法難において神官などを匿ったことを、他人は承平年間の将門や天喜年間の安倍貞任のように、主君に叛く者と見るかも知れないが、法華経は不惜身命の行者と認め、主君に叛く人とは善神も見ないと述べます。そして、

「其上わづかの小郷にをほくの公事せめにあてられて、わが身はのるべき馬なし、妻子はひきかくべき衣なし。かゝる身なれども、法華経の行者の山中の雪にせめられ、食ともしかるらんとおもひやらせ給て、ぜに一貫をく(送)らせ給へるは、貧女がめおとこ二人して一の衣をきたりしを乞食にあたへ、りだ(利吒)が合子の中なりしひえ(稗)を、辟支仏にあたへたりしがごとし。たうとしたうとし。くはしくは又々申べし」(一八三〇頁) 

貧しい女が夫婦二人で一つしかない衣で暮らしていたのを乞食に与えた貧女のこと。また、利吒は自分の命を継ぐわずかに器の中にあった稗を辟支仏に与えた故事を挙げます。利吒は阿那律の過去世の兄です。『雑宝蔵経』巻四によりますと長者に利吒・阿利吒の二人の兄弟がいました。父からは二人で協力するように言われましたが、別々に暮らすことになります。最初は兄が富裕で弟が貧しく暮らしていましたが後に逆になります。兄は出家して辟支仏になります。やがて弟も貧困になり薪を売りながら生活をするようになります。そうしたおり城中にいた辟支仏の鉢が空であるのを知り、兄とは知らずに一食を供養したことが説かれています。つまり、貧しい夫婦のように、また、命を繋ぐわずかな稗を辟支仏に供養した阿利吒のように、時光の一貫文は尊い供養であると述べたのです。苦しい生活状況の中でも聖人を供養する善行を褒めたのです。

 

『諫暁八幡抄』(三九五)

一二月付け著作となり、真蹟は全四七紙或いは五〇紙と言われ、現存しているの第一六紙から四七紙が大石寺に所蔵されています。『日乾目録』には身延に第一紙から第二五紙まで曾存され表裏に記載されていたとあります。両者に文章の違いや訂正・補筆があることから、本書の下書きの草案と言います。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇二〇二頁)。日乾書写本と大石寺本の違いについて、前者は大石寺本に先立つ草稿や手控えと言います。(寺尾英智稿「日蓮遺文『諫暁八幡抄』の曽存真蹟」『日蓮とその教団』所収六一頁)

末尾に「各々我弟子等」とあることから、門下全体に宛てたことが分かります。別称に頼基や妻の日眼女の名が見られます。また、時光に宛てたとする見解もあり、南條家と縁がある日道から大石寺に所蔵されたとも言います。(山上弘道稿「日蓮大聖人の思想(六)」『興風』第一六号二四九頁)

本書の特徴は『四条金吾許御文』や『智妙房御返事』が、八幡大菩薩を「神天上」と述べることに対し、徹底して法華経の行者を守護しなかった咎を追求します。そのため八幡宮が炎上したのは善神の責め述べます。始めに「天神」の威光について、成刧の時は果報が勝れている衆生が生まれるので威光は強いが、住刧になると下劣な衆生が増え天神の威光も弱くなることを若馬と老馬に例えます。このような時に釈尊が生まれ仏教を説いて天神の威光を成刧のように増長したと述べます。在世の衆生も威光を増したが、末法になると天神も衆生も衰えるので、五味の教えを与えても老人には粗末な食事となり、身分の高い人に麦飯をあげたように滋養にならないと譬えます。この仏教の勝劣を弁えない学者は、古来の慣習により善神に経を読み護持僧に奉仕させるが、老人に粗食を与え子供の口に固い飯を与えるのと同じと述べます。

また、インドから中国へ仏教を伝えた翻訳者一八七人のうち、羅什以外の者は私言を混入しているので、純粋な乳に水を加え薬に毒を入れた者であると述べます。魔王に欺かれたものを信じ終には罪になると述べます。

「此理を不弁一切の人師末学等、設一切経を読誦し、十二分経を胸に浮べたる様なりとも、生死を離事かたし。又一分のしるしある様なりとも、天地の知る程の祈とは不可成。魔王魔民等、守護を加て法に験の有様なりとも、終には其身も檀那も不可安穏。譬ば旧医の薬に毒を雑へてさしをけるを、旧医の弟子等、或は盗取り、或は自然に取て、人の病を治せんが如し。いかでか安穏なるべき」(一八三三頁)

その根本の原因は弘法・慈覚・智証にあるとします。法華経が最第一の醍醐であるのを大日経を第一として私見の水を加えたのです。これは『涅槃経』の「一切倶失」の大罪になるとします。醍醐でも水でもない得体の知れないものにしたのです。如来性品の「如牧牛女為欲売乳貪多利故加二分水。乃至此乳多水」等の文を引き、弘法等は「悪比丘是魔伴侶」であると述べます。つまり、仏教は曲解され利益がないことを述べたのです。

これより本題に入ります。八幡大菩薩は氏子を護り法華経の行者に迫害を加える者を退治しなかったので、梵天帝釈天により治罰されたと言う見解を述べます。

「今日本国を案ずるに代始て已に久く成ぬ。旧き守護の善神は定て福も尽き寿も減じ、威光勢力も衰ぬらん。仏法の味をなめてこそ威光勢力も増長すべきに仏法の味は皆たがひ(違)ぬ、齢はたけぬ、争か国の災を払、氏子をも守護すべき。其上、謗法の国にて候を、氏神なればとて大科をいましめずして守護し候へば、仏前の起請を毀神也。しかれども氏子なれば、愛子の失のやうにすてずして守護し給ぬる程に、法華経の行者をあだむ国主国人等を対治を加ずして、守護する失に依て、梵釈等のためには八幡等は罰せられ給ぬるか。此事は一大事也可秘可秘」(一八三四頁)

 八幡大菩薩は釈尊との約束を護らなかったために、梵天・帝釈・四天王から治罰された。その証拠は宮殿を焼かれたことです。八幡大菩薩は氏子の過ちを見逃し還って守ったこと。つまり、謗法の者を見過ごし法華経の行者を守護しないことを「大科」と捉えます。氏神が治罰しなければ梵釈四天が守護神を治罰するのです。そのため一大事の出来事と述べたのです。

 そこで、八幡大菩薩は法華経の守護神であることを考察します。八幡が日本の王となり神となったのは、小乗では三賢の位の聖人、大乗では十信の位の菩薩であり、法華経では名字即・五品の観行即の位の菩薩となります。故に氏神は法華経を聞いて信心を起こさず行者を守護しなければ、、自ら菩薩の位を退いた者となり、永久に無間地獄に堕ちると述べます。そして、伝教が宇佐八幡の神宮寺で法華経を講義した時に、八幡大菩薩が随喜し紫の袈裟と衣を布施した『扶桑略記』の故事にふれます。禰宜は「不見不聞」の奇事と称賛します。これは法華経を聴聞した氏神は威光を増すことを示します。伝教以前に法華経を読む者はいたけれど、法華経の実義を説く者がいなかったことを示します。その証拠として延暦二〇年一一月に、南都七大寺の六宗の碩徳十余人を比叡山に招き法華経を講じます。和気広世と真綱の二人は聴講して、法華一乗の教えが権教に遮られ広まらずにいたこと、三諦円融の理が表れなかったこと、歴劫修行に捕らわれていたと嘆きます。その後、延暦二一年正月一九日に桓武天皇が高雄寺に行幸され、六宗の碩徳と宗旨の勝劣を論じます。南都の一四人は返答できず詫び状を献上しました。つまり、八幡大菩薩の前にて法華経の実義を説く者がいなかったのです。聖人はこの紫衣と袈裟は釈尊が法華経を説く者の為に八幡大菩薩を使いとしたとして、法師品の文を引きます

「此をもつて思に、伝教大師已前には法華経の御心いまだ顕ざりけるか。八幡大菩薩の不見不聞と御託宣有けるは指也、指也。白也、白也。法華経第四云我滅度後能窃為一人説法華経。当知是人則如来使。乃至如来則為以衣覆之等云云。当来の弥勒仏は法華経を説給べきゆへに、釈迦仏大迦葉尊者を御使として衣を送給。又伝教大師仏御使として法華経を説給べきゆへに八幡大菩薩を使として衣を送給か」(一八三七頁)

八幡大菩薩が法衣を布施したことは重要な意義を持っていたのです。「以衣覆之」の法師品を引かれた理由は、法華経を未来に説くであろう伝教に、釈尊の使いとして八幡大菩薩が法衣を布施されたのです。

 ところが、時代が下り末法になると八幡大菩薩の威光も滅尽します。しかも謗法の者が充満するようになります。それにも拘らず人々から崇められてきたため罪があっても治罰できなかったと述べます。年老いた親が不孝の子であっても可愛くて捨てることができないことに例えます。そのため四天の責めを受け宝殿を焼くことになったと述べます。法華経の行者を守護しなかったことが原因となります。

袈裟を着用できるのは「法華最第一」と説く人に限られるのであるから、第一の座主義真は着る資格はあったが、第二の円澄以後は謗法のため資格はないとします。そして、今の八幡宮の別当は園城寺の長吏や東寺の末流であるから釈尊や伝教の怨敵とします。そして、叡山の座主は袈裟を着用しながら寺領を真言のものとしたことに、それらの者を放置している八幡大菩薩は第一の大罪であると叱責します。

 

「当世叡山の座主は伝教大師の八幡大菩薩より給て候し御袈裟をかけて、法華経の所領を奪取て真言の領となせり。譬へば阿闍世王の提婆達多を師とせしがごとし。而を大菩薩の此袈裟をはぎかへし給ざる一の大科也。此大菩薩は法華経の御座にして行者を守護すべき由の起請をかきながら、数年が間、法華経の大怨敵を治罰せざる事不思議なる上、たまたま法華経の行者の出現せるを来て守護こそなさざらめ。我前にして国主等の怨する事、犬の猿をかみ、蛇の蝦をのみ、鷹の雉を、師子王の兎を殺がごとくするを、一度もいましめず。設いましむるやうなれども、いつわりをろかなるゆへに、梵釈・日月・四天等のせめを、八幡大菩薩かほり給ぬるにや]
(1838頁)

 つまり、法華経の大怨敵である真言師を治罰せず、法華経の行者を守護しなかったために罰を蒙ったと述べます。また、国主等が聖人を犬が猿を噛み師子が兎を殺すように迫害しているのを見ながら、一度も本気で懲らしめなかったからです。釈尊に偽り思慮の浅いところに責めを受けたのです。釈尊に敵対する者を守護して責めを受けた先例として、欽明・敏達・用明天皇が物部大連・守屋等の勧めにより、御堂に火を放ち金銅の釈尊像を焼き僧尼を責め殺した事件を挙げます。この時に天から火が降って内裏を焼き、罪もない万民は悪性の腫れ物により大半が死にます。そして、三代の天皇や二人の大臣等は、悪瘡や合戦により滅びたことを挙げます。

また、園城寺は智証(円珍)が真言を伝えてから寺主を長吏と称しているが叡山の末寺と述べます。園城寺は白鳳時代の三九代弘文天皇の皇子・大友与多王が建立したのが始まりで叡山より古い創建です。『天台座主記』によりますと、貞観八(八六六)年に太政官から円珍に伝法の公験(くげん)が与えられ、五月一四日に延暦寺の別院とされました。同一〇年六月に円珍が延暦寺座主になると、園城寺を仏法灌頂道場とし地名の御井を改めて三井とし、寺主を真言宗東寺にならって長吏と号したのです。長吏とは本来は別当座主と同格のものですが、園城寺では座主より上位に置かれていました。聖人は延暦寺の末寺である園城寺が、叡山の大乗戒壇を奪い取って建立したことを、小臣が大王に敵対し子が親に逆らうようなものである批判します。このような悪逆の寺を新羅大明神が掟に背いて守護するから、度々、山門の攻撃に遭い宝殿を焼かれると述べます。

新羅大明神は智証が唐から帰朝のとき船中に現れた老翁が自分は新羅国の明神と名乗り、日本に垂迹して仏法を護持すると言います。貞観二(八六〇)年に神殿を造り明神の像を安置し守護神とします。智証の没後に叡山は慈覚(円仁)と智証の二門流に分かれ対立します。正暦(八九三)年に円仁派が叡山にあった円珍派の房舎を破壊し、これにより円珍派は三井寺に移ります。この山門・寺門の抗争は、永保(一〇八一)年の三井寺の焼き討ちを始め、中世末期迄に大規模なものだけで一〇回、小さなものを含めると五〇回を数えます。

「今八幡大菩薩は法華経の大怨敵を守護して天火に焼給ぬるか。例せば秦始皇の先祖襄王と申せし王、神となりて始皇等を守護し給し程に、秦の始皇大慢をなして三皇五帝の墳典をやき、三聖の孝経等を失しかば、沛公と申人剣をもて大蛇を切死ぬ。秦皇の氏神是也。其後秦の代ほどなくほろび候ぬ。此も又かくのごとし。安芸の国いつく島の大明神は平家の氏神なり。平家ををごらせし失に、伊勢大神宮八幡等に神うちに打失れて、其後平家ほどなくほろび候ぬ。此又かくのごとし」(一八三九頁)

秦の始皇帝の先祖の襄王は蛇神となって始皇帝を守護したが、皇帝は慢心を起こして中国の聖人の三皇五帝の典籍や、三聖の孝経を灰としたので、漢の高祖沛公(劉邦)が氏神である大蛇を切り殺します。それから間もなく秦は滅びます。日本も同じと述べます。また、安芸の国の厳島大明神は平家の氏神であるが、平家を驕らせた罪により、伊勢や八幡大菩薩の神罰を受けて滅びたとします。八幡宮の焼失も同じ理由であることを示します。

 ここで、法師品の「仏滅度後能解其義是諸天人世間之眼」を引きます。法華経の肝心である題目を弘通することは、「諸天世間の眼」ではないかと述べます。普賢経に説かれたように法華経は人天・諸仏の眼であるから、法華経を広める行者を迫害をすることは、「人天の眼」を抉(くじ・えぐ)る者となります。行者の眼を抉る者を処罰しない守護神は、謗法の者を保護する悪神になります。弘法等は釈尊を迷いの仏、駕籠を担ぐ人にもなれず草履取りにも足らないと貶してから四百年を経過します。この間、人々の眼を抉る真言師を放置してきたのは、八幡大菩薩の責任であると糾弾します。そして、聖人自身の二度の流罪と八幡大菩薩の守護について裁断を試みます。

「日本国の上一人より下万民にいたるまで法華経をあなづらせ、一切衆生の眼をくじる者を守護し給は、あに八幡大菩薩の結構にあらずや。去弘長と又去文永八年九月の十二日に日蓮一分の失なくして、南無妙法蓮華経と申大科に、国主のはからいとして八幡大菩薩の御前にひきはらせて、一国の謗法の者どもにわらわせ給しは、あに八幡大菩薩の大科にあらずや。其のいましめとをぼしきは、ただどしうちばかりなり。日本国の賢王たりし上、第一第二の御神なれば八幡勝たる神はよもをはせじ。又偏頗はよも有じとはをもへども、一切経並に法華経のをきてのごときんば、この神は大科神也」(一八四〇頁)

 竜口法難の折りに八幡大菩薩に諫言しました。それにも拘わらず謗法の者への治罰がなされず、行者の守護もなかったことから「大科神」と述べます。法華経の行者の立場から八幡宮炎上の原因を究明しているのです。

 日本全国の一万一千三十七の寺にある仏の開眼を、真言密教で行なっていることにふれます。仏像や画像の開眼は「是諸仏眼」(普賢経)である法華経に限ることを、妙楽の『文句記』に「然此経以常住仏性為咽喉。以一乗妙行為眼目。以再生敗種為心腑。以顕本遠寿為其命」との文を証拠とします。しかし、仏像を開眼する時に大日仏眼の印を結び真言を唱えて五智を備えると言うが、これは逆に「仏を殺し眼を抉り命を断ち喉を裂く」ことと否定します。提婆達多が釈尊の御身から血を出し、阿闍世が提婆達多を師匠として悪瘡を病んで現罰を受けたのに異ならない罪とします。摩竭陀国のの王である阿闍世でさえ、釈尊に敵対して大罪を受けたのであるから、まして小国の八幡大菩薩が行者を苦しめる者を処罰しないことは大きな罪であると責めたてます。

 文永一一年の蒙古襲来に日本の兵士が殺され、筑紫の宇佐八幡宮が焼かれたのに、なぜ八幡大菩薩は蒙古軍を罰しなかったのかと問います。蒙古の神の方が八幡大菩薩よりも勝れている明かしと述べます。襄王の蛇神は中国第一の氏神であったが、漢の沛公の利剣に切り殺されたことからも分かると述べます。弓削の道鏡が皇位を狙った時、和気清麻呂は八幡神から仏力の加護による皇位の継承との託宣を受けます。法華経を力として王法を守護したことを知ることです。しかし、承久乱の時に朝廷は真言により義時を調伏したので負けたのは、「還著於本人」と説かれている通りと述べます。

また、全国の寺社の神々は国家安穏のために祀られているのに、別当や神主は神の心に相違していると述べます。仏と神々とは体は異なっていても心は同じで法華経の守護神であると述べます。それなのに別当や神主は真言師や念仏者や禅僧や律僧であるから、本来は八幡大菩薩の敵である謗法の者を守護して、肝心な行者を流罪や死罪にしたため善神の責めを被ったと述べます。

さて、聖人が強く八幡治罰を主張することを批判する者がいました。次のように得通します。

「我弟子等の内、謗法の余慶有者の思ていわく、此御房は八幡をかたきとすと云云。これいまだ道理有て法の成就せぬには、本尊をせむるという事を存知せざる者の思也」(一八四二頁)

八幡大菩薩を敵とするから守護がないと批判したのです。これは、祈願をする者に祈願が成就すべき正しい道理があるのに、その祈願が成就しない場合には、祈願の対象である本尊を責める事を知らない証拠と述べます。即ち、本尊である八幡大菩薩を諌暁する必然の理由を述べているのです。

そこで、善神を諌暁した先例として、尼倶律陀とその子迦葉出生の因縁を、『付法蔵経』因縁伝を引いて示します。摩竭国にいた尼倶律陀長者は自邸に祀ってあった樹神に子供を授かることを祈ります。しかし、幾年を経ても反応がありません。大いに怒り七日の祈請を至心に行うが、効験がなければ祠を焼き払うと言います。これを聞いた樹神は心を痛め四天王に告げます。四天王は帝釈に言上し帝釈は大梵天王に告げます。大梵天王は臨終を迎えようとしていた梵天に、尼倶律陀の家に生まれ変わるように告げます。これにより尼倶律陀の妻が懐妊し一人の男子が生まれます。それが摩訶迦葉です。

聖人は尼倶律陀が怒ったことを解釈します。普通なら氏神を怒ると現世には身を亡ぼし、後生には悪道に堕ちます。しかし、尼倶律陀は樹神を怒り悪し様に罵ったことにより祈願を成就しました。大迦葉のような賢子を授かったのです。この故事により「瞋恚は善悪に通ずる」と解釈されます。聖人が八幡大菩薩を諌暁するのは善の場合でした。祈願をする者が正しい時には諫暁をして決断を迫ることが許されるのです。

「今日蓮は去建長五年[癸丑]四月二十八日より、今弘安三年[太歳庚辰]十二月にいたるまで二十八年が間、又他事なし。只妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入とはげむ計也。此即母の赤子の口に乳を入とはげむ慈悲也。此又時の当ざるにあらず。已に仏記の五々百歳に当れり。天台伝教の御時は時いまだ来ざりしかども、一分の機ある故、少分流布せり。何況今は已に時いたりぬ。設機なくして水火をなすともいかでか弘通せざらむ。只不軽のごとく大難には値とも、流布せん事疑なかるべきに、真言・禅・念仏者等の讒奏に依て無智の国主等留難をなす。此を対治すべき氏神八幡大菩薩、彼等の大科を治せざるゆへに、日蓮の氏神を諌暁するは道理に背べしや。尼倶律陀長者が樹神をいさむるに異ならず。蘇悉地経云治罰本尊如治鬼魅等云云。文の心は経文のごとく所願を成ぜんがために、数年が間法を修行するに成就せざれば、本尊を或はしばり、或は打なんどせよととかれて候」(一八四四頁)

聖人は二八年の間、人々の苦しみを救うために題目を説いた行為は、母親が赤子の口に乳を含ませようとする慈悲と同じであると述べます。末法という時は反されても法華経を弘通しなければならないのです。不軽軽毀の人々と同じように、真言、禅、念仏者等の讒奏によって無智の国主等がを迫害して来る。八幡大菩薩はこれらの無智謗法の者の大罪を治罰しないから、聖人が八幡大菩薩を諌暁するとして、尼倶律陀長者が樹神を諌めた道理と同じと述べます。『蘇悉地経』成就具支品に、本尊が祈りを成就せしめない時はその本尊を治罰せよ。本尊を治罰するには鬼魅を対治するようにせよと説かれています。叡山の東塔無動寺の相応和尚が不動明王を縛り祈ったことを挙げます。『元亨釈書』に相応和尚は皇后明子が狂病に罹った時、二日間、祈禱しても効験がなかったので、叡山の不動明王の前で祈った故事があります。貞観三(八六一)年に鬼魅を下すため二人の童子を呪縛したとあります。ただし、聖人が八幡大菩薩を諌暁する意義は、尼倶律陀長者や相応和尚とは違うと述べます。

「日本国の一切の善人が或は戒を持、或は布施を行、或は父母等の孝養のために寺搭を建立し、或は成仏得道の為に妻子をやしなうべき財を止て諸僧に供養をなし候に、諸僧謗法者たるゆへに、謀反の者知ずしてやどしたるがごとく、不孝の者に契なせるがごとく、今生には災難を招き、後生も悪道に堕候べきを扶とする身也。而を日本国の守護善神等、彼等にくみして正法の敵となるゆへに、此をせむるは経文のごとし。道理に任たり」

(一八四四頁)

人々は成仏を願い善意に布施をしているが、それを受け取る僧侶が謗法者なのです。謀叛人と知らずに宿を貸し、親不孝の者と知らずに結婚して、現世では災難に遭い後生には悪道に堕ちて苦しむことになる。それを助けようとしているのに、善神は謗法の僧に味方して法華経の敵となっている。ここに八幡大菩薩を諌暁する理由があり、経文の道理に契っているとします。「八幡を敵とす」(一八四二頁)と批判した者への答えでした。

 しかし、弟子の中にこの会通や折伏の弘通を理解できない者がいました。

「我弟子等がをもわく、我が師は法華経を弘通し給とてひろまらざる上、大難の来は、真言は国をほろぼす・念仏は無間地獄・禅は天魔の所為・律僧は国賊との給ゆへなり。例せば道理有問注に悪口のまじわれるがごとしと[云云]。日蓮我弟子反詰云汝爾者我が問を答よ」(一八四五頁)

 四箇格言を説いて強く折伏することは、裁判において道理ある申し立てをしながら悪口を混えるようなものと

批判した者がいたのです。法華経が広まらず迫害に遭うのは折伏の態度にあるとの抗議です。聖人は現実の問題として、そのような柔和な方法では邪教を捨てて法華経に帰信することはないと述べます。反論して問います。真言師は釈尊を迷いの分斉として、役にも立たない法華経を読むよりも真言の短い呪文を一回でも誦した方がましであると言うであろう。念仏者は法華経によって成仏する者は千人の中に一人もないと言い、法然は念仏以外の仏や経を捨てよ閉じよ閣けよ抛げうてと言い、道綽は念仏以外の教えで得道した者は一人もいないと定め、題目は念仏の妨げ悪業を造っても題目は唱えないと言うであろう。禅宗の者は経の他に別に心から心へ伝えた教外別伝の法門であり、禅は天の月、経はその月を指す指である。天台などの愚かな人師は方便としての指を大切に思って肝心の月を忘れている。法華経は指で禅は月である。月を見た後は指は何の用もないと言うであろう。他宗からこのように反論されたら、どのように題目を唱えさせるか、、南無妙法蓮華経の良薬をいかに服さすべきかと弘教の難しさを問います。

そこで、釈尊も法華経へ導くために二乗の善根は仏種とはならないと説いて、小乗や権教を破折したことを述べます。爾前経を「未顕真実」として法華経の実大乗経を説きました。真言宗の善無畏や弘法等により人々は謗法となり、罪のない人々が無間地獄に堕ちると述べます。その例として大荘厳仏の末の時代に、苦岸・薩和多・将去・跋難陀の四比丘は大荘厳仏の教えを護っていた普事比丘を迫害します。このため、六百万億那由佗の人々を無間地獄に堕とす結果となったこと。師子音王仏の末の勝意比丘が喜根菩薩や四衆を悪口し迷わせた罪により、勝意比丘と教化を受けた四衆も地獄に堕ちたと述べます。今も三大師の教化に従って日本国の人々が、この四百年の間に無間地獄に堕ち、他の世界から生まれ変わった人々も無間地獄に堕ちたと述べます。このように繰り返し堕獄した者は大地微塵の数よりも多い。これらはみな三大師の罪であるとします。

「此皆三大師の科ぞかし。此を日蓮此にて見ながらいつわりをろかにして申ずば倶堕地獄の者となて、一分の科なき身が十方の大阿鼻地獄を経めぐるべし。いかでか身命をすてざるべき。涅槃経云一切衆生受異苦悉是如来一人苦等云云。日蓮云一切衆生同一苦悉是日蓮一人苦と申べし」(一八四七頁)

 人々が堕獄し謗法罪に苦しむことは許されないことでした。これを阻止し法華経に帰信させることが急務です。黙視することは謗法の罪として、自身も「同一苦」の堕獄となることが分かっています。その方法を折伏下種としなければなりません。不惜身命に弘教せずにはいられない慈悲の発動をみることができます。法華経を色読する内面に滅罪の意識がありました。この滅罪観は伊豆流罪に見られます。「一切衆生同一の苦」と述べているように、他者が謗法罪により堕獄することを自身の苦として受けとめていたことが窺えます。

 次に第四二紙に入ります。ここ迄は破邪的な八幡大菩薩の諫暁であったのが顕正的な諌暁に変わります。平城天皇の御宇の八幡大菩薩の百王守護の託宣にふれ、八幡大菩薩が誓願とした百王守護の誓いである「正直」について検討します。正直には二つあるとして、第一には世間の正直者として頼朝・義時は、隠岐法王よりも正直であったので勝利したこと。第二には出生の正直として、爾前経は妄語、法華経は正直の経であると述べます。そして、本地はこの不妄語の経を説かれた釈迦仏で、垂迹は不妄語の八幡大菩薩であると述べます。本書の前半においては八幡治罰を検証しましたが、ここにおいては八幡大菩薩は釈尊の垂迹であることを『四条金吾許御書』(一八二一頁)と同じように、大隅の正八幡宮の石の文を引いて述べます。また、仏や菩薩が衆生を救うために垂迹した姿は限りがないことを述べます。

「本地釈迦如来にして月氏国に出でては正直捨方便の法華経を説給、垂迹日本国生ては正直の頂にすみ給。諸の権化の人々本地は法華経一実相なれども垂迹の門無量なり。所謂髪倶羅尊者は三世に不殺生戒を示、鴦掘摩羅生々に殺生を示す、舎利弗外道となり、如是門々不同なる事は、本凡夫にて有し時の初発得道の始を成仏の後化他門に出給時、我が得道の門を示すなり。妙楽大師云若従本説亦如是。昔於殺等悪中能出離。故是故迹中亦以殺為利他法門等云云」(一八四九頁)

垂迹した権化の姿は違っても本地は一体であり、その垂迹のあり方には限りはありません。跋倶羅(はくら)尊者は三世に亘って不殺生戒の手本を示します。鴦崛摩羅(おうくつまら)は生まれ変わり死にかわり殺生の悪業を行います。舎利弗は外道の家に生まれました。これは始めて発心した時の姿を化他の時に示す初発得道)と述べます。妙楽の「もし本地に従って説くならば、始め殺生などの悪を犯してその因縁によって悟りを得たのであるから、垂迹の時も殺生を方便として衆生を導く」(取意)の文を引き補足します。

 ここで、八幡大菩薩は宮殿を焼いて「神天上」したが、インドにて不妄語の法華経を説いた釈尊であり、日本では正直の者の頂に宿ると誓った道理からすれば必ず法華経の行者を守護すると述べます。 

「今八幡大菩薩は本地月氏の不妄語の法華経を、迹に日本国にして正直の二字となして賢人の頂にやどらむと[云云]。若爾者此大菩薩は宝殿をやきて天にのぼり給とも、法華経の行者日本国に有ならば其所に栖給べし。法華経第五云 諸天昼夜 常為法故 而衛護之 文。経文の如ば南無妙法蓮華経と申人をば大梵天・帝釈・日月・四天等昼夜に守護すべしと見えたり。又第六巻云 或説己身 或説他身 或示己身 或示他身 或示己事 或示他事文。観音尚三十三身を現じ、妙音又三十四身を現じ給ふ。教主釈尊何ぞ八幡大菩薩と現じ給はざらんや。天台云 即是垂形十界作種々像等」(一八四九頁)

八幡大菩薩は行者を守護しなかった罪により治罰されて当然であると言う視点から、八幡大菩薩は釈尊の垂迹であるから、今は身延の聖人のもと、日本国を守護していると許容します。。証文として安楽行品の「諸天は昼夜に常に法の為の故に而も之を衛護す」の文を引き、大梵天・帝釈・日月・四天等の善神は守護すると確信します。また、寿量品の「或は己身を説き或は他身を説く。或は己身を示し或は他身を示す。或は己事を示し或は他事を示す」の、九界の身や仏身を現すす六或示現の文と、観音・妙音菩薩の三十三身・三十四身を現じて衆生を救うという文を引き、釈尊は十界の中の天界の八幡大菩薩として必ず示現すると述べます。

最後の第四七紙に入り日本の仏法は末法の闇を照らしインドに還ると述べます。釈尊在世には法華謗法の者がいないので治癒する必要が無かった。末法には謗法の強敵が充満する。この時こそ不軽菩薩の折伏逆化の利益が得られると述べます。末法は多怨難信の弘通なので仏使として精進するよう激励します。

「天竺国をば月氏国と申、仏の出現し給べき名也。扶桑国をば日本国と申、あに聖人出給ざらむ。月は西より東に向へり。月氏の仏法東へ流べき相也。日は東より出。日本の仏法月氏へかへるべき瑞相なり。月は光あきらかならず。在世は但八年なり。日は光明月に勝れり。五々百歳の長闇を照べき瑞相也。仏は法華経謗法の者を治給はず、在世には無きゆへに。末法には一乗の強敵充満すべし、不軽菩薩の利益此なり。各々我弟子等はげませ給へはげませ給へ」(一八五〇頁)

□『大夫志殿御返事』(三九六)『兵衛志殿女房御返事』(三五三)と同日の弘安三年一一月二五日とします。

 

□『王日殿御返事』(三九七)

 弘安三年一二月、文永九年七月、『対照録』は弘安元年とします。真蹟は断片三行が京都妙覚寺に所蔵されています。全文は『延山録外』に収録されます。王日は尼としての号で「弁殿の便宜に」とあることから、日昭に縁のある鎌倉在住の人とされます。また、妙一尼の付き人とも言います(『日蓮大聖人御書講義』第二六巻)

 日昭から以前に三〇〇文、この度も二〇〇文を布施されたことを述べ、金額は少ないが仏は真心を尊び物の多少ではないと述べます。、布施の功徳について得勝童子が砂の餅を供養して阿育大王となったこと、貧女が自髪に換えた灯火は強風にも消えなかった故事を挙げます。

「二三の鵞目は日本国を知る人の国を寄せ、七宝の塔を忉利天にくみあげたらんにもすぐるべし。法華経の一字は大地の如し万物を出生す。一字は大海の如し衆流を納む。一字は日月の如し四天下をてらす。此一字返じて月となる。月変じて仏となる。稲は変じて苗となる。苗は変じて草となる。草変じて米となる。米変じて人となる。人変じて仏となる。女人変じて妙の一字となる。妙の一字変じて台上の釈迦仏となるべし」(一八五三頁)

 少額の金銭の功徳は日本国を寄せて七宝の塔を忉利天に建立するよりも勝れると述べます。法華経の一字の力を、万物を生じる大地、四天下を照らす日月等に例え、女人も妙の一字となり金色の仏になると称えます。

 

□『法衣書』(三九八)

 真蹟四紙が法華経寺に所蔵され最後の第五紙が失われているため著作年時は不明です。山川智応氏は文永七年とし(岡元錬城著『日蓮聖人遺文研究』第二巻四八六頁)、中尾尭氏は建治元年九月二八日の『御衣並単衣御書』の運筆と花押からみて文永八年初夏と判断します。(『日蓮聖人のご真蹟』一六四頁)。富木尼と思われる女性から法衣と衣用の布を奉納され供養の功徳を述べた書簡です。縦三一,三㌢、横四四,八㌢です。 

食物を有情に施す者は長寿の果報を得て、人の食物を奪う者はは短命の悪報を受ける。衣服を施さない者は生まれ変わっても裸形の報いを受けると述べます。六道のうち人道以下は裸形で生まれ、天人だけは衣を着て生まれます。人間の中でも鮮白比丘尼は白浄比丘尼と言い、白浄の衣を着けて生まれ成長と共に衣も大きくなり出家すると袈裟になります。。釈尊は姨母の摩訶波舎波提比丘尼より衣を得て悟りを開き、比丘に衣服を整えて修行することを決めます。また、柔和忍辱の衣を着ることが大切なこと、法師品の「以衣覆之」の文を挙げ、釈尊は衣を覆って護られることを述べます。そして、聖人は無戒、邪見の者であるから衣食に乏しいと述べます。しかし、凡身に法華経を持つことの功徳を述べます。

「日蓮は無戒の比丘、邪見の者なり。故天これをにくませ給て食衣ともしき身にて候。しかりといえども法華経を口に誦し、ときどきこれをとく。譬へば大蛇の珠を含、いらん(伊蘭)よりせんだん(栴檀)を生ずるがごとし。いらんをすてゝせんだんまいらせ候。蛇形をかくして珠を授たてまつる」(一八五四頁)

畜身である大蛇が宝珠を咥え、悪臭の伊蘭の林に香木の栴檀が生えているような身であると述べ、この徳である栴檀を差し上げ宝珠を授けましょうと伝えます。天台は女人の成仏を認めたのは法華経だけと言う文を挙げ、具足千萬光相如来とは摩訶波舎波提比丘尼のことと例示して施主の成仏を述べます。法華経は釈尊の真実を説いた教え、多寶仏はそれを証明し諸仏は「舌相至梵天」して賛嘆したことを引き、日月が大地に落ちることがないように、衣布を供養された功徳も真実であると述べます。法華経の信仰に励むようにと勧めます。