322.『重須殿女房御返事』~『八幡宮造営事』       髙橋俊隆

◎六〇歳 弘安年 一二八一年

一月に三度目の下痢の症状がでて年末まで食欲不振が続きます。『八幡宮造営事』(一八六七頁)に、病気の症状と余命を一~二年と述べます。同月にフビライは日本遠征を発令します。二月に遠征軍の諸将に不和を戒め心を同じにして臨戦するよう命じます。

□『重須殿女房御返事』(三九九)

 一月五日に重須郷の石河新兵衛(能助)入道道念の女房から蒸し餅(十字)百枚、菓子(くだもの)一籠が、年頭の供物として届けられます。十字は蒸した餅の上に十文字の切り目を入れて食べやすくしたものです。重須殿は重須郷の地名により富士見市の北山に当たります。石河新兵衛の妻は時光の姉か妹です。弘安元年に一女を失っています。真蹟は七紙完存にて大石寺に所蔵され別名に『十字御書』と称します。

「正月の一日は日のはじめ、月の始め、としのはじめ、春の始。此をもてなす人は月の西より東をさしてみつがごとく、日の東より西へわたりてあきらかなるがごとく、とく(徳)もまさり人にもあいせられ候なり」
(
1855頁)

一年の始めである正月を大切に迎える人は、豊かな福徳を得て人からも慕われると述べます。それは月が一夜毎に新月・三日月から満月へと満ち、太陽が東から西へ照らし出すことに譬えます。そして、地獄と仏について、地獄は心にあり父母を蔑ろにすることが地獄、蓮の種子の中に花と実が宿っているのと同じと述べます。これを因果倶時・因果不二と言います。仏も石中の火、珠の中に宝石があるように私達の心にあると述べます。それは、睫毛が近くて見えず虚空は遠くて見ることができないように、凡夫にも仏心があると述べます。つまり、原因と結果が同時に具わっていることで、父母に孝養をすれば仏の心になり不孝をすれば心も地獄となります。

私達が生まれたのは三毒の根本にある淫欲と思えるが、これについて泥中の蓮華の解釈をします。 

「蓮はきよきもの、泥よりいでたり。せんだんはかうばしき物、大地よりをいたり。さくらはをもしろき物、木の中よりさきいづ。やうきひ(楊貴妃)は見めよきもの、下女のはらよりむまれたり。月は山よりいでゝ山をてらす。わざわいは口より出でゝ身をやぶる。さいわいは心よりいでゝ我をかざる。今正月の始に法華経をくやうしまいらせんとをぼしめす御心は、木より花のさき、池より蓮のつぼみ、雪山のせんだんのひらけ、月の始て出なるべし。今日本国の法華経をかたきとしてわざわいを千里の外よりまねきよせぬ。此をもつてをもうに、今又法華経を信人はさいわいを万里の外よりあつむべし。影は体より生もの。」(一八五六頁) 

清らかな蓮花は泥沼に咲きます。栴檀の良い香りも大地より生じます。桜の花も木に咲きます。美女の楊貴妃の母は下女でした。欲に塗れたた凡夫でも仏心を内在しているのです。それは、月が山の端から出て山を照らすように、自らの行動により幸不幸があり、地獄も仏も自分の心にあると諭します。

そして、この供養は木から花が咲いたように仏心の表れでとします。法華不信の者は災いを招きよせるが、信じる者は幸福を万里から集めると述べます。法華経を敵とする者が住む国には、体に影が添うように災いが来ると言うのは蒙古を指します。信者は栴檀の香りを増すように徳を増すとの述べます。

 

□『上野尼御前御返事』(四〇〇

 一月一三日付けにて上野尼より聖人(すみざけ。清酒)一筒、ひさげ提子。酒を温めた注ぐ容器)一〇個、蒸し餅百枚、あめ(水飴)一桶二升、柑子一籠、串柿一〇連等を供養された礼状です。五郎の菩提を弔うための供養です。真蹟の八紙は大石寺に所蔵されています。

 新春の慶賀の様子を伝えてきました。五郎が死去して約四ヶ月の正月でした。子供を亡くした母の悲しみを悼み悲しむ姿が窺えます。

「抑故五らうどのの御事こそをもいいでられて候へ。ちりし花もさかんとす、かれしくさ(枯草)もねぐみぬ。故五郎殿もいかでかかへらせ給ざるべき。あわれ無常の花とくさとのやうならば、人丸にはあらずとも、花のもともはなれじ。いはうるこま(駒)にあらずとも、草のもとをばよもさらじ」(一八五八頁)

子供は親の敵とする経文があるとして、母を食う母食鳥、父を食う破鑑と言う獣、安禄山や史思明と言う武将も子どもに殺されたこと。史実では安慶緒は安禄山の部下の史思明に殺されています。為義は義朝に殺されています。また、子供は親の財であるとする妙荘厳仏・生提女の経証を挙げます。そして、一六歳の若年にて死去した五郎の容姿や人格を追慕します。道にては杖とも頼むべき財であった子を想う母の心を察し、

「ゆきあう(行逢)べきところだにも申をきたらば、はねなくとも天へものぼりなん。ふねなくとももろこしへもわたりなん。大地のそこにありときかば、いかでか地をもほらざるべきとをぼしめすらむ。やすやすとあわせ給べき事候。釈迦仏を御使として、りやうぜん浄土へまいりあわせ給へ。若有聞法者無一不成仏と申て、大地はさゝばはづるとも、日月は地に堕給とも、しを(潮)はみちひぬ代はありとも、花はなつ(夏)にならずとも、南無妙法蓮華経と申女人の、をもう子にあわずという事はなしととかれて候ぞ。いそぎいそぎつとめさせ給へつとめさせ給へ」(一八五九頁)

と、亡き子との別れ難き母親の心情を切々と訴えます。悲しむ母に対し五郎と会うには、釈尊に順えば霊山浄土にて再会できると教えます。一心に南無妙法蓮華経と唱えるよう励まします。

 

○御本尊(一〇二)二月二日

 「優婆塞藤原日生」に授与されます。紙幅は縦九〇.九㌢、横四八.五㌢の三枚継ぎの御本尊です。池上本門寺に所蔵されています。

○御本尊(一〇三)二月

 「俗資光」に授与され、その横に「亦云寶□日口」と追記があります。紙幅は縦九一.二㌢、横四七施の三枚継ぎの御本尊です。熊本の本妙寺に所蔵されています。

□『桟敷女房御返事』(四〇一)は、聖人の病が悪化していると述べていることから、『対照録』と同じく弘安五年二月一七日とします。

三月に一遍は鎌倉入りを図ります。巨福呂坂に差し掛かった時に時宗の行列に出会い、鎌倉入りを制止されます。片瀬の浜で数ヶ月の間、踊り念仏と賦算を行い、鎌倉の人々に強烈な印象を与えました。

 

□『上野殿御返事』(四〇二)

 三月一八日付けにて時光から芋蹲鴟)一俵を送られた礼状です。『興師本』が大石寺に伝えられます。熱原法難において時光に匿われていた神主が無事に身延に移ります。その神主が所有していた「千入(ちしお)」色(深い紅色)の馬と、世話をする「口付」くちつき)一人も匿われます。馬と口付がこの時に身延に来たのか、それ以前に身延に着いていたのかは不明ですが、神主は既に身延に安住していたので、本来の持ち主の元に来ていることを知らせたと思われます。

「又かうぬし(神主)のもとに候御乳塩一疋、並口付一人候。さては故五郎殿の事はそのなげき(歎)ふり(古)ずとおもへども、御けさんははるかなるやうにこそおぼえ候へ。なおもなおも法華経をあだむ事はたえつとも見候はねば、これよりのちもいかなる事か候はんずらめども、いまゝでこらへさせ給へる事まことしからず候。仏の説ての給はく、火に入てやけぬ者はありとも、大水に入てぬれぬ者はありとも、大山は空へとぶとも、大海は天へあがるとも、末代悪世に入ば須臾の間も法華経は信がたき事にて候ぞ」(一八六一頁)

五郎が逝去してだ悲しみは去っていないが、時光と五郎と会ってからは久しく経ったと述べます。時光と五郎が身延に登詣したのは弘安三年六月一五日でした。亡くなったのは九月五日です。信者に対する迫害は絶えず今後もどのように弾圧される分からないと述べ、そのような不安の中で退転なく信仰を続けることは至難のこととして、宝塔品の六難九易(『開結』三三八頁)の文を会通します。徽宗皇帝が金の女真族(遺文には蒙古とある)に捕らわれ、隠岐法皇が義時に捕らわれて流罪されたが、これらが法華経のことならば即身成仏もあるが、法華経のために罪となるような信仰をする者はいないと述べ、命がけの色読を勧め尊いことと述べます。

 

○御本尊(一〇四)三月

 「俗日大」に授与され日興の添え書きに「富士上野顕妙新五郎」に与えたとあります。、左下に「懸本門寺 可為末代重宝也」と記しています。紙幅は不明で一紙の御本尊にて香川県高瀬町の法華寺に所蔵されています。

○御本尊(一〇五)四月五日

 「僧日春」に授与され紙幅は縦九二.一㌢、横四九.一㌢の三枚継ぎの御本尊です。沼津市岡宮の光長寺に所蔵されています。

○御本尊(『御本尊鑑』第三一)四月五日

 同じ四月五日付けにて「僧日伝」に授与されています。紙幅は縦九七.七㌢、横五一.八㌢の御本尊です。嘗て身延に所蔵されていました。

 

□『おけ・ひさご御消息』(四四二)

弘安四年卯月六日付けの礼状です。宮城県妙教寺に所蔵されています。署名連の字の辶の跳ねがないことから弘安三年の説があります。(岡元錬城著『日蓮聖人遺文研究』第三巻七五六頁)桶を三個、瓢を二個、折敷を四〇枚を奉納されました。瓢は水をすくう道具で柄杓のことです。折敷は杉や檜で作られたお盆のことです。なを、花押の形から真偽未決となっています。(小林正博稿「日蓮文書の研究(3)」)

 

□『三大秘法禀承』(四〇三)

 四月八日付けにて下総の乗明に宛てた書間と言われます。弘安五年の年時を記す『大石寺日時本』があります。真蹟はなく『親師本』が京都本法寺に伝えられています。また、慶林日隆が応永一五~六年(一四〇八~〇九)頃に書写したものが尼崎本興寺に所蔵されています。古来より宛先を乗明とすること、国立戒壇論は聖人の国主観と相違するとして真偽論があります。(小松邦彰稿「日蓮遺文の系年と真偽の考証」『日蓮の思想とその展開』所収一〇八頁)。偽書としての見解は『日蓮宗事典』『日蓮聖人遺文辞典』(歴史篇四二〇頁)にみられます。

 

□『富城入道殿御返事』(三六四)

○常忍の十羅刹女信仰と富木尼の病

四月一〇日に常忍から金銭一結が届けられた返礼の書簡です。真蹟は二紙一四行完存にて法華経寺に格護されています。『常師目録』『祐師目録』の『尼公所労御歎由事』に当たる新加の遺文です。常忍の篤信の行いに十羅刹女は必ず守護されると述べます。常忍が鬼子母尊神・十羅刹女を守護神として信仰していたことが分かります。法華経寺の本院に勧請している鬼子母尊神、刹堂に勧請している鬼子母尊神並びに十羅刹女の信仰形態の起源がここにあると言えます。併せて常忍の妻の病状を心配されます。常忍への文章は漢文ですが、「さては尼御前」の伝言のところは和文になっています。富木尼に聖人の筆跡を見せて心情を伝えたい気持ちが窺えます。

 系年を『定遺』は弘安三年としますが鈴木一成氏は弘安四年と推定します。弘安後期の理由として「富城入道殿」の宛名を挙げます。真蹟がある三一通の宛名の建治四年以前は「土木・富木・とき」であること。弘安二年以後は「富城」が主に用いられていること。また、「御志者挙申法華経候了」(一七四六頁)との表現は、「法華経の御寶前」に供養の品をお供えしたと言う弘安期の語例であること。花押はボロンの最末字につく点(空点)の走筆の形は蕨手の後期とします。この時期は弘安三年七月二日の『大田殿女房御返事』から弘安五年二月二八日の『法華証明抄』迄とし本書は弘安四年とします。富木尼の病気にふれた弘安三年一一月二九日の『富木殿御返事』に、「尼御前の御所労の御事」(一八一八頁)とは病気の再発とし本書はその後の見舞いの言葉とします。(鈴木一成著『日蓮聖人遺文の文献学的研究』四〇七頁)。

 

○御本尊(一〇六)四月一七日

 「俗眞廣」に授与され京都本国寺に所蔵されます。本国寺の寺伝に「若宮御本尊」と別称しますが、その由来は不明です。御本尊(五〇)と同じく下総若宮にて感得された御本尊に類していることを『御本尊集目録』(一五〇頁)に注記しています。四大天王の書き入れはなく紙幅は縦五四.二㌢、横三三.三㌢の一紙の御本尊です。

○御本尊(一〇七二五

 甲斐国の曽弥小五郎の妻持円尼(比丘尼持円)に授与され、その右横に日興の添え書きにて「孫大弐公日正相伝之」とあります。同じく右下隅に「甲斐国大井庄々司入道女子同国曾弥小五郎後家尼者、日興弟子也仍申与之」と素性を示記しています。『本尊分与帳』に持円尼は寂日日華の弟子と記し、聖人の滅後に背信したとあります。この曼荼羅は孫の大弐公日正に相伝され、北山本門寺に伝来しましたが、一六世紀に京都の本満寺に格護されます。(「日蓮宗新聞」平成二五年一月二〇日)

○御本尊(一〇八)四月二六日

 「比丘尼持淳」に授与され紙幅は縦六七㌢、横四四.二㌢の一紙の御本尊です。鎌倉の妙本寺に所蔵されています。同日、鶴岡八幡宮の遷宮上棟に当たり三浦頼盛が三島社分を担当します。

 

□『椎地四郎殿御書』(二五)

 『定遺』は弘長元年に系年されていますが『境妙庵目録』は弘安四年四月二八日とします。『朝師本』に収録されます。内容から『如渡得船之事』とも称します。冒頭に椎地(しいじ)四郎から、何かの問い合わせがあり、先方に確認したところ椎地氏が言う通りであったとを伝えます。「彼の人」とは誰かは不明ですが、『富城入道殿御返事』(一八八八頁)に四郎の事にふれているので常忍とも受け取れます。身延の聖人の膝元で給仕をしたいと願っていたと思われます。これからも信仰に励み法華経の功徳を得るように勧めます。

「師曠が耳、離婁が眼のやうに聞見させ給へ。末法には法華経の行者必ず出来すべし。但大難来りなば強盛の信心弥弥悦をなすべし。火に薪をくわへんにさかんなる事なかるべしや。大海へ衆流入る、されども大海は河の水を返す事ありや。法華大海の行者に諸河の水大難の如く入れども、かへす事、とがむる事なし。諸河の水入る事なくば大海あるべからず。大難なくば法華経の行者にはあらじ。天台云衆流入海薪熾於火等云云。法華経の法門を一文一句なりとも人にかたらんは、過去の宿縁ふかしとおぼしめすべし」(二二七頁)

 師曠(しこう)の耳のように正しく音律を聞きわけ、離婁(りろう)の勝れた視力のように正しく物事を判断するように述べます。他人の中傷や迫害に翻弄されないように注意します。値難は行者の宿命であるから堪忍し、縁のない者は救い難いが、法華経を説く宿縁の深さを知るように述べます。椎地四郎は善男子の「如来使」であることの自覚を促し、「如渡得船」の譬えにより法華信者の得脱を述べます。

「抑法華経の如渡得船の船と申事は、教主大覚世尊、巧智無辺の番匠として、四味八教の材木を取集め、正直捨権とけづりなして、邪正一如ときり合せ、醍醐一実のくぎ(釘)を丁とうつて、生死の大海へをしうかべ、中道一実のほばしらに界如三千の帆をあげて、諸法実相のおひて(追風)をえて、以信得入の一切衆生を取のせて、釈迦如来はかぢ(楫)を取り、多宝如来はつなで(綱手)を取給へば、上行等の四菩薩は函蓋相応してきりきりとこぎ給所の船を、如渡得船の船とは申也。是にのるべき者は日蓮が弟子檀那等也。能能信じさせ給へ。四條金吾殿に見参候はば能能語り給候へ。委は又又可申候」(二二八頁)

 頼基に会ったら「如渡得船」のこと等、充分に語り合うよう指示され教団の護持を依頼します。沼津市の椎路の住人とも言います。聖人の葬送の最後の列に、御太刀に兵衛志(宗長)、次の御腹巻(甲冑)を四郎が捧持しています。その後の御馬に亀王童と瀧王童が続きます。教団を支えていた大事な信者であったことが窺えます。

□『大風御書』(四〇四)

 四月二八日に鎌倉に大風吹き荒れ、聖人は二度目の蒙古襲来を予見しました。大風にふれることから五月頃の書間とされます。真蹟は六行断片(端書き)が京都本国寺に所蔵されています。文永一一年四月と今回の大風ではどちらが被害が大きいか。その状況や世間の風評を急いで知らせるように依頼します。宛先は不明ですが、「御そろう(所労)いかん」(一八六六頁)と病気を問われた内容から常忍(『富城入道殿御返事』一七四六頁。弘安四年四月一〇日とします)と考えられます。

 文永一一年の大風のあと一〇月に蒙古が九州に攻め入ります。(『種々御振舞御書』九八〇頁。『報恩抄』一二二九頁)。今回も蒙古襲来を知らせる大風と把握されます。四月に東寺の宿坊の弟子、眞広が身延を訪れます。聖人が始めて入京された時、道善房の関係にて東寺に居宿したと言います。この縁にて聖人の弟子となり、東寺に帰ってからの二九年の間に法華経千六百部を読誦し、法華堂の祖となったと言います。(『本化別頭仏祖統紀』)

 

□『八幡宮造営事』(四〇五)

 五月二六日付けにて宗仲・宗長兄弟に宛てた書間です。『延山録外』に収録されています。冒頭に「此法門申候事すでに二九年なり」とあることから、弘安四年に書かれたことと、「此法門」に当た前文があったとされます。  

立教開宗より二九年の弘通は、身体の疲れ心の痛みを増していました。年々に体力が衰えながらも人並みに命を長らえて来たが、正月より「やせ病」のため死期を感じていると伝えます。兄弟の父親は弘安二年に逝去し、父の要職を継いで作事建築の任を得ていました。法華信者であることから八幡宮再建の任を外され、これを不服としての報告がありました。聖人はこの処遇を大事とされ、弘安三年一一月の八幡宮の炎上や、先月の異常な大風のことから蒙古再襲を予見し訓戒されます。

「此法門申候事すでに廿九年なり。日々論義、月々難、両度流罪身つかれ、心いたみ候し故にや、此七八年が間、年々に衰病をこり候つれども、なのめにて候つるが、今年は正月より其気分出来して、既一期をわりになりぬべし。其上、齢既六十みちぬ。たとひ十に一今年すぎ候とも、一、二をばいかでかすぎ候べき。忠言耳逆、良薬口苦とは先賢言也。やせ病の者は命きらう、侫人は諌を用ずと申也。此程上下人人御返事申事なし。心もものうく、手もたゆき故也。しかりと申せども此事大事なれば苦を忍で申。ものうしとおぼすらん。一篇きこしめすべし」

(一八六七頁) 

気分も進まず手に力も入らない体調の悪化で、誰にも返事を書けない状態でしたが、その病苦を耐えての返書でした。面倒と思うかも知れないが、村上天皇が異母弟の前中書王(さきのちゅうしょおう)兼明(かねあきら)親王の莵裘賦ときゅうふ)と言う書を投げ捨てたように、取り扱わないようにと念を押します。この故事は十訓抄(じっきんしょう、じっくんしょう)を用いたと思いますが、『十訓抄』に誤りがあります。本来の故事は兼明親王の子源伊陟(これただ)が、父が大事にしていた「兎(うさぎ)の裘(かわごろも)」を一条天皇(第六十六代)に奏上します。天皇は兎の毛皮と思っていましたが、実は莵裘賦(ときゅうふ)と言う書物でした。菟裘とは官を辞して隠居する地のことです。理不尽に臣籍降下した兼明親王が君主を諌めたものでした。伊陟は書名の由来と内容を知らなかったのです。偉い人の子でも無知で浅慮の者がいることを説いたものでした。つまり、聖人の言うことが気に入らなくても、手紙を捨てるようなことはしないで下さいと言うことです。

弘安三年一〇月二八日と一一月一四日に八幡宮が炎上しました。八幡宮造営に当たり本来ならば池上氏がその任に当たるところ、讒訴により忌避されたことの不満を訴えてきました。造営の奉行は安達泰盛でした。(鈴木一成著『日蓮聖人遺文の文献学的研究』四二〇頁)父の康光は作事奉行をしていたので、造営に対する意欲が強かったのです。それを過失として嗜みました。

「さては八幡宮御造営つきて、一定さむそう(讒奏)や有ずらむ、と疑まいらせ候也。をやと云ひ、我身と申、二代が間きみにめしつかはれ奉て、あくまで御恩のみ(身)なり。設一事相違すとも、なむのあらみ(恨)かあるべき。わがみ賢人ならば、設上よりつかまつるべきよし仰下さるゝとも、一往はなに事つけても辞退すべき事ぞかし。幸讒臣等がことを左右よせば、悦でこそあるべきに、望るゝ事一失也」(一八六七頁)

 このような事態になることは想定されたこととして、親子二代に御恩を受けている身であるから、今回のことで主君を恨んでいけないと諭します。賢人の心得として一度は辞退すべきところ、讒奏により造営の番匠役を外されたことは喜びであると述べます。造営参加を望んでいた兄弟にすれば本意に反する言葉でした。

 そして、日本国の人々は善神はら見放されていると述べます。国主は八幡宮を再建して八幡大菩薩を崇めれば何事もないと思っているが、その八幡大菩薩は力を失い宮殿を焼いて隠れてしまった。自らの謗法による災禍と知るべきで、謗法の国主などを小神である天照大神や八幡大菩薩の力でも護りきれないと述べます。兄弟が八幡宮を造ったとして他国より侵略されたら、窪んでいる処に塵がたまり低い処に水が集まるように、日本国は滅ぶのであり、このことは以前に知らせていたと述べます。 

また、念仏者は八幡大菩薩を阿弥陀の化身とするから、宗仲は念仏無間を主張する聖人の信者であり、このような者が造営をすれば八幡大菩薩はご神体を宿さず、還って他国から侵逼されたと非難された時に、どのように弁解するかを問います。仏天はこのことを察して造営から外し、神宮寺の工事から外れたのも善神の計らいであると諭します。蒙古の使者のように評されている宗仲が、造営に関わって大風が吹けば人々の笑われ者になっただろうと述べ、法華信者として穏便に慎みある行動をするように訓諭されます。

「返返隠便にして、あだみうらむる気色なくて、身をやつし、下人をもぐせず、よき馬にものらず、のこぎり(鋸)かなづち(金槌)手にもち、こし(腰)につけて、つねにえめ(咲)るすがたにておわすべし。此事一事もたがへさせ給ならば、今生には身をほろぼし、後生には悪道に堕給べし。返返法華経うらみさせ給事なかれ」(一八六九頁)

 強義折伏を展開した聖人ですが、信徒の行動においては社会人として謙虚な姿勢を教示していたことが窺えます。本書は兄弟に宛てた最後の書簡となります。