323. 弘安の役~ 『上野尼御前御返事』(415) 髙橋俊隆 |
◆◆第三章 弘安の役の動向
◆第一節 弘安の役
○弘安の役
蒙古・漢人(中国)・高麗の連合軍が日本遠征の時機を整えていました。日本遠征軍は東路と江南の二軍編成で東路軍は大将忻都、副将洪茶丘の蒙古軍三万人と金方慶の高麗軍一万人の合計四万人と九百隻の船舶でした。江南軍は大将阿刺罕(あらかん)、副将范文虎と、元に降伏したばかりの旧南宋の蛮子軍の江南軍一〇万人の軍勢に三千五百隻でした。この双方が六月に壱岐での合流が計画されます。そして、五月二一日に東路の高麗軍が対馬に上陸し制圧します。この蒙古再襲の第一報が京都に伝えられたのは六月一日でした。朝廷は三日後の四日に二二社に敵国降伏の祈祷を命じます。六月六日に東路の主力である蒙古軍が博多湾に集結しました。 江南軍は屯田形式で日本に遠征します。居住するための生活用具や、畑を工作するための農機具を持って来たからです。今回の遠征は領土として居住することを目的としていたのです。元は高麗や宋を征服し多くの捕虜を抱えます。南宋の海軍はほとんどが降伏したので、これらの処遇を日本遠征に向けました。征服された民族は戦いの先頭に立たされるのが常道でした。元の襲撃の意図もここにありました。江南軍とすれば日本に移民し新しい国造りを求めたとも言えます。 日本軍は石築地築造の分担どおりに配備しました。香椎(かしい)地区は豊後の大友頼泰、箱崎は薩摩の島津久経、博多は小弐経資と筑後の北条宗政、生の松原は肥後守護代の安達盛宗(泰盛の子)、今津は日向・大隈の島津軍が防戦の配備をします。このため東路軍は防塁から矢を射られて上陸できず、志賀島と能古島周辺に停泊します。日本軍はこの敵船に夜襲をしかけます。八日より本格的な戦いが始まり、蒙古軍は連日の戦いで将兵が疲れます。また、暑さと疾病で一三日に船団は博多湾を離れ壱岐へ退却しました。江南軍は寧波(にんぽう)、舟山(しゅうざん)島付近に終結していました。出航が遅れたのは総大将の阿刺罕が病気になり阿塔海(あたはい)と交代するなど、船舶の準備が整なわなかったと言います。 蒙古が長門に来たことを京都に報じられたのは一四日です。一八日に亀山上皇を中心として協議し一九日に後深草法皇の御所、二〇日には関白鷹司家で祈祷が行われました。蒙古の先遣隊は合同地点を平戸にすることを東路軍に伝えます。江南軍は六月中旬から寧波を出航して日本に向かいました。二八日に幕府は戦いが長引くとして、国衙領、本所一円地の年貢を兵糧米に当てることを再度決めます。六月二九日に日本軍は小弐経資・資時父子、島津久経・長久兄弟等が壱岐の猛孤軍を攻撃し、七月二日は松浦党等が壱岐を再攻撃していました。江南軍が平戸周辺に集結してきます。東路軍も平戸に移動して戦闘体制をつくります。蒙古軍は作戦会議を開きますが、議論が纏まらなかったと言います。取りあえず戦闘の序列を決め、日本が休戦申し入れの時の対応も決めたと言います。そして、対馬・壱岐・志賀島・長門を侵略しました。博多に侵略を試みますが日本軍の防戦に遭います。七月二七日から肥前の鷹島の海上に集結して侵攻の時期を覗っていました。 ところが、七月三〇日の夜半から強風が吹き始め、翌、閏七月一日の夜半まで激しい風雨が続きました。この強風のため船団は転覆し、互いに激突して沈没するなど大打撃を受けます。閏七月二日、台風が去った後の海岸には蒙古の船と兵士の死体が打ち上げられていました。蒙古の戦力が平戸島などに残っていたので日本軍の掃討戦が始まります。本格的な掃討戦は閏七月五日から七日にかけてを行い、戦意を失っていた阿塔海・范文虎らは逃げ帰ってしまったのです。閏七月九日に幕府は再度の非御家人の出兵を行なおうとしました。同日に京都に蒙古敗退の知らせが届きます。一一日、幕府は時宗の甥である兼時を播磨の防備に就かせて内海の備えを強くします。幕府に蒙古敗退の知らせが届いたのは一三日の八幡宮の蒙古降伏祈祷の結願の日と言います。 戦死・溺死した者は元軍一〇万人余り、高麗軍約七千人、捕虜となった者は数千人から二万人あるいは三万人と言います。その後、博多に連行され、一部の中国人(南宋)を除いて処刑されたと言います。工匠や知田者以外は殺され、『元史』には南人(南宋の遺民)の新附軍を唐人と称して生かし奴隷にしたとあります。(『倭国伝』三二三頁)。蒙古軍で帰還できたのは、東路軍で約二万人、江南軍では一〇人のうち二、三人と言います。東路軍と江南軍の合計、一四万人の将兵と、約四千四百艘の蒙古の二度目の襲撃も敗退したのでした。 蒙古が日本を襲来している最中にも、日本の交易船が蒙古治下の南中国に渡り、自由に取引が行われていました。弘安の役のの後は商船の往来が盛んになり、明治期に至までの交流史において、最も活発であったと言います。幕府は蒙古の襲来に備えると共に、蒙古領の南中国方面と貿易を行っていたのです。(日本の時代史9『モンゴルの襲来』一一八頁)。長崎県・鷹島の沖の海底調査で見つかった元軍の遺物の中に、青銅製で造られた「管軍総把印(かんぐんそうはいん)」、高さ六・二㌢で四・五㌢四方があります。これは元軍の指揮官が命令文書に判を押す「許可印」です。他に碇石、石弾などもあります。 □『曽谷二郎入道御報』(四〇八)
七月一九日付け教信の書間が同月三〇日に到着しました。教信は御家人として蒙古防御のため動員されることになります。書簡が遅れて届いたこともあり、緊迫した状況を察して早急に返書を認め閏七月一日に送られます。内容から『破三大師』と称し『興師本』に収録され重須本門寺に伝えられています。 教信から国主の命に順い九州に警護に就くことの報告があり、死後の霊山往詣に関しての質問があったと思われます。始めに世間に逆らうことは別として、仏法に逆らうと堕獄することを、譬喩品の「其人命終入阿鼻獄」の文を引いて説明します。「其人」とはどのような者か、それは釈尊の教えを信受しないで毀謗する者とします。証文として譬喩品・湧出品・勧発品を引きます。これは法華経を誹謗する謗法の人(謗人)を指します。 「答云次上云唯我一人能為救護雖復教詔而不信受。又云若人不信。又云或復顰蹙。又云見有読誦書持経者軽賎憎嫉而懐結恨。又第五云生疑不信者即当堕悪道。第八云若有人軽毀之言汝誑人耳。空作是行終無所獲等云云。其人者指此等人々也。彼震旦国天台大師者指南北十師等也。此日本国伝教大師者定六宗人々也。今日蓮指弘法・慈覚・智証等三大師並三階・導綽・善導等云其人也」(一八七一頁) 天台の時代には南三北七とて揚子江より南地では『涅槃経』を最高とし、北地では地論宗が『華厳経』を最高とする教学が大勢していました。この南北の十人の学匠を謗人とします。伝教は奈良の七大寺、六宗の碩学を謗人とします。 聖人は弘法・慈覚・智証等の三大師と、三階禅師信行・道綽・善導を謗人とします。真言と念仏を弘めた人達です。三階は三階教の真寂寺信行のことです。法華経を修行する者は地獄に堕ちると説きました。『撰時抄』に大謗法の根源である三虫と述べていました。 「日蓮は真言・禅宗・浄土宗等の元祖を三虫となづく。又天台宗の慈覚・安然・慧心等は法華経・伝教大師の師子の身の中の三虫なり。此等の大謗法の根源をただす日蓮にあだをなせば、天祇もをしみ、地神もいからせ給て、災夭も大に起るなり」(一〇五一頁) 「入阿鼻獄」について『涅槃経』・普賢経を引いて、日本国の一切の人々が地獄に堕ちる「謗法堕獄」を説いた文とします。善人と悪人の違いはあっても、謗法罪の一業により堕獄すると述べます。謗法の業因を作ったのは弘法・慈覚・智証の三大師であり、譬喩品の「其人」に当たると述べます。 この三大師の重科の責任とは法華経を戯論と言い、釈尊を迷える無明の辺域の仏と貶めたことにあります。また、天台を盗人としました。つまり、仏・法・僧の三宝を誹謗した罪があるのです。その例として大荘厳仏の末時に苦岸比丘等の四人の悪比丘に師事したため、全ての者が無間地獄に堕ちたこと。師子音王仏の末時に勝意比丘の弟子となったために一同に阿鼻大城に堕ちたことを挙げます。これらの者は各々の因縁も異なり貴賤の違いもあったが、それに関係なく堕獄したことを示しています。聖人は日本国も同じことをくり返すと述べたのです。故に伝教が『守護国界章』に慈恩を信じないようにと、「其の師の堕つる所、弟子も亦堕つ。弟子の堕つる所、檀越も亦堕つ。金口の明説慎まざる可けんや」と、弟子も必ず堕獄すると釈尊が説いていると厳しく注意されたことを挙げます。 三大師が堕獄すると言うのは釈迦多寶の二仏の説示であると述べます。苦岸比丘は小乗教の立場から権大乗を誹謗してさえ、熱鉄の上に仰向けにされ阿鼻の大苦を受けたのであるから、まして実大乗教の法華経を誹謗することは重罪であるとして、その理由を述べます。 「況今三大師以未顕真実経非破三世仏陀本懐之説剰失一切衆生成仏之道。深重罪過現未来諸仏争可窮之乎。争可救之乎。法華経第四云已説今説当説而於其中此法華経最為難信難解。又云最在其上並薬王十喩等云云。於他経者華厳・方等・般若・深密・大雲・密厳・金光明経等諸経之中経々勝劣雖説之或対小乗経此経曰第一或対真俗二諦中道曰第一或対印真言等為第一。雖有此等説全非已今当第一也。然而末論師人師等謬執年積門徒又繁多也」 (一八七四頁) 三大師は真実の教えが説き明かされる以前の方便教をもって、三世の諸仏の本懐の教えである真実の法華経を誹謗したこと。これにより一切衆生が仏になる道を見失ったとします。三世の諸仏も救うことができない深重の罪とします。法師品の「已今当」の説示、安楽行品の「最在其上」、薬王品の十喩「最為第一」の文は、『華厳経』等の諸経に説く「第一」とは比較する教えの内容が違います。(『法華取要抄』八一一頁)。法華経の「已今当」の説は、一切経の中で最勝である事実を諸宗の諸師は理解できないと述べます。 聖人は諸宗の誤りを糾弾したが、是非を糾明せず国主や人々を騙して迫害したと述べます。その現れが伊豆・佐渡の流罪、竜口の処刑の座です。この迫害の苦しさは「不軽の杖木」「勧持品の刀杖」の難にも過ぎていると述べます。ここに、聖人は如来の使いとしての自覚と、誹謗する者の罪は一劫の長い間、仏を蔑にする罪より重いと法師品を引きます。提婆や大慢婆羅門は重罪の者であるが、日本国の人々から比べれば軽い罪であると述べます。法華誹謗の罪がないからです。『涅槃経』の恒河七種の第二の闡提と言う善根を失った者であるが、日本国の者は第一の謗法の者であると罪の深さを述べています。故に善神は国を捨去し天照太神や八幡大菩薩も守護しないと述べます。承久の乱の上皇は法華誹謗の浅い時でさえ敗退したのであるから、今は謗法の者が国中に充満していると述べ、これらは国内の災禍であるとし蒙古の再襲にふれます。他国侵逼が的中し蒙古襲来が起きたのは、三度の諫暁を無視したためで、これから起きる再襲の戦乱と人々が死して阿鼻地獄に堕すことを危惧します。 「今度不可似彼。彼但国中災許也。其故粗見之蒙古牒状已前依去正嘉・文永等大地震・大彗星之告再三雖奉之国主敢無信用。然而日蓮勘文粗叶仏意歟故此合戦既興盛也。此国人々今生一同堕修羅道後生皆入阿鼻大城無疑者也」 結びに、二人は師檀の関係であるが国主に従う身である。蒙古再襲にあたり教信は武士として合戦に備え、聖人も覚悟を決めなければならない。今度はいつ再会できるかと思えば感涙抑え難いと述べ、霊山浄土にての再会を約束されます。信心堅固ならば仏心と同じであるから、今生は修羅道に交わっても後生は仏国に生まれると諭します。 「爰貴辺与日蓮師檀一分也。雖然有漏依身随国主故欲値此難歟。感涙難押何代遂対面乎。唯一心可被期霊山浄土歟。設身値此難心同仏心。今生交修羅道後生必居仏国。恐恐謹言」(一八七六頁) 蒙古が敗退した知らせは身延にも直ぐに届きました。『富城入道殿御返事』(一八八六頁)に閏七月一五日付けの書状が二〇日に着いていますので、蒙古の船団が壊滅状態にあったことを知ります。蒙古が敗退したのは西大寺流の叡尊が閏七月一日、奈良・京都の僧侶五六〇人と岩清水八幡宮において祈祷したからと賞賛されました。鎌倉では良観が稲村ガ崎において祈祷を行ったので、その功績により極楽寺は幕府の祈祷所に加えられます。これにより聖人の予言は外れたと批難されます。しかし、叡尊の蒙古調伏の祈祷と台風による蒙古敗退の日時は合わないとします。(山川智応著『日蓮聖人』)。 □『御所御返事』(四四三)
弘安四年七月二七日付け礼状です。宮城県妙教寺に所蔵されています。清酒一瓶子を供養され、とても良い酒であると喜ばれます。御所は身分の高い人を尊称したものです。「へいししはら」迄の一紙と、「れ候はん」からの一紙が貼り合わされ、この間の文が欠失しています。(『日蓮聖人全集』第七巻三一七頁)。 「清酒一へいし、かしこまて給候了。これほどのよきさけ今年はみず候。へいししはら(中欠)れ候はんれうにととめて候」(三〇二三頁) □『光日上人御返事』(四〇九)
八月八日付けにて光日上人に宛てた書状です。真蹟は一一紙が身延に曾存していました。『朝師本』に収録されています。『日乾目録』に第一紙目が不足し、本書は第二紙の二丁目から存在し、末尾の署名花押は切り抜けていたとあります。本来は一二紙の書簡となります。光日上人とは光日尼のことで、故郷の小湊から海苔等の供養が届けられた返礼の書簡と思われます。 譬喩品の「其人命終入阿鼻獄」を引き無間地獄にふれます。日本国の人々は地獄の中でも最も重い無間地獄の相として、四大の中の大火の苦を詳しく述べます。弘安四年五月以前は蒙古が再襲すると思わなかったように、堕獄も誰も自覚しなかった。侵攻されたら焙烙に入れられた小魚が煮詰められるような苦痛に遭うと警告しました。そのため聖人を殺せ信者の所領を奪い散れと騒ぎます。しかし、五月に蒙古が攻めて来たと知ると聖人を信じるような気配になります。 「一人もなく他国に責られさせ給て、其大苦は譬へばほうろく(焙烙)と申す釜に水を入て、ざつこ(雑魚)と申小魚をあまた入て、枯たるしば(柴)木をたかむが如なるべし、と申せばあらおそろしいまいまし、打はれ、所を追へ、流せ、殺せ、信ぜん人々をば田はたをとれ、財を奪へ、所領をめせ、と申せしかども、此五月よりは大蒙古の責に値て、あきれ迷ふ程に、さもやと思人々もあるやらん。にがにがしうしてせめたくはなけれども、有事なればあたりたり、あたりたり。日蓮が申せし事はあたりたり。ばけ(化)物のもの申様にこそ候めれ」 (1878頁)
蒙古再襲の原因について、法華誹謗・聖人蔑視・三宝誹謗の罪科によって、国主は国に修羅道を招き入れ、後生には自ら無間地獄に堕ちると述べます。法華誹謗の罪とは三大師など諸宗の謗法のことです。これらを容認し重用した国主の罪、そして、立正安国のため諌暁した聖人を迫害した罪によると述べます。 「今御覧ぜよ。法華経誹謗の科と云ひ、日蓮をいやしみし罰と申し、経と仏と僧との三宝誹謗の大科によて、現生には此国修羅道を移し、後生には無間地獄へ行給べし。此又偏に弘法・慈覚・智証等の三大師の法華経誹謗の科と、達磨・善導・律僧等の一乗誹謗の科と、此等の人々を結構せさせ給国主の科と、国を思ひ生処を忍て兼て勘へ告示を不用還て怨をなす大科」(一八七九頁) 忠言を用いないで国を亡ぼした先例として、呉王の夫差が伍子胥の進言を用いなかったため越王の勾践に滅ぼされたこと。殷の紂王が妲己を溺愛し悪政を行うのを王子の比干が諌言して殺されます。そのため周の武王に攻め滅ぼされたことを例証します。 このような不信謗法の世にあって法華経を信ずることは、光日尼御前の亡き弥四郎の勧めによるのかと回顧します。烏龍と遺龍、妙荘厳仏が子供の徳により成仏したこと、また、金鳥(雉)は野火に遭っても卵を抱き続けたこと、貧女が激流に溺れても子を離さなかった親子の情愛を引きます。金鳥は弥勒菩薩であり貧女は梵天王と生まれたことを述べます。弥四郎を思う情念が法華経の行者光日上人となったと述べます。霊山浄土に往詣し母子が対面した時の嬉しさを思い信仰に励むように勧めます。 「而に光日尼御前はいかなる宿習にて法華経をば御信用ありけるぞ。又故弥四郎殿が信じて候しかば子勧めか。此功徳空しからざれば、子と倶に霊山浄土へ参り合せ給ん事、疑なかるべし。烏龍と云し者は法華経を謗じて地獄に堕たりしかども、其子に遺龍と云し者、法華経を書て供養せしかば、親仏に成、又妙荘厳王は悪王なりしかども、御子の浄蔵・浄眼に導れて、娑羅樹王仏と成らせ給。其故は子の肉は母の肉、母の骨は子の骨也。松栄れば柏悦ぶ。芝かるれば蘭なく、無情草木すら友の喜友の歎一なり。何況親と子との契り、胎内に宿して、九月を経て生落し、数年まで養ひき。彼ににな(荷)はれ、彼にとぶら(弔)はれんと思しに、彼をとぶらふうらめしさ、後如何があらんと思こゝろぐるしさ、いかにせん、いかにせん。子を思金鳥は火の中に入にき。子を思し貧女は恒河に沈き。彼金鳥は今の弥勒菩薩也。彼河に沈し女人は大梵天王と生れ給。何況今の光日上人は子を思あまりに、法華経の行者と成給ふ。母と子と倶に霊山浄土へ参り給べし。其時御対面いかにうれしかるべき。いかにうれしかるべき」(一八七九頁) □『治部房御返事』(四一〇)
八月二二日付けにて治部房日位(一二五七~一三一八年)から白米一斗、茗荷の子、はじかみ(生姜)一苞が送られた返礼の書状です。年時に弘安元年(『境妙庵目録』)説があります。『本満寺本』に収録されています。治部房は南条平七郎の子とも言い、蒲原の四十九院の住侶で承賢と名乗りました。弘安元年に日持の弟子となります。駿河国安倍郡池田を中心に弘教し、天台宗村松海上(長)寺を改宗し池田に本覚寺を開創します。『大聖人御葬送日記』を執筆し本覚寺に所蔵されています。聖人の葬送に参列し「御小袖一、衣一、帷一」を形見分けされています。墓所輪番にては六老僧に順じて一二人の高弟の一人として和泉公日法と八月の輪番に当たります。 飢饉に困窮し過酷な年貢米の取り立てに生活も苦しく、人々は麦・粟・黍・稗・豆を食していた中での貴重な白米の供養に対しての礼状です。春には野にある花を、冬にはそこにある雪を供養して成仏した者がいると述べます。特別に高価な物の供養ではありません。天皇においても万民にとっても、珠よりも価値のある白米を供養したので成仏は間違いないと述べます。、 「仏には春の花、秋の紅葉、夏の清水、冬の雪を進せて候人々皆仏に成せ給ふ。況や上一人は寿命を持せ給ひ、下万民は珠よりも重し候稲米を、法華経にまいらせ給人、争か仏に成らざるべき」(一八八〇頁) 世間で大事にすることは主君と父母に従うことであり、父母に背けば不孝者として天に捨てられ、国主に背けば不忠の者となって斬首されます。たとえ仏道修行のために主君や父母に逆らうことができても、法華経の信仰を深める時には、第六天の魔王が邪魔をすると述べます。その理由は、一、この人が悟るならば我が所従の三界を離れてしまう。二、この人が仏になれば父母・兄弟も娑婆世界から出て行くためです。それを阻止するために身を変えます。魔は父母・国主・貴僧となって悪心を起こさせ脅したり騙し、また、高僧・智者・持斎になり念仏・真言を勧めて法華経を捨てさせ成仏させまいと計略を廻らすと述べます。 この証文として勧持品の二十行の掲文(「悪鬼入其身」)、を引きます。不軽品・法師品・譬喩品、、また、涅槃経・守護経等に、法華経の行者を殺害する等の迫害を詳しく説いていると述べます。正に経文は真実であるとして熱原法難を目前の現証とします。 「法華経第五の巻には、末法に入ては大鬼神、第一には国王・大臣・万民の身に入て、法華経の行者を或は罵、或は打切て、それに叶はずんば、無量無辺の僧と現じて、一切経を引てすかすべし。それに叶はずんば、二百五十戒三千の威儀を備へたる大僧と成て、国主をすかし、国母をたぼらかして、或はながし、或はころしなんどすべしと説れて候。又七の巻の不軽品、又四の巻の法師品、或は又二の巻の譬喩品、或は涅槃経四十巻、或は守護経等に委細に見へて候が、当時の世間に少しもたがひ候はぬ上、駿河国賀島荘は、殊に目前に身にあたらせ給て覚へさせ給候らん。他事には似候はず。父母国主等の法華経を御制止候を用候はねば、還て父母孝養となり、国主の祈りとなり候ぞ」(一八八二頁) 経文と違わないことは賀島の荘で起きた騒動を、眼前に見て経験したことであり、神四郎達が殉死されたことからも身に知らせられたことでした。魔は父母や国主に入って法華信仰を止めさせようとする、その時は背いて用いないのが還って父母の孝養となり、国主のための正義であると述べます。敢えて父母に背くことにふれることは信仰上に相容れない事情があったと思われます。主君の命については熱原法難が象徴するように、法華信者の弘通のあり方を説いています。 日本国は神を敬い仏を尊ぶ国であるが、行者である聖人を仇むため、神仏を供養しても大悪となるとします。灸治した箇所が悪瘡となり薬が毒となると例え、朝廷や幕府が調伏の祈祷をしていることも、蒙古の領土となる亡国の原因と述べます。身分の高い人達は平家が滅亡した以上に悲嘆する時が来ると聞かせて来たと述べます。そして、法華経の敵であるならば父母を殺すことが大罪となっても大善根になると信心の有り様を譬えます。また、諸仏の怨敵である極悪人であっても、法華経の一句を信じると必ず諸仏は守ると述べます。強い信仰を説いて聖人の意図を推察するように促されます。使者が帰りを急ぐため速筆した書簡です。 「又法華経のかたきとなる人をば、父母なれども殺しぬれば、大罪還て大善根となり候。設十方三世の諸仏の怨敵なれども、法華経の一句を信じぬれば、諸仏捨給事なし。是を以て推せさせ給へ。御使いそぎ候へば委くは申さず候。又々申べく候」(一八八二頁) ○御本尊(一〇九)八月二三日
「摩尼女」に授与されています。紙幅は縦五〇㌢、横三一.八㌢、一紙の御本尊です。鎌倉の妙本寺に所蔵されています。四大天王は書き入れていません。 ○御本尊(一一〇)九月
「俗日常」に授与されています。紙幅は縦九四.二㌢、横四九.七㌢、三枚継ぎの御本尊です。勝沼町の休息の立正寺に所蔵されています。首題と勧請の諸尊の書体がやや左に傾いています。染筆された本尊紙がやや傾いていたか、聖人の姿勢が病状のため傾いたのかも知れません。 ○御本尊(一一一)九月
「俗守常」に授与されています。一紙の御本尊ですが紙幅等の細かなことは不詳です。所在も不明の御本尊です。四大天王が書かれていません。 □『南条兵衛七郎殿御返事』(四一一)
九月一一日付けにて南条兵衛七郎から塩一駄、大豆一俵、とつかさ(鶏冠海苔)一袋、酒一筒を供養された礼状です。この人物を時光(『莚三枚御書』一九一三頁)とする説がありますが不明です。兵衛七郎が所領地である上野からいつ帰郷したかは不明ですが、音信が途絶え懐かしく思っていたところに、様々な供物を取り揃えて送ってきたことに感謝します。『朝師本』『平賀本』『本満寺本』の写本が伝えられています。 徳勝童子が土の餅を釈尊に供養して阿育大王と生まれた故事を示して、釈尊に多大の財宝を供養するよりも、末代の行者を一日でも供養する功徳の方が、百千万億倍も勝れていることを示します。数年に亘る供養を感謝され、後生は霊山浄土に往詣する尊い果報を積まれたと褒めます。そして、聖人は釈尊の「一大事の秘法」を霊鷲山にて相伝したの行者であるとして、行者が住む身延は霊山浄土に劣らないと述べます。 「此砌に望まん輩は無始の罪障忽に消滅し、三業の悪転じて三徳を成ぜん。彼中天竺の無熱池に臨し悩者が、除愈心中熱気充満其願如清涼池とうそぶきしも、彼此異なりといへども、其意は争か替るべき。彼月氏の霊鷲山は本朝此身延の嶺也。参詣遥に中絶せり。急々に可企来臨。是にて待入候べし。哀々申つくしがたき御志かな、御志かな」(一八八四頁) 末尾に参詣が中絶しているので参詣するように要望します。なを、身延を本朝の霊鷲山として参詣を誘っている文章は他の遺文に見られません。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇八三九頁)。また、端書に使者の言葉に兵衛七郎が所労のため体調を崩していると聞き、早急に療治をして身延に参詣するようにとあります。九月に幕府は二度目の異国征伐を九州の御家人に発令しています。 □『上野殿御返事』(四一二)
九月二〇日付けにて時光から芋一駄、牛蒡一苞、大根六本が供養された礼状です。『本満寺本』に収録されています。先の南条兵衛七郎の供養から一〇日程にて供養の品々が届けられました。兵衛七郎や時光の病状についてはふれていません。 供養の芋などの表現を、 「いもは石のごとし。ごぼうは大牛の角のごとし。大根は大仏堂の大くぎのごとし。あぢわひは・利天の甘露のごとし。石を金にかうる国もあり。土をこめにうるところもあり。千金の金をもてる者うえてし(餓死)ぬ。一飯をつと(苞)につゝめる者にこれをと(劣)れり。経云うえたるよ(世)にはよね(米)たつとしと云云。一切の事は国により、時による事也。仏法は此道理をわきまうべきにて候。又々申べし」(一八八五頁) と、立派な品々を吟味して送られたことが分かります。この表現から金銭よりも食料の方が貴重であることが窺えます。仏教流布の五義について国や時節に相応した供養と布教の大切さを教えます。 □『富城入道殿御返事』(四一三)□『老病御書』(四一七)
一〇月二二日付けにて常忍に宛てた書簡です。病床にあったため弟子に代筆させます。署名と花押は聖人が揮毫しています。真蹟の六紙は法華経寺に所蔵されています。別名『承久書』と称します。常忍は真言亡国の論が蒙古惨敗によって外れたことにより、信徒に動揺があることを懸念して見解を問いました。その返答として書かれたのが本書です。閏七月一五日付の常忍の書状が既に聖人の元に届き、蒙古の退却したことを知っており、その後も書状を送られていたことが本書より分かります。 世間では蒙古軍が退却したのは真言師の祈祷の効験と噂されました。思円(叡尊)は勅命により男山八幡宮に詣で、閏七月一日に奈良・京都の僧侶五六〇人と共に岩清水八幡宮において愛染法を修したところ、雷雲が起きて西へ向かい、その夜に西海に神風が吹いて蒙古の軍船が悉く覆没したと賞賛されました。
「今月十四日御札同十七日到来。又去後七月十五日御消息同二十比到来。其外雖賜度度貴札為老病之上又不食気候間未奉返報候條其恐不少候。何よりも去後七月御状之内云鎮西には大風吹候て浦々島々破損船充満之間乃至京都には思円上人。又云理豈然哉等云云。此事別此一門大事也。総日本国凶事也。仍忍病一端是を申候はん。是偏に為失日蓮無ろう事を造り出さん事兼て知」(一八八六頁) 常忍からの手紙が度々来ていたが、老病と食欲が進まないため返事を出来ずにいたことを詫びます。常忍は蒙古退却の勝因は思円の効験とする道理はあるのかを尋ねます。聖人はこれを否定し一門にとって重大なことであり、日本国にとっても不吉なことと述べます。真言師の祈祷の効験であると言う世間の噂は聖人を陥れるための策謀であり、真言宗の過失は今に始まったことではないとします。一例に承久乱で上皇方は真言の祈祷を頼んで敗退した故事を挙げます。宇治勢多の河を馬筏にて渡った戦いを詳しく述べます。その時の高僧は住房を追放され六〇年を経ても恥辱を雪げないでいるのに、その弟子が行なう祈祷であるから、この度の蒙古敗退も真言の法験ではないとします。常忍の問に対し、 「いつもの事なれば、秋風に纔水敵船賊船なんどの破損仕て候を、大将軍生取たりなんど申、祈成就の由を申候げに候也。又蒙古の大王の頚の参て候かと問給べし。其外はいかに申候とも御返事あるべからず。御存知のためにあらあら申候也。乃至此一門の人々にも相触給ふべし」(一八八八頁) と、いつもの秋風にわずかの波浪が出て、船が転覆したに過ぎないとします。敵将を生け捕ったとか祈祷の効験が顕われたと吹聴しているが果たしてそうであろうかと疑問を掲げ、常忍に蒙古の大将の首が来たのかと反問するよう指示します。勝利とは言えないとだけ返答をし、以後、これを承知して蒙古についての言及を避けること、一門に対しても徹底するように答えます。つまり、宇治勢多の例にみるように、蒙古は敗退したように見えるが必ず攻め寄せて来ると見たたのです。しかし、これ以後、聖人は蒙古について沈黙されたとし、その理由は予言が的中しなかった狼狽にあると言う意見があります。(戸頃重基著『日蓮』五五〇頁)。 結びに椎地四郎にふれます。四郎は頼基の若党と言いますが、本書によれば常忍の使いとして身延に登り、以後、給仕をされたと思われます。その事を承知したと思われます。『椎地四郎殿御書』(二二七頁。弘安四年四月二八日とします)に四郎から問い合わせがあったこと(給仕)に関連していると思います。聖人の遺物として金銭二貫文を受領しています。そして、来る一一月二四日の天台大師講は盛大に行なうので、四郎に預けた金銭四貫文は、損傷した草庵のの造作に使わせてもらうと述べます。常忍が死去して霊山浄土に参ったときは、一閻浮提第一の法華堂を造営した施主であると、釈尊に進上されたらよいと功徳を褒めます。草庵の改築は一〇月から始まり十一月一日に小坊と馬屋ができ一一月二三日に一〇間四面の大坊が完成します。(『地引御書』一八九四頁)。 さて、他国侵逼の予言は二度の蒙古襲来で的中しましたが、その猛威が京や鎌倉に到達することはありませんでした。蒙古の退散により真言宗の威勢は盛んになります。しかし、蒙古の二度の襲撃は御家人を貧窮化させます。元寇に処した費用は御家人が出費し、幕府からの恩賞は外国との戦いであったため与えられなかったのです。北条氏の専制体制に御家人から反感が生じるようになります。幕府は年の暮れに少弐・大友を高麗に攻めさせます(『勘中記』『東寺文書』)。フビライはその後も出兵を計画しますが、中国や東南アジア諸国からの反乱に対処しているうちに、日本遠征はできなくなりました。 □『老病御書』(四一七)。『定遺』は文体や文面から一一月頃とします。真蹟一紙の追伸の部分が法華経寺に所蔵されていることから常忍に宛てとします。鈴木一成氏は『常師目録』の「承久調伏事」(四一三『富城入道殿御返事』)の追伸とします。(鈴木一成著『日蓮聖人遺文の文献学的研究』四二五頁)。法華経寺九五世の『日亮目録』に「土木殿御書 十一行」とあるのが本書です。この目録は文政八年(一八二五)六月に作成されています。また、『日窓目録』(法華経寺二九世日貞)に「土木殿御書 六丁有御判」の下に「又別御真筆口ニ一紙有り雖然御真筆不審 ―八行追書アリ」とあります。本書は『富城入道殿御返事』の自筆の追伸文とします。 「老病の上、不食気いまだ心よからざるゆへに、法門なんどもかきつけて申ずして、さてはてん事なげき入て候。又三嶋の左衛門次郎がもとにて法門伝候けるが(真蹟は「か」)始中終かきつけて給候はん。其ならずいづくにても候へ、法門を見候へば心のなぐさみ候ぞ」(一八九六頁) 老病による衰えから食欲がなく身心共に弱っていると自筆されます。そのため、返書に法門を教示することができない状態を知らせ、このまま命終えることを悲嘆していると伝えます。 常忍が三嶋の左衛門次郎の所で法門を説いたことを聞き、その内容の一部始終を書いて送って欲しいと依頼します。その他にも仏教の論考を読むことは生き甲斐になると述べます。臨終が近いことと信徒の覚悟を伝えているのです。左衛門次郎は三島に在住の信徒と思われますが、名前は本書一箇所のみで詳細は不明です。 ○御本尊(一一二)一〇月
授与者名と添え書きも削損しますが、模本によれば「俗平太郎」に授与されています。日興の添え書きに「紀伊国切目形部左衛門入道息少輔房日然相伝之」と書き入れてあったようです。紙幅は縦五〇.三㌢、横三〇.九㌢、一紙の御本尊です。四大天王の書き入れはなく随喜文庫に所蔵されています。 ○御本尊(一一三)一〇月
「俗守綱」に授与されています。紙幅は縦四九.七㌢、横三一.一㌢、一紙の御本尊です。四大天王の書き入れはなく京都本法寺に所蔵されています。 ○御本尊(一一四)一〇月
「俗眞永」に授与されています。紙幅は縦五五.五㌢、横三三㌢、一紙の御本尊です。四大天王の書き入れはなく高知県の要法寺に所蔵されています。 ○御本尊(一一五)一〇月
「俗近吉」に授与されています。、紙幅は縦五〇.九㌢、横三二.四㌢、一紙の御本尊です。四大天王の書き入れはなく京都本能寺に所蔵されています。この一〇月は小康を得たようで、まとめて染筆されています。 □『越州嫡男並妻尼事』(四一四)
一〇月二七日付にて常忍から来た書状の返信です。九月九日付けの書状が四九日を経て身延に届きました。鎌倉からの書状は急ぎの時は三日、平常は四~七日程で着きますので、自然災害による道路や河川の弊害や使者の動向が考えられます。本書には八月に起きた越州嫡男(北条時光)の謀反にふれているので、この内訌の事件による延滞であったかもしれません。真蹟は一紙一一行断簡が某氏に所蔵されています。ただし、大川善男氏は本書は大石寺日道の伝写本と見ます。九月九日の前文に「南無妙法蓮華経」とあり、これらの筆跡は『諫暁八幡抄』『重須殿女房御返事』と同一と指摘します。(『日蓮遺文と教団関係史の研究』一九頁)。 北条(佐介)時光は六波羅南方越後守時盛(佐介流)の子供で、陰謀が発覚して妻尼と佐渡に流罪されます。詳しい情報はないが、同じ北条一門の者が遠島になるのは謀反でもない限り、過酷な処罰であると述べます。北条時光は拷問の末に流罪になっています。本書は弘安四年の事件として『保暦間記』の年時を裏付けます。閏七月八日(異本は八月)に修理亮時光は流罪になり、このとき興福寺の満実法印も陰謀に同意したとあります。 頼基が鎌倉にいる頼基から未だに報告がないことに心配されます。追って頼基より伝えて来ると述べます。末尾が欠失していますが、伊予房は才覚があり学問に専念していると知らせます。 本書は文永一〇年一一月三日付けにて、常忍に宛てた『土岐殿御返事』(七五四頁)に続くとする見解があります。しかし、『土岐殿御返事』は在島中の石灰虫による稲穀の被害にふれています。本書の事件は弘安四年のことですので一書とは言えません。 □『上野尼御前御返事』(四一五)
一一月二五日付けにて上野尼より白米一駄(四斗)、洗い芋一俵を供養され、南無妙法蓮華経と唱えて仏祖三宝に報告したことを伝えます。真蹟は末尾の一紙が京都本禅寺に所蔵されています。『本満寺本』に収録されています。『対照録』(中巻二八八頁)は弘安三年とします。 妙法蓮華経は蓮に譬えられると述べ、天上界には摩訶曼荼羅華、人間界には桜の花が目出度い花とするが、釈尊は法華経の譬えには引用されないと述べます。全ての花の中で蓮華を法華経に譬えられている所以と述べます。その理由は蓮華は華果同時(因果俱時)にあるとします。即ち受持即成仏の即身成仏を説いています。一切経と法華経の違いはここにあると説明されます。 「蓮華と申花は菓と花と同時也。一切経の功徳は先に善根を作て後に仏とは成と説。かゝる故に不定也。法華経と申は手に取ば其手やがて仏に成、口に唱ふれば其口即仏也。譬ば天月の東の山の端に出れば、其時即水に影の浮が如く、音とひびきとの同時なるが如し。故に経云若有聞法者無一不成仏云云。文の心は此経を持人は百人は百人ながら、千人は千人ながら、一人もかけず仏に成と申文也」(一八九〇頁) と、法華経は手に取ればその手がたちまちに仏に成り、口に唱えればその口がそのまま仏であると譬え、即身成仏を可能とした教えであり、妙法蓮華経の五字は因果具足の功徳を有する経であると教えます。 上野尼は故父松野六郎入道の忌日に当たり追善の供養を依頼されます。烏龍は小野道風、藤原行成のような能筆家であると述べ、烏龍と遺龍親子の故事(『法連鈔』九四六頁)を挙げて法華経書写の功徳を述べます。この故事は法華経を書写したことは親の遺言に背いたことであるが、書写の功徳によって親を地獄の苦しみから救うことができたことを説いています。そして、子の五郎と父は上野尼の追善の功徳により、兜率天の内院に招かれて成仏していると諭します。当位即妙・不改本位とは凡身のままで仏に成ると言うことです。早々に返事を書いたので、日興に読んでもらい詳しく聞くようにと述べます。 |
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