323. 弘安の役~ 『上野尼御前御返事』(415)   髙橋俊隆

◆第二節  草庵の改築

○草庵改築

一一月に門下の願いを聞き入れて草庵を改造します。新たに一〇間(一八.一八㍍)四面の法華堂としました。最初の草庵は急造のため腐れ倒れ建治三年の冬に修復し(『庵室修復書』一四一一頁)、その折に改修を始めます。(『兵衛志殿御返事』「坊ははんさくにて、かぜゆきたまらず」一六〇六頁)。弘安元年一一月頃まで増築していましたが未完成でした。仮の修復であったことと湿気が強い土地のため土台が朽ち倒れてしまいます。弟子の増加と檀信徒の往来が頻繁になった状況があります。

草庵の改築は聖人が六〇歳に至ることができた報恩の事業でした。一〇月初旬から地引きや土運び等の工事を始めたことや、常忍からの金銭の布施を工事費に当てていました。

「予既及六十候へば、天台大師御恩報奉と仕候あひだ、みぐるしげに候房をひきつくろい候ときに、さくれう(作料)におろ(下)して候なり。銭四貫をもちて、一閻浮提第一の法華堂造たりと、霊山浄土に御参候はん時は申あげさせ給べし」(『富城入道殿御返事』一八八八頁)

と、閻浮第一の法華堂と賞賛された喜びが伝わります。大坊は二重の庇屋根を持ち、他に小坊・厠を造作し波木井氏一族の丹精で一一月二四日に完成します。これを知らせたのが『地引御書』です。このとき墓所を身延に定めることを実長に約束したと言います。(室住一妙著『純粋宗学を求めて』四〇〇頁)

 

○御本尊(『御本尊鑑』三二)一一月

 頼基が書いたとされる御本尊です。梵字と花押は聖人の染筆と言います。通称「真題目御曼荼羅」と称し、書体が真書体で書かれています。寂照日乾の記録によりますと、聖人の厳命により頼基が曼荼羅を奉書したとあります。大坊落慶の祝いを一一月二四日の天台大師講に合わせ一日経を奉行しており、この頃に染筆されたと思われます。紙幅は縦一八二.六㌢、横一一五.六㌢の大きな御本尊です。

□『地引御書』(四一六)

○延年の舞い

一一月二五日付けにて南部六郎(実長)に宛てた書簡です。真蹟は五紙完が身延曾存でした。『朝師本』に収録されています。一一月二四日にこれ迄の草庵を身延山妙法華院久遠寺と命名されました新たな大坊は一〇軒四面に庇を差し出して造ったことを知らせ、一一月一日から二四日の天台大師講と延年の舞までの、地引・山ならし・新築造作の様子を知らせます。

「坊は十間四面に、またひさしさしてつくりあげ、二十四日に大師講並延年、心のごとくつかまつりて、二十四日の戌亥の時、御所にすゑ(集会)して、三十余人をもつて一日経かき(書)まいらせ、並申酉の刻に御供養すこしも事ゆへなし。坊は地ひき、山づくりし候しに、山二十四日、一日もかた時も雨ふる事なし。十一月ついたちの日、せうばう(小坊)つくり、馬やつくる。八日大坊のはしら(柱)だて、九日十日ふき(葺)候了。しかるに七日大雨、八日九日十日はくもりて、しかもあたゝかなる事、春の終のごとし。十一日より十四日までは大雨ふり、大雪下て、今に里にきへず。山は一丈二丈雪こほりて、かたき事かねのごとし。二十三日四日は又そらはれ(晴)て、さむからず。人のまい(参)る事、洛中かまくら(鎌倉)のまち(町)の申酉の時のごとし。さだめて子細あるべきか(一八九四頁)

と、天候や造作の進み具合を述べています。雪が降り積もっていました。二三日と二四日は晴天に恵まれ寒さも和らぎます。天台大師講と延年の式典を心行くままに行った満悦な様子を知らせます。身延に大坊ができたと言うことで、大勢の人が参詣や見物しに集まります。それが京都や鎌倉の夕方のように賑やかであったのは、仏天の計らいであると感慨深く述べています。実長は所要のためか登詣されていません。

落慶式天台大師報恩の為に延年の舞が行われ、午後五時頃に堂供養が終わります。午後九時頃には「一日経」を三十余名で行います。この場所は、「御所(もと)にすえ(集会)して」とあることから実長の館と見ます。「一日頓写経」の系譜に習い、また、白拍子の「延年の舞楽」もあり盛大な式であったことが分かります。

延年の舞は天下泰平・国土安穏を祈るもので、久遠寺の落慶を祝して修しました。少年の法師二人が白い袈裟で頭を包み赤い袍(わたいれ)を着け、白い大口(袴)を窃ち短い刀を背中に佩び、中啓を持ち鼻高靴を履き立烏帽子を着けて舞います。大衆舞七番と児の舞十二番があります。これは、寺僧によって催された芸能の会で、興福寺・東大寺・多武峰・延暦寺・園城寺等の畿内の諸大寺で盛んに行われます。叡山の知古の衆徒が集まり久遠寺の繁栄を祈願されます。(『日本民族大辞典』上。二二二頁)。造作に当たった実長の子息や弟、公達の働き振りを述べ、鎌倉では銭一千貫を費やしてもできない大事行との評判を述べています。

 

「次郎殿等の御きうだち(公達)、をや(親)のをほせと申、我心にいれてをはします事なれば、われと地をひき、はしら(柱)をたて、とうひやうえ(藤兵衛)・むま(右馬)の入道・三郎兵衛尉等已下の人々、一人もそらく(疎略)のぎ(義)なし。坊はかまくらにては一千貫にても大事とこそ申候へ」(一八九五頁)

 実長に対し一日経は途中で取り止めたと伝えます。実長の祈念が叶うならば供養しても良いが、叶わなければ言葉だけになるから行わなかったと述べます。祈念の内容は不明ですが大坊建立とも思われます。二人で残りの供養を行うことを乞い、低い祈りから始めて大きな成仏という祈念が叶うように精進することを勧めます。

「ただし一日経は供養しさして候。其故は御所念の叶せ給て候ならば供養しはて候はん。なにと申て候とも、御きねん(祈念)かなはずば、言のみ有て実なく、華さいてこのみ(果)なからんか。いまも御らんぜよ。此事叶ずば、今度法華経にては仏になるまじきかと存候はん。叶て候はば、二人よりあひまいらせて、供養しはてまいらせ候はん。神ならは(習)すはねぎ(祢宜)からと申。此事叶ずば法華経信じてなにかせん。事々又々申べく候。恐々」(一八九五頁)

 

実長が落慶の式典に参詣しなかったこと、金銭などの供養に対する謝礼を述べていないことに、一日経を途中で止めた理由があるかも知れません。実長の成仏の祈念が大坊建立により成就したと考えるならば、聖人は其れを抑止したと言えます。開基檀越である実長の責任を伝えます。落慶した身延に詣でて仏祖三宝に給仕されることを強く要請していることが窺えます。

□『富木殿御返事』(三八九)

○天台大師講の布施

 一一月二九日付けにて常忍から天台大師講の霜月会に、金銭一結(一貫文)を布施された返礼の書簡です。一〇月二二日付け『富城入道殿御返事』に銭四貫文が大坊の供養として奉納されていました。真蹟は五紙完存にて法華経寺に格護されています。著述年時に『定遺』は花押の形体がバン字ではなくボロン字であることと、富木尼の病状(二回目)と照合して弘安三年とします。ここでは『対照録』に従いは弘安四年とします。

経文論釈を引き法華最第一・福過十号・五十転展を示します。そして、常忍の妻の健康状態を心配されます。自分自身のことと思い昼夜に病気平癒を祈願していると述べます。前半の漢文は常忍へ後半の和文は尼御前にと書き分けています。『富城入道殿御返事』(三六四)等に見える特徴です。伊予房にも祈願を昼夜にさせているので、心を強くもって信心に励むように述べます。常忍は「尼公所労伊予房令祈由事」と目録に記載しています。

「此尼ごぜんは法華経の行者をやしなう事、燈に油をそへ、木の根に土をかさぬるがごとし。願は日月天其命にかわり給へと申候也」(一八一八頁)

 

□『上野殿母尼御前御返事』(四一八)

○此の山出事一歩も候はず

 一二月八日付けにて時光の母に宛てた書簡です。母尼御前から「の米」(良質の米)・清酒一筒分を二〇個に分けた「ひさげ」、薬用のかつ香一紙袋が、無事に送られたことを知らせます。真蹟は六紙完存にて大石寺に所蔵されています。

一二月に入り寒さと冷えが厳しくなり、自ら老病で不食気味と言っていた痩病が悪化します。下痢で衰弱するようになった体を酒で内から暖め、かつ香の漢方薬を服して養生された喜びを述べています。

「去文永十一年六月十七日この山に入候て今年十二月八日にいたるまで、此の山出事一歩も候はず。ただし八年が間やせやまいと申、とし(齢)と申、としどしに身ゆわく、心をぼれ(耄)候つるほどに、今年は春よりこのやまいをこりて、秋すぎ冬にいたるまで、日々にをとろへ、夜々にまさり候つるが、この十余日はすでに食もほとをど(殆)とゞまりて候上、ゆき(雪)はかさなり、かん(寒)はせめ候。身のひゆる事石のごとし。胸のつめたき事氷のごとし。しかるにこのさけ(酒)はたゝかにさしわかして、かつかうをはたとくい切て、一度のみて候へば、火を胸にたくがごとし、ゆに入ににたり。あせ(汗)にあかあらい、しづくに足をすゝぐ」(一八九六頁)

 供養の喜びに浸っていたが、五郎が死去して四百日を過ぎたことを想い起こし両眼に涙が浮かぶと伝えます。

母だから五郎が訪れたことでしょう、どうして話を聞かせてくれないのですかと慨嘆します。

「満月に雲のかゝれるがはれずして山へ入、さかんなる花のあやなくかぜにちるがごとしと、あさましくこそをぼへ候へ。日蓮は所らう(労)のゆへに人々の御文の御返事も申ず候つるか、この事はあまりになげかしく候へば、ふでをとりて候ぞ。これもよもひさしくもこのよに候はじ。一定五郎殿にゆきあいぬとをぼへ候。母よりさきにけさん(見参)し候わば、母のなげき申つたへ候はん」(一八九七頁)

多くの信者に返事を書かないほど病状が悪かったことを述べ、五郎のことが偲ばれて筆を執りました。自身も死期が近いとして母尼より先に五郎に会ったら、母がどれほど嘆き悲しんでいるかを伝えると擱筆します。同日に時宗は鎌倉円覚寺を創建します。

 

□『太夫志殿御返事』(四一九)

 一二月一一日付けにて宗仲から清酒一筒、味噌一桶、生若布を供養されたことの礼状です。供物の中にも生若布は始めての供養品であると述べています。『本満寺本』に収録されています。聖人の病が重いことを聞き早々に供物を調達し、脚力のある使いを走らせました。この志に感じて礼状を送ったのでした。 

「将又病の由聞せ給て、不日に此物して御使をもつて脚力につかわされて候事、心ざし大海よりふかく、善根は大地よりも厚し。かうじん(幸甚)かうじん」(一八九八頁)

 

○御本尊(一一六)一二月

 「優婆夷一妙」に授与されています。日興の添え書きに「遠江サカラ(相良)ノ小尼給本尊也」と記しています。四大天王の書き入れはなく一紙の御本尊で紙幅と所在は不明です。御本尊(一一一)から、この御本尊(一一六)迄の、九月から一二月迄の御本尊には、四大天王の書入れを省略されており、授与者が在俗の者であり、各人の信心を勧奨されたことが窺えます。また、弘安三年から積極的に御本尊を染筆され、御本尊紙の調達が整い、体調の良い時にまとめて書かれていました。それらの染筆された御本尊を各地の弟子の要請により、授与者名を書き入れ弟子に持たせていたことと思われます。

 

□『窪尼御前御返事』(四二〇)

 一二月二七日付けにて駿河の窪尼から様々な供養を受け、良い果報となる「善根」について教示されます。『興師本』に収録されています。

善根は大きいから良いと言うのではなく、国や人、時によって変わることを教えます。糞を加工して栴檀の香木のように作ったり仏像に形作っても、火をつければ本来の糞の臭いであるように、善根の元が殺生や盗み等の悪事をして得たものであれば、還って悪業となると述べます。形だけの行ないは真の善根とはならないと言うことです。須達長者が魚商により得て建てた祇園精舎が消失したことを例えにします。武士が行う善根も同じであるとします。これらの財産は戦功により得た領地であり、人々を苦しめて蓄えたものだからです。

「今の人々の善根も又かくのごとく、大なるやうなれども、あるひはいくさをして所領を給、或はゆへなく民をわづらはして、たから(財)をまうけて善根をなす。此等は大なる仏事とみゆれども、仏にもならざる上、其人々あともなくなる事なり」(一八九六頁)

これらは大きな善根と思われるが、根元が不浄であるから本人も成仏しないだけでなく子孫も絶えると述べます。これらの罪を作らず正直に励んで善根を施しても、逆に悪道に堕ちてしまうことがあると注意します。

「人をもわづらはさず、我心もなをしく、我とはげみて善根をして候も、仏にならぬ事もあり。いはく、よきたねをあしき田にうえぬれば、たねだにもなき上、かへりて損となる。まことの心なれども、供養せらるゝ人だにもあしければ功徳とならず。かへりて悪道におつる事候」(一八九九頁)

品質の良い種であってもを悪い田に植えると種が無駄になります。還って損害になります。清い心で善根を施しても、受ける者が悪人ならば無駄になるのです。自分も悪道に堕ちてしまうのです。窪尼の供養は未熟な聖人を供養するのではなく、法華経への供養であるから、釈迦、多寶仏、十方の諸仏が受け取って下さると述べ、供養の志に感謝されます。体力が弱り寒さが厳しく生まれて始めての経験と述べています。降り積もった雪が相当な高さ迄あり、例年にない寒波が訪れたと思われます。参詣する者が少ない中の供養でした。

 

□『大白牛車御消息』(四二一)

 年時や宛名も不明な書簡です。譬喩品に「大白牛有り。肥壮多力にして形体は姝好なり。以て宝車を駕せり」と説かれた、この大きな白牛に引かせた宝車である「大白牛車」(『開結』一六一頁)について述べます。三車火宅の譬中にある羊・鹿・牛の三車を声聞・縁覚・菩薩の三乗の教えに譬え、本来は一乗であると開会した法華経を教えます。羅什釈の『妙法蓮華経』は肝要であるので、他の翻訳を参照して「大白牛車」の荘厳された模様を記します。飾り物には金・銀・瑠璃・硨磲・瑪瑙・真珠・玫瑰の七宝があります。聞・信・戒・定・進・捨・慚の七宝の意味も含むとします。この「大白牛車」に乗って霊山浄土に往詣できるとして、同じ「大白牛車」に乗って迎えに行くと優しい言葉をかけます。

□『西山殿後家尼御前御返事』(四二二)

 富士郡西山の大内三郎安清の妻に宛てた書簡です。『興師本』に収録されています。甘酒一桶・山芋・ところ(野老)が送られてきました。『梵網経』に紙一枚の供養、『大論』に土の餅を供養した故事を引き、それに比べられない供養の功徳と述べます。夫と死別し経済的にも頼りになる者もいない身であるのに、世の人に捨てられた聖人が厳寒に苦しむと思う温情に、父母に死別して以来の温かさを感じて涙すると悦びます。聖人は劣悪な凡夫であるが、法華経は愚劣な経典ではないとして、愚鈍の者が成仏してこそ法華経の力が証明されると述べます。聖人の臨終が悪相であったらなら責任を取るとして、逆説的に法華経の経力の強さと真実性を示します。

「日蓮はわるき者にて候へども、法華経はいかでかおろかにおはすべき。ふくろはくさけれどもつゝめる金はきよし。池はきたなけれどもはちすはしやうじよう(清浄)也。日蓮は日本第一のえせ(仮)もの也。法華経は一切経にすぐれ給へる経也。心あらん人金をとらんとおぼさば、ふくろをすつる事なかれ。蓮をあい(愛)せば池をにくむ事なかれ。わるくて仏になりたらば、法華経の力あらはるべし。よつて臨終わるくば法華経の名をりなん。さるにては日蓮はわるくてもわるかるべし、わるかるべし」(一九〇二頁)

 

□『妙法尼御前御返事』(四二三)

 『本満寺本』に収録されています。弘安二年五月とする説があります。駿河岡宮の妙法尼から「明衣」(ゆかたびら・みょうえ)を供養された礼状です。「明衣」は神に奉仕する者や、仏忌のために沐浴して身心を清める時に着用する白衣のことです。僧侶は緇衣(しえ。黒色の衣)と決められていましたが、入湯や夏季の暑い時に本衣の下に着用していました。

 夫と死別し親類や二人の娘とも便りがない妙法尼の身の上を案じています。夫は臨終に題目を唱えたことを弘安元年の書状に伝えています。(『妙法尼御前御返事』一五三五頁)。同年の六月二十二日に兄の尾張次郎兵衛尉も死去していました。法華経の信仰者であることから近辺の者から憎まれたとあります。妙法尼の信心は不軽菩薩のようであることから、親類や娘と疎遠になったのは信仰の問題と思われます。強信の女人であったことが窺えます。

 釈尊の伯母である摩訶波闍波提比丘尼は、釈尊の勧めにより出家し修行を重ねたが、爾前経においては永不成仏とされ、どれほど悔しく恥ずかしかったであろうが、法華経の教えにより一切衆生喜見仏となった時は、どれほど嬉しかったことかと勧持品を引きます。この勧持品において釈尊は末法の弘通者を募ります。一切衆生喜見仏は女人の身ではあるが、法華経には決して背かないと決意します。しかし、釈尊がこの誓いを棄却された理由を考えれば、女人は仏道のために命を捨てることは出来ないと判断されたと述べます。

「されば女人は由なき道には名を折命を捨れども、成仏の道はよはかりけるやとをぼへ候に、今末代悪世の女人と生れさせ給て、かゝるものをぼえぬ島のえびす(夷)に、のられ、打れ、責をしのび、法華経を弘めさせ給。彼比丘尼には雲泥勝てありと仏は霊山にて御覧あるらん。彼比丘尼の御名を一切衆生喜見仏と申は別の事にあらず。今の妙法尼御前の名にて候べし。(中略)此娑婆世界にて名を失ひ命をすつる尼也」(一九〇四頁)

妙法尼はこの末代にあって艱難を忍び法華経を弘通していることを、釈尊は霊山にてご覧になっていると褒めます。一切衆生喜見仏と言う名前の由来は妙法尼の功績に相当すると述べます。釈尊は伯母を救い他人を捨てるようなことはしない、「其中衆生悉是吾子」と説くように妙心尼を捨てることはないと述べ、この道理を自覚して信心を深めるように書き送ります。