325.『四条金吾殿御返事』(424)~『上野殿御書』 (431) 髙橋俊隆 |
◎六一歳 弘安五年 一二八二年 聖人の身体は徐々に弱り書簡も極端に少なくなります。確実な真蹟七書に代筆の書状が二書となります。(『対照録』は『桟敷女房御書』を弘安五年二月一七日とします)。弘安期における曼荼羅染筆は元年が一二幅、二年が一二幅、三年が三一幅、四年が一五幅、五年は正月が三幅、四月に二幅、六月に二幅の七幅が伝えられます。
□『四条金吾殿御返事』(四二四)
○吉事には八日
頼基から正月の供物として満月のような餅二〇個、甘露のような清酒一筒を送られた礼状です。真蹟は断片二行が高知要法寺に所蔵されています。『本満寺本』に収録されています。『境妙庵目録』は弘安四年とします。 一月七日付けにて八日の釈尊の降誕に三二の不思議(『仏説太子瑞応本起経』)な現象があったとして、その内の五つを挙げ、この吉瑞にあやかり吉事には八日を選ぶことになったと述べます。 「春のはじめの御悦は月のみつるがごとく、しを(潮)のさすがごとく、草のかこむが如く、雨のふるが如しと思食べし。抑八日は各各御父釈迦仏の生させ給候し日也。彼日に三十二のふしぎあり。一には一切の草木に花さきみなる。二には大地より一切の宝わきいづ。三には一切のでんばた(田畠)に雨ふらずして水わきいづ。四にはよるへんじてひるの如し。五には三千世界に歎のこゑなし。如是吉瑞の相のみにて候し。是より已来今にいたるまで二千二百三十余年が間、吉事には八日をつかひ給候也。然るに日本国皆釈迦仏を捨させ給て候に、いかなる過去の善根にてや法華経と釈迦仏とを御信心ありて、各々あつまらせ給て八日をくやう申させ給のみならず、山中の日蓮に華かう(香)ををくらせ候やらん。たうとし、たうとし」(一九〇六頁)
世の人々は尊い釈尊を捨てている中に、釈尊降誕の八日に皆が寄り集まって供養されていること、聖人にも華香を送られました。宛名に「人々御返事」とあり頼基の講中の信者に宛てられています。頼基は木造の釈迦仏を開眼供養し、八日講を開いて信徒を集め供養していました。『八日講御書』とも称します。
□『上野郷主等御返事』(三二六)
一月一一日付けにて上野郷主から餅二〇枚を供養された礼状です。『定遺』に新加された御書で真蹟一紙が高知の要法寺に所蔵されています。寺尾英智氏は弘安五年とします。 「上野郷主等」とは時光の郎従と言われており、日興の『本尊分与帳』に「上野殿家人」とある上野弥三郎重光、上野中里貝太郎等の日興の直弟子と言います。 正月の餅を供養され徳勝童子が土の餅を仏に供養して大王として生まれた故事を引き、この供養された餅は本物の餅であるから金の餅と表現し、この功徳により後生は成仏し現世も利生があると述べます。
□『内記左近入道殿御返事』(四二五)
一月一四日にて内記左近入道に宛てた書簡です。真蹟は追伸の三紙完存にて堺妙国寺・東京本行寺に所蔵されています。内記左近については不明です。内記と言う職は律令制では中務省に属し、詔勅等の草案を作り叙位の文書交付や記録を扱っています。儒者で文才のある人が選任されます。左近は左近衛府のことで宮中の警固や行幸の警備に当ります。天皇に近く宮中の警護や行幸の供奉をしていた人になります。 御器の礼は富士出身の日弁から聞くように述べていること、また、内房(内房尼と内房女房は母子です)にも伝えるように述べていることから、内房近辺に住む人物と思われます。内房尼の夫は大中臣氏の出自であること、越後公御房と尊称していることから地位の高い人物と思われます。日弁は熱原法難の後に下総の常忍に保護され、房総方面を弘通されていたので、日弁を使いとして聖人と関わりを持っていたと思われます。 「追申。御器の事は越後公御房申候べし。御心ざしのふかき由、内房へ申せ給候へ。春の始の御悦、自他申篭候了。抑去年の来臨は曇華の如し。将又夢歟幻歟。疑いまだ晴ず候処に、今年之始深山の栖雪中の室え、経於多国御使、山路をふみわけられて候にこそ、去年の事はまことなりけるやまことなりけるやとおどろき覚へ候へ。他行之子細、越後公御房の御ふみに申候歟」(一九〇七頁)
春の喜びを愛で、内記左近は前年の弘安四年にも身延に登詣されたことを、曇華の花が咲き夢のように嬉しかったと述べます。この度も雪中の大坊に使いを向けたことを感謝します。他行とは家を出て外へ行くことです。聖人が外出して内記左近と会えなかったという解釈がありますが、ここでは日弁が下総方面に他行した子細は、日弁に持たせた書簡に記していると解釈します。
□『春初御消息』(四二六)
一月二〇日付けにて時光から米一俵・塩一俵・蒸し餅三〇枚・芋一俵を供養された礼状です。『本満寺本』に収録されています。日興から時光の伝言や状況を聞いて喜ばれます。日興は時光の指導をされていました。
「春の初の御悦、木に花のさくがごとく、山に草の生出がごとし、と我も人も悦入て候。さては御送物の日記、八木一俵・白塩一俵・十字三十枚・いも一俵給候了。深山の中に白雪三日の間に庭は一丈につもり、谷はみね(峰)となり、みねは天にはし(梯)かけたり。鳥鹿は庵室に入、樵牧は山にさしいらず。衣はうすし食はたえたり。夜はかんく(寒苦)鳥にことならず。昼は里へいでんとおもふ心ひまなし。すでに読経のこえもたえ、観念の心もうすし。今生退転して未来三五を経事をなげき候つるところに、此御とぶらひに命いきて又もや見参に入候はんずらんとうれしく候)(一九〇八頁) この三日間の内に雪が積もり寒さが厳しい中でも、越年して春に向かう悦びを伝えます。飢えに負け修行が絶え退転して三五の塵点を経る気持ちであった時に使者からの供養に重ねての悦びを述べます。釈尊は過去世において、今と同じような乱世に法華経の行者を供養して仏となったように、この供養の功徳により慈父の成仏は疑いなく、五郎は霊山浄土に詣でて父から頭を撫でられていると思えば、涙が溢れ抑えられなと伝えます。 『本満寺本』には追書として、「一紙に申す事恐入て候。返々ははき殿一々によみきかせていさせ給へ」とあります。『南条殿御返事』(一一四七頁)の追伸と相応しています。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇九二六頁)。時光への書簡は短文にて申し訳ないが、日興より聖人の伝言や様子を聞いて欲しいと追い書きされます。
○御本尊(一一七)一月
紙幅は縦九五.五㌢、横四七㌢、三枚継ぎの御本尊です。茂原の鷲山寺に所蔵されています。
○御本尊(一一八)一月
「俗安妙」に授与されています。紙幅は縦六五.五㌢、横四七㌢、二枚継ぎの御本尊です。静岡県の天城湯ヶ島町の妙本寺に所蔵されています。
○御本尊(一一九)一月
「俗日専」に授与されています。紙幅は縦九四.五㌢、横五三㌢、三枚継ぎの御本尊です。沼津市の下河原の妙海寺に所蔵されています。
□『春の始御書』(四二七)
一月頃の書簡とされ一紙五行の断片を東京の松平氏が所蔵されています。新年の喜びを伝えた書状の部分のみが残っています。宛先なども不明です。この一月は比較的に体調が良かったと思われます。
□『桟敷女房御返事』(四〇一)
二月一七日付けにて桟敷女房から帷子用の白布一切を供養された礼状です。真蹟は二紙完存にて和歌山了法寺に所蔵されています。著作年時を『定遺』は弘安四年とします。聖人の病が悪化していることを述べる文章から、『対照録』に従い弘安五年とします。 十種供養の中に衣服を供養する内でも僧侶に供養することが最上であり、過去に十万億の仏を供養した善因により、法華経の教えを授かることができると示します。(法師品『開結』三〇六頁)。法華経に値遇し難いとして供養の功徳を褒め、信心を勧めていることが窺えます。桟敷女房への礼状が短文であることを謝している文面に、聖人の病状を見ることができます。
「あらあら申べく候へども、身にいたわる事候間、こまかならず候」(一八六〇頁) と、簡略な文章であるのは身に病があるためで心が行き届かないと述べます。極度な病通があり衰弱していたkとが窺えます。二月二十二日に岡宮の妙法尼が死去します。
□『伯耆公御房消息』(四二八)
○時光の病
二月二五日付けにて日興に宛てた書簡です。日朗の自署名と花押があり真蹟が大石寺に所蔵されています。聖人の花押はありませんが意思を代筆させました。このとき日朗は身延に在山していました。 日興から時光(四〇歳)が病気平癒のため栗毛の馬を奉納したことを伝えます。熱原法難の辛苦もあり前年より体調を崩していました。日朗は鹿毛馬を聖人にお見せしたことを報告します。書き持たせた薬王品の文は、聖人の母親を蘇生させた二八文字であることを告げます。聖人は定業であってもこの度だけは治癒させて欲しいと、閻魔王に誓願を立てたと伝えます。経文を灰にして精進河の水に混ぜて服す方法を伝えます。
「然に聖人の御乳母のひとゝせ(一年)御所労御大事にならせ給い候て、やがて死せ給いて候し時、此経文をあそばし候て、浄水をもつてまいらせさせ給いて候しかば、時をかへずいきかへらせ給いて候経文也。なんでうの七郎次郎時光は身はちいさきものなれども、日蓮に御こゝろざしふかきもの也。たとい定業なりとも今度ばかりえんまわう(閻魔王)たすけさせ給へと御せいぐわん候。明日寅卯辰の刻にしやうじがは(精進河)の水とりよせさせ給い候て、このきやうもん(経文)をはい(灰)にやきて、水一合に入まいらせ候てまいらさせ給べく候」
□『法華證明鈔』(四二九)
二月二八日付けにて時光の看病をしている日興へ宛てた書簡です。時光の病気平癒の護符の作法を知らせたのが『伯耆公御房消息』です。それから三日後に自筆された身延最期の書簡になります。真蹟は第二紙の前半と宛名が欠失しますが、九紙完存にて西山本門寺等に所蔵されています。 時光へ病魔を克服するように励まします。末代に法華経の行者となる者は、過去に十万億の仏を供養した者であると釈尊は説いたが(法師品)、末代の凡夫は疑うので多寶仏は真実であると証明し、更に十方の諸仏を集め広長舌を示して真実であることを証明させたとを述べます。末代に法華経の一字でも信じる者は、十方諸仏の心を持つことになるので、このような徳を持った過去の因縁を悦びます。法華経だけを信じたわけではなく謗法の罪もあったので貧賤の身として生まれたが、過去に仏を供養した功徳により法華経を信じる身になったと述べます。しかし、この罪により謗法得益を得るとして、妙楽の「因謗得益必由得益、如人倒地還従地起」の『文句記』の文を挙げます。地に倒れた人はその地によって起き上がります。法華経を謗った人は地獄等の三悪道や人界・天界の地に倒れても、それが縁となり法華経の力に救われて仏になることを教えます。 謗法の者でさえ成仏できるのであるから、まして強盛な信仰をしている時光の成仏は疑いないと述べます。その時光を病気にしているのは退転させようとする天魔・鬼神の企みであるとします。人の命は限りがあるから驚いてはならないと諭します。時光を悩ます天魔・鬼神に対し、改心をして病気を平癒し守護するように諫言します。聖人の誓願を伝えたのです。
「しかるにこの上野の七郎次郎は末代の凡夫、武士の家に生て悪人とは申べけれども、心は善人なり。其の故は日蓮が法門をば上一人より下万民まで信給はざる上、たまたま信人あれば、或は所領或は田畠等にわづらひをなし、結句は命に及人々もあり。信がたきにちゝ故上野殿信まいらせ候ぬ。又此者嫡子となりて、人もすゝめぬに心中より信まいらせて、上下万人にあるひはいさめ、或をどし候つるに、ついに捨る心なくて候へば、すでに仏になるべしと見へ候へば、天魔外道が病をつけてをどさんと心み候か。命はかぎりある事なり。すこしもをどろく事なかれ。又鬼神めらめ此の人をなやますは剣をさかさまにのむか。又大火をいだくか、三世十方の仏の大怨敵となるか。あなかしこあなかしこ。此の人のやまいを忽になをして、かへりてまほりとなりて、鬼道の大苦をぬくべきか。其義なくして現在には頭破七分の科に行れ、後生には大無間地獄に堕べきか。永くとどめよ永くとどめよ。日蓮が言いやしみて後悔あるべし、後悔あるべし」(一九一一頁) 時光の病気は平癒し正慶元(一三三二)年九〇歳にて没するまで法華経の信仰を貫きました。
□『莚三枚御書』(四三〇)
末尾がないため年時は不明です。真蹟の四紙迄の断片は大石寺に保存されます。弘安四年一二月八日の『上野殿母尼御前御返事』(一八九六頁)に、文永十一年六月十七日の入山より一歩も身延から出たことはないとあります。この文章により系年を弘安五年としました。弘安四年三月一八日付けの『上野殿御返事』(一八六一頁)に「御けさんはるか」とあること、時光の病気平癒の依頼と回復して身延に登詣したことから『定遺』の通りとします。 三月の上旬に時光から筵三枚と生若布一籠が送り届けてきました。伊豆田方郡南条に所領を持っており、仁田郡に姻戚の新田信綱がいます。蒲原庄にも所領を有しており、これらの方面から聖人の好物であった生若布を取り寄せた思います。 「三月一日より四日にいたるまでの御あそびに、心なぐさみてやせやまいもなをり、虎とるばかりをぼへ候上、此御わかめ給て師子にのりぬべくをぼへ候」(一九一三頁)
聖人の護符や祈願が叶い時光は平癒して身延に報告に上がります。三月一日より四日まで親しく語り合いました。痩病で元気がなかった聖人の喜びが窺えます。筵の使用法は筵を「財」と表記していることから、御宝前の読経の為か室内の寝所に敷いて寒さを凌いだと考えられます。億耳居士と言う長者は足の裏に毛が生えており、足の裏を保護することの果報を説きます。敷物を供養する尊さは過去世に高僧に熊の皮を敷かせた功徳と述べます。時光は末代の辺国において、しかも、熱原法難には法華経の行者としての名声を示し、筵を法華経に供養した功徳により仏座に登ると述べたことが窺えます。 「末法になり候ぬ。仏法をば信ずるやうにてそしる国なり。しかるに法華経の御ゆへに名をたゝせ給上、御むしろを法華経にまいらせ給候ぬれば(以下欠失)」(一九一三頁) ○御本尊(一二〇)四月
「沙門天目」に受与されます。紙幅は縦九三㌢、横五〇.九㌢、三枚継ぎの御本尊です。京都本隆寺に所蔵されています。左下に他筆にて「禅□」と書き削損した跡があります。また、卯月の下に「二」の字を加え二日としています。誰が書き加えたかは不明です。
○御本尊(一二一)四月
「俗藤三郎日金」に授与されます。紙幅は縦九三.六㌢、横四八.八㌢、三枚継ぎの御本尊です。四大天王が省略されています。堺の妙国寺に所蔵されています。
○御本尊(一二二)六月
茂原の鷲山寺に所蔵されています。紙幅は縦六七.九㌢、横四五.八㌢、二枚継ぎの御本尊です。
○御本尊(一二三)六月
京都本国寺に所蔵されています。紙幅は縦六七.六㌢、横四四.五㌢、二枚継ぎの御本尊です。体調不良の中にも御本尊を染筆され、法華経弘通に身命を捧げた行者の姿勢を窺うことができます。
□『上野殿御書』(四三一)
八月一八日付けにて時光から館を新築するため棟札を依頼された返書です。『延山本』に収録されています。著作年時に健治元年の説があります。建治元年頃の時光の状況は、法華信仰に対する迫害があり弘安二年の熱原法難に展開しました。住居を新築する余裕はなかったと考えられます。(鈴木一成著『日蓮聖人遺文の文献学的研究』四二六頁)。弘安五年とすることについて、聖人は前年の一二月頃より病状が悪化しており、この棟札を授与することに疑念があり、健康状態から建治元年が妥当とされますが、本書の成立については検討が必要とされます。(小松邦彰稿「日蓮遺文の系年と真偽の考証」『日蓮の思想とその展開』所収一〇九頁)。 時宗は異国征伐を中止し防塁を修理し延長すことを命じます。八月に叔父時定を博多に派遣して異国警固番役を監視させます。
○棟札
時光が館を造作することを喜び、いつの日にか訪ねて移転の祝いをしたいと述べています。依頼を受けた棟札は、これを携えた日興に持たせることを約束し棟札の由来を述べます。須達長者が造営した祇園精舎が七度まで火災に遭います。その火除けを頼まれた釈尊は、須達長者の家族が強欲なために火災に遭遇すると説きます。これを防ぐには、南東に向かって身心を浄めれば光が射して三人の鬼神が現れる。鬼神は鳴忿(めいふん)と言う瑞鳥がいる所には火災がないので、この鳥が唱える文を唱えれば火災を逃れることができると言う故事を挙げます。化城喩品(『開結』二四四頁)の「聖主天中天迦陵頻伽声哀愍衆生者我等今敬礼」の文を示し、この由来により棟札にはこの経文を書くことを教えます。詳細は日興に教えていると述べます。
○供養の品
身延の聖人の元には多くの供養の品が届いています。衣類では綿衣・墨染めの衣・紙衣・袈裟・帷子(かたびら)一領・小袖二着・綿一〇両等があります。金銭では鵞目一結(がもくひとゆい。一結は銭を穴に通した一連)・単衣(ひとえ)一領の金銭の布施があります。食料品としては、米・麦・海苔・酒・柑子(ミカン)・こんにゃく・牛蒡・芋頭・青大豆・若芽(わかめ)・餅・芋・大根・油・柿・菓子・ひじき・昆布・干し柿・栗・筍、茄子・十字(むしもち饅頭)・味噌・甘酒・飴・茗荷(みょうが)・塩等が供養として奉納されています。また、頼基から胃腸病の治療と、滋養を養うために漢方薬が送られています。お酒については『金光明経文句記』「酒の清める者を謂いて聖人となす」とあり、聖人は「すみざけ」と言います。このように九ヵ年の在山中に数々の供養の品を受けていましたが、老年となり肉体は衰えました。
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