333.日蓮聖人の出自を知る意義 髙橋俊隆 |
『撰時抄』に生国の恩を報じるために法華経を弘通されたと述べています。(一〇五五頁)。生国は日本国であり生地の東条郷を指していると思います。日蓮聖人の思想と行動は生地に東条御厨があったこと、そして、清澄寺の虚空蔵菩薩の存在は大きな影響を与えたと思われます。さらに、その根底に父母の存在が大きく責任感のある日蓮聖人へと成長させたと言えましょう。遺文に日本国の繁栄を願う強い国家観と、父母への追慕の感情が多く述べられ、孝養の大切さを説いた孝養観の原点にあるのは父母の愛情と教育にあったと思われます。鎌倉時代においては武士でも識字能力に欠けていたときに、高度な教育を受けていたことから、両親もこれに匹敵される能力と出自であることが窺えます。 本書はその父母はどのような人物であったのか、それが、どのように日蓮聖人に肉薄されたのかを追求したく思います。 日蓮聖人の父親は遠江国貫名郷の領主であった貫名重忠という武士、母は下総国大野郷の領主で、故実の博士である大野吉清の娘という説があります。日蓮聖人の初期教団の要となった信者や弟子たちはどのような出自の人であったのかという視点からみますと、実に貫名氏と大野氏の関係者が多いことに驚きます。つまり、日蓮聖人が最初に教化されたのは親族であったのです。それらの血縁者に庇護を受けて基盤を形成されたことが窺えるからです。そのような父母の教育を受けたこと、そして、承久乱後の騒然とした世相にあったこと、さらに、天皇を尊崇する部民の多い東条郷に育った環境が少年期の日蓮聖人に多大な影響を与えたと思います。幼い善日麿が求め願った道は、法華経の行者への使命として深まりました。本書においては、これまでの先学の研究を基に、新たに日蓮聖人の遺文から育った家庭環境と父母の教育、東条郷の特殊な環境から影響を受けたと認められる記事をあげます。そこから日蓮聖人の父母や親類縁者の実像を明らかにします。それら有縁の人たちが縦横につながって、鎌倉幕府と対峙しながら初期教団を形成した様相を考察します。 「幼少期」に視点をあてることは、『報恩抄』に清澄寺にての兄弟子の浄顕房と義浄房の訓育について、 「但各々二人は日蓮が幼少の師匠にてをはします」(一二四〇頁) と、自ら「幼少」とのべており、本書の目的は日蓮聖人が自らの意思と目的をもって清澄寺に入られたのか、その思想形成に感化を与えたと思われるのは父母の存在であり、とくに出自は日蓮聖人の宗教性に強い影響を与えた、その幼少期に視点をあてるものです。 日蓮聖人の出自についての確実な史料は少なく、伝承により構成されたものが多いと言えます。父母兄弟の出自や俗柄の名前に触れた「遺文」は残っていませんでした。(『日蓮宗読本』九七頁)。日蓮聖人の書状のなかに語られていたが伝来しなかったのでしょうか。あるいは、出家という在俗から離れた立場から、出自についてこれ以上のことを語る必要がなかったのでしょうか。故郷の信者からは音信がありましたので、弟子たちには周知のことであっても父母や親族にふれた書状はほとんどないのです。信者からの書状が残らなかったのは、再生紙にされたのかもしれません。 父母の成仏を一生の願いとし、忍難の功徳を父母成仏に充てたほどの孝養心を持ちながら、父母になんらの音信をしないのは、普通に考えれば不自然なことです。東条景信によって東条郷には入れない状態であったとのべているので、この状況からすれば父母との音信が満足にできなかったと思われます。 事実、立教開宗より一一年を経た、文永元(一二六四)年一一月一一日に、東条の小松原にて刀傷の難にあい数名の弟子信徒が殉死します。夕方の薄暗いころを見計らって移動していた、そのときを狙って襲撃してきました。あきらかに日蓮聖人を殺害するのが目的でした。ただし、道善房や工藤吉隆と論談していますが、このときの目的は母の延命のため東条郷に入ったと考えられており、ひそかながらも生家との連絡があったということになります。しかし、小松原法難のあと東条景信は変死し、東条郷の出入りはゆるやかになります。また、後述するように弟の藤平の存在は兄弟とまったく疎遠であったとは言えないことを示しています。日蓮聖人が父母兄弟の痕跡を残さないよう指示していたとすれば、当時の幕府関係者と敵対関係にあった系譜であり、それが信徒にも及ぶ危惧があったことになります。源氏から北条に移ったとはいえ、次第に得宗家の支配する時代であったのです。その後の『伝記』にも詳細に記述されているとはいえませんでした。日蓮聖人の滅後においては『伝記』よりも、富木常忍の『常修院本尊聖教事』にみられるように、御書の収集と整備、そして、管理を積極的に行なったとみるべきです。富木氏をはじめ諸門流が収集を第一義とした功績により、現在まで大量に保存されてきたのです。 このことから窺えることは、日蓮聖人にとって父母のことを詮索するのは、過去の戦乱を蒸し返すことであり、不必要とされたのです。今日の研究においては、日蓮聖人が高度の学問を修得した能力、それを援助した人々の存在、そして、何よりも鎌倉弘教における強靱な行動力と、武家達が檀越となっていたことから、武家説が有力とされます。しかし、「遺文」においては賤民説となります。日蓮聖人の現状と内面的な出自は「貧窮下賤の者」(『佐渡御書』六一四頁)と、現実の自分の立場を素直に受けとめ、いかに生きていくかを追求していたというべきでしょう。武士や公家の出自ではなく「民の子」として、片海の岩場のある浜辺で元気に生まれ育った漁民の子、「旃陀羅の子」であるという現実を変える必要はなかったのです。日蓮聖人が両親などの家柄について敢えてのべていないのは、身分や職業というものは戦乱の時勢により変わる、現世の無常のあらわれであり、直視したのは人間の生き方であったと思われます。日蓮聖人の両親は旃陀羅として殺生の罪の意識を持たれていたのでしょう。仏道に救いを求めている両親を目の当たりにして、いかにその苦しみから救われるか、ということが大事だったのです。すべての人間は肉体をもった畜身であり、それは貴賎上下を隔てるものではありません。そのような者でも法華経を信仰することにより、釈尊のような仏になれることを示されたと受容すべきでしょう。 日蓮聖人の孝養観から両親の慈愛を受けて育ったことが窺え、人間として正しく生きる教育をされたことが想起されます。幼少時の教育があったから清澄寺に入山されて経典などを読破でき、学究心は鎌倉遊学、比叡山遊学へと進みました。 日蓮聖人の両親はどのような家系の人だったのか、また、清澄寺入山ができる格式のある家柄であり、遊学の資金援助と人脈があったことが考えられます。また、立教開宗後も有力武士たちが信徒となり庇護されたことは偶然ではないと考えます。日蓮聖人の家系と何等かの関係があり両親との繋がりも考えられます。 本稿においては日蓮聖人の思想と行動が両親の教育と深く関連し、両親と日蓮聖人の信徒の繋がりを考察したいと思います。
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