335.日蓮聖人と六老僧の親族信徒について 髙橋俊隆 |
北海道西部宗務所主催教学研修会 令和5年12月4日 於瑞玄寺さま 日蓮聖人と六老僧はどのように親族の人脈を動かし信徒たちに影響を与え合ったのか? その信徒集団の立場は幕府にどのように関わりあっていたのか、その敵対関係により迫害を受け続けたのではないか、という基礎的知識となると思います。 六老僧の生没年と、日蓮聖人が入寂されたときの年齢を挙げました。順序は入門された順番です。 ○六老僧 日蓮聖人ご入滅のとき 日昭上人 1221~1323 建長5年 62歳 日朗上人 1245~1320 38歳 日興上人 1246~1333 37歳 日向上人 1253~1314 30歳 日頂上人 1252~1317 31歳 日持上人 1250~1295 33歳 中老僧(ちゅうろうそう)は、日蓮宗に於いて六老僧に準ずる日蓮の直弟子のこと。人数は資料により異なりますが十八人とされます。 日門(仙台孝勝寺)・日弁(鷲山寺)・日忍・日法・天目・日源(実相寺・日傳(小室妙法寺)・日位(池田本覚寺)・日賢(法兄日源 法明寺)・日秀・日家(誕生寺)・日保(興津妙覚寺)・日合(工藤氏 野呂妙興寺)・日實(沼津妙海寺)・日得(佐渡妙宣寺)・日高(中山法華経寺)・日満・日進(身延) 彫刻の名手といわれる日法上人がいます。池上本門寺・鎌倉妙本寺の日蓮聖人の尊像を造られたといいます。小室妙法寺の日伝・阿仏坊日得上人など、年齢から見ますと六老僧の方が若いので、師弟関係を結ばれ死身弘法の覚悟ができている方が六老僧に選ばれ、日蓮聖人滅後の中心となるリーダーといえます。 日昭上人 母桟敷尼(妙一尼)ぼた餅供養・叔父伊東祐時・姉池上康光の妻と甥の池上宗仲と宗長・兄印東祐信の妻桟敷女房・妹妙朗尼と甥の日朗・日像・日輪・妙恩尼 宗仲の妻日女御前 の名前が見られます。 日昭上人は下総猿島郡印東(いんとう)領能戸村に生まれています。姓は藤原、氏を印東、父は印東次郎左衛門尉祐昭、母の桟敷尼は工藤祐経の娘とあります。一般にはこの説が用いられています。日昭上人の(兄)印東祐信は御所の桟敷を守護する役をしており、この関係から御所の桟敷、今の雪下の西の小路に住んでいました。 印東(いんとう)というのは、「いとう」とも読み、本来は「いとう」が正しいようです。そのわけは伊豆の「伊東」氏の系譜であり、その上は「工藤」氏になります。 工藤祐経 伊東祐時 印東祐昭 印東祐信 と工藤から伊東に変わっていきます。 日昭上人は母の縁がある左大臣近衛兼経の猶子となり比叡山に入山しています。この兼経の娘が宰子です。宰子の夫は六代宗尊親王で、その子供が七代将軍の惟康親王です。日昭上人の兄は宗尊親王の近臣であり、名越家も将軍を守る役目をもっており、日蓮聖人と将軍家の関係が深い理由は、将軍家の近臣が檀越であったことが分かります。 日昭上人と近衛家との関係はしばらく続いています。のちに、日像上人が京都に入り、その弟子となった大覚妙実は関白近衛経忠(つねただ 兼経から四代目)の子です。つまり、日像上人が京都へ進出したのは、近衛家の支援があったからといえるのです。 姉は池上左衛門大夫康光の妻であり、その子供が池上宗長と宗仲です。日昭上人と従兄弟になります。日蓮聖人は比較的に池上宗仲・宗長の兄弟やその妻には、厳しい言葉を述べています。遠慮をしないで述べておられるのは、日昭上人の親族であったからと思われます。このような日蓮聖人の言葉から、どのくらいの近い檀越なのか、或いは親族ではないかと窺えるところがあります。 日朗上人 次の日朗上人ですが、日昭上人の妹が母親になります。妙朗尼といいます。妙朗尼は下総国(千葉県)海上(うなかみ)郡能手郷の平賀二郎有国の妻となり日朗上人を生みます。夫が早世したため平賀左近将監忠治に再嫁し、生まれた子供が日像と日輪上人です。また、妙恩日女比丘という娘がいたとあります。日像上人の姉で平賀家と遠州の金原法橋氏とは縁が深いとありますが、その記録は戦乱のため亡失したといいます。 母妙朗尼と義父平賀忠治と義兄弟の日像・日輪・妙恩尼・伯父の日昭上人の関係が分かり、日昭上人が子供の経一麿を連れて身延山に登った関係も分かります。 1320年(元応2年)に亡くなった日朗は、「自分が最初に出家をし、黒髪を剃り落とした懐かしい松葉ヶ谷で荼毘に付してほしい」と遺言していたことから、安国論寺で火葬され、猿畠山えんばくさん(法性寺)に葬られました。お猿畑は比叡山の「山王大権現」が祀られています。天台宗の鎮守神。日吉権現、日吉山王権現のことで、鎮守されている村人たちがいました。 お猿畑は日蓮聖人が立教開宗され名越に入る前に、ここに滞在され、松葉ヶ谷法難にて避難された場所です。「猿畠山」の謎解きをいいますと、「白猿の正体は畠山氏の一族であったということも言えます。 日頂上人 母妙常尼と継父の富木常忍・弟日澄上人がいます。父は小林伊予守定時(橘伊与守定時)ともいいます。駿河(静岡県)重須に生れました。俗姓は南条氏。父親の伊予の名前により伊予阿闍梨と称されます。 母は離別後、富木常忍の後妻となり妙常尼と言います。御遺文には「富木尼」「富木殿女房」と言われます。父親は富士郡の役人を兼ねた農業家で、熱原神四郎国重とされます。熱原法難の指導者の一人、越後房日弁は国重の長男であり、相模原長福寺開山の下野しもつけ阿闍梨日忍は日弁の弟に当る。また佐野妙顕寺開山天目は国重の孫とされます。 日頂上人は下総国八幡荘若宮(現在の千葉県市川市若宮)の富木常忍の養子となり、幼くして日蓮に師事されます。日蓮聖人の佐渡配流の際にも随行されています。 日蓮聖人が富木常忍に宛てた手紙に、日頂上人は「学匠」となって行学二道に励んでいる、「器量者」と書かれていますように、母親に心配されないようにとの配慮が窺えます。しかし、日頂上人は日蓮聖人の滅後に富木常忍より勘当されます。理由に日蓮聖人の3回忌に遅参したためとか、真間弘法寺の別当、及川宗秀から排斥されたなどと言われますが、明白ではありません。ただ、日蓮聖人は富木常忍には非常に気を遣われていたことが窺えます。 日蓮聖人と富木常忍との関係については、下総局の存在が非常に重要になります。桟敷尼と下総局は千葉氏の出自で従妹になります。日蓮聖人の教団の下総を中心とした房総は下総局が代表となり、鎌倉は言うまでもなく桟敷尼が代表となり、この二人の存在は大きなものでした。 さらに、推察になりますが、私はここに「ぬきなの御局」の存在があったと思います。下総局や桟敷尼たちが、なぜ日蓮聖人を守ったのか、ということを考えますと、系図がとても分かりやすくなります。その系図にぬきなの御局が連なると考えた方が分かりやすくなります。 日向上人 母光日尼・父男金実長。兄新大夫入道と弥四郎・伯父の佐久間重吉と日家上人・従弟の日保上人・従叔父 いとこおじが日蓮聖人になります。 男金(おがね)藤三郎実長の子で、民部阿闍梨は祖父の小林実信の民部に因みます。日向上人の生まれた所について2説あります。一つは上総国藻原(現在の千葉県茂原市)の生まれ。もう一つは鴨川市の男金です。現在、男金に「日向上人の生地」という碑があるそうです。 『本化別頭仏祖統紀』によりますと、俗姓は小林氏。父の民部実信は藤原氏の出身で北面衣冠の武士であった。元久元年(一二〇四)実信は日蓮聖人の父重忠と共に伊勢平氏に与して破れ、上総藻原郷にながされた。のち、赦免されて京都へ帰った。その子の実長は留まり男金に住み、上総興津の佐久間兵庫の妹を娶ったとあります。 母親は「光日尼」あるいは「光日房」「光日上人」といわれます。日蓮聖人は故郷の思いや父母について回想されるのは、幼いときから親交があったためと思います。同じように「新尼」にも故郷の両親を思い出すというお手紙を書かれていますように、日蓮聖人に近い人であったことが系図より知ることができます。 女性の光日尼に「光日房」「光日上人」と宛名を書かれたこと、そして、その手紙を親しい人にも見せないようにとか、清澄寺の『聖密房』に手紙を預けておくようにと述べていますが、どのような理由によるものでしょうか。東条氏などの迫害があったため、三澤氏や光日尼のような摂受的な方法をたれた信者が多数いたと言えましょう。 『御遺物配分事』に安房の国の新大夫入道、かうし(向師)後家尼(母親の光日尼のこと)、日蓮聖人の弟の藤平、そして清澄寺の兄弟子の浄顕房、義成房の名前があります。兄弟子も兄弟とも考えられます。日蓮聖人の父親、貫名重忠の系統が日向上人に繋がっていたことが分かります。 日蓮聖人の母親の大野の系図からは、曽谷教信・金原法橋浄蓮房や、大進阿闍梨・大田乗明などに繋がり、大田乗明から富木常忍に繋がって行きます。山崎兼良の娘と言うよりは大野吉清の娘の方が親族に日蓮聖人の信徒が大勢みえます。 日持上人 父松野六郎母松野尼・姉松野殿女房・姉上野尼御前と夫南條七郎・妹の日女御前と夫の池上宗仲・甥の上野時光・姪に重須殿女房がいます。 駿河国(静岡県)庵原郡松野の領主松野六郎左衛門行易の第二子として生まれます。先代は京都西華門院の蔵人職にあり、承久の乱の以後に松野郷、現在の法蓮寺の土地に居を移したと伝えられます。行易は非常に人格が高く地域の善政に尽くしたと言われます。信仰は天台宗の巨刹岩本実相寺を度々訪ねて台密の教義を学んでいた碩学と言います。 行易が日蓮聖人の信徒となる以前は、北条氏の援護者としてこの地域を守っていた関係上、聖人の教義である法華経には、少々受入れ難い立場であったと言われます。 行易には三人の子供がおり、長男は行成、次男が日持上人です。そして、長女は上野尼御前で、夫が南条兵衛七郎です。夫が死去されてからは「上野殿後家尼」と呼ばれます。子供に「南条時光」がおり上野に転居してから「上野時光」と呼ばれます。時光は日持上人の甥になります。上野時光の姉の夫に伊豆の新田五郎重綱。姉の夫に重須の地頭、石川新兵衞がおり、教団を支えて行きます。 日持上人は駿河国蓮永寺の開山となり、日蓮聖人の第七回忌の時に日蓮聖人の木造のご尊像を侍従公日淨と願主になって池上本門寺に納めます。日蓮聖人の第13回忌を終えた翌年の正月に単身にて海外伝道に出立します。東北や北海道函館・樺太などには、日持上人にまつわる伝説が残っており、その一つに 日持上人が北海道に渡ったとき、それまで見たことも無い魚が大漁に採れた。「法華の坊さん」が来たからということで、その魚を「ホッケ」と呼ぶようになったという。また、アイヌ語で和人。大和民族を「シャモ」と呼ぶのは、日持が自らを「沙門」と名乗ったことに由来するという(実際には、アイヌ語で隣人を意味する「シサㇺ」の訛りといいます)。沙門の方がいいですね。 大正時代頃から再び脚光を浴び第二次世界大戦中、当時の満州の宣化市(現在の河北省張家口市宣化区)において、日持上人の物とされる遺物が発見されたと報道されました。 1988年に、東京大学と東北大学の研究者により科学測定を行った際、その遺品の年代は1300年プラスマイナス350年前後であろうと判明しています。なお、これについては贋作説もあります。日持上人が持っていた中のご本尊と日蓮聖人のご尊影があります。 母の父河合入道・母妙福と夫大井橘六と兄橘三郎光房・母再嫁綱島九郎・叔父又次郎入道・叔母持妙尼(窪尼)と夫高橋入道がいます。 父は甲斐国鰍沢大井圧の領主、大井庄司(領主)橘六光重です。母は駿河国(静岡県冨士郡)河合の領主河合入道(由比氏)の娘です。 法名を妙福と言います。弟に橘三郎光房がいます。在家の名前は橘光長と言います。 幼くして父を失い、母は夫の没後に日興上人と弟の光房を連れて親の実家である河合に帰ります。母は後に武蔵国綱島九郎太郎入道に再嫁して一子綱島時頼を設けますが、日興と弟光房は外祖父の河合入道に養われ河合で成長しました。 河合入道は冨士郡河合(富士宮市長貫)から西山に移ってからは「西山殿」と呼ばれ、また、由比(井)氏と呼ばれていました。河合氏の家系を遡ると、源頼朝に仕えた御家人の大宅(おおたく・おおや)光延の子息三人が、のちに高橋氏(光盛)、由比氏(光高)、西山氏(秀光)を名乗ったことから、三家は同じく大宅氏の一族となります。母の生家の由比氏から日善・日代(西山本門寺)が輩出します。 日興上人は岩本の実相寺にて出家。文永年間(1264~1274)日蓮聖人に師事して佐渡流罪の時にも隋身されます。日蓮聖人が身延に入ってからは出生地の鰍沢をはじめ甲斐・駿河などで布教活動に専念され、日蓮聖人の滅後は、正応3年(1290年) 南条時光に大石ヶ原の寄進を受け、10月12日大石寺を建立します。その後、重須の地頭石河能忠の招きにより北山本門寺を開創します。 日興上人は88歳にて北山本門寺で死去し、北山本門寺で葬儀が行われて荼毘に付され、北山本門寺に葬られました。 富士山本門寺重須談所 北山本門寺 日興上人 日代 上条大石寺 日興上人 小泉(富士山)久遠寺 日郷 下条妙蓮寺 日華 西山本門寺まで「富士五山」 日代 柳瀬実成寺(伊豆氏) 日尊 保田妙本寺(千葉県鋸南町) 日郷 京都要法寺にて「興門八本山」 日尊・日辰 次に、補足として工藤吉隆 桟敷尼 伊東祐光に触れたいと思います。 工藤吉隆は天津の領主として海産物を貢納していました。これは東条御厨と関係していたと思われます。海上交通の狩野氏一族に連なり、天津御厨から伊勢神宮まで海運の領域が広まっていたので、伊豆の伊東にも着船していたことから、伊豆流罪中の日蓮聖人のもとに行かれていたと思われます。 系図に見ますように伊東の領主である伊東祐光は工藤吉隆と同族であることから、伊東祐光が病気平癒の祈祷を依頼したのは、工藤吉隆の助言であったと思われます。日蓮聖人は伊東祐光の宅地内の庵室に謫居していましたので、ここで日蓮聖人と工藤吉隆が会われていたと思います。工藤吉隆に『教機時国抄』『四恩抄』を送っている理由が分かります。日蓮聖人との関係は早かったと思われます。 この工藤氏の系図は『岩手県史』に残っていたもので、以前、遷化されました小友前所長さんから指摘されたのは、なぜ岩手県に系図があったのかと不思議に思っていました。 これは伊東祐時の系図から工藤吉隆と伊東祐光が同族であること分かりました。祐時は桟敷尼の兄で、伊豆工藤氏の子孫は全国に展開し、工藤祐経の長子・祐時は伊豆を出て奥州に下向していたのでした。 祐時の次男・祐先は三戸の名久井館に居住し、葛巻工藤氏の祖となったともあり、その子孫と伝えられる八戸工藤氏は、鎌倉期に北条氏被官として、得宗領の糠部郡や津軽郡へ地頭代に任じられたとあります。 ○ 日蓮聖人が存生の時に檀越により建立された寺院は次のようになります。 (道場) (創立年代) (開基) (開山) 下総若宮法華堂(法華経寺) 文応元(1260)年 富木常忍 日常 鎌倉比企谷法華堂(妙本寺) 文永11(1274)年 比企能本 日朗 身延山妙法蓮院久遠寺 文永11年 南部実長 日蓮聖人 上総茂原法華堂(藻原寺) 建治元(1276)年 斉藤兼綱 日向 下総平賀法華堂(本土寺) 建治2年 曽谷教信 日朗 下総真間弘法寺 弘安元(1278)年 富木常忍 日頂 武蔵池上本門寺 弘安6~7(1283~4)年 池上宗仲 日朗 下総局 1186?1276 桟敷尼 1187~1274 阿仏房 1189?~1279 富木常忍 1216~1299 大田乗明 1222~1283 池上宗仲 1223~1293 曽谷教信 1224~1291 四条頼基 1229~1296 妻桟敷女房の妹 ○ 身延山の供養塔 身延山に納骨塔(供養塔)がご草庵跡の近くにあります。祖廟に向かって左側の奥にあり、左から南部(波木井)実長公、阿仏坊日得上人、富木常忍公の母下総の局・白蓮阿闍梨日興上人の四人の納骨塔・供養塔があります。 南部実長公は聖人を身延山に招いて支援につとめた檀越で、後には身延全山を寄進して久遠寺発展の基礎を築きました。身延山開基の大檀那として敬待されています。 阿仏房は日蓮聖人が身延に入ると、遠路を厭わず老体の身ながらも三度も訪れています。遺骨は息子の藤九郎守綱が身延山に納骨されました。
白蓮阿闍梨日興上人は地元の甲斐・駿河に生まれ育ち波木井氏を教化されました。日蓮聖人の滅後の身延山の護持と墓所の輪番に努められました。 以上、大まかですが六老僧の親族が日蓮聖人の檀越を構成していたこと。日蓮聖人の初期教団の形成について知ることができ、ここから日蓮聖人滅後の教団が展開していくことになります。 |
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