336. 日蓮聖人と下総局の周辺について 髙橋俊隆 |
第二講「日蓮聖人と下総局の周辺について」 北部布教師会 令和二年十一月二十四日 1.幼少の日蓮聖人は、富木常忍の母親である下総の局の支援を受けていました。 日蓮聖人とどのような関係があるのでしょうか。 『富城殿女房尼御前御書』に、(弘安二年・三年十一月二五日 一七一〇頁。真蹟二紙完) 「とうじ(当時)とてもたのしき事は候はねども、むかしはことにわびしく候し時より、やしなわれまいらせて候へば、ことにをん(恩)をもくをもひまいらせ候」 (今でも楽をしているわけではありませんが、むかし、とくに不自由であった時から御供養をお受けしてきたので、まことにご恩の重い方であると思っています) 「聖人が安房小湊に生まれながら、はるかに遠い下総若宮の富木氏の保護を受けていたというのは、恐らく血縁的関係にあったと考えるのが妥当ではないか。或いはそうでないとしても並々でない重縁にあったであろうことは、容易に推測できることである。」(『日蓮教団全史』) 2 下総の局はどのような出自の女性であったのか。
資料1 千葉氏略系図 ①
千葉介 ② ③ ④ 常胤―――胤正―――成胤―――胤綱 57歳 31歳 ⑤ ⑥ 兄 ―時胤―――頼胤―――宗胤―――胤貞――日祐上人 24歳 37歳 (亀若 三光瓔珞御本尊) ⑦ ⑧ (亀也) ―師常―――常家―――矢木胤家(『立正安国論』) 『御書略注』に、 「富木五郎殿の母は千葉第二の胤正の娘にして下総の局と云う也」 「成胤 舎弟四人、妹三人 下総局等五家に分る」 「『境妙庵目録』によれば、母常日は千葉胤正が京都にあって生むところ、長じて土岐左衛門尉光行の妻となった。のち鎌倉に下り源実朝に仕えるに及んで下総局と称したが、夫光行もまた召されて鎌倉に下ったのである。」(『昭和新修日蓮聖人遺文全集』) 『東葛飾郡誌』千葉胤正の娘で常胤の孫にあたる。 『千葉一族の歴史』鈴木佐編書 201頁 系図 下総の局は千葉介二代胤正の娘であったから常忍が被官となった。 どのような、いきさつがあったのか? 下総国守護の千葉成胤から胤宗まで 3代成胤 1218年没 4代胤綱 十一歳にて千葉介の家督を承ける。甘縄から弁谷へ。1228年二十一歳にて没。 5代時胤 十一歳にて千葉介の家督を承ける。将軍頼経は千葉一族に補佐を命じた。1241年二十四歳没。 6代頼胤 三歳にて千葉介の家督を承ける。鎌倉幕府の評定衆を務めた一族の千葉秀胤が、頼胤の後見として事実上の惣領となるが、寛元4年(1246年)に起きた、名越光時の反乱未遂(宮騒動)により更迭、前将軍・藤原頼経が鎌倉から追放された宝治元年(1247年)に宝治合戦がおきると三浦泰村や秀胤の一派は滅ぼされる。頼胤は幼かったため、父の兄弟である千葉泰胤ら一族の者が補佐した。建治元年(1275)三十七歳にて没。 7代胤宗 頼胤が没したとき八歳。父に代わって十一歳の兄宗胤が異国警固番役として肥前国に赴き下総国を離れたため、胤宗が留守を預かることになり千葉氏の第当主となる。 矢木胤家(『立正安国論』)も後見していた。 『房総通史』(四三六頁)など。 千葉介 富木常忍が仕えたのは⑥~⑦ ① 常胤 1118 ~1201年 ② 胤正 1141?~1203年 ③ 成胤 1155 ~1218年 ④ 胤綱 1208 ~1228年 十一歳 ⑤ 時胤 1218 ~1241年 十一歳 執権在籍 ⑥
頼胤 1239 ~1275年 三歳 四代経時(1242~1246年) 五代時頼(1246~1256年) 六代長時(1256~1264年) 『立正安国論』1260年七月一六日 七代政村(1264~1268年) 兄宗胤 1265 ~1294年 十一歳 八代時宗(1268~1284年) ⑦ つまり、千葉介が早世し不安定なため、一族の有力者が補佐をした。 そのおり、下総の局の夫富城蓮忍は、因幡国法美郡登儀郷の領主をしていたが、因幡では承久の乱において因幡守護と大半の国御家人は後鳥羽上皇方として倒幕計画に参加して破れたこともあり、事務官僚としての能力があった蓮忍が妻の実家のある下総国守護の千葉氏に仕えたと思われる。 (『新修鳥取市史』第一巻五八七頁。『よみがえる因幡国府』七五頁) その時期は4代胤綱より、5代時胤が仁治2年(1241)9月に没し、6代頼胤が三歳で家督を継いだころに、因幡国の国衙行政に精通した事務官僚で、勝れた文筆能力を有していたので、富木常忍の父富城蓮忍と常忍の父子が招請されたのではないか。 (『市川市史』一七八頁) 後見人を代表したのは上総ノ介常秀であり、その子の評定衆を務めた秀胤が、事実上の総領となりました。しかし、秀胤は1246年の、名越光時の宮騒動のとき、鎌倉より追放され、翌年の宝治合戦(ホウジ カッセン)のとき、三浦泰村とともに滅びます。 資料2 富木常忍の系図 千葉常胤 常忍の主 大田乗明の姉(没) 工藤祐経 富木常忍の仕事 中山法華経寺の「紙背文書」の中から概観すると、千葉氏と二つの都である鎌倉と京都との間で連絡と交渉をおこない全体を統括する文書作成や事務処理に関わっていたことがわかります。 文書作成や事務処理に関わる能力をもっていたので、千葉氏の家政運営や所領経営を担当していた。(建長2年に父の因幡の財産を相続されますので、このときから被官になったのでは) 3 母親の梅菊は大野吉清の娘 この下総ノ局の位置をふまえて日蓮聖人との関係をみますと。 第一に、日蓮聖人の母親は、下総の大野吉清の娘、梅菊という説があります (『本化別頭仏祖統紀』『高祖年譜』) この説に従いますと、曽谷教信は日蓮聖人と従兄になり、大田乗明も親族となります。 千葉氏の邸宅=守護所は、頼胤のときに蘇谷郷へ移り、この地域に常忍の若宮館、大田乗明の中山館、その北方に大野館、それにこの守護所がある曽谷郷に曽谷教信の曽谷館がありました。 (『千葉氏鎌倉南北朝編』千野原靖方著) 日蓮聖人が『忘持経事』(一一五〇頁)に、 「今常忍、貴辺は、 朝に出でて主君に詣で、夕に入りて私宅に返り」 常忍が朝に主君の宗胤の守護所に出仕し、夕べに若宮館に帰宅していたとあることから、有力な千葉氏の家臣である大野氏・曽谷氏との主従関係と、地縁から、 下総ノ局と日蓮聖人の母親、梅菊との接点が窺えます。 また、注目したいことは ・「竜蔵寺過去帳」に、 「胤綱 取次 菊姫十八歳 貫名重忠に嫁す 重忠二十五歳」 大久保雅行著『日蓮誕生論』五七頁 千葉氏④の胤綱が、大野吉清の娘、梅菊と貫名重忠の婚姻の、取り次ぎをした、とあることです。ここに、千葉介と大野家との強い関係が窺えます。 4 「ぬきなの御局」との関係 そこで、第二として、考えられるのは、「ぬきなの御局」の存在です。 中山法華経寺の紙背文書のうち『破禅宗』のなかに、宝治(ホウジ)二年(1248)六月二日付の「法橋長専・ぬきなの御局連署陳状案」に名前が初見されます。 法橋長専の仕事は幕府との連絡役 「千葉家(ケ)内の財政事務・裁判関係や千葉ノ介の鎌倉代官という役職で、千葉殿の上申書の作成などの事務的な仕事から、金策などの多様な任についていたことがわかっています。 鎌倉市中の甘縄の千葉成胤の屋敷は、元仁元年(一二二四)三月一九日の鎌倉の大火で消失し、その後、弁ヶ谷(ベンガヤツ)に新邸を造作しましたので、この甘縄の旧宅か、新たに造作した、弁ヶ谷にある「千葉邸」に法橋長専が居住していたと思われます。 『房総通史』(四四五頁)(『鎌倉市史』 そして、着目されることは、 ―別紙資料― 建治元年(1275)の「六条八幡宮造営注文」の寄進者の居住地を示した「鎌倉中」の記載です。つまり、鎌倉に住んでいた千葉氏一族は、常胤の子孫に限られていたことです。 そうしますと、法橋長専も、常胤の一族である、と言えるのではないでしょうか。 さらに、法橋長専と連名されている「ぬきなの御局」も、常胤の一族ではないかと思われることです。 ぬきなのお局とはだれか? 石井進氏は、 「遠江貫名氏にゆかりの女性で、誰か有力者に仕える女房だったのだろう。「御局」と敬語を用いている点に注目すれば、この陳状の提出先の千葉氏に仕える女房だったのではなかろうか。法橋長専と彼女とが、仮に同族だったとすれば、長専の出自も貫名氏の関係者ということになろうか。」 「ぬきなのお局は千葉氏のもとで高貴な位置にあり、在地領主の系譜をもつ」 「千葉氏の周辺に侍る被官などの武士に檀越をもつ日蓮聖人」 とのことから、ぬきなの御局は、法橋長専と同じ千葉常胤の系譜に連なる女性と言えるのでは。 このように仮説設定しますと、 下総の局は血縁のある日蓮聖人を、幼少の頃から養育されたことになります 5 下総の局と桟敷の尼との関係 『伊東大系図』に、「伊東祐時の母は千葉常胤の女」 『義経記』に、「冷泉殿の御局」。「工藤祐経の妻、伊東祐時の母は下総守護千葉介常胤の女」 とあります。 ―そうしますと次の頁の系図ができます。― ・日蓮聖人が与えた漢文体の書状与えているのは僅か七名だけです。 「富木入道・曽谷入道・大田入道・大学三郎・波木井三郎・池上宗仲・妙一尼の七名である」 (高木豊著『日蓮とその門弟』一四三頁・一四九頁) 妙一尼(桟敷尼)は高い教養をもつ血筋が想定されます。 千葉常胤の娘と、教養のある武人として知られ、「工藤一﨟(いちろう)」と称された、工藤祐経の娘であれば納得できます。 資料3 桟敷の尼の系図(千葉・工藤・印東・池上・平賀氏と将軍) ―兄印東祐信 ―智満丸 冷泉御局 池上康光 ―宗仲(散位大中臣) 六代宗尊親王 千葉氏一族 兄平賀有国 桟敷の尼は鎌倉の信徒のまとめ役であった。 『佐渡御書』に、(六一〇頁) 「此文は富木殿のかた、三郎左衛門殿、大蔵たう(塔)のつじ(辻)十郎入道殿等、さじきの尼御前、一一に見させ給べき人人の御中へ也」 曾我兄弟の仇討ち 建久4年5月28日(1193)、源頼朝が行った「富士野の巻狩り」の際に、曾我祐成(すけなり)と曾我時致(ときむね)の兄弟が、父親の仇である工藤祐経を討った事件。赤穂浪士の討ち入りと伊賀越えの仇討ちに並ぶ、日本三大仇討ちの一つである。武士社会において仇討ちの模範とされていた 工藤祐経を討った後で、曾我兄弟は頼朝の宿所を襲おうとしており、謎であるとされてきた。そこで、兄弟の後援者であった北条時政が黒幕となって頼朝を亡き者にしようとした暗殺未遂事件でもあったという説がある。また、伊東祐親は工藤祐経に襲撃される直前に自分の外孫にあたる頼朝の長男・千鶴丸を殺害しており、工藤祐経による伊東祐親父子襲撃そのものに息子を殺された頼朝による報復の要素があり、曾我兄弟も工藤祐経による伊東父子襲撃の背後に頼朝がいたことを知っていたとする説もある。北条時政が頼朝を謀殺するのが目的ともいいます。 ―河津祐泰―祐成 ―伊東祐時―祐光(八郎・伊豆法難) (工藤庄司) (工藤中務) (中務) (天津城主 日澄寺) 千葉氏と比企氏・名越氏の法華信仰がみえます 千葉氏には、日蓮聖人の信者として、『立正安国論』を授かった矢木胤家がいたこと。頼胤の3人の子供の、宗胤は日蓮聖人より「三光瓔珞御本尊」を授与され、弟の胤宗と妹の亀姫も御本尊を授与されていることから、下総ノ局の法華信仰の勧誘を窺うことができます。 中山法華経寺3世の日祐の義父胤貞は、法華経寺の土地を寄付したときに、亡父宗胤の遺骨と、名越光時の遺骨を納めています。千葉氏と名越氏の深い関係と、日蓮聖人の信者が名越家とその周辺に近い存在であったことがわかります。 光時は千葉氏三浦氏などの名だたる豪族御家人や評定衆を従え、前将軍頼経を担いでクーデターを起こし、時頼と執権職を争った人物。また、光時の嫡子親時は将軍これ康の近臣で、頼基は親時の御所出仕に供奉していた。 名越光時は将軍家・摂家九条家(4代将軍 藤原頼経)とむすび、千葉氏(秀胤)・三浦氏と連帯しました。それより先に、比企氏は2代将軍源頼家、3代将軍源実朝と縁戚であったため、北条氏に暗殺されています。藤原頼経の妻竹の御所は、比企能本の姉若狭局の娘。 ここに、日蓮聖人の信徒教団と、北条得宗家との対立軸が明確になってきます。 寛元四年(1246)の名越の政変(宮騒動・九条頼経)にて、名越光時は伊豆に流罪されたのは、北条氏の嫡流としての意識をもっていた名越朝時いらいの、得宗との対立が表面化した事件でした。 執権経時から時頼の段階が最も動揺した時期であったので、名越光時の宮騒動、三浦泰村の宝治の乱(1247)がおきました。 『立正安国論』(1261)はこの動乱の時期に時頼に奏進されました。さらに、名越氏と得宗の対立は、日蓮聖人が佐渡に流罪された翌年の文永九年の「二月騒動」(1272)に続きます。これにより、名越氏は時章と教時が殺害される結果となりました。 日蓮聖人もこの騒動のとき、鎌倉にいたなら、「打ち殺された」と、四条頼基に述べています。 この重時の娘は時頼の妻で嫡子が時宗です。この母は日蓮聖人を「亡き時頼、重時の敵」として敵対し迫害しました。それが、日蓮聖人と極楽寺良観や平頼綱との抗争の原因の一つでした。 歴史的には、 本郷恵子氏が指摘されるように、(『蕩尽する中世』一八〇頁) 「支配と被支配との連鎖のなかで、行動することでしか、活路を見いだせない人々こそが、日蓮聖人の教えに、共感する層であった。」と 評されますが、 宗教的には、 日蓮聖人を「三類の強敵」から護り、上行自覚に到達させた人々、 それが、下総ノ局の周辺から、明確になってくる、と言えるのでは、ないでしょうか。 下総ノ局の遺骨が身延に埋葬されたのは、法華信仰に生き抜いた持経者として、教団のシンボルになったと思います。 以上のことから、 富木常忍をはじめとする下総の有力な檀越、また、将軍家と近かった比企氏・工藤氏・ 伊東氏・名越氏・平賀氏からの信徒や弟子が多く日蓮聖人を支えられました。平頼綱と 良観は政治的な対立から日蓮聖人を殺害しようとしたことが窺えます。 と思います。 |
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