337.佐渡での流人としての三年 髙橋俊隆 |
「佐渡での流人としての三年」
「佐渡での流人としての三年」 と題しまして発表させていただきます。 佐渡における塚原と一谷の3年間は日蓮聖人にとって、常に生命の危険に直面していた流人生活といえます。内心には鎌倉を中心とした教団の分裂という危機意識を持ち続け、次第に鎌倉に帰還される希望を棄てずにいたと言えます。 まず、日蓮聖人が 1 普通の流人と違い命を狙われたわけ としまして、歴史的背景としてABの2点挙げました。 A 平頼綱と忍性の策謀があった 資料3 もともと北条氏嫡流家の得宗と名越氏の対立がありました。それが、文永5年の蒙古来蝶により、北条時輔と名越氏と対立を深めます。この名越氏に近かった日蓮聖人を分断したい理由がありました。 平頼綱は得宗御内人ミウチビトとして、安達泰盛を代表とする御家人との権力争いが蒙古対策によって対立していました。安達泰盛は大学三郎と親交が深く千葉氏との縁があり、ここにも日蓮聖人の存在があったのです。 忍性は日蓮聖人より「律国賊」と幕府との癒着による金銭の搾取を国賊と批判され、そこに祈雨に負けた私的な恨みがありました。諸宗の僧徒においても長年、批判され公場対決を要求され続けたことの反感がありました。 流罪の当初の目的は隠密にて竜口にて処刑(殺害)することでした。処刑は失敗に終わり佐渡流刑の本目的は生きて鎌倉へは帰さぬことであったのです。それを北条宣時に任せたのです。 B 佐渡には念仏宗徒が多かったため ・法本房行空の念仏信仰が流布していた 佐渡に目を転じますと、資料5の『呵責謗法滅罪鈔』にみられるように、承元ジョウゲン2年(1208)2月、法然の門弟法本房行空が佐渡に流罪となり、「一念義念仏」の教えが広まっていました。 つまり、佐渡流罪は表向きのことで、実質は日蓮聖人を暗殺することが目的であり、それを平頼綱や忍性が策謀したこと、そして佐渡には念仏信仰者が多く阿弥陀仏の敵として命を狙われる環境であったことが分かります。 A 本間重連の対応と変化 ・飢えと寒さに耐えながら『開目抄』の執筆を始める 佐渡松ヶ崎に着いたのは10月28日のことで、日蓮聖人の一行は山を越えて守護所に向かい、春から役務(年貢の徴収等)で佐渡へ渡っていた本間重連と対面します。 11月一日に重連の家の後方にあたる、「三昧ばら」という死者の供養のために設けられた三昧堂に移されます。ここにて翌年の4月まで約5ヶ月ほど住まわれました。三昧堂の有様は 資料6の遺文に述べているように一間四面の風が通り抜け雪が入り込む荒れ果てた堂であること、そこに、伊豆流罪の時に所有された立像釈尊の御像を安置されたことが分かります。 重連は大切な流人として預かってはいましたが、北条宣時の命令があり、塚原に放置して食料を与えず餓死、冬の寒さに耐えられず凍死コゴエジニを謀ったと言えます。 塚原の生活については 資料7から、昼は『摩訶止観』や法華経を論断され、夜は鎌倉の分解の危機にあった教団の立て直しのため『開目抄』執筆を始めていたと述べています。
・佐渡の念仏・禅・律僧は殺害を談合 島内の土地の人や、持斉・念仏者の唯阿弥陀仏・生喩房・印性房・慈道房等が中心となり、弥陀の敵である日蓮聖人を今すぐに暗殺する計画を立てる厳しい環境でした。
・阿仏房夫妻の入信と動機 こうした日蓮聖人への冷遇を間近に見た阿仏房夫妻は、日蓮聖人の毅然とした生き方に共感をもちます。信者となった要因は資料8から、 佐渡は承久乱以後殆どが没管領(モツカンリョウ)となり、荘園の荘司たちは言葉も習慣も違う武士に怯えていました。阿仏房も現実の不安な社会と後生の堕獄を恐れていたところに、法華経の教えにふれたのです。 そして、資料9の遺文から、日蓮聖人に敵対する地頭や念仏徒の激しい妨害や厳しい監視をかいくぐって、雨の日も風の日も雪の日も櫃(ひつ)を背負い食を運び日蓮聖人の命を支えたのです。
・塚原にて他宗徒との問答 資料10にあるように、念仏者の唯阿弥陀仏たちは、流人で生きて島から帰った者はいない。殺しても咎めはない、ということで守護代の重連の許可をもらいに集まります。 しかし、重連には時宗から「蔑む流人ではないので決して殺すことはないように」と言う副状があったので、僧侶であるならば仏法による対決を提案し、 翌年1月16日に塚原にての法論となります。 この塚原問答の経緯は 資料11に述べているように、越後・越中・出羽・信濃より僧侶が集まり、三昧堂の前庭に重連兄弟一家、郎党たちが検分をかねて警護します。 問答は、日蓮聖人の明瞭な論議・応答に一同は、「利剣をもって瓜を切り、大風の草をなびかす」ように論破され、聴衆のなかに念仏の誤りを認めた者がいたと述べています。一挙に島内に学識の深さが知れわたります。
・「二月騒動」の的中は本間重連の意識を変えた 資料12から、塚原問答の折に、重連に「近いうちに鎌倉で内乱が起きると」予言しました。 重連は異様なことを言うと聞き過ごしましたが、その一ヶ月後の2月11日、時宗の異母兄北条時輔が謀反を計画しているということで内乱が起きます。 幕府の要職にあった、一番引付頭人名越時章(無実)、評定衆教時(時輔派。光時の弟)らが討たれ、時章は無実が判明しますが一族は没落の悲運にさらされた事件です。 資料13に、「鎌倉や京都で戦が始まったので、直ちに帰参せよ」という命令により、重連は一門をあげて出陣すべく佐渡を発ちます、そのおり、「たすけ給 長く念仏申し候じ」と後悔し、法華経の信仰を誓います。 この北条時輔の乱、いわゆる二月騒動の的中は、日蓮聖人を悪僧と思っていた重連や佐渡の人々に畏敬の衝撃を与え、このころから帰依する者ができます。 しかし、鎌倉では平頼綱が急速に勢力をのばし、佐渡の日蓮聖人の立場が好転することは期待できない状況でした。 この2月の下旬に頼基の使者が来ましたので、完成されていた『開目抄』を手渡し鎌倉の「有縁の弟子」たちに送ります。その中に、「受難の苦しい体験は法華経に符号し法華経の行者としてどのように激しい大難であっても決して退転しない」と、門弟へメッセージを送ります。 それは資料14に、「御勘気の時、千が九百九十九人は堕ちて候」と述べたように、佐渡流罪により退転した者がいたため門下の動揺を抑える必要がありました。 二度目の流罪は大きな意義があることを説明されたのです。
3月には二月騒動により鎌倉の土牢に幽閉されていた日朗上人たちが釈放され、門弟が次第に立ち直りを見せ始めます。鎌倉と佐渡を結ぶ信者組織が整えられ、弟子檀越たちが供養の品や鎌倉の情報をもって海を渡って佐渡に訪れるようになります。
・阿仏坊の追放と国府入道の支援 しかし、実質的な佐渡の統治者である重連が不在になったので、他宗徒たちはさまざまなかたちでの復讐を開始し日蓮聖人を圧迫します。 その一例が資料15の、阿仏房を目黒から金井新穂に追放し、日蓮聖人に対する庇護を封じ込めようとしたことです。文永9年2月末頃であったと思われ、かわって阿仏坊の縁者とされる国府入道夫妻が支援されるようになります。
3 一谷入道(近藤清久)の対応と激化する迫害
A 止むことがない迫害と一谷入道の支援
・一谷に転居した理由と変わらぬ生命の危機 これと連動して塚原から一谷へ身柄が移されます。 4月7日頃、石田郷(河原田)の地頭の本間山城入道に管理を移し、本間重連の配下である一谷(畑野町)の近藤清久(一谷入道)のもとに転居し2カ年住むことになります。 資料16の『佐和田町史』の記事を見ますと、重連は日蓮聖人を保護するために転居したこと、あるいは、他宗徒は日蓮聖人の布教活動を停止しようとした両面を指摘しています。 では、日蓮聖人はどのように受けとめていたかと言いますと、 資料17 の4月10日付けにて富木常忍には、一谷に転住し「臨終一分無疑刎頭」の喜悦と「霊山往詣」の死語の心境を伝えたことからしますと、地頭や念仏者から監視され、常に殺害されると思う状況にあり、一谷は住居の改善はあったが塚原と同様に死に直面した環境であったと言えます。 日蓮聖人を監視した山城入道は念仏者であり、佐渡の守護である北条宣時の配下として、「父母の敵よりも宿世の敵よりも、日蓮聖人を敵対視した」とのべているほど日蓮聖人に危害をくわえました。 その下に直接、預かったのが一谷入道で、重連は日蓮聖人の命を守れる人として信頼した人物でした。一谷入道は念仏の信者でしたが、 資料19に述べていますように、食料の配給も少ない生活を不憫に思い食料を与え、また、山城入道が放った暗殺者からの危機を助けるようになります。
B 弟子信徒の渡島と弘教活動
・「臨終」を覚悟し大事な教えを書き残す意思 5月に入りますと頼基から供養が届き、日妙聖人と娘の乙御前の来島があります。 しかし、5月5日付けにて常忍に送った 資料20の『真言諸宗違目』には、赦免運動を強く制止していること、諸天善神の守護を疑わないように訓戒していることから、鎌倉の状況は好転していないこと、一谷の生活も塚原と変わらず、毎日が生命の危険に直面し不安定な時期であったと思われます。 このため、文永9年の十一月頃から翌文永10年4月までの書状がないのは、外部との行動が規制されていたためと思われます。
・弟子たちの布教活動 日蓮聖人は殺害される危険があったので、随行していた弟子たちが弟子信徒を獲得し基盤を作っていきます。資料22その中に、 学乗房日静(近藤清久の息)は父母一谷入道の庇護を受け法華堂を作り、金北山(キンポクサン)の修験者である山伏房や日頂門下に但馬阿闍梨日宣などが入信します。近辺に住んでいた中興入道など、有力な信者を獲得して行きます。 あけて文永10年になりますと、 1月ころ日頂上人が渡島し、 4月10 『富木殿御返事』摂受折伏は仏説によるところで私曲ではない 5月5日 4月になると滝王丸が給仕に来られ、富木常忍より紙と筆、帷子が届き、4月25日付けにて「当身の大事」とされる『観心本尊抄』と、26日付け『観心本尊抄副状』を富木常忍に送ります。 日蓮聖人にとっては鎌倉の教団の心配が続いており、5月に、資料24の『如説修行抄』を門下に送り、鎌倉の門下が追放や科料などに貧窮していることを嘲笑されていたことに対し、退転を諫め不惜身命の信仰を説きます。
一谷においても苦難が続いおり、 資料25の閏5月11日の『顕仏未来記』に、 「この両三年の間の事、すでに死罪に及ばんとす。今年今月、万が一にも身命逃れがたきか」 と死の覚悟を伝え、続いて7月6日の『富木殿御返事』にも、「御勘気ゆりぬ事、御歎候べからず候」「死生不定」と門下に伝えており、この頃に■二度目の虚御教書があったと考えられるからです。 このような、いつ命を失うかもしれない極限状態のなかに 7月8日 大曼荼羅本尊を始めて図顕なされたのです。
C 赦免の祈りと虚御教書 ・赦免の祈りと鎌倉の門弟への諫め そのなか、資料26 7月15日より「いしはいという害虫」が発生し、稲や穀物が被害をうけて食料難であり疫病も遍満し、この災害による「死難」を覚悟されています。 しかし、 資料27の8月15日の『経王殿御返事』から、生きて鎌倉へ帰還する意思を読み取ることができます。 そのため、8月の波木井氏への書状、9月19日に日昭上人に大師講を行うよう指示され、鎌倉の門弟との連絡が密になっていきます。 『光日房御書』に、「天より降る雨は地に落ちずとも、日蓮は鎌倉へ帰るべからず」という現況ではありましたが、一谷の庵室より沢一つ越えた丘に登って「本国へ返したまえと高き山に登りて叫」ばれたと述べているように、積極的に赦免を祈ったことが分かります。
・虚御教書を露呈し赦免活動を指示 この日蓮聖人の行動に驚いた他宗徒は12月に入り動きが激しくなります。長老の唯阿弥陀仏たちは代表者を守護の北条宣時に送り日蓮聖人と弟子や新しく信者となった者を抑圧するよう懇請します。その理由は 資料28日蓮聖人が弟子などを引き連れて悪行を企てているということです。 また、「皆法華経の信者となり餓死してしまう」と訴えます。 これにより、北条宣時は「御教書」と号して、12月7日日蓮聖人と弟子信者の悪行をなした者の名前の報告と、厳しく取り締まるよう下知状をくだします。『法華行者値難事』にその全文が引用されています。これが「三度目の虚御教書」です。他宗徒の焦りから出た公的迫害でした。平頼綱や北条宣時は公の下文を出せないので偽りの御教書を下して迫害したのです。
文永11年 赦免の動き ・時宗からの赦免状と離島
これを受けて日蓮聖人は赦免の行動を起こします。 翌文永11年1月14日、 日蓮聖人は執拗に迫害された三度目の虚御教書を証拠として、富木常忍を通じ北条宣時の非道を暴露して時宗の周辺の武士に糾弾しました。これにより幕府内において赦免活動が強まります。 そして、終に2月14日 時宗は竜口首座のこと、虚御教書のことを重く見て、平頼綱・良観の反対を押し切り、流罪赦免の断を下したのです。 その経緯が資料29です。『中興入道御消息』に、「科のないことも判明し、申した事も事実となったから反対者がいたが相模殿一人の計らいでゆるす」と述べているところです。 時宗の心境を考えますと初めから流罪に躊躇していたように思います。その理由は妻の懐妊がありました。ですから、日蓮聖人を竜口にて斬首することは知らなかったことですし、許されないことでした。妻の父親は安達泰盛ですので比企能本の懇請により、日蓮聖人を流罪することには反対の立場であったと思われます。 そのような事情もあり、竜口法難の一ヶ月で蒙古の使者が国書をもたらし、翌文永9年2月の内乱につづいて高麗や蒙古の使節が返書を催促し、幕府も軍備や祈祷に謀殺されていました。幕府内部にも日蓮聖人の予言的中に恐怖心をいだく者も出てきて赦免の動きが現れ始めたのでした。 赦免状が守護所に届いたのは、3月8日です。資料31から 13日に出立、16日に越後国府に到達、12日を経て鎌倉に帰還したのは3月26日のことでした。 以上のことから、在島中の3年は常に生命の危機に逼迫され、行動を監視されました。その最大の理由は三度も出された虚御教書の存在でした。 歴史的には鎌倉の教団の動揺と門弟の疑惑の解決に腐心しながら、強い信仰心により偉大な事行を成し遂げ、鎌倉へ帰還した超人と評価されるのではないでしょうか。 中興入道 本光寺の伝説では大和坊といい、父入道は本間次郎安連という地頭で、順徳上皇に奉仕していたという。父次郎入道は日蓮聖人に同情していたので、子息や下人なども流人を憎まず、危害を加えることもなかった。中興入道は始め好意をもっていた程度であったが、次第に日蓮聖人に感化されて信者になった。 大野達之助「日蓮」144頁
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