338,『開目抄』に見られる佐渡配流の意義について         髙橋俊隆

『開目抄』に見られる佐渡配流の意義 ― 門弟の疑念と幕府内の対立に視点をあて ―

1・門弟の疑念を打開するため流罪を願望された

A 門弟の疑念

 文永5年1月18日、日蓮聖人47歳の時に、蒙古の国書が到来しました。勘文通りに他国侵逼の予言が的中したことで、幕府や日蓮聖人においても大きな転換期に入りました。教団内にては、(だいし)にて『止観』の談義を深め、法華経の行者のあり方と、本門教学に関する叙述が、多くみられるようになります。

しかし、教団においては信徒が拡大したと言え、盤石になったとは言えません。

 『新尼御前御返事』に、聖人は領家の大尼に会う度に、法華経は難信難解であるから、信心を強く持つようにと教えていたが、いざ、佐渡配流が決まり、幕府から弾圧されたとき、門弟の1000人のうち999人までが脱落した、と述べたことから窺えます。

聖人の弘通が激しさを増すたびに、聖人への疑念が生じていました。それは、『開目抄』の主題である、「この疑いは此書の肝心、一期の大事」と言われた、法華経の行者には諸天善神の守護があるはずなのに、受難するのは何故か、という命題を抱えていたのです。

 この「諸天不守護と受難」の疑念は、聖人の開教以来の、弘教の正否を問うものでありますから、自身の正当性を明確にする必要があります。この疑念を打開される唯一の方法として、「二度目の王難」である、流罪を願い引き寄せた、のではないかと思います。

『金吾殿御返事』に、

「これほどの僻事申して候へば、流死の二罪の内は一定と存せしが、いまゝで、なにと申事も候はぬは、不思議とをぼへ候。(中略) さる事の、出来し候へかしとこそ、はげみ候て、方々に強言をかきて、挙をき、候なり。

と、述べているように、流罪願望が窺えます。

 具体的には、執権北条時宗に『立正安国論』を献上し、幕府の要路者そのほかにも書状を送り諌言されます。幕府が蒙古対策に翻弄し始めたことと並行して、北条一門に結びついた、浄土・禅・律の寺は焼き払え、念仏者の頸を刎ねよ、時頼も重時も地獄に堕ちた、そして蒙古侵逼により日本国は滅びると批判したことにより、忍性や良忠、道教などは幕府に「讒訴」します。  

 幕府にとっては、悪党征伐の一環として、強烈な弾圧を加える口実となりました。つまり、結果的に聖人は流罪を自ら引き寄せ、誘発するための行動を、盛に行っていたと言えます。

次に、

B 幕府内の対立に二月騒動を予見され流罪を急がれた

蒙古国書到来により幕府首脳の北条政村などは、政策に対立する名越教時を警戒し、名越時章が守護としていた、九州の筑後・肥後・大隅の三国の所領を防衛体制確立のため奪いたかったこと。また、北条時輔は朝廷との連絡役をしていたが、将軍派であったため排除したかったのです。

このような幕府内の情報は、名越光時の配下にあった四條頼基や、平頼綱と対立していた、安達泰盛と関係の深い、比企能本から寄せられ、聖人は自界叛逆難の同士打ちである「二月騒動」の予見をされたため、

『四条金吾殿御返事』

「日蓮はながされずして、かまくら(鎌倉)にだにも、ありしかば、有しいくさに、一定打殺されなん」

と述べたのは、聖人の教団の構成は、反北条氏の色彩が濃く、『頼基陳状』『光日房御書』に名越氏を擁護する関係が見られ、北条一門の抗争の渦中にあったと言えます。

 松葉谷は名越氏の敷地内にあり、注目したいのは、地図中央の名越時章邸と、隣接して 草庵があったことです。この地形から、聖人が、「もし流罪されずに松葉ヶ谷にいたならば殺害されていた」、と述べたように、「二月騒動」が起きる前に、流罪される必要があったと、受け止めることができます。

C 「死罪」を想定して重要な教義を門弟に教えていた

ということに関してみますと、

 『本化別頭仏祖統紀』に、配流後の対処について、五老僧は浜土の日昭上人の坊舎に集合して、時期を待っていたとあり、また、文永8年に三位房を京都から鎌倉に戻していたことなどから、配流後の準備をされていたと思われます。同時に教学の伝授もされていたことが、『法門可申(かしん)抄』此等大事を内々は存べし。此法門はいまだをしえざりき。よくよく存知すべし。」、と述べたことから窺えます。

『日蓮聖人全集』第2巻の『開目抄』18章の構成に従いますと、 第1章から6章までは「死罪」に備えて、既に伝授されていたのではないかと思います。

 冒頭に、①主師親三徳を具足する実在の人物を検証すると釈尊であり、法門については五重相対によって、②、法華経の本門・寿量品の文の底に一念三千の成仏論を見出されます。そして、法華経が他経に超勝する理由に④迹門の二乗作仏論、⑤本門の久遠実成論を挙げ、

 この2個の大事は難信難解であるが故に、⑥釈尊は未来末法に法華経を弘める者は大難にあうと説かれた経説を根拠に、受難を覚悟の上で立教開宗されたことを述べます。これは佐渡配流以前に伝授されていたことと思います。

 そして、第7章に入ります。

2 折伏弘教に疑念を持つ門弟の教化

D 少輔房・能登房・名越の尼などの造反者への教化

竜口法難を経験され、配流地の佐渡に下着されたことをもって、勧持品の「数数見擯出」の「王難二度」の色読は「但日蓮一人読めり」・「経文に我が身普合せり」、と釈尊の未来記を証明した唯一人の体現者の表明をされます。この立場から『開目抄』は第8章以下、「世間の人達や門弟の疑念に答えていきます。

この疑念とは『開目抄』の、「諸天が守護しないから」聖人は法華経の行者ではない、と否定されたことです。

 そこで、聖人は『開目抄』の主題はここにあるので、順次解明していくので、自己の問題として考えるようにと促します。

ここで、唯一の「法華経の行者」の表明は、佐渡配流により、どのように意義づけされたのか、門弟の疑念をどのように教化されたのか、を窺って見たいと思います。(折伏の正当性)

 まず、疑念を持つ直近の門弟に、少輔房・能登房・名越の尼などがいます。天台宗や真言宗などの既成教団に付属した門弟が、聖人を批判していました。

 少輔房  京・叡山にて勉学した人物。『辨殿御消息』649頁『法華文句』十を所有。 少輔は一般的には各省の次官のこと。

能登房 『辨殿御消息』1191

「のと房はげんに身かたで候しが、世間のをそろしさと申し、よく(慾)と申し、日蓮をすつるのみならず、かたき(敵)となり候ぬ。せう房もかくの如し」

 名越尼 天台僧に出自する者が多く、比較的早い時期に入信している。その一人。

『十章鈔』「当時はことに天台・真言などの人々の多く来たり候」492頁

『上野殿御返事』『王舎城事』

に述べていることから、学識深い少輔房などが門弟に働きかけ、内部分裂の中心人物となり、名越の尼は、「理具の法門」を自賛して、門弟に、教訓していたことから窺えることは、教学の理解に相違があったことです。

この原因は「台密批判」が身延期に入って本格化されたように、「公場対決」に備え敢えて教えなかったためか、既成教団に所属する門弟は、如来の使いとしての使命感や、行者受難の認識に到達出来ていなかったと思われます。

このような学識のある門弟を説得されたのが第9章から12章になると思います。

9章には迹門の一念三千論。10章には本門の一念三千論として、久遠仏の開顕により諸仏能統一・娑婆本土観を述べ、題目については密示とされます。

11章には本門の本尊論として寿量品の仏を述べ、(密示本尊)。そして、12章に一念三千仏種論として種熟脱の三義を述べます。ここに於いて、本門寿量品を根拠として、末法は「久遠本尊仏」によらなければ、人々は救済されないと「三益論」を説き、「一念三千の仏種」を導きます。

 ただし、題目論・本尊論については、茂田井教亨先生が『開目抄講賛』に「密示題目・密示本尊」という範疇に収まるものと指摘されていることから、『開目抄』の主旨は別のところにあったと受けとめることができます。

 そこで、次に聖人が問題としたのは、

 E 領家など受難に恐怖を持つ門弟の教化

と思われます。

『佐渡御書』

「日蓮御房は師匠にては、おはせども余にこは(剛)し。我等はやはらかに法華経を弘べし」

『諫暁八幡抄』

「我弟子等がをもわく、我が師は法華経を弘通し給とて、ひろまらざる上、大難の来は、真言は国をほろぼす・念仏は無間地獄・禅は天魔の所為・律僧は国賊と、の給ゆへなり」

と述べたことから弘教法に疑念があったことが分かります。折伏をするから迫害を受け、法華経が弘まらないと批判したのです。

しかし、折伏を批判した者は、迫害の怖さに耐えられない、というのが真意であり、実情であったと、言えるのではないでしょうか。

 『開目抄』『秋元御書』に述べたように、門弟に対し、幕府は佐渡配流を機に、日朗上人などを逮捕禁獄し、直ちに悪党に対する刑罰として所領没収・御内追放を容赦なく断行し謀反人と同じように危害を加えたのです。

その恐怖に耐えられず、退転した門弟が、大勢いたのです。代表として小湊の領家の大尼がいます。つまり、弾圧に堪えきれない者が折伏に対する疑念をもち、聖人を批判し、教団を崩壊する勢力をもったのです。

 この批判に答えたのが、13章から16章になります。

 3 法華経の行者の受難と滅罪

F 「五箇ごかの鳳招」に行者を確証

『開目抄』13章に、「重ねて経文を勘えて我が身にあてて身の失をしるべしと、釈尊は末法弘教をどのように説いているのか、経説に自身の正否を再度検証され、宝塔品に「付属有在」「令法久住」「六難九易」の、三箇さんかの勅宣が説かれていることを挙げます。

 つまり、法華経を断絶してはならないとの、勅命があり、六難の大難事があるのにも関わらず、受持弘教の誓言を求めた経文です。

続いて、法華経を護持することを諫めた、提婆品の「悪人成仏」と「女人成仏」の「二箇の諌暁」を加えて、釈尊が五度にわたり弘教の付属があることを確認されます。

 その上に、さらに一切経や妙楽大師などの人師が説く、已今当三説超過の妙法と、法華誹謗の罪科の経釈を証文として、「自身の疑い」であった「弘教と受難」の否定に対して、「狐疑の氷とけぬ」と、肯定され確証を得たのです。

G 「三類の強敵」の未来記に符合

14章には、この五箇鳳詔の仏勅を受けて、勧持品に「三類の強敵」が行者に敵対すると説かれていることから、受難がある者こそ仏勅を護る仏の使いであると受容されます。

そして、現状を見れば、第三類に相当する者は、京都には聖一、鎌倉には良観・良忠であると実名を挙げます。

 聖人の論理は三類の強敵が存在することは、法華経の行者も実在する、ということです。そこを以て、「誰の僧か数数見擯出と度々ながさる。」。「三類はすでにある、では法華経の行者は誰なのか」、それは聖人以外には存在しないと論じます

 聖人の開教いらいの弘教の成否を問う、「一期の大事」はここにあると思います。

「今の世の僧等日蓮を讒奏して流罪せずば此経文むなし。又云 数々見擯出等[云云]、日蓮法華経のゆへに度々ながされずば数々の二字いかんがせん。此の二字は天台伝教いまだよみ給はず。況余人をや。末法の始のしるし、恐怖悪世中の金言のあふゆへに、」560頁

 そして、

但日蓮一人これをよめり」と述べた、色読の事実を再度立証されたのです。

 ここに、「五箇鳳招」「三類の強敵」を契機に、天台・伝教大師を超えた、聖人独自の立場から、本門教学を確立される基盤を構築できたと言えます。

H 行者誹謗の現罰に対する疑念

そして、もう一つの門弟の疑念、に論を進めます。それは、『開目抄』に、「三類の強敵」は認めるが、聖人を法華経の行者とは認めない、と批判された問題です。理由は迫害する者に「口閉頭破」の現罰がないからです。

つまり、聖人を迫害する者に現罰がないのは何故かという疑念です。

この疑念に対し、最初に、過去の法華経の行者の受難の例証として、不軽品・法師品などの経文を引き、法華経の行者には必ず受難の伴うことを述べ、歴史上の釈尊・目連尊者、過去世の不軽菩薩は迫害にあい、付法蔵の提婆菩薩と師子尊者は殺害された事例を挙げて、法華経の行者ではないのかと反論し、自身の正当性を述べます。

15章に入り、

「迫害しても現罰がない」理由は、前世に謗法罪のない行者を迫害すれば現罰がある。

 しかし、謗法罪を持っている行者を迫害しても現罰はないと述べます。その実例として、不軽菩薩の受難を引証します。

ここには4個の意義があると思います。その一つは、不軽菩薩は過去の法華誹謗の宿業により受難したことです。聖人の現在の受難もまた、不軽菩薩と同じように、過去世の謗法罪に起因する現罰であると、この疑念に答え、折伏の正当性を述べました。

 そして、16章に入り、「聖人の流罪と過去の謗法の因果を問い」ます、

 そこで、佐渡配流の受難の意義を、過去の謗法の大きな罪科を軽く受けていると氷解されたのが、『涅槃経』の「転重軽受」と「護法招出」思想です。(重きを軽く受く)(護法により招き出した滅罪)

日本国の謗法を責めることにより、現世で迫害を受けるのは、過去世における重い宿罪の報いによるものであり、その重罪を法華弘通の功徳により、軽く受けていると、竜口法難を契機に、受難を法華信仰の上に意義づけました。(『全篇解説日蓮聖人遺文』302頁)

 ここに、二つ目の意義である、不軽菩薩を例証とされた、受難による「其罪畢已」(その罪おえおわって)の滅罪観を述べます。

 では、なぜ滅罪を説かれたのでしょうか。

I  滅罪を説いて信心を強固にされた

聖人は本門寿量品の法門を説きましたが、理解出来ない者、理解できても迫害に耐えられない門弟がいました。使命感をもち不退の信仰を勧めるために、滅罪を説いて信心を強固にされたと思われます。門弟には武士の出自の者が多かったので、滅罪思想は受け入れやすかったと思います。

『法華証明(しょうみょう)鈔』に、

 上野時光は武士の家に生まれた罪深い悪人の業を持っているとみています。

『光日房御書』には、光日尼(あま)の子息である弥四郎が、武士である自身の後生について不安を吐露し、母もまた、人を殺した子供の後生を心配されています。同様に、佐渡の阿仏房も「後生を恐れて出家した」ように、罪の意識があったのです。

また、四条頼基の妻日眼女、比企能本の妻千日尼(あま)などの女性も、「女人の罪障や提婆品の女人成仏」に強い関心を持っていましたので、「罪業と滅罪」を理解しやすく、滅罪思想は、受難と堕獄の恐怖を、「現世安穏・後生善処」と開会し、法華経に背反する罪科と共に信行の功徳を示されたと思います。

4 「仏法中怨」と「為彼除悪 即是彼親」

J  折伏と「仏法中怨」

ところが、17章に入り、更なる問題を提起されます。それは、「安楽行品に、楽って人及び経典の過を説かざれ。亦諸余の法師を軽慢せざれ(不楽説人及経典過。亦不軽慢諸余法師等)、と説く、この経説に違反するから、聖人は諸天に守護されるどころか、捨てられた。」と批判されていたことです。

 この問題に答えたのが、不軽菩薩の受難の三個目の意義である「末法折伏正意」の弘教です。

 摂折論について三問答を述べます。

1 の答えとして、「邪智謗法の者が多ければ折伏を優先する。

 に末法弘教の時代的正当性は折伏にあると述べます。

折伏下種については既に、伊豆配流中の『教機時国抄』に、「謗法者に向かっては一向に法華経を説く。毒鼓の縁。信謗共に下種」242。と、述べており、 ここで聖人が弘教の信条として述べたかったことは、

3 番目の答文である 「仏法怨あだ」と思われます。

折伏を選んだことにより、念仏者や禅宗などの諸宗から、必ず迫害を受けるのは承知のこと、だからこそ、仏弟子として「仏法中怨」の遺誡を守り、謗法救済の責務を果たして来たと述べたところです。『守護国家論』

 そして、最後の18章に入り、

K 弘教の原点は「除悪彼親」悪を除くは彼が親を述べます。

聖人のこれまでの折伏弘教は、「一子の重病を灸(やいと)せざるべしや」と、幼い我が子の病気を治療するためでも、子供は「灸治(やいと)を加ば必ず母をあだむ」ように、人々から憎まれ迫害されたが、謗法の罪科により、堕獄するのを制止するのは、親として当然のこととして、ここに、日蓮は日本国の諸人にしたし(親)父母也」と述べます。

 そして、章安大師の「為彼除悪 即是彼親」彼が為に悪を除くは、即ち是れ彼が親なりの文を引きます。

 これまで、仏勅・転重軽受・滅罪を説いて門弟を教化して来ましたが、聖人自身が誹謗者を恨むことなく受難に耐えて来たのは、全ての人々は仏の子であり、自分の命よりも大事という、父母同様の思いがあるから、法華経の行者として行動できた、と理解できます。

ここに、不軽菩薩の受難の四個目の意義を認めることができます。

『種々御振舞御書』に、聖人を迫害した、

北条時宗は善知識。平頼綱は提婆達多。念仏者は瞿伽利尊者、持斉等は善星比丘とされ、加えて、東条景信・良観・道隆・道阿弥陀仏が迫害したので、自身が法華経の行者となることが出来たと述べます。

『一谷入道御書』に、全ての迫害者に対して「一分も恨む心なし」と述べた根底に、除悪即是彼親の慈悲心が存していたと理解でき、弘教の原点が窺えるのではないかと思います。『上野殿御返事』に、「ついには日蓮にあひて仏果をうべきか。不軽菩薩の上慢の四衆のごとし」と述べています。

即ち、不軽軽毀のバツダバラ等の四衆と同じく、平頼綱や忍性等の増上慢の者もまた、未来には共に仏道を歩むことができると、認識されるところに、聖人における「流罪は今生の小苦であり、後生には大楽を受ける悦びがある」と締めくくられたと思います。

最後に、身延の波木井実長より、聖人を見ていると、「留難ばかりが多く現世安穏と思われないのは、仏意に叶っていないからではないか?」、との疑念が寄せられたのは、『開目抄』述作から、1年6ヶ月後の文永十年8月のことです。(3日付け 745頁)

佐渡在島中とは言え、『開目抄』の内容が教団内に浸透しておらず、疑念が続いていたことが分かります。そのため鎌倉の日朗・日昭上人や大進阿闍梨が中心となって、佐渡と鎌倉を結んだ教化活動を知ることができます。

以上から,『開目抄』述作の真意は門弟に停滞していた受難の疑念を打開し、折伏弘教の正当性を示すことにあったことが窺えました。

そのためには是非とも「数数の二字」を色読しなければならないと自覚され、仏の未来記である法華経の行者の実在を証明されました。

門弟にとって、聖人の存在は、湧出品に釈尊が迹化・他方の菩薩の滅後弘教の誓願を制止して、「止召三義」により出現された、本化地涌の菩薩、と認識できたところに、『開目抄』に見られる佐渡配流の意義の一端を窺えたのではないかと思います。