38.日蓮聖人の誕生                            高橋俊隆

 日蓮聖人は、第85代後堀川天皇の1222年貞応元年(承久4年4月13日改元)壬午(みずのえうま)2月16日(陰暦)午の刻(正午ころ)に生まれました。このことは最古の伝記といわれる『日蓮聖人御伝土代』に2月16日と記述されており、また、『法華本門宗要鈔』にも同様に記述されていますので、日蓮聖人滅後50年ころには定説となっていたことがうかがえます。日蓮聖人の御遺文に生年月日の記述はありませんが、『授決円多羅義集唐決』の奥書に「嘉禎4年に17歳」と書かれていることから、生年は貞応元年(承久4年)と判明しています。

2月16日の誕生については、2月15日は時ならぬ白い花が咲き沙羅双樹に抱かれて釈尊が入寂された日であることから、その白い鶴の集まりのように見えた鶴林の後事を受け継ぐかのような誕生であることを意識して創作されたという指摘があります(佐藤弘夫『日蓮』3頁)。

さて、日蓮聖人が誕生した時代を仏滅の時代にあわせてみますと、釈尊の滅後1000年を正法時代そのあとの1000年を像法時代といい、この2000年の後を末法と仏教では規定しています。そして、『周書異記』の「周の穆王(ぼくおう)の52年、壬申の歳2月15日」に釈尊は入滅したという記載を基にして、日本では永承七年(1052年)に法滅の末法時代に入るといわれており、その年次からしますと、日蓮聖人は末法に入って一七〇年目に誕生したことになります。日蓮聖人も『災難興起由来』(159頁)に『周書異記』の次の文を引用して末法時代を認識しています。

「穆王五十二年壬申之歳二月十五日平旦暴風忽起損発人舎傷折樹木山川大地皆悉震動。午後天陰雲黒。西方白虹十二道。南北通過連夜不滅。穆王問太吏扈多。是何徴也。対曰西方有聖人。滅度瑞襄相現耳」

生地については日蓮聖人みずから、『本尊問答抄』(1580頁)に、

「日蓮は東海道十五ヶ国のうち、第十二に相当る安房の国、長狭の郡、東条の郷片海の海人が子也」

と、安房の東条、片海という海辺の村に生まれたとのべており、また、『新尼御前御返事』(865頁)に、

「かたうみ(片海)、いちかわ(市河)、こみなと(小湊)の磯のほとりにて昔見し、あまのりなり。色形あぢわひもかはらず、など我父母かはらせ給けんと、かたちがえ(方違)なるうらめしさ、なみだをさえがたし」

と片海・市河・小湊の地名を思い起こし、うまれ故郷の磯を懐かしんだお手紙にのべていることから、現在の千葉県鴨川市の東部、安房片海の近辺ではないかといわれています。一般的には小湊でうまれたといわれていますが、日蓮聖人が小湊でうまれたという御遺文は残っていません。小湊出生の地名の出典である『法華本門宗要抄』は偽書といわれています。しかし、日潮上人の『本化別頭仏祖統紀』には、「房州長狭郡市河村小湊浦」と記されており小湊誕生をのべています。片海・市河・小湊は江戸時代までは、内浦湾沿いに点在した別個の漁村であったといいます。小湊誕生がいわれたのは誕生寺の創建と深くかかわっていると指摘されています(鈴木一成『日蓮聖人遺文の文献学的研究』)。しかし、片海の地名は現在残っていません。

 平成三年四月に誕生寺の等身の「蘇生満願の祖師」像を修理したときに、胎内から納入文書が発見されました。そのなかに、日蓮聖人の没後八十年目にあたる貞治二年(1363年)八月二十九日付けの「日静願文」がありました。これによりますと、日蓮聖人は「東条片海」に誕生したと書かれています。また、「貞応元年壬午」とあり、日蓮聖人は貞応元年に片海で誕生されたことがうかがえます。日静上人は誕生寺第四世の住持で、この願文を書かれた時は七十三歳でした。祖滅十年に生まれているので信憑性が高いといえます。『日蓮聖人御伝土代』の「東条片海郷」と符合しています。

 さらに、『善無畏三蔵鈔』(465頁)に東条の片海という「石中」(磯中)、『佐渡御勘気鈔』(511頁)の安房の「海辺」ということから浜辺に住んでいたことがわかります。東条の地域は松崎川(待崎川)より小湊の間をいうのが一般です。和泉・広場(小松原がある)・天津・内浦・小湊が東条になります。この中間に二間川が流れており、上流に清澄山があり坂本の近くの「いのもり」(ひのもり、朝日森)に二間寺がありました。ところで、東条景信が領知したいわゆる汎称の「東条」区域は松崎川から二間川をいいます。そこで、清澄・二間寺が二間川に接しているので領家と所有争いを起こしたのでした。蓮華寺がある花房は西条と言われていました。

片海地方は、明応七年(1498年)と元禄十六年(1703年)に大地震があり、また、その後も数度の地震などの災害があり、日蓮聖人が誕生した当時の片海の海岸一帯は海中に没してしまい、今は見ることができません。日蓮聖人の誕生された生家近くに建てられた最初の誕生寺はすでに海中に没してしまい、その後に再建された誕生寺の山門も現在の誕生寺の南側の海中に沈んでいるそうです。

日蓮聖人が安房は都から数えて十二番目にあたる辺境の国と述べていることから、京都から安房に来るには、箱根・鎌倉・三浦半島の浦賀へと東海道を歩み、そこから舟で房総に上陸するのが近道でした。東京・千葉の内陸を通行しますと、利根川や荒川があり、また、中山の法華経寺の門前まで舟で行ったというように、海岸線が内陸まで入り込み、沼や沢が多い干潟の地形でしたので、通行に不便であったのです。当時のこのような交通の状況は海路であったことを知ることができます。

さて、日蓮聖人の母はいつものように日天を敬い、朝日を拝礼したときに日輪が蓮華にのって口中に飛び入ることがあり懐妊したといいます。『本化別頭高祖伝』によりますと、日蓮聖人がお生まれになった日は天気晴朗で旭日が輝き波穏やかに、浜には時ならぬ青蓮華が十数茎咲き、生家の庭に清水が湧きそれを汲んで産湯とされ、この奇瑞をみるために遠方から人々が集まり、それが市のような賑わいであったといいます。しかし、片海は火山灰が堆積してできた地質で、清水が湧きでるということは考えられないことで、このような土地は田畑に適さず蓮華が咲いたということも考えられないといいます。そして、祖師滅度196年後の『元祖化導記』には伝えておらず、同時期といわれる『日蓮聖人註画讃』に「日輪胸を映す夢」と「誕生泉」がありますが「蓮華ケ淵」のことは書かれていません。現実には考えられないことですが、そのような所に清水が湧き、蓮が咲いたという奇跡は日蓮聖人の誕生を賛美するには充分なことでした。珠玉のように生まれた赤子をみて両親は善日麿と名をつけました(薬王丸、高木豊)。善日麿という幼名を、日蓮聖人ご自身が語っている御遺文はありません。身延三十二世、智寂日省上人(1674〜1748年)の『本化別頭高祖伝』(本化別頭末法高祖日蓮大菩薩伝)に善日麿の名前が書かれています(初見は『蓮公行状年譜』1685年、といいます)。善日麿という名前は漁師の子供の名前というよりは、武士や公家の子供のようにみえ、母の太陽神の信仰と、日輪を受胎した夢などから、日蓮聖人を賛美することにより後世に命名されたともいいます。

仏教界は、法然の没後十年、栄西の没後七年にあたり、親鸞は五十歳、道元は二十三歳で存命中ですがお互いに交流はなく、日蓮聖人の御遺文には名前がでていません。