40.日蓮聖人を御遺文に学ぶ  −目次ーはいめにー    高橋俊隆

―目次―

 はじめに

第一章  誕生から『立正安国論』上呈まで

第一節  誕生から比叡山遊学

           誕生と家系

清澄寺入山と出家

鎌倉遊学

           比叡山の遊学

第二節  立教開宗から『立正安国論』著述

法華経に帰結

立教開宗の決意

鎌倉での布教

第三節  『立正安国論』を上呈

第二章  四大法難

     第一節  『立正安国論』とその反応
                松葉ヶ谷法難

第二節  伊豆流罪

 小松原法難

第三節  佐渡流罪

第三章  佐渡在島

第一節  『開目抄』
                  上行自覚

                滅罪意識

第二節  『観心本尊抄』

    事一念三千

    本門三秘   

始顕本尊

第三節      三国四師

第四章  佐渡以後
     第一節     身延入山
             『撰時抄』

第二節  『報恩抄』 

           信徒の受難

           蒙古襲来(弘安の役)

 第三節  池上入寂

     おわりに

―はじめにー

 日蓮聖人は鎌倉時代に千葉県の漁村にうまれ、12歳から32歳にいたるまで比叡山などで広く仏教を学びました。釈尊の真意の教えは法華経であり法華経によらなければ幸せな世界は実現されないという認識と、末法においては題目を受持することが即身成仏であるという確信を持ちました。妙法広布の使命感と身軽法重の行者意識から三大誓願を発して、全ての衆生に法華経の縁を結ばせることに生涯を全うされたのです。

日蓮聖人は仏教になにを求めたのか、法華経とはどういう教えなのか、そこから日蓮聖人

はなにを学ばれたのかということを知るには、日蓮聖人の生涯をたどりながら綿密に考察することが大事であると思います。それは、日蓮聖人の青少年期から培われた仏教観が比叡山遊学の結果、立教開宗に到達し、それ以後、伊豆流罪・竜口・佐渡流罪などを経て日蓮聖人の教学がいかに構築されていったのかという過程を知らなければなりません。

日蓮聖人は北条時頼・時宗が実権を握った鎌倉幕府の時代に活動しました。天台僧の立場で他国侵逼を予言した『立正安国論』が蒙古襲来として的中し、時宗は蒙古対戦のため御家人を九州防備に就かせていきます。異国退散は法華経に帰信することであるとして他宗を批判したことにより、幕府内では北条重時・平頼綱、宗教界からは良観などに敵視され弾圧されました。結果的に比叡山から離れて独自の日蓮法華宗の教学と教団を形成することに発展しました。日蓮聖人の教えを知るためには、これらの事柄がどのように日蓮聖人を動かしたのかを究明しながら考察しなければなりません。

そのための資料は日蓮聖人の御遺文が中心となります。日蓮聖人の1周忌に収録されたのは148通(40巻)でこれを『録内御書』といい、後に収録された259通(25巻)を『録外御書』といいます。このなかで日蓮聖人の代表的な著述は一論四抄といわれており、それは、『立正安国論』・『開目抄』・『観心本尊抄』・『撰時抄』・『報恩抄』です。『立正安国論』は鎌倉で執筆され、『開目抄』と『観心本尊抄』は佐渡、『撰時抄』と『報恩抄』は身延に入られてから執筆されています。

『昭和定本日蓮聖人遺文』全4巻が日蓮宗においての信頼できる遺文集です。略して『昭和定本』、『定遺』と言い、昭和27年に第一巻が刊行され昭和63年に全4巻の改定増補版が刊行されました。はじめは御抄・御状と呼ばれていましたが、教団の門派がふえ教学の論議をするときに日蓮聖人が書かれた著作を証権としたことから御妙判といわれるようになりました。江戸期に入りますと祖師の著書ということから祖書と呼ばれるようになり、遺文といわれるようになったのは小川泰堂氏が慶應元年(1865)に『高祖遺文録』を刊行し、携帯に便利な『日蓮聖人御遺文』を出版したことにはじまります。

御遺文は立教開宗の32歳前後から入滅の61歳にいたるまでの著作・書状(手紙)・図録などに分類されます。日蓮聖人の真蹟が完存して全体が把握できるものや、一部分の断片しか伝来しないので部分的にしか把握できないもの。又、かつては確実に伝来していたが焼失したのを曾存といい、身延山にはまだ整理されずに残っていた御書があったといいます(中尾『日蓮聖人の法華曼荼羅』14頁)。御遺文の信憑性については真蹟が現存(完全・断簡)しているもののほかに、六老僧や中老僧などの直弟子や孫弟子が書写しているものは信憑性が高く、真蹟と認められる御遺文は凡そ300数編で残りの約130数編は類似遺文として偽書・疑偽書として見られています(宮崎英修『日蓮の生涯と思想』所収日蓮の遺文110頁)。

『定遺』によりますと凡そ正篇には著作と書状が443点収められ、図録篇には図録が36点、断簡として真蹟の一部分だけが残っている書状が391点収められています。現存する遺文の真蹟は凡そ著作・書状113点、断片87点、図録の完全なものは21点、断片29点、著作・書状の断簡は357点、要文断片140点、書写本23点といいます(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇72頁)。『定遺』いがいにも、日蓮聖人の曼荼羅本尊128点や自筆の注法華経(私集最要文)10巻、要文集などがあります(『日蓮聖人大事典』720頁)。このほかにも諸方に散在して未刊の要文断簡は現存しているといいます。今後の新たな発見も期待されます。

 日蓮聖人の残されている著述を年代別にみますと、立教開宗までは1点、立教開宗以降の鎌倉で竜口にいたる文永8年9月までの著述は『立正安国論』をはじめ29点、書状はおよそ63点が伝わっています。この時期は日蓮聖人の教えや存在が浸透していなかったので、残されずに廃棄されたものが多いと指摘されています。

佐渡に配流された文永8年の10月から、赦免されて鎌倉に戻られた文永11年の4月までは、日蓮聖人にとっては特に大事な時期で、法華経の勧持品に予言されていた法難を体験し、法華経の持者・行者から神力品別付の本化の上行菩薩という自覚に到達していきます。それを表明されたのが佐渡在島中に執筆された『開目抄』です。その大事な教えとは本尊仏である本門久成仏の文底秘沈として受容された「本門の題目」であり、その論拠の名目を天台の一念三千に置いて、本門の立場から己心具仏界論の観心を完成させ、己心本尊の事具一念三千論を展開したのが『観心本尊抄』です。末法の修行を因果具足の題目受持とするのが観心行であり、続いて、礼拝の対象として曼荼羅本尊を図顕されたのです。佐渡ではほかに50数点(18点の著作と32点の書状)の著述があります。

そして、身延山に入られた文永11年の5月から、池上にて弘安5年10月13日の入滅を迎える9年の時期があります。身延在山中の日蓮聖人は、病気と対峙しながら蒙古襲来・熱原法難に対処し、門弟檀越の信仰上の問題や教育を行なっています。佐後の身延にては『撰時抄』・『報恩抄』の大作と300篇(30点の著作、そして274点の書状)に近い著述が伝わっています。

 これらの日蓮聖人の著述は、個人に宛てたものと各地区の信徒中に宛てて教義の伝達や信仰を勧められ、教団の護持と信徒としての身の処し方などを教えられたものがあります。教義や処世的な書状は弟子が随行して直接指導されており、文面には書かれていない内密な教義解釈や幕府や諸宗の動向などの情報を得て布教の対策をしていました。信徒中に宛てられた書状は大勢の信徒に繰り返し読まれ、図録は吊り下げて被見されたので、その過程で破損や形見分けがあり伝わらなかった著述が数多くあるといえましょう。

日蓮聖人の教学については五大部を中心とした著作に根本となる教義的な統一をみることができると思います。なを、この勉強会においては確実に真蹟とされる遺文を中心に考察していきたいと思っています。

さて、日蓮聖人の伝記については不明なところが随所にあります。日蓮聖人の生涯をたどるとき、『立正安国論』を提出した三十九歳以後については日蓮聖人が書かれた御書や門弟の私記を拝読することによって足跡を知ることができますが、それ以前については微妙に年次を確定できないところがあります。たとえば、先師の伝記には日蓮聖人が出家をされた年齢を十八歳とし、房名を是生房・是性房・是正房などと伝えています。しかし、今日では十六歳の出家、是聖房と確定しています。また、立教開宗後の鎌倉に進出した時期についても今日では建長六年の秋ころ以降としています。この理由は今日ほど文献が収集され整理されていなかったからです。

私たちは写真でご親筆の状態を拝見することができます。しかし、先師においては『録内御書』『録外御書』として集成されたご真蹟を拝見できるのは貫首や化主、学僧など限られた人でした。ほとんどは書写された御書を拝見し、さらにそれを書写するという写本を基本にしていました。その過程に誤写され、あるいは解説的な加筆があり、それをそのまま写したため、それを手本として門流に伝わった写本に違いが生じました。この問題は近世になり顕在化することになります。基本遺文が刊本化され公開されたことにより、表記の相違が露見したからです。現在は、秘蔵されていた門流の御書などの資料が開示され、あらたにご親筆や先師の資料などが発見され、それらの研究が写真とともに発表されるようになりましたので、確実な文献を拝見することができます。先師のたゆまない研究の上に少しずつ日蓮聖人の正確な伝記が積み重ねられた成果であります。

祖伝そのものが伝わらなかった第一の理由は、日蓮聖人と門弟は常に迫害の渦中にあったので、記録的な日記を書き残す余裕がなかったと思われます。この迫害は仏教の修行法や教義上の論争というよりは、源頼朝いらいの御家人と北条一族ならびに得宗政治に関わるもので、この得宗やその周辺の独創体制から加害されたといえます。日蓮聖人を庇護した信者は、この政権のなかではどのような地位にあり、どのように対処していたかを知ることは日蓮聖人を学ぶうえにおいて大事なことです。とくに平頼綱・忍性の迫害により、教団の基礎固めである信徒の教育も困難を極めていきました。

このような日蓮聖人の生涯において、鎌倉にあっては住居を替えたことも考えられます。身延において始めて余裕がでたと思われますが、佐渡流罪は日蓮聖人の強靭な身体を痛めつけ、身延の寒苦は身体を弱めたのです。蒙古襲来の情勢に腐心し、駿河地方の門弟に対しての迫害、三度目の流罪が噂される状況が続きました。そのなかで40人から60人の弟子を養育していたのです。わずかな安息のときに日蓮聖人の親の思い出や、鎌倉・叡山遊学にふれたことでしょうが、言い伝えとしてしか残らなかったでしょう。

日蓮聖人の滅度においても鎌倉の日昭・日朗上人に対して壊滅的な迫害が加えられます。

このような緊迫した状況のなかで、富木日常上人は門弟を集め『観心本尊抄』などの多くの真蹟を収集し整理されました。この聖教護持の功績により日蓮聖人の教えが今日に伝えられてきたのです。

この勉強会のテキストは日蓮聖人と法華経の信仰について、御遺文をもとに檀信徒の皆様といっしょに学んでいきたいと思っています。この勉強会が皆様の法華経信仰を深め布教の一助となるよう努力していきたいと思います。                 合掌