41.貫名氏と富木氏・領家 高橋俊隆 |
○富木氏と貫名家日蓮聖人の有力な檀越の筆頭とされるのが富木常忍(1216〜99)です。この富木氏の奥さんに、(『富城殿女房尼御前御書』1710頁) 「とうじ(当時)とてもたのしき事は候はねども、むかしはことにわびしく候しときより、やしなわれまいらせ候へばことにをんをもく(恩重く)おもひ(思い)まいらせ候」 とのべている弘安2年11月の御遺文があります。当時とは日蓮聖人が身延山におられる現在をいいます。((『日蓮聖人全集』第七巻一七九頁)。現時も裕福な生活をして射ないが、幼少期には今にも増して貧素であったと述べています。このお手紙からしますと裕福な家庭で育ったのではなかったことがわかります。若宮は日蓮聖人が生まれ育った安房からは遠方になりますので、このように日蓮聖人を援助されるには、父母の血縁があったという推察や、父母の家柄となんらかの深い関係をもつといわれています。本書の世話になった人とは建治2年2月に没した富木氏の老母といいます(『日蓮教団全史』20頁)。幼少のころより清澄寺・鎌倉・比叡山などの学費などの援助をされていたとうけとれ、貫名家と富木氏との親交は、なんらかの繋がりをもっていたことを示すことになります。注目されるのは、「養われた」のは何時の時期かと言うことです。 しかし、一般的に日蓮聖人と富木常忍の出会いと師檀関係は鎌倉松葉ヶ谷といわれ、もっとも初期の信徒といわれています。富木常忍の父、蓮忍は始め因幡国法美郡富城郷にいて、後に関東に移住したといい、富木常忍は八幡庄若宮戸村(下総若宮、中山法華経寺の奥の院)に住み、千葉介頼胤の被官、あるいは御家人といわれているので、役職により鎌倉にでる機会が多くそのときに日蓮聖人の教化をうけたといいます。 ○領家と貫名家また、日蓮聖人の幼少期から関係の深い人に領家の尼がいます。名越の朝時と関係があるといわれていますが姓名などは不明です。 領家とは旧荘園の領主で、鎌倉北条氏の地頭から年貢の取立てや土地の管理をおこない、清澄寺をふくむ東北庄を保有していたといいます(『遺文辞典歴史』1191頁)。荘園の庄司が父といい夫の死後は荘園を守っていました。「領家の尼」とは、その領主の妻で夫の死後に出家した後家尼のことをいいます。その子息は婚姻後に死亡したようで、子息の妻も後家尼になっています。新尼は大尼の娘と推察する説があります。母を大尼、嫁を新尼とよんでいます。大尼と新尼は、ともに日蓮聖人の信徒になりましたが、大尼は文永八年の竜口法難のときに退転しました。新尼は信仰を貫き、日蓮聖人に佐渡や身延に供養の品を送って信仰を貫いた篤信の女性でした。 東条郷(荘園)の領家(在地領主)であったことから領家の尼と父母の関係を 「日蓮が父母等に恩をかほらせたる人なれば、いかにしても後生をたすけたてまつらんとこそいのり(祈)候へ」(『清澄寺大衆中』1135頁) と父母たちが恩義を感じるほど世話になっていたことがわかります。これは、先に見てきたように流罪人の武家という父母の出自が関係しているといわれています。また、 「日蓮が重恩の人」(『新尼御前御返事』869頁) とのべていることから、日蓮聖人ご自身も深い恩義があったのでしょう。 考えられることは、清澄寺入山・鎌倉遊学、そして、長年にわたる比叡山の学費の援助や、立教開宗後の東条景信からの保護、あるいは鎌倉名越の草庵などにも尽力があったのかも知れません。両親も自身も重恩であったことは確かなことで、「又大尼御前よりあまのり畏まり入りて候」と丁重な言葉使いに上下関係がうかがえます。 これに反する意見として、日蓮聖人はかなり裕福な家庭に生まれたという説がありました。その理由は出家し、その後、鎌倉・比叡山で学問ができたのは、それを支えるだけの学費を 負担できた親がいたからだと考えるからです。しかし、日蓮聖人の御遺文によりますと、裕福であったとはいい難いことがわかります。 |
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