43.「東条の御厨」

○東条の御厨

 日蓮聖人は小湊に産まれたことを誇りに思っています。それは東条に「御厨」があったからです。

御厨とは神が住み神の供物を収める屋舎のことで、のちに神宮や神社に付属する土地をさすようになりました。この御厨はほとんどが伊勢神宮の神領を総称したものです。伊勢市にある伊勢大神宮は内宮の皇大神宮と外宮の豊受大神宮の総称で、内宮に皇室の祖神である天照大神を祀っています。律令体制下においては朝廷が奉幣し経済基盤は国が寄進した神郡と神戸でしたが、荘園が成立すると地方豪族による御厨寄進がおこなわれるようになりました。安房の東条御厨の寄進は、源義国の下野の梁田(やなだ)御厨、平景正の相模の大庭御厨、平常重の下総の相馬御厨などの寄進に継ぐものといいます。

この東条郷からは白布や紙が「御厨」に納められていたといいます。また、『古語拾遺』に神武天皇即位の元年に天富命が阿波の齋部(いんべ)の民を引き連れて麻と稲とを安房に植えたと記され、その名残として官幣大社安房神社があるといいます。『古事記』には神武天皇の子である八井耳命が長狭国造(安房の古い呼び名)の祖と記されており、このような古碑が日蓮聖人の当時には伝わっていたのではないかといいます(山川智応『日蓮聖人』18頁)。

日蓮聖人は東条の「御厨」について、新尼御前御返事』(886頁)に、

「安房の国、東条の郷は辺地なれども日本国の中心のごとし、そのゆえは天照大神跡を垂れ

而を安房国東條郷辺国なれども日本国の中心のごとし。其故は天照太神跡を垂れ給へり。昔は伊勢国に跡を垂させ給てこそありしかども、国王は八幡加茂等を御帰依深ありて、天照太神の御帰依浅かりしかば、太神瞋おぼせし時、源右将軍と申せし人、御起請文をもつてあをか(会加)の小大夫に仰つけて頂戴し、伊勢の外宮にしのびをさめしかば、太神の御心に叶はせ給けるかの故に、日本を手ににぎる将軍となり給ぬ。此人東條郡を天照太神の御栖と定めさせ給。されば此太神は伊勢の国にはをはしまさず、安房国東條の郡にすませ給か。例ば八幡大菩薩は昔は西府にをはせしかども、中比は山城国男山に移り給、今は相州鎌倉鶴が岡に栖給。これもかくのごとし。

と、のべています。つまり、日蓮聖人はこの安房の東条宮は外宮ではあるが伊勢神宮の御厨の土地として、天照大神が住み始められた尊い所であると受けとめ、自身が生まれた安房は辺国であるが、天照大神をお祭りしている御厨がある神域であることを誇りに思ったのです。

そして、天照大神は日本国の一切衆生の慈父であり悲母である、そういう土地に生まれた宿縁は第一の果報であると受けとめています。北条弥源太に(『弥源太殿御返事』807頁)、

日蓮は日本国の中には安州のものなり。総じて彼国は天照太神のすみそめ(住初)給し国なりといへり。かしこにして日本国をさぐり出し給ふ。あはの国御くりや(廚)なり。しかも此国の一切衆生の慈父悲母なり。かゝるいみじき国なれば定で故ぞ候らん。いかなる宿習にてや候らん。日蓮又彼国に生れたり、第一の果報なるなり。此消息の詮にあらざれば委はかゝず、但おしはかり給べし」

このことから日蓮聖人の天照大神にたいする敬慕の態度が伺えます。同時に日蓮聖人の国家観や天皇観などの思想が経論によって構築されているのは、この御厨が存する生国の歴史的な事実に影響されていると言われています。

さて、源頼朝は治承四年(1180年)に平家追討の戦をしましたが石橋山の合戦で敗れ、相模真鶴(まなずる)から七騎落ちして安房猟縞まで海路を敗走しました。8月29日に安房に着いた頼朝は、翌月の9月11日に丸の御厨(朝夷郡現在の安房郡丸山町あたり)を巡見しています。

丸の御厨は源氏の六代の祖である伊予の守頼義が前九年の乱(康平5年1062)を治めた恩賞として朝廷から頂いた地で、頼朝の父義朝は頼朝の官位の昇進を念じ平治元年6月1日に伊勢神宮の御厨に寄進していた所でした。義朝はその半年後に平治の乱を起こしますが平家方に敗れ逃亡先の尾張で討ち取られています。頼朝は助命されますが伊豆に流罪され20年の歳月を送っていました。頼朝の生母が熱田神宮の娘であったので伊勢神宮を尊信していたこともあり、頼朝は宿願である平家を打ち滅ぼしたならば、新たに御厨を建て神宮に寄進することを丸の御厨で願文を捧げたのです。

(源氏系図)

 頼義―義家―義親―為義―義朝―頼朝

 東条の郷には、元暦元年(寿永三年、1184年)、源頼朝によって伊勢神宮に所領として寄進された「御厨」とよばれる外宮領の荘園がありました。これを「東条の御厨」といい分社のようなことです。しかし、安房の安西景益や三浦一族などの東国の武士が源頼朝をたすけ再挙することができ、寿永3年2月に一ノ谷の戦いで平家を追い払い勝利を収めました。

この戦勝は頼朝が誓った所願が成就したことですので、約束を守り寿永3年5月3日に東条郷の土地を伊勢外宮に寄進して天照大神を祭ったのが「東条の御厨」でした。東条に御厨を寄進しましたので、丸の御厨は名前のみになり東条の御厨が日本第一と言われるようになります。この東条とは後世の和泉から小湊までを含んでいたようです。

 頼朝は寄進状に「四至如旧」と書きました。これは御厨の東西南北の四境は今までの如し

ということですが地先水面の境界が明確ではなかったといえます。そこで東条景信と領家の係争が起きたといえます。

 東条の御厨に関して『吾妻鏡』によりますと、

寿永元年(1182)八月11日。頼朝が政子の安産を祈願して東条?に奉幣使を派遣。

 寿永3年(1184)5月3日。伊勢外宮権神主生倫を給主とし東条の地を外宮の御厨として寄進。「寄進。伊勢太神宮御厨一処、在安房国東条、四至如旧」。

と、記述してます。ところで、この寿永3年に寄進した御厨の場所はもとより存在した所であるという説があります。「四至如旧」というのをその証拠とします。

『聖人御難事』(1672頁)に、

安房国長狹郡之内東條の郷、今は郡也。天照太神の御くりや(廚)、右大将家の立始給日本第二のみくりや、今は日本第一なり」(第一は武蔵の飯倉)

と、のべているように、頼朝は二ヶ所に御厨を寄進しています。その一つは武蔵の飯倉でこれは内宮の分として寄進しています。二つ目が東条の御厨で伊勢神宮の外宮に寄進しました。  

この頼朝が寄進した御厨は白浜の土地で、二間川と松崎川の間の所といいます。この東条の御厨とは別に二間川と小湊の間に天津御厨があったといいます。つまり、小湊と松崎川の和泉の間に二つの御厨があったということになります(『鎌倉と日蓮』大川善男132頁)。

 日蓮聖人は源氏が平氏を破り頼朝が将軍になれた一つの勝因に、東条の御厨を天照大神に寄進したことがあげられ、それが、神の御意にかなったとみています。また、清盛が大仏殿を焼失するなどの横暴な行為に、天照大神が頼朝に与力して平家を滅亡させたということが

『法門可被申様之事』に、

「清盛入道王法をかたぶけたてまつり、結句は山王大仏殿をやきはらいしかば、天照大神・正八幡・山王等よりき(与力)せさせ給て、源頼義が末頼朝仰下て平家をほろぼされて国土安穏なりき」(454頁)

と、のべています。清盛が明雲座主に戦勝祈願をしたことについて、

「其上安徳天皇の御宇には、明雲座主御師となり、太上入道並に一門捧怠状云 如彼以興福寺為藤氏氏寺 以春日社為藤氏氏神 以延暦寺号平氏氏寺 以日吉社号平氏氏神[云云]。叡山には明雲座主を始として三千人の大衆五壇の大法を行、大臣以下家々に尊勝陀羅尼・不動明王を供養し、諸寺諸山には奉幣し、大法秘法を尽さずという事なし」(883頁)

と、平家は比叡山に怠状を捧げて頼朝の調伏を祈願したことが敗因であるとした、その理由は明雲座主がおこなった真言の邪法にあったのです。すなわち、『四條金吾殿御返事』(245)

「天台の座主明雲と申せし人は第五十代の座主也。去安元二年五月に院勘をかほりて伊豆国へ配流。山僧大津よりうばいかへす。しかれども又かへりて座主となりぬ。又すぎにし寿永二年十一月に義仲にからめとられし上、頚うちきられぬ。是はながされ頚きらるるをとが(失)とは申さず。賢人聖人もかゝる事候。但し源氏頼朝と平家清盛との合戦の起し時、清盛が一類二十余人起請をかき連判をして願を立て、平家の氏寺と叡山をたのむべし、三千人は父母のごとし、山のなげきは我等がなげき、山の悦は我等がよろこびと申て、近江国二十四郡を一向によせて候しかば、大衆と座主と一同に、内には真言の大法をつくし、外には悪僧どもをもて源氏をい(射)させしかども、義仲が郎等ひぐち(樋口)と申せしをのこ(男)、義仲とただ五六人計、叡山中堂にはせのぼり、調伏の壇の上にありしを引出てなわ(縄)をつけ、西ざかを大石をまろばすやうに引下て、頚をうち切たりき」(1303頁)

と、明雲座主は木曾義仲に殺された原因についてのべています。これは、法華経に背反したことによる「頭破作七分」(『頼基陳状』1359頁)であると裁断するのです。

清盛の敗因は王法に逆らい大仏殿を消失したことと、明雲座主に真言の祈祷を行なわせたことが原因で、なにもしなかった頼朝は正直な者として守護されたという認識をもっていました。『法門可被申様之事』に「八幡大菩薩は正直の頂にやどり給」(455頁)と、正直の頭に宿るという八幡大菩薩の誓願とは百王守護のことで、頼朝にふれて『諌暁八幡抄』には、

「平城天皇御宇八幡の御託宣云我是日本鎮守八幡大菩薩也。守護於百王有誓願等云云。今云人王八十一二代隠岐法皇、三四五の諸皇已破畢。残二十余代今捨畢。已此願破がごとし。日蓮料簡云百王を守護せんと云は正直の王百人を守護せんと誓給。八幡御誓願云以正直之人頂為栖以諂曲之人心不亭等云云。夫月は清水に影をやどす、濁水にすむ事なし。王と申は不妄語の人、右大将・権大夫殿は不妄語の人、正直の頂、八幡大菩薩の栖百王の内也」(1848頁)

と、頼朝が世間においては正直の者であり、八幡大菩薩が守護する百王の一人であるという見解をのべています。どうように、『四條金吾許御文』(1824頁)にもみられます。

東条の御厨はこの頼朝が寄進したものであり、日蓮聖人にとって天照大神は東条の地におられるという正統意識があったともいわれます。後年、日蓮聖人は曼荼羅のなかに天照大神と八万大菩薩を日本の神の代表として、また、天上界の代表として書かれています。