44.12歳までの生活

○12歳までの生活

 善日麿は学識があり厳粛な両親のもとで健やかにに育ったのでしょう。日蓮聖人と同時代の宗教者で、法然は地方の豪族の子供で9歳の頃に父親が夜打ちにあい重傷をうけます。父親は法然に復讐を思わず菩提を弔うことを薦めたので出家しています。親鸞は中流公家の家に生まれ8歳以前に父母をともに喪い伯父に養われていたが無常を感じて9歳で出家しています。道元は上流公家の子供で3歳のとき父親を喪い8歳のときに母親と死別し13歳の時に出家しています。これらの祖師からみますと幼少期の日蓮聖人は父母の慈愛を充分に受けていたと思われます。身延山の頂上に登り父母を偲んだ故事から思親閣が建てられました。身延山に故郷の小湊から送られた海苔に父母を偲ぶ手紙がそれを示しています。

読み書きと正義感にあふれた日蓮聖人は12歳のとき、四条帝の天福元年(1233)5月12日、父親が同伴して小湊から約8キロの道を歩いて清澄寺に入りました。釈尊は12歳までに、文武を兼ね備える教育をうけていたことが仏典に説かれていますので、日蓮聖人においても、清澄寺での修学力の速さは、幼少時に教育を受けていなければかなわないことです。相当の身分であった父母が何らかの事情で流罪されていたならば、武士の時代における無常を感じ取っていたでしょう。つぎの御遺文は幼少時の教育を彷彿させると思われます。

「漢土にいまだ仏法のわたり候はざりし時は、三皇・五帝・三王、乃至太公望・周公旦・老子・孔子つくらせ給て候し文を、或は経となづけ、或は典等となづく。此文を披て人に礼儀をおしへ、父母をしらしめ、王臣を定て、世をおさめしかば、人もしたがひ、天も納受をたれ給ふ」『乙御前御消息』(1095頁)

「内典五千七千余巻・外典三千余巻」(『撰時抄』1044頁)

と外典などの書物を挙げていることは、これらの書物を読んだとことを想起します。父母から直接これらの故事や礼儀を聞いて覚え、向学的な知識欲は広範にわたったといえます。また、書物を読む機会に恵まれていたと思われるのです。

善日麿が12歳のときに描いたという、鞍を載せて勇み立つ駿馬の絵と、鎧をつけた武者が片方の武者の首に刀をつきつけている二枚の絵があります。この絵は反古紙の裏に書かれたものです。駿馬の絵は別として、武者の絵を日蓮聖人が描かれたとしますと、武士の時代の逃れられない殺生罪を感じていたのかとも思われます。旃陀羅としての家業と父母の信仰により、日蓮聖人は念仏を唱え仏教についての思索を重ねたと思われます。