45.清澄寺入山の動機

◎清澄寺

 清澄山は北緯35度11分、東経140度11分、標高368mで加茂川を隔てて西の愛宕山(415m)と対し房総第二の高山でした。山中には宝珠・摩尼・如意・独鈷・金剛・富士・鶏?(けいもう)などの支峰があり重なり合い九十九谷あるといわれています。清澄寺はその山頂にあり安房上房の総氏寺として崇められていました。旭ヶ森は、日本で最初に朝日のさす場所で平成12年「日本の朝日百選」に選ばれています。

清澄寺縁起によりますと清澄山は光仁天皇の宝亀2年(771)に不思議法師が開創され、山中の老柏の木を伐って虚空蔵菩薩を彫って仮の小堂を建てたのが始まりといいます。本尊は虚空蔵菩薩であることから、山林仏教の修行地ともいわれています(高木豊)。この小堂は朽ち果て中絶しましたが仁明天皇の承和3年(836)に比叡山の三代座主の慈覚大師円仁が東国遊化のときに再興しましたので、宗派は山門慈覚流の天台宗で比叡山の末寺になります。

室町初期の明暦3年(1392)には醍醐三宝院流の弘賢が寺主別当になっていたので、

日蓮聖人が登山される前の清澄寺は南北朝時代には真言宗となっており、改宗の経緯は不明ですが真言密教の影響を強くうけたものと思われます。江戸時代に徳川家康の帰依と仲恩房頼勢により真言宗になったともいいます。しかし、その頃に偽作された『本門宗要抄』が清澄寺を真言宗としたので、それ以後の伝記はこれに倣ったといいます(『日蓮』大野達之助11頁)。

清澄寺は比叡山延暦寺の末寺になります。比叡山は伝教大師最澄が創建しました。最澄は法華経を中心に教学を立てましたので天台法華宗といいます。しかし、比叡山の3代目の座主、慈覚大師円仁は弘法大師空海の真言宗の影響を強く受け密教の教義を取り入れていました。天台宗は法華経などの顕教をもって宗旨を立てていかなければ最澄の意思に反するのですが、時勢に押されて密教の教義を取り入れてしまいます。これを、真言宗の東密に対して天台の台をとって台密といいます。日蓮聖人がご登山された頃は台密になっていました。その後の調べで山門慈覚流であったと判明しています。日蓮聖人が17歳のときに書写した『授決円多羅義集唐決』は初期の本覚思想の文献であることから、天台の本覚思想にふれていたことがうかがえます。

また、師匠の道善房が念仏信仰者であったことが、

「道善御房を導き奉んと欲す。而るに此人愚癡におはする上念仏者也。三悪道を免るべしとも見えず。而も又日蓮が教訓を用ふべき人にあらず。然れども、文永元年十一月十四日西條華房の僧坊にして見参に入し時、彼人云、我智慧なければ請用の望もなし、年老ていらへ(綵)なければ念仏の名僧をも不立、世間に弘まる事なれば唯南無阿弥陀仏と申計也。又、我心より起らざれども事の縁有て、阿弥陀仏を五体まで作り奉る」(『善無畏三蔵鈔』474頁)

ということからうかがえ、浄土の念仏を唱える寺であったことがわかります。法然の浄土宗に対し天台系の浄土宗であったといいます。その後、堀河天皇の嘉保三年(1096年)に、雷による火災で堂宇の一部を消失しましたが国司源親元が再建したといいます。

また、寺伝によると承久年中(1221年)に北条政子が宝塔・経蔵を寄進して、仏舎利と一切経と涅槃像を安置したといいます。これが事実ならば日蓮聖人が登山された当時の立派な清澄寺を彷彿することができますが、清澄寺にはこれらの古文書は残っておらず、堂塔伽藍が備わり一切経が安置されていたことは疑わしいともいいます(『日蓮』大野達之助10頁)。

大正12年に日蓮聖人の旭ヶ森の銅像が建立され、日蓮宗に改宗したのは昭和二十四年二月十六日のことで、そのときの宗派は真言宗智山派でした。

○領家の紹介

清澄寺は東条の郷にあり領家の尼の領内に入ります。領家の尼と日蓮聖人の両親は、さきにのべたように、漁業権を持つ領家のもとで漁業の管理や年貢の徴収、治安の維持などをして、領主の補佐をしていたと考えられ主従関係にありました。両親が世話になっていたということは、日蓮聖人も誕生のころから領家の知悉のことであったでしょう。

日蓮は日本国に生てわゝく(誑惑)せず、ぬすみせず、かたがたのとがなし」『上野殿御返事』(1721頁)

という日蓮聖人の正直な性格と利発な智慧を知っていた領家は、領内の清澄寺に入山して勉学することを望まれたと思います。「日蓮が重恩の人なれば」というのは清澄寺入山の便宜をとり、資金などの援助をうけたからだと思われます。その理由は父親の後継者として育てようとしたのかもしれませんが、貫名家の家督がいますので、領家が支配する御厨などの荘官的な人材((佐藤弘夫『日蓮』14頁)、あるいは清澄寺の別当職に期待したことも考えられます。

当時の寺は寺領の年貢や公事(くじ)の取立てや簡単な訴訟に携わっていたといいます。ですから、寺のなかでそれを担当する専門的な僧侶が養成されていました。また、寺院いがいの訴訟や裁判に勝訴できる有能な僧侶がのぞまれており、それが僧侶のあるべき姿だったといいます((佐藤弘夫『日蓮』17頁)。

領家と清澄寺の関係はその後も続いており、後年の御遺文『新尼御前御返事』(869頁)に、清澄寺にいる「助阿闍梨」から法門についてのお話をお聞きしなさいと指導されていることからうかがえます。

また、日蓮聖人が清澄寺に入山したのは両親が浄土の阿弥陀仏を信仰し、同じく信徒であったことも関係していたでしょう。     

○入山の動機

日蓮聖人の仏門の入り口は清澄寺で、清澄寺は天台宗でありましたが密教と浄土教をとりいれていた寺でした。当時の清澄寺は日蓮聖人が「清澄寺の大堂」(『種々御振舞御書』983頁)と言われているように大本堂を中心に支院にあたる房がたくさんあったようです。日蓮聖人が十七歳に書写した『授決円多羅義唐決』の奥書に「清澄山道善房」で執筆したと書かれていますように、清澄寺の山中に道善房があり、日蓮聖人はこの道善房の房主を師匠として給仕することになりました。

清澄寺では日蓮聖人をどのような待遇で入山を許可したのでしょうか。一つの説に清澄寺の主であった道善房法印は、はやくから日蓮聖人の素質をしり、日蓮聖人を弟子にむかいいれようと父母に申しでていたという説があります。そうしますと直接的な入山は道善房の誘引であり、それに父母と日蓮聖人が同意したことになります。確かに父母が健在でしたので無常を感じての出家ではなく、幼少から才智英敏であったのを嘱望され故郷の期待があったのも事実と思われます。

高木豊先生は日蓮聖人が清澄寺に登った理由として、地方武士の子弟教育を近隣寺院にゆだねた当時の風習から「登山は清澄寺で初等教育をうけるためと考えてもよい」という説をのべています。はたして親からすすめられて初等教育をうけるためだったのか、先に述べたように領家から荘園の諸問題に対処できる教育をうけさせるために所望されて入山された、という動機が考えられましょう。しかし、結果的にみますと出家し入山より20年後に立教開宗をされました。この事実からしますと純粋に出家をめざして清澄寺に入山したと思われます。つぎにあげる御遺文はこのところをのべています。

「予はかつしろしめされて候がごとく、幼少の時より学文に心をかけし上、大虚空蔵菩薩の御宝前に願を立、日本第一の智者となし給へ。十二のとしより此願を立」(『破良観等御書』1283頁)

この御遺文からしますと、日蓮聖人は幼少のころから学問を心がけていたことがわかります。小湊近辺では経蔵と人材を備えたお寺は限られていましたので、清澄寺において仏教を研鑽し、疑問を解決されようと決めたのです。そして、11歳ころ生家にいたときに虚空蔵菩薩に祈願をしたという説があり(岡本錬城『日蓮聖人』646頁)、御遺文に述べているように清澄寺に入られた12歳のときに虚空蔵菩薩に願を立てたことを故郷の人たちは知っていたと述べているのです。すなわち、清澄寺に入られたのは日蓮聖人自身の意思であるという理由はここにあります。

このことからしますと、日蓮聖人は虚空蔵菩薩に大事な願いがあって、その成就を願うために入山したといえましょう。その願いとは「日本第一の知者」となることでした。そして、知者としての誓願は出家する方向に導きました。この主知的な出家の動機の理由を、古来よりあげていることを三つにまとめますと、それは、

1.生死についての疑問(以下にしたら成仏できるのか)

2.仏教についての疑問(真実の教えはなにか)

3.国家に関する疑問(国土が乱れているのはどうしてか)

という三点の疑問を解決することであったと思います。

 日蓮聖人が出家をした経過を振り返ると、清澄寺に入山して虚空蔵菩薩に誓願を立てたのは幼少のころに学問をしたときから持たれた願いであり、そして、出家は突発的になされたのではなく幼少から連続されていた目的であったと思われるのです。