52.道善房と日蓮聖人
○清澄寺道善房と日蓮聖人

 清澄寺では5年間の修行をしました。師匠は道善房で清澄寺の山主といわれています。道善房より薬王麿と改名されたといいますが日蓮聖人の遺文には語られておらず、『元祖化導記』に12歳のとき道善房より薬王丸と名をいただいたと記録されています。

 道善房については詳しいことがわかっていません。兄が道義房義尚であることがわかっており、清澄寺になんらかの発言力があったようです。道善房について、

「故道善房はいたう弟子なれば、日蓮をばにくしとはをぼせざりけるらめども、きわめて臆病なりし上、清澄をはなれじと執せし人なり。地頭景信がをそろしといゐ、提婆・瞿伽利にことならぬ円智・実城が上と下とに居てをどせしを、あながち(強)にをそれて、いとをしとをもうとし(年)ごろの弟子等をだにも、すてられし人なれば後生はいかんがと疑う」『報恩抄』(1239頁)

「故道善御房は師匠にておはしまししかども、法華経の故に地頭におそれ給て、心中には不便とおぼしつらめども、外にはかたきのやうににくみ給ぬ。後にはすこし信給たるやうにきこへしかども、臨終にはいかにやおはしけむ。おぼつかなし。地獄まではよもおはせじ。又生死をはなるゝ事はあるべしともおぼへず。中有にやただよひましますらむとなげかし」

『本尊問答鈔』(1585頁)

両御遺文とも立教開宗後のことですが、道善房は内心では日蓮聖人を不憫に思っていたが、地頭と兄弟子たちを恐れ清澄寺への執着もあり敵のように対していたと述べています。

後日、日蓮聖人が花房の蓮華寺に滞在していたおりに道善房と対面します。道善房は弥陀信仰の是非を問われ後生についての不安を吐露したことが、

「此諸経・諸論・諸宗の失を弁る事は虚空蔵菩薩の御利生、本師道善御房の御恩なるべし。亀魚すら恩を報ずる事あり、何況人倫をや。此恩を報ぜんが為に清澄山に於て仏法を弘め、道善御房を導き奉んと欲す。而るに此人愚癡におはする上念仏者也。三悪道を免るべしとも見えず。而も又日蓮が教訓を用ふべき人にあらず。然れども、文永元年十一月十四日西條華房の僧坊にして見参に入し時、彼人云、我智慧なければ請用の望もなし、年老ていらへ(綵)なければ念仏の名僧をも不立、世間に弘まる事なれば唯南無阿弥陀仏と申計也。又、我心より起らざれども事の縁有て、阿弥陀仏を五体まで作り奉る。是又過去の宿習なるべし。此料に依て地獄に堕べきや等云云。爾時に日蓮意に念はく、別して中違ひまいらする事無れども、東條左衛門入道蓮智が事に依て此十余年の間は見奉らず。但し中不和なるが如し。穏便の義を存じおだやかに申事こそ礼義なれと思しかども、生死界の習ひ、老少不定也。又二度見参の事難かるべし。此人の兄道義房義尚此人に向て無間地獄に堕べき人と申て有しが、臨終思様にもましまさざりけるやらん。此人も又しかるべしと哀れに思し故に、思切て強々に申たりき。阿弥陀仏を五体作り給へるは五度無間地獄に堕給ふべし。其故は正直捨方便の法華経に、釈迦如来は我等が親父阿弥陀仏は伯父と説せ給ふ。我伯父をば五体まで作り供養させ給て、親父をば一体も造り給はざりけるは、豈不孝の人に非ずや。中々山人海人なんどが、東西をしらず一善をも修せざる者は、還て罪浅き者なるべし。当世道心者が後世を願ふとも、法華経釈迦仏をば打捨て、阿弥陀仏念仏なんどを念々に不捨申はいかがあるべかるらん。打見る処は善人とは見えたれども、親を捨てゝ他人につく失免るべしとは見えず。一向悪人はいまだ仏法に帰せず、釈迦仏を捨奉る失も不見、有縁信ずる辺もや有んずらん。善導法然並に当世の学者等が邪義に就て、阿弥陀仏を本尊として一向に念仏を申人々は、多生曠劫をふるとも、此邪見を翻へして釈迦仏法華経に帰すべしとは見えず。されば双林最後の涅槃経に、十悪五逆よりも過てをそろしき者を出させ給ふに、謗法闡提と申て二百五十戒を持ち、三衣一鉢を身に纏へる智者共の中にこそ有べしと見え侍れと、こまごまと申て候しかば、此人もこゝろえずげに思ておはしき。傍座の人々もこゝろえずげにをもはれしかども、其後承りしに、法華経を持たるゝの由承りしかば、此人邪見を翻し給ふ歟、善人に成給ぬと悦び思ひ候処に、又此釈迦仏を造らせ給事申計なし。当座には強なる様に有しかども、法華経の文のまゝに説候しかばかう(斯)おれさせ給へり。忠言逆耳良薬苦口と申事は是也。今既に日蓮師の恩を報ず。定て仏神納受し給はん歟。各々此由を道善房に申聞せ給ふべし」『善無畏三蔵鈔』(473頁)

と述べています。道善房も幾分、法華経に心をよせ釈迦仏一体を造立したことに師恩を報じた感慨をうかがうことができます。

「安房国東條郷清澄寺道善之房持仏堂の南面にして、浄円房と申者並に少々大衆にこれを申しはじめて」『清澄寺大衆中』(1134)

 清澄寺内の道善之房、持仏堂において立教開宗をされますが、日蓮聖人はこの「道善之房持仏堂」を起居の場として師匠道善房に仕えていたと思われます。学生として入山したと思いますが小僧としての清規を守り、境内や諸堂の作務をしながら次第に勤行や学問の指導を受けたと思われます。師匠の道善房と日常の関係はどうであったのか、身の回りを世話して給仕に励まれたのか。いずれにしても先の御遺文にうかがえるように特別の師弟関係をみることができましょう。『開目抄』(556頁)に、立教開宗をし他宗批判をしたなら、

「父母・兄弟・師匠に国主の王難必ず来るべし」

と、父母・兄弟のつぎに名があげられ、また、仏教の理解ができたのも「本師道善御房」の御恩と述べ、日蓮聖人にとって大事な人であったことがわかります。道善房の死去にあたり追善のために書かれた『報恩抄』には、

「法華経には我不愛身命但惜無上道ととかれ、涅槃経には寧喪身命不匿教者といさめ給えり。今度命をおしむならば、いつの世にか仏になるべき、又何なる世にか父母師匠をもすくひ奉べきと、ひとへにをもひ切て申始めしかば」(1237頁)

と父母・師匠の恩を知り恩に報じることが仏教者の習い極めることであるという立場から、

立教開宗に至ったと回顧し、この法華経の行者としての功徳は、

「日本国は一同の南無妙法蓮華経なり。されば花は根にかへり、真味は土にとどまる。此功徳は故道善房の聖霊の御身にあつまるべし。南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。建治二年[太歳丙子]七月二十一日記之。自甲州波木井郷蓑歩嶽。奉送安房国東條郡清澄山浄顕房義城房本」(1249頁)

と道善房に帰結すると師恩を述べていることから、12歳で清澄寺に入り16歳で出家して結縁された師弟関係の深さをうかがうことができます。それは、佐渡流罪にあい流人となったときの光日房に宛てた御遺文にうかがうことができます。

「去文永八年太歳辛未九月のころより御勘気をかほりて、北国の海中佐渡の嶋にはなたれしかば、なにとなく相州鎌倉に住には、生国なれば安房国はこひしかりしかども、我国ながらも、人の心もいかにとや、むつ(眤)びにくくありしかば、常にはかよう事もなくしてすぎしに、御勘気の身となりて死罪となるべかりしが、しばらく国の外にはなたれし上は、をぼろげ(小縁)ならではかまくらへはかへるべからず。かへらずば又父母のはかをみる身となりがたしとおもひつづけしかば、いまさらとびたつばかりくやしくて、などかかゝる身とならざりし時、日にも月にも海もわたり、山をもこえて父母のはかをもみ、師匠のありやうをもとひをとづれざりけんとなげかしくて」『光日房御書』55歳・真蹟曽存・断片・1152頁)

また、身延にて道善房の死去を知ったときの心情からもうかがえるのです。兄弟子の浄顕房・義城房に託した『報恩抄』(1240頁)に、

「彼人の御死去ときくには、火にも入、水にも沈み、はしり(走)たちてもゆひて、御はか(墓)をもたゝいて経をも一巻読誦せんとこそをもへども、賢人のならひ、心には遁世とはをもはねども、人は遁世とこそをもうらんに、ゆへもなくはしり出るならば、末へもとをらずと人をもうべし。さればいかにをもうとも、まいるべきにあらず」

 彼の人とは言うまでもなく道善房のことです。道善房死去の知らせを聞き直ちに駆けつけたかったが、身延隠棲につき墓参が叶わないことの苦悩を述べています。日蓮聖人はこの『報恩抄』を弟子の日向上人に持たせて、墓前にて読むようにと依頼します。

「道善御房の御死去之由去月粗承候。自身早早と参上し、此御房をもやがてつかはすべきにて候しが、自身は内心は存ぜずといへども、人目には遁世のやうに見えて候へば、なにとなく此山を出ず候。此御房は又内内人の申候しは宗論やあらんずらんと申せしゆへに、十方にわか(分)て経論等を尋しゆへに、国国寺寺へ人をあまたつかはして候に、此御房はするが(駿河)の国へつかはして当時こそ来て候へ。又此文は随分大事の大事どもをかきて候ぞ。詮なからん人人にきかせなばあしかりぬべく候。又設さなくとも、あまたになり候はばほかさま(外様)にもきこえ候なば、御ため、又このため、安穏ならず候はんか。御まへ(前)と義城房と二人、此御房をよみてとして、嵩かもり(森)の頂にて二三遍、又故道善御房の御はか(墓)にて一遍よませさせ給ては、此御房にあづけさせ給てつねに御聴聞候へ」(『報恩抄送文』1250頁)

なを、清澄寺は女人禁制の山でした。母堂は道善師匠の許しを得て結界堂で日蓮聖人とお会いになりました。好物のものを少し手渡しました。身を案じる母の情を感じながらも、修行中の妨げになるからと再会を断ちました。諭すべき母が子にさとされ喜び悲しむ母。帰る道すがら一滴二滴と母の涙が傍らの岩をうるおわしたといいます。この、日蓮聖人と母の辛い別れの涕涙石が清澄寺に伝えられています。日蓮聖人が清澄寺において仏道を求められた意志の強さを感じます。