54.虚空蔵菩薩

 日蓮聖人が登山されたときの清澄寺の本尊は虚空蔵菩薩です。虚空蔵菩薩は東方大荘厳世界にいて胎蔵界曼荼羅の十二大院中の虚空蔵院の中尊で、五地宝冠を頂き右手に知恵の利剣、左手に福徳の如意宝珠を持っていることから、広大な智慧と福徳をもつ密教系の菩薩に属しています。また、観自在菩薩とともに釈迦釈迦牟尼仏の脇士となることがあります。大安寺の道慈律師が養老2年(718)に唐から木像や行法を将来しました。空海は大学を辞めて求聞持の行法を成就し、その後に出家したといいます。一般的には記憶力を高めるための智慧を授ける菩薩とされます。また、北斗七星を神格化した妙見菩薩であるとして、武士や漁民などにも信仰されていました。
 僧侶が仏前において経文を読誦するのは常の修行であり、経文を暗誦することも自然な資格といえます。まして、現在のように書籍が印刷される時代ではないので、仏教の理解を深めるためには書写のほかに暗記が必要となります。この記憶力を修法の場に求めて、一度記憶したことを忘れずに憶持する行法が虚空蔵菩薩に求められのが、虚空蔵菩薩法・五大虚空蔵法・虚空蔵求聞持法法でした。虚空蔵菩薩法は福徳や智慧、音声を求めるための祈願であり、五大虚空蔵法は増益や息災、所望などを求める祈願で、虚空蔵菩薩求聞持法が記憶力を獲得するための祈願とされていました。求聞持というのは善無畏の釈で自然智を取得して記憶を身に付けることをいいます。これは、空海も若いときに行なっており天台宗だけではなく真言宗などにも継承されていたことでした。
日蓮聖人は12歳のときに虚空蔵菩薩を安置する御宝前において、
「予はかつ知ろしめされて候がごとく、幼少の時学問に心をかけし上、大虚空蔵菩薩の御宝前に願を立て、日本第一の智者となし給へ、十二の年よりこの願を立つ、其所願に子細あり、今くわしくはのせがたし」『破良観等御書』(光日尼宛て1283頁)
と、誓願を立てています。学問の成就を願う修行の一つである虚空蔵菩薩求聞持法にしたがって祈願をされたといわれています。(中尾先生『日蓮聖人のご真蹟』16頁)。
この虚空蔵菩薩への祈願といわれるのは求聞持法と言われており、この求聞持法は清澄寺においては日常的に行なわれていた修行であったといいます。この求聞持法や念誦法は日蓮聖人が存生の間においては常時、清澄寺で行なわれていたこことでした。(高木豊先生。『日蓮攷』94頁)。
また、日蓮聖人が虚空蔵菩薩にこのような祈願をかけたことを故郷の人たちは知っていたことが、同郷の光日尼に宛てたこの御遺文からうかがうことができます。そして、この誓願は清澄寺に入ってからのものではなく、清澄寺に入ったのは、この智者への誓願が目的だったと考えることができましょう。この「知者」という意味は一般的に言う知識者ということではなく、仏教の専門的な学僧を意味しているでしょう。結果的には高僧という目的になると思いますが、日蓮聖人がその祈願の目的としたのは名誉的な願望ではなく、切実な成仏への志向であったのはさきに述べてきたとおりです。つまり、日蓮聖人が仏教にたいしてもたれた「一つの疑問」であり、それを解決する目的をもって虚空蔵菩薩に誓願をたてられたのでした。
 『破良観等御書』(光日房書断簡)は身延26世の日暹の写本で、明治38年に出版された縮刷遺文により知られました。日蓮聖人が虚空蔵菩薩に誓願を立てたのは12歳では早いという意見はこの書により払拭されました。
日蓮聖人が虚空蔵菩薩に具体的にどのように祈願をかけたかといいますと、虚空蔵菩薩の求聞持法の行法にしたがって、聞持感能という聞いたことを憶持して忘れない能力を、虚空蔵菩薩の加被力によって得ることを祈願するのです。修行法は、虚空蔵の陀羅尼を1日1万遍唱え100日間これを続けます。満願の日に明星が口から入り、智慧が明瞭になると求聞持法に説かれているそうです。これは天台密教の修行法で、清澄寺という山岳の霊地である虚空蔵菩薩の信仰のもとに、日蓮聖人は神秘体験を積まれたのではないかともいわれています。
その大願が叶って虚空蔵菩薩より智慧の大きな宝珠を授けられたことが述べられています。『善無畏三蔵鈔』(473頁)に、
「日蓮は安房国東條郷清澄山の住人也。幼少の時より虚空蔵菩薩に願を立て云く、日本第一の智者となし給へと云云。虚空蔵菩薩眼前に高僧とならせ給て明星の如くなる智慧の宝珠を授けさせ給き」
また、(『清澄寺大衆中』1133頁)に、
「生身の虚空蔵菩薩より大智慧を給りし事ありき。日本第一の智者となし給へと申せし事を不便とや思食けん。明星の如なる大宝珠を給て右の袖にうけとり候し」
と、虚空蔵菩薩の化身が高僧と奈って現れ、明星のように光り輝く大きな宝珠を授けて下さったといいます。
祖伝には異僧の年齢は60歳ほどで右手に光り輝く大宝珠をもち、日蓮聖人はその宝珠を右の袖にこれを受けたといい、そのとき宝珠は胸のなかに躍りは入ったと伝えています。
この宝珠について、日蓮聖人は『善無畏三蔵鈔』(410頁)に、伝教大師が入唐して行満座主に「天台の宝珠をうけとり」とのべており、この宝珠とは『摩訶止観』を指すとい解釈されています。日蓮聖人にとってこの宝珠授与は修学の自信となったのは確かなことです。
 虚空蔵菩薩に祈願した「その所願に子細ある」という、日蓮聖人がいだいていた子細、虚空蔵菩薩が不憫と思われたことは、仏教に対しての疑問であり父母の成仏を願うことだったと思われます。後年、日蓮聖人は宝珠を授けられたことにより、
「虚空蔵菩薩眼前に高僧とならせ給て明星の如くなる智慧の宝珠を授させ給き。其しるしにや、日本国の八宗並に禅宗念仏宗等の大綱粗伺ひ侍りぬ。殊には建長五年の比より今文永七年に至るまで、此十六七年の間、禅宗と念仏宗とを難ずる故に、禅宗念仏宗の学者蜂の如く起り、雲の如く集る。是をつむ(詰)る事一言二言には過ず。結句は天台真言等の学者、自宗の廃立を習ひ失て我心と他宗に同じ、在家の信をなせる事なれば、彼邪見の宗を扶んが為に天台真言は念仏宗禅宗に等しと料簡しなして日蓮を破するなり。此は日蓮を破する様なれども、我と天台真言等を失ふ者なるべし。能々恥べき事也。此諸経・諸論・諸宗の失を弁る事は虚空蔵菩薩の御利生、本師道善御房の御恩なるべし」(『善無畏三蔵鈔』473頁)
 また、
「明星の如なる大宝珠を給て右の袖にうけとり候し故に、一切経を見候しかば八宗並に一切経の勝劣粗是を知りぬ」(『清澄寺大衆中』1133頁)
と、日蓮聖人が虚空蔵菩薩に祈願した知者とは、諸宗・一切経の勝劣を知ることであったのです。そして、虚空蔵菩薩に祈願して得た「日本第一の知者」意識は、知識を得るためのものだけではなく、法華経の行者としての指標となって立教開宗につながっていきます。
 なを、清澄寺に伝えられているところでは、三七日満願の日に、虚空蔵菩薩より大智慧の宝珠を戴き堂より出て階段を下がるときに、心身混蒙して多量の吐血をし気絶したといいます。しかし、日蓮聖人自身は疲れはなく身心爽快で周りが明るくなったような感じでした。これは虚空蔵菩薩の利益を受けて凡身の不浄の血を吐いて、清浄の身となった証であるといいます。この吐血した場所に笹が生えていて、その後に生えた笹には黒い斑点ができたので、これを「凡血の笹」と言い伝えられてきました。このこと以来、一切経などの経典が一読のもとに記憶できるようになったといいます。一つの方向性が開示されたといえましょう。近年、境内にある大杉が被雷しましたが、この天然記念樹の千年杉は日蓮聖人の幼少のときから今日の私たちまで見守っているのです。