57.清澄での修学 |
仏教と国家に対しての課題を持って清澄に入られた日蓮聖人は大きな目的を持っていたといえます。それらを解決するために道善房がおり、道善房には兄弟子として浄顕房日仲と義浄房がいました。『報恩抄』(1240頁)に、 と、のべているように、この二人の兄弟子は入山当初には師匠のような存在でありました。清澄寺においての12歳から16歳で出家するまでの4年間は、この兄弟子より直接に修行と修学について教わり師匠や兄弟子の身の回りの世話、三宝給仕・作務など、仏道の基礎からはじめられ、次第に読経や勉学に進んでいかれたことでしょう。読み書きなどの知識はすでに持たれており秀逸した才能は将来を期待されることだったと思われます。 仏教においても、天台の教学をはじめ南都の仏教・禅・真言・念仏など学ぶことがたくさんありました。同じ仏教のなかにも浄土宗・禅宗・天台宗・律宗・真言宗とさまざまな教えがありました。仏も釈迦牟尼仏・阿弥陀仏・薬師如来・大日如来とあり、それらの宗派は自宗こそが真実で一番の教えであると述べていました。 また、これら諸宗の肝要をことごとく研究したといいます。この研究とは経・論・釈の三つを兼学することです。日本に伝えられている仏教の経典、これを経蔵といい、略して「経」といいます。この経をもとに論理的に体系づけたインドの仏教学を「論」といいます。更に中国で経と論を解釈したものを「釈」といます。そして、これら各宗派にたいする疑問について次のように受けとめていきました。 「かくのごとく存て、父母・師匠等に随ずして仏法をうかがひし程に、一代聖教をさとるべき明鏡十あり。所謂る倶舎・成実・律宗・法相・三論・真言・華厳・浄土・禅宗・天台法華宗なり。此の十宗を明師として一切経の心をしるべし。世間の学者等おもえり、此の十の鏡はみな正直に仏道の道を照せりと。小乗の三宗はしばらくこれををく、民の消息の是非につけて他国へわたるに用なきがごとし。大乗の七鏡こそ、生死の大海をわたりて、浄土の岸につく大船なれば、此を習ほどひて、我がみ(身)も助け、人をもみちびかんとをもひて、習ひみるほどに、大乗の七宗いづれもいづれも自讃あり。我が宗こそ一代の心はえたれえたれ等[云云]。所謂華厳宗の杜順・智儼・法蔵・澄観等、法相宗の玄奘・慈恩・智周・智昭等、三論宗の興皇・嘉祥等、真言宗の善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証等、禅宗の達磨・慧可・慧能等、浄土宗の導綽・善導・懐感・源空等。此等の宗々みな本経本論によりて我も我も一切経をさとれり、仏意をきはめたりと[云云]。彼の人人云、一切経の中には華厳経第一なり。法華経・大日経等は臣下のごとし。真言宗云、一切経の中には大日経第一なり。余経は衆星のごとし。禅宗が云、一切経の中には楞伽経第一なり。乃至余宗かくのごとし。而も上に挙る諸師は、世間の人々各々おもえり。諸天の帝釈をうやまひ、衆星の日月に随がごとし。我等凡夫はいづれの師々なりとも信ずるならば不足あるべからず。仰てこそ信ずべけれども、日蓮が愚案はれ(晴)がたし。世間をみるに、各々我も我もといへども国主は但一人なり。二人となれば国土おだやかならず。家に二の主あれば其家必やぶる。一切経も又かくのごとくや有らん。何の経にてもをはせ、一経こそ一切経の大王にてをはすらめ。而に十宗七宗まで各々諍論して随はず。国に七人十人の大王ありて、万民をだやかならじ。いかんがせんと疑ところに、一の願を立。我れ八宗十宗に随はじ。天台大師の専ら経文を師として一代の勝劣をかんがへしがごとく、一切経を開きみるに、涅槃経と申経に云、依法不依人等[云云]。依法と申は一切経、不依人と申は仏を除き奉て外の普賢菩薩・文殊師利菩薩乃至上にあぐるところの諸人師なり。此経に又云、依了義経不依不了義経等[云云]。此経に指ところ了義経と申は法華経、不了義経と申は華厳経・大日経・涅槃経等の已今当の一切経なり。されば仏の遺言を信ずるならば、専ら法華経を明鏡として一切経の心をばしるべきか」『報恩抄』(1193頁) と後年のべているように、日蓮聖人は国主が一人であれば国が安穏であるように、釈尊の教えである一切経も一経こそが大王ではないか、天台大師は経文を師匠として勝劣を考えよと指示していることに達しました。そして、『涅槃経』の「依法不依人」の仏口に従えば、それは法華経ではないかという結論に向かっていったのが、この清澄寺の修学時代といえましょう。 なを、この二人の兄弟子は、立教開宗後は日蓮聖人に帰依しています。東条景信と敵対しながらも日蓮聖人をたすけ、領家と東条景信の訴訟の時も日蓮聖人の指示により裁判に尽くしています。日蓮聖人を終生支え続けることになります。道善房死去のあとは、浄顕房が清澄寺の山主となります。山主という立場から公にはされませんでしたが、日蓮聖人が棲む身延から弟子の日向を遣わして、清澄寺の蔵書を閲覧し書写の依頼を快諾して教団としての交流を閉ざすことなく連携していたのです。 |
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