58.是聖房蓮長

 日蓮聖人の出家は『妙法比丘尼御返事』の「十二、十六の時から三十二に至るまで」により16才出家とされています。日蓮聖人に師事した日進(身延3世)の『日蓮聖人御弘通次第』に「御歳十八歳也」とあることから『元祖化導記』『日蓮聖人註画讃』をはじめ江戸中期の終わりまでの伝記はこれに従いました。『本化高祖年譜』は出家を16歳と訂正し、昭和9年(1934年)に金沢文庫から発見された『授決円多羅義集唐決』上巻一帖に「是聖房十七歳」とあることにより判明したといえます。

日蓮聖人は嘉禎三年(1237年)10月8日。清澄寺の衆僧が参集のもとに、道善房を戒師として浄顕房・義浄房に付き添われて得度しました。虚空蔵菩薩の加被と日蓮聖人の修行と修学の努力が実り、16歳の歳に正式に出家となりました。道善房より是聖房蓮長と法名をいただきました。

出家の動機は先にのべたように自身が仏種を獲得して成仏することであり、

「民の家より出でて頭をそり、袈裟をきたり。此度いかにしても仏種をもうえ、生死を離るる身とならんと思て候しほどに」『妙法比丘尼御返事』(1553頁弘安元年57歳)

 また、『開目抄』(544頁)に

「父母の家を出て出家の身となるは必ず父母をすく(救)はんがためなり」

と、旃陀羅である父母を成仏させることでした。同様な内容の遺文が多くあることから、日蓮聖人の内心には出家することにより父母の救済も可能になったいう法悦感があったといえます。この出家により僧侶としての地位を取得し、僧堂における生活も本格的に学生としての勉学が進まれたと思います。

日蓮聖人は17歳の11月14日に、清澄寺の住房である道善之房の持仏堂にて『授決円多羅義集唐決』を書写されました。金沢文庫に所蔵されているこの書籍は天台の本覚思想初期のもので、中古天台の密教解説書として智証大師円珍に仮託した秘書です。この奥書に

「嘉禎四年太歳戊戍十一月十四日、阿房国東北御庄清澄山、道善房東面執筆是聖房、生年十七歳、後見人々是無非謗」(2875頁)

と是聖房の名前があり、写本ですが学解のほどがうかがわれます。(『本化別頭仏祖統紀』には十八歳剃度十月八日、是性とある。受戒。密印灌頂、面授口決)。高木豊先生は日蓮聖人の発心は無常観であり出家を促したのは無常観による生死の問題とのべています。(『日蓮その行動と思想』増補改訂版13頁)。日蓮聖人においては、この生死の無常を積極的に超克していく方法は成仏を目指すことと思われます。幼少のころに疑問とした生死観は、それ以上に仏教で説く極楽浄土への志向となったと思われます。清澄寺登山の目的もここに存していたことはすでに述べたとおりです。

日蓮聖人は得度をされた後も、さらに成仏の具体性を追及されていきます。しかし、日蓮聖人は初心の疑いを満足に解決できなかったのです。また、それを適正に教示できる高僧が清澄近辺にいなかったのも原因であったのです。